5月19日ペンテコステ礼拝メッセージ

 

「理解」へ押し出す神

 

 

使徒言行録 2:1-13

新共同訳214p

口語訳181p

 

 

 突然ですが、みなさんは人と関わっていく中で、「この人は自分とは違うなぁ」と感じることはあるでしょうか。これは誰でも絶対にあると思います。それがたとえ全くの他人じゃなく、友人だったり家族であってももちろん大いにあると思います。その「違い」は、小さいものから大きなものまで、色々あると思いますけれども、大きなものになると、時にはですね。「どうしてこんなに違うんだろう」と考えてしまうこともあると思いますそして、「もっとこうすればいいのに」とか、「なんでこうゆうふうにしてくれないのか」と、いつの間にか自分と「違う」相手の部分を自分に引き寄せようとしてしまうこともあるのではないでしょうか。

 

しかし、そんな時ふとこうも考えたりもしないでしょうか。相手もきっと同じことを思ってるんじゃないかって。自分が日々生活していく中で当たり前のようにやっていることが、相手にとっては「自分との大きな違い」で、「どうしてこんなに違うんだろう」と考えてるのかもしれないと。そしてそう思うと私たち人間は、お互いの「違い」というものが、どうしても気になってしまう存在で、そしてできることなら、相手を自分の方に引き寄せたい、とそう思ってしまうものなのかもしれないとそんなことを思うわけです。

 

 さて、本日の聖書箇所は有名なペンテコステの出来事が記されている箇所です。ペンテコステとは、イエス・キリストの復活そして昇天後、集まっていた弟子たちの上に、神からの聖霊が降ったという出来事です。そして本日はそのペンテコステの日、弟子たちにそして、人々にどのようなことが起こっていったのかを皆さんとともに考えていきたいと思います。

 

 一節に「五旬祭の日が来て」とあります。五旬祭とは、ユダヤの祭りの一つで収穫の刈り入れを祝うお祭りでした。お祭りですから、当然多くの人々がエルサレムには集まっていたわけです。そんなお祭の真っ最中に弟子たちはどうしていたかというと、一つのところに集まっていました。きっと弟子たちは、イエスが自分たちに与えると約束してくださった「聖霊」を待ち望みながら、祈りながら集まっていたのだろうと思います。

 

ですが、そんな中で弟子たちはイエスのことを伝えていくこと、福音を証ししていくこと、そんなことが本当にできるんだろうか、とそう思っていたのではないかと思います。自分たちはイエスの直接の弟子で、イエスと一緒に旅をして、いろいろなことを聞いたけれども、イエスを全く知らない人たちにイエスの十字架と復活を証していくなんてできるわけないじゃないかと思っていたのではないでしょうか。

 

そしてそんな思いはいつしか、イエスのことは、自分たちの中だけでの共通理解であればいい、というような。そのような非常に内向きな共同体へと変わっていってしまったのではないかと思います。ゆえに弟子たちは多くの人で賑わい、多くの人が談笑しつつ交流を持っている中、外との交流を拒絶して、自分たちだけで固まり集まっていたのではないでしょうか。そんな風に内向きになって一つに集まっていた弟子たちのもとにイエスが弟子たちに約束された聖霊が与えられます。

 

弟子たちは、この時「きっと誰からも理解されないだろう。理解してもらえないだろう。自分たちのことを理解してくれる人なんて誰もいない」と思ってたんじゃないでしょうか。しかし彼らは、その時こそ本当に思い起こさなければならないことを忘れていたのではないかと思います。それは、弟子たち一人一人のことを、誰よりも、弟子たち自身よりも理解してくださっているイエスがいるということです。イエスは、弟子たち一人一人のことを誰よりも愛して、一人一人を一人の独立した個人として「理解」してくださっていました。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」それはまるで、一人一人に理解できる形で、「あなたは理解されているんだ」ということを伝えていくような、そのような出来事だったのだと思います。

 

そのようなイエスの語りかけに弟子たちは、ハッとさせられたんじゃないでしょうか。「自分のことを誰よりも理解してくれている方がこんなにそばにいたじゃないか」と気づかされたのだと思うのです。そして同時に自分たちが、「自分たちを理解してもらいたい」という気持ちでいっぱいだったということにも気づかされていったんじゃないでしょうか。そのような弟子たちの心のうちにあった思いが、聖霊によって明らかにされていったのだと思います。

 

 聖霊によって、そのようなことを気づかされていった弟子たちに、どのような変化が起きていったのでしょうか。4節にはこうあります。「すると、弟子たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」このことは私たちに何を伝えようとしているんでしょうか?単純に弟子たちが自分たちが話せないはずの外国の言葉で話し出した奇跡のことを伝えているのでしょうか?

 

弟子たちが話し出した言葉は、多くの人たちを弟子たちのもとへ集めました。そして、集まってきた人たちは、弟子たちの言葉を聞いて自分たちの言葉が話されているのを聞くわけですが、集まってきた人たちは、集まってくる前は、弟子たちの声を単なる物音としてしか理解していないことに注目したいのです。しかし、その物音は近づいて聞いて見ると物音ではなくてそれが声であって、しかもそれが自分たちの言葉、言い換えれば「自分たちに向けられた言葉」だということを理解したんですね。

 

弟子たちの語った言葉が人々の理解できない言葉、一方的な押し付けや、語る人に寄り添っていない言葉、その人に向けられていない言葉であったなら、「理解」は生まれてなかったのだろうと思います。弟子たちは、語りかける声によって人々に近づいて行きました、人々はその声によって弟子たちに近づいて行きました。お互いが近づいたその場所に「理解」というものが生まれていったんじゃないかなと思うのです。

 

しかし一方で聖書は、そこにいた人々全てが「理解」しあったわけではないことも語っています。12節、13節です、「人々は皆驚き戸惑い、いったいこれはどういうことなのかと互いに言った。しかし、あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ、と言って、あざける者もいた」。このことはどんなに伝えようとしても伝わらなかったり、理解されなかったりという私たち人間の限界が示されてるんじゃないかなと思います。伝えようとしたことが、伝える相手も理解しようとしてくれたんだけれども、本来伝えようとしたこととは違った形で理解されてしまったり、あるいは伝えようとしたことが、全くの誤解をされてしまってそれが争いの種になっていく、そのようなことが、私たち人間の営みの中で数え切れないほど起きていると思うのです。

 

そのように私たち人間が、完璧に誤解なく「理解」できるということはないのかもしれません。それは私たち人間がもろくて弱い、そして不完全な存在ゆえに、最初の弟子たちのように「理解」し合うことを諦めて、自分の「理解」だけに閉じこもってしまったり、あるいは弟子たちを嘲った人たちのように、自分とは違うものに対して「理解」を閉ざしていってしまうような、そんな思いに簡単に陥ってしまうのではないでしょうか。

 

 しかしそれでも、そのような不理解を抱えた我々人間に対して、神は、お互いに「理解」していくこと、「理解」し続けていくことを促し続けています。私たちが互いを「理解」して行こうとするときに、否応無く突き当たる「誤解」や「不理解」の壁があると思います。しかしそんな時こそ私たちはその「理解」を妨げていく、私たちの頑なな心というものを神の前で砕かれていく必要があるんだろうなと思います。そうされていくときに神の私たちに対する理解を思い起こすのです。神はイエス・キリストという私たちと同じ人の姿をとって、私たちの立場になって、そして何より私たち一人一人を「違い」ある個人として「理解」してくださいました。

 

 ペンテコステの日、弟子たちに降った「聖霊」は、弟子たちにそのような、「神の私たちに対する理解」を思い起こさせました。それは、私たちの持つ「誤解」や「不理解」という限界を超えて、私たち人間がお互いに「理解」し続けていく、そのような旅路へと押し出されていった出来事だったのではないでしょうか。

 

現代に生きる私たちはどうでしょうか。現代に生きる私たちは、多くの情報に囲まれながら生活しています。それらの多すぎるほどの情報は、ときに私たちの「理解」を助けることもあれば、逆に私たちの「誤解」や「不理解」を生み出していくこともあります。それらを見極めていく「霊の目」を祈り求めていきたいと思います。そしてそれは、私たちが自分の理解を相手に押し付けて行ったり、あるいは、理解出来たと思い込んで、それ以上相手を見なくなっていくような、私たちの「不理解」から、私たちを真に理解し、そして私たちを真の「理解」へと導くイエス・キリストへと立ち返らせていくものです。神は今も私たちに語りかけ互いの心を開いて理解へと押し出してくださっていますから。祈ります。

 

 

 

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

5月12日主日礼拝メッセージ

 

霊から溢れる出るものは

 

 

ヨハネによる福音書 7:37-39

新共同訳179p

口語訳149p

 

 

 突然ですが、みなさんはお祭りは好きでしょうか?誰しも子供の頃に近所でお祭りがあると聞いてワクワクした思い出があったりするものではないでしょうか。世界はもちろん日本でも様々な種類の祭りがあり、季節を問わず一年中何かしらの祭りが行われているそうです。この「祭り」という人類の文化は古く、私たちが読んでいる聖書の時代でもすでにもちろんありました。

 

 ところで「祭り」とはなぜ行われるものなのでしょうか?それは過去のなにかしらの出来事を記念するためである場合が多いと思います。聖書に登場する「祭り」というとみなさんは何を思い浮かべるでしょうか?おそらく一番有名なものが「過越の祭り」だと思います。軽く復習をしておくと、私たちは毎月主の晩餐式に与っていますが、その原型となったものが「過越の祭り」です。

 

 「過越の祭り」はイスラエルの民が神によってエジプトから導き出されたことを祈念する、すなわち忘れないように思い起こし続けるための祭りであったわけです。イスラエル民族とって出エジプトの出来事というのはそれほどまでに大きな出来事であり、忘れてはならない神の救いそのものでした。そしてイスラエル民族にとって出エジプトがそれほど大きな出来事だったがゆえに、実は出エジプトに関係するユダヤの祭りが他にもあるんですね。

 

 その中の一つが「仮庵の祭り」です。これはイスラエル民族がエジプト脱出のとき荒野で天幕に住んだことを記念して行われる祭りのことです。つまり、かつて自分達の祖先に与えられた神の導きや守りに感謝して、そのことを思い起こすための祭りということですね。なぜこんなに長々とユダヤの祭りの話をしたのかというと、これらの祭りの意味が聖書を読む際に大切になっているからなんですね。

 

 特に今日の箇所の冒頭には「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に」とあります。ここで言われている祭りというのが先にご紹介した「仮庵の祭り」であるわけです。さらに聖書中のこの日は祭りの最終日であったことがわかります。この祭りは8日間あり、安息日から始まって安息日で終わっていたそうですから、祭りの最終日のこの日は安息日であったということがさらにわかります。

 

 そして安息日ということは、人々は労働をしてはいけないことになっていたわけで、その中には水を汲むということも含まれていたわけです。しかし、一方でこの「仮庵の祭り」というのは神が恵み豊かな土地に導き入れてくれたことを記念するものであったわけです。このような状況が当時の背景にはあったということなんですね。少し話がややこしくなったので一旦まとめると以下の二つのことが今日の箇所を理解する上で重要だと思います。

 

    この日は出エジプトを記念する祭りの最終日で安息日だった。

    安息日には労働が禁止されており、その中には水を汲むという行為も含まれていた。

 

これらのことを踏まえて今日の聖書箇所の内容をあらためて見てみたいと思います。イエスはこの祭りの終わりの日に次のように言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。このイエスの発言は私たちが何も知らずに聞いたのなら唐突に感じるものかもしれません。

 

しかし、先の二つのことを踏まえて聞いたのなら、イエスがここで伝えようとされていることの意味が見えてくるものだと思います。つまり、イエスがここで水の話を持ち出されたのには、出エジプトの出来事と当時の律法厳守の状況が深く関係していたであろうということです。出エジプトの物語の中でイスラエルの人々は荒野の旅を続けることになりますが、その中で彼らがモーセに水を求めたというエピソードがあったことを覚えているでしょうか。

 

民の求めに応えて神がモーセに命じ岩から水を出させたということを、イスラエルの人々はこの「仮庵の祭り」のたびに思い起こしていたことでしょう。神が自分達の先祖をエジプトから導いて、その旅路においても必要な助けを備えてくださったことを彼らは思い起こし、覚え続けるためにこの祭りを続けていたわけですから。ゆえにこのイエスの言葉は私たちが聞くと唐突に聞こえるかもいしれませんが、イスラエルの民にとっては非常にタイムリーなものであったわけです。

 

加えて当時の律法の行き過ぎた解釈が厳格化されており、人にとって必要不可欠なこと、例えば水を汲みに行くことなども安息日には禁止されているような状況でした。そのような状況の中でイエスが語られたのが先の言葉であるわけです。もう一度読んでみます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。

 

イエスは「渇いた者」をご自分の下へと招かれ、そこで飲むように言われています。この「渇き」はもちろん単純な喉の渇きのことを言っているのではありません。真理への渇き、言い換えれば神への渇きのことを指しています。人は誰しもがこのような渇きを持っているのですが、人はそれを別のもので満たそうとしてしまいます。

 

それは時に物であったり、人間関係であったり、名誉であったりと様々ありますが、そのいずれであっても神への渇きは満たされることはないということを聖書は語っているのです。イエスは何か別のもので満たされようとしている人にこう語られています。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」と。人は自分で手に入れられる範囲のもので満たされることはできません。仮に一時満たされたと感じても、いずれまた渇き、その連鎖は無限に続くことをイエスは語られています。

 

しかし続けてこうも言われています。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。この言葉は先ほどの言葉と重なってくるところがあるでしょう。イエスから与えられる水、すなわち御言葉のみが私たち人の「渇き」を満たすことができる真の水であることを私たちはこれらの言葉から示されているのです。

 

 そして聖書はこのイエス言葉は霊について言われたものだということを語ります。イエスはご自分が地上から去られた、その言葉が直接人々に届かなくなったとしても、一人ひとりの心のうちに霊が与えられ、その霊から溢れ出る御言葉によって私たちの「渇き」が満たされることをここで語られたのだと思います。私たちの渇きを満たす水は私たち自身で生み出すものではありません。

 

 私たちを満たす真の水はただ神が私たち一人ひとりに与えてくださった霊から湧き出ることを私たちは知っています。来週はペンテコステです。私たちに与えられている助け主なる聖霊を思い起こしながら、その喜びにご一緒に与っていきたいと願います。祈ります。

 

 

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

5月5日主日礼拝メッセージ

 

心の中の幕屋で

 

 

出エジプト記 33:7-11

新共同訳149p

口語訳123p

 

 

 聖書には多くの登場人物がいますが、みなそれぞれに特徴が出ていて読んでいると一人ひとりの個性が伝わってくるものだと思います。そんな個性あふれる登場人物たちが歩む人生もまたは波瀾万丈なものであることが多いです。そして数ある聖書の登場人物の中でも最も波瀾万丈な人生を歩んだ者の一人が今日の箇所でも登場するモーセという人ではないかと思います。少しこのモーセの人生を振り返ってみたいと思います。

 

 彼は生まれた時から激流の中にいるような人生でした。王による幼児殺害命令の中で、エジプトでイスラエル人として生まれた彼は家族と共に過ごすこともできず、エジプト王女の子として育てられることになりました。その後、順調に成長したモーセでしたが、あるとき仲間であるイスラエル人を助けようとエジプト人を手にかけてしまいます。彼の仲間を想う気持ちから出た行動でしたが、あろうことかそのことを仲間だと思っていたイスラエル人からなじられてしまいます。

 

 エジプト人にもなりきれず、仲間だと思っていたイスラエル人からも弾き出されてしまったモーセは、エジプトから離れミディアンという地で暮らし始めることになります。彼はそこで結婚し、子供ももうけることになりますが、その子にゲール(寄留者という意味)と名付けるほどに彼は自分自身のアイデンティティを見失ってしまっていました。おそらく彼自身の中で「自分は何者なのか?」という問いが反芻してのだと思います。

 

 そんなモーセに人生の最大の転機となる出来事が起こります。神からの召命です。召命を受けたモーセでしたが、彼はあらゆる理由をつけてそれを断ろうとします。モーセに与えられた使命は「イスラエル人をエジプトから連れ出すこと」だったわけですから、自分をイスラエル人だと自覚できないモーセにとって受け入れ難いものだったのでしょう。イスラエルの民も自分の言うことなど信用しないだろうと、なんとか召命から逃れようとしています。

 

 神はそんなモーセにしるしを与えるなどしてなんとか彼の不安を和らげようとしますが、それでもなおモーセは神にこう言いました。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」。モーセのこの性格は彼のこれまでの生い立ちを考えれば、そうなってしまうのも無理はないと思えるのではないでしょうか。

 

 イスラエル人であるにも関わらずエジプト人の中で育ち、かつイスラエル人からも弾き出されてしまった彼は人と関わることがあまり得意ではなかったのかもしれません。結局、モーセは神がモーセの兄弟であるアロンを彼の代言者として立てることで、しぶしぶこの召命を受け入れていくことになりますが、ここまでの彼の半生を振り返ってみてみなさんはモーセにどのような印象を抱くでしょうか。

 

 いろいろな印象があるかと思いますが、ひとつ特徴的な彼の印象は、彼はその人生の中で多くの痛みを負い、それゆえに自分自身に問いを投げかけ続ける人物だったのではないかと言うことです。そして、そうであるがゆえに彼は一人で悩み、考える人だったのだろうということです。しかし、一方で彼は自分の外側に自分を出すことが苦手な人物だという印象もあるのではないでしょうか。そのことは彼自身も自覚していて、だからこそ神はアロンを助け手としてモーセに付けられたのだと思います。

 

 このようにモーセは他者と向き合うよりかは、自分自身と向き合うことに多くの時間を割き、かつそれが得意であった人物だということがわかると思います。もちろんこれは彼が全く他者と向き合わなかったということを言いたいのではなりません、そうではなくて、モーセという人は特に自分自身と向き合うことに非常に多くの時間を費やした人物だったということです。そして、そのことは同時に神と向き合うことに多くの時間を費やしたということを意味しています。

 

 なぜなら神と向き合うことは、自分自身と向き合うということと表裏一体だからです。モーセはイスラエルという多くの人々を導いていくために、神と対話することが必要不可欠でした。そのために彼は自分自身と、神と真剣に向き合う場所が必要だったのです。ここで今日の聖書箇所を見てみたいと思います。7節にはこうあります。「モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった」。

 

 モーセは宿営という普段人々が集まっている場所から遠く離れた所に「臨在の幕屋」という場所を設けたとあります。そしてそこはモーセのみならず神に聞こうとするものは誰でも向かう場所でもありました。皆が行く場所であるにも関わらず、なぜモーセは宿営から遠く離れた場所に「臨在の幕屋」を設けたのでしょうか。それは、神と向き合うには、誰にも介入されない神と一対一になれる場所が必要だったからではないかと想うのです。

 

 これまで多くの時間をかけて神と向き合い続けてきたモーセだからこそ、そういった場所が大切であることをわかっていたからではないでしょうか。そしてモーセがこの臨在の幕屋に向かい、神と向き合う時、イスラエルの民はそれぞれ礼拝したことが語られています。モーセ一人が臨在の幕屋に入り、その他の民はそれを見守りつつ、礼拝したということです。

 

 モーセの時代は確かにモーセという一人と神は直接向き合われ、モーセを通して民に語りかけられていたことはそうなのだろうと思います。しかし、今を生きる私たちには一人ひとりが神と親しく関係を持ち、顔と顔とを合わせて語り合うことが許されていますし、同時に求められてもいます。このことは私たちに与えられた神の豊かな恵みです。

 

 私たちは一人ひとりがその心の「臨在の幕屋」に入って神と対話することができます。そこでは素直に、ありのままの自分自身でいることが許されています。嘘や見栄は必要ありません。私たちはその心の幕屋でモーセと同じように神と顔と顔を合わせて語り合うことができます。私たちは人生の中で多くの悩みや苦しみや痛みを心に負っていってしまうものです。

 

 私たちは体の外側の傷には気付きやすいですが、そうした心の中の傷は見過ごしてしまいがちです。私たちの神はそうやって傷ついた私たちの心に触れてくださり、癒してくださる方です。友と同じように私たちと語り合ってくださる神によって、私たちは癒され、支えられ、励まされ、力づけられてまた明日を生きることができます。私たちの心は誰の介入も入らない、ただ神と一対一で向き合うことができる心の幕屋です。

 

 そして私たちはいつでもそこへ行くことが許されています。神はいつでも私たちを友と呼んでくださり、その心のどんな想いでも受け止めてくださる方ですから。祈ります。

 

 

 

モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。