12月26日主日礼拝メッセージ  「シン・クリスマス」

 

言と神(1-3)

 みなさん、クリスマスおめでとうございます。私たちはクリスマスの出来事を思い起こすアドベントの時を終えて、先日ようやくクリスマスを迎えました。この喜びと感謝を共に分かち合いながら、本日のクリスマス礼拝を捧げていきたいと思います。本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はヨハネによる福音書1:1-14です。「初めに言葉があった。」で始まる有名な箇所ですが、この箇所には著者がこの福音書において伝えようとしていることが凝縮されているといえます。それはイエスという1人の人であり、神である方を徹底して語ろうとしていること、そして、イエスは何のためにこの世界に人としてこられたのかを伝えようとしています。

 

 1節を改めて読んでみます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ヨハネ福音書においてイエスは「言」という単語で表されています。言とは語り手の意思を他者に伝達するために用いられます。私たち人間も他者とコミュニケーションを取るために日常的に言葉を用いていますが、それと同様に神もまた「言」というコミュニケーション手段を用いられるということです。

 

 それは神の私たち人間に対する配慮であり、伴いの表現です。神は言葉というツールを人間と共有することで、神の意思をより明確に表されることを選ばれました。その形としてイエスは私たちと同じ人の形をとられて、この世界に来られました。イエスはこの地上での歩みにおいて多くのことを弟子たちや当時の人々に語られましたが、その一つひとつが、神ご自身が語る言葉、すなわち御言葉だったわけです。

 

 イエスとは御言葉そのものであり、同時に神そのものです。「言は神と共にあった。」というのは、言い換えれば「御言葉」と「神」が分離できないということを意味しています。神が発した言葉は全て御言葉であり、御言葉であれば神が発したものということになります。この御言葉と神という存在が分かち難く同一のものであるからこそ、イエスは神であり、同時に人間に言葉を語られるために、人となったということです。「言は神であった。」とはそのことを語ろうとしているのだと思います。

 

 

暗闇の中に来る光(4-5)

 そして、聖書はこう続けます。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

」私たちは聖書から全てのものは神によって創造されたことを伝えられていますが、その一つひとつの被造物は神が発する御言葉によってなったこともまた、知らされていることでしょう。

 

 このことからも神と御言葉は分かち難く結びついているということが示されているのだと思います。そして、その御言葉の内にこそ「命」があったことが語られています。全ての被造物、全ての命あるものは御言葉によって生まれました。そのことを思うときに、「言の内に命があった。」ということの意味が見えてくるような気がします。御言葉によって生まれた命は、御言葉によってまた養われ生かされていくということなのだと思います。そして、御言葉という光に照らされるからこそ、この暗闇の世界を神の招く方向へと歩んでいくことができるのだと思います。

 

 しかし、聖書はこうも語ります。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 」光は暗闇という世界には理解されませんでした。暗闇が光を拒否したということは、私たち人間が光である御言葉を拒絶して、自分の勝手に生きてしまうことと重なってくるでしょう。私たち人間はどうしても自分のエゴのままに生きてしまう存在です。

 

 しかし、それは言い換えれば暗闇の中を光なしに歩んでいくようなものであって、非常に危うい歩みです。なぜならば、御言葉の内にある命という光を受けてこそ、人間は神の示す道を歩んでいくことができるからです。ですが、私たち人間の歩みは自分勝手に歩むことのいかに多いことでしょうか…。それほどまでに私たち人間の内にあるエゴは大きく拭いがたいものなのだと思います。

 

 しかし、聖書はそんな暗闇の中であっても光は輝き続けていることを語ります。「光は暗闇の中で輝いている。」この言葉は私たち人間がどんなに光を拒絶したとしても、あるいは光がないと思える世界であっても、そこに光はあり続けていることを語っています。私たちの命であり光である御言葉は、この世界の暗闇を切り裂いて、私たちに届けられています。クリスマスはそのことを証することであり、私たちはその意味を受け止め続けて続けていく必要があります。

 

 

受け入れられない言(6-11)

 このクリスマスの出来事をある意味で最初に証したのが、バプテスマのヨハネなのかもしれません。6-9節にはこうあります。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」

 

 バプテスマのヨハネはイエスという光を指し示すために遣わされました。ヨハネはもちろんもうこの地上にはいませんが、しかし、その働きは教会へと引き継がれ、今もイエスという光は指し示し続けられています。教会の働きを凝縮していけば、この「イエスを指し示し続ける」ことにあると思います。教会自体が光ではありませんが、光であるイエスを知らされ、そしてその光を指し示し続けることが働きとして託されています。

 

 ですが、聖書はこうも続けています。10-11節「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」 イエスはこの世にお生まれになり、この世界で多くの言葉を語られましたが、その言葉は受け入れられず、拒絶され、最終的には拒絶した人々によって十字架に架けられてしまいました。

 

 そのことは今なお繰り返されていることかもしれません。私たち人間は自分に都合のいい言葉、耳障りのよい言葉には耳を傾け、受け入れもしますが、逆に都合の悪い言葉や耳の痛い言葉には耳を塞ぎ、徹底的に拒絶しようとしてしまう時が往々にしてあるのではないでしょうか?もし、私たちがそのように聖書を、御言葉に向き合っているならばそれはイエスを十字架につけた人々と同様の姿勢なのだと思います。

 

 神の御言葉は私たちの本質を変えるように働きかけてきます。それゆえに私たちにとって都合の悪いことや耳の痛くなることも多く語られています。そして、そのことをどう受け止めていくのかは私たちに委ねられています。私たちが御言葉を受け入れられず拒絶してしまうとき、おそらく自分の好きなように生きたいという思いが大きくなっているということだと思います。しかし、その御言葉を自分自身に向けられた神からの問いかけとして受け止め、心を開いていくとき、神によって自分自身が作り変えられていくことを体験することでしょう。

 

 聖書はそのことをこう語っています。12-13節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 」神の子とされるということは、神によって新たに生まれることです。言い換えれば、それは自分自身が神の問いかけによって作り変えられていくことを意味しているのではないでしょうか?

 

 そして、それは同時に神が、そして御言葉こそが私たちを生かし続け、養い続け、

そして変化させ続けてくださることを受け入れることを意味しているのだと思います。イエスがこの世界に来られたのはまさに私たち一人ひとりを神の子とされるためでした。だからこそ、イエスは私たちと同じ人間の形をとって、語られる御言葉によって私たちを神へと結びつけることで私たちを神との関係へと導いてくださいました。

 

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 」クリスマスはイエスの降誕を記念する時です。それは言い換えれば、神が限りなく私たちに近づいてきてくださり、そして私たちと親しい関係を結んでくださったということを記念する時です。

 

 私たちはこの出来事を思い起こしつつ、感謝と喜びを持ってクリスマスを祝い、またクリスマスの真の意味をこれからも伝え続けて参りましょう。あらためてクリスマスおめでとうございます。

12月19日主日礼拝メッセージ  「逆転のクリスマス」

 

マリアとエリザベト(39-45)

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はルカによる福音書1:39-55です。この箇所はイエスの母であるマリアがバプテスマのヨハネの母であるエリザベトを訪問する場面から始まります。このエリザベトという人はザカリヤという祭司の妻で、彼女自身も祭司の家系の出身でした。また、彼女たちは「主の掟と定めを全て守り、非の打ちどころがなかった」と聖書は語っています。

 

 これらのことから、エリザベトという人はそれなりの地位を持ち、また人々から尊敬されていた人物だったのだと思います。しかし、誰もが羨むような、そんな彼女にも悩みはありました。それは不妊の悩みでした。ザカリヤとエリザベトの間には子がなく、二人ともすでに歳をとっていたことを聖書は語っています。彼女もザカリヤもこのことについて神に祈っていましたが、それでも子を授かることはありませんでした。

 

 しかし、ある時ザカリヤはエリザベトが身籠ることを天使によって告げられます。しかして、エリザベトはその言葉通り、身篭り、彼女はこう言いました。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」彼女は子が出来ないことで随分と惨めな思いもしたのかもしれません。いつか、神が子どもを授けてくださるという希望も。段々と歳をとっていく中で見失っていったのかもしれません。誰からも見放されたような、そんな思いになってしまっていたかもしれません。

 

 しかし、彼女はそんな中で神の逆転の出来事を経験させられます。彼女自身、自分の年齢から考えてもう諦めていたかもしれません。ですが、神はそんなところにこそ希望の出来事を備えられていました。彼女はこの出来事を通して、神は失望の淵にこそ、逆転の希望をもたらしてくださる方であるということを知らされました。

 

 一方、今日の箇所のもう1人の登場人物であるマリアはどのような人物だったでしょうか?彼女はイエスの母として有名ですが、エリザベトと違い特別な家系でもなく、祭司の家から比べればその身分は低いものだったでしょう。また、婚約者であるヨセフとの結婚前に身籠ったこともあり、不埒な噂も流されて、肩身の狭い思いもしたかもしれません。そういう意味でマリアという女性は低く、虐げられたものでした。

 

 そんなマリアを母としてイエスはこの世界に誕生されましたが、そう考えると、イエスの誕生はどこまでも低みに降ってこられた誕生だと言えるでしょう。パウロはフィリピの信徒への手紙でイエスの誕生をこう表現しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」ここにも神の逆転があります。神は弱い立場にあったエリザベトや、貧しく低くされていたマリアを高く上げられ、むしろご自分はその神の身分を捨てられ、人の低みへと降ってこられたのでした。

 

 そして、マリアとエリザベトが出会った時、エリザベトはマリアにこう言っています。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 

 

エリザベトはマリアが自分よりも祝福されたものであることをマリアに告げています。この世の身分で言うならばエリザベトの方がマリアよりも上であったはずですし、歳もエリザベトの方がマリアよりもはるかに上であったはずですが、それらのことも全てが逆転したようにエリザベトはマリアを祝福し、そしてイエスを主と呼んでいます。この世の価値観の逆転が、クリスマスの出来事へ向かって起き続けているのです。

 

 

低くされたものを探し求める神(46-50)

 マリアは自分に起こされた出来事を神への賛歌として歌っています。そしてその初めにはこう歌われています。「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。」マリアは自分のような目にも留められないようなものにさえ、神の恵みが届いていることを歌っています。

 

 マリア自身、自分に起こされたことについて完全に理解していたわけではないでしょう。しかし、彼女はその出来事のうちに神の恵み深さの形と、そして神がこの出来事を通して実現されようとしている希望の形を見たのではないでしょうか。つまり、神は貧しいもの、弱いもの、圧迫されているものに目を留められ、その低みから引き上げてくださること、また、それとは逆に富めるもの、驕り高ぶるもの、圧迫するものを低くされるという、逆転の希望をマリアは見たのではないでしょうか。

 

 そして、その出来事は自分だけではなく、エリザベトにも違った形で起こされていたことで、マリアは神がこれから示そうとされている希望の形への確信を深めていったのではないでしょうか?この世の価値観とは全く真逆の価値観が打ち立てられる時、それこそが神がこれからなさろうとしている出来事であることをマリアはこの賛美に込めているのでしょう。

 

 誰からも目に留められず、誰からも見捨てられたような状況にあったとしても、神はそんな状況のなかにある一人ひとりを探し求められる方です。失われた1匹の羊のために、99匹を残して探しに来てくださる神は、私たち一人ひとりをも探し続けてくださっている方です。私たちがこの世の価値観によって、貧しくされ、弱くされ、圧迫される時も、神はその御手を伸ばして私たちを捉えてくださり、そして高みへと引き上げてくださるでしょう。

 

逆転させる神(51-53)

 だからこそ、彼女はこう続けています。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。」これらのことは、今もこの世で横行する実際の出来事とはかけ離れたものでしょう。権力あるものはその地位に居座り続け、思い上がり、弱者から富を吸い上げ続けています。逆に弱いものはますます貧しくなり、虐げられ、権力者によって空腹のまま追い返されているでしょう。

 

 神はマリアの賛美を通して、これらのことが全て逆転する時がくることを語られます。それは、神がマリアやエリザベトに示された希望ではありますが、彼女たちだけに留まらず、この世界全体に広がっていく希望の出来事です。マリアやエリザベトはこの希望を先取りするものとして、神によって選ばれ、その応答としてマリアはこの希望の出来事を始められる神を賛美しています。

 

 そして、この希望はイエス・キリストの誕生によって、始まりを告げました。先程のフィリピへの信徒への手紙の箇所をもう一度読んでみたいと思います。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」マリアやエリザベトがその低みから高く上げられたのとは対照的に、イエスは神の身分でありながら、自ら人という低みへと降られました。

 

 神ご自身がこの希望への先駆者として、逆転を体現するものとしてこの世界に来られたのでした。そういう意味でクリスマスの出来事は逆転という希望の出来事であり、神が示され、神ご自身が始められた変革の出来事です。私たちはこの逆転の出来事であるクリスマスを通してこの世界を見ることで、この世界の価値観を逆転させる神の希望を見続けることができます。

 

 

永遠の憐れみの約束(54-55)

 マリアはこの賛歌を次のように結んでいます。「その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアに、そして私たちに示された逆転の希望は、クリスマスの出来事を通して今も多くの人々に届けられています。私たちへの憐れみを忘れることはない神の変わらぬ愛を思い起こしつつ、イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスを迎えたいと願います。

12月12日主日礼拝メッセージ  「御言葉の養い」

 

イスラエルの状況

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はイザヤ書40:1-11です。この箇所では預言者イザヤが慰めと解放の預言を語っていますが、当時のイスラエルは未だバビロン捕囚の只中にありました。ですから今日の箇所のイザヤの預言は未だ捕囚という苦難の只中にあったイスラエルの民に向かって語られた言葉です。ところで、この捕囚という出来事によって彼らが最も苦しかったこととは何なのでしょうか?

 

 一説によれば捕囚としてバビロンに連れて行かれた人々の生活はある程度の自由があり、経済的にもそれほど苦労はしなかったのだそうです。むしろ、故郷であるイスラエルに残った人々の方が経済的に困窮し、生活に困っていたようです。つまり、捕囚として連れて行かれた民は経済的・物質的な面よりも精神的な面で苦しみを負っていたのだと思います。

 

 それは、具体的には自分の生まれ育った土地から引き離され、そして自分たちの信仰からも引き離されるというものでしたが、それは彼らにとって自分自身のアイデンティティを大きく揺るがすほどの大きすぎる問題でした。なぜなら、イスラエルの民の歴史は彼らの神への信仰と彼らの先祖に約束された土地と共にあったと言っても過言ではないからです。

 

 彼らにとってそれらを失うということは自分たち民族の存在意義を失ったも同然であり、そのことは民族としてはもちろん、個人としてのアイデンティティをも揺るがせるようなものだったわけです。いくら経済的に困らずとも、人は精神的な支えがなければ生きていけません。彼らは長い捕囚生活の中でその精神的支柱を失いかけ、同時に希望をも失いかけていました。

 

 この彼らの状況はどこか現代の日本に生きる私たちにも重なってくるものがあったりするのかもしれません。今の日本は経済的には豊かな国です。そうは言っても貧困の問題が全くないとは決して言えませんが、それでも世界的に見れば豊かな国だと言えるでしょう。食べ物があり、着る物があり、住む場所があり、その他様々な生活必需品が容易に手に入るからです。

 

 しかし、そうであるにもかかわらず今の日本の状況をみると、どこか元気がないというか気力を失って見えるのは私だけではないと思います。その原因は一体何なのでしょうか?それはもしかしたら、捕囚時期のイスラエル民族のように精神的支柱がないからなのではないかと思うのです。経済的・物質的というよりも精神的貧困状態に陥っているのが今の日本の現状なのではないでしょうか?

 

 そういう意味で今日の箇所は今の日本に生きる私たち一人ひとりに語りかけられているものとして受け止めていくことができるのではないでしょうか?私たちはある意味で捕囚の状況にあると言えます。コロナ禍によって一層明瞭になった感はありますが、おそらくそれ以前からあった閉塞感は、捕囚の状況にあったイスラエルの民の状況とよく重なることでしょう。

 

 

慰めと憐れみを齎す神(1-5)

 そんなイスラエルに、そして私たちに神はイザヤを通して語りかけます。「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」精神的支えを失い、項垂れていたであろう彼らにまず語られたのは慰めのメッセージでした。

 

 彼らは長い捕囚生活の中で神を、そして神との関係を見失いかけていたことでしょう。それは彼らがこの捕囚という出来事を自分たちの神への背きの結果として受け止めていたことも影響していたことでしょう。彼らはこの苦難の状況の中で、自分たちはついに神から見放されたのだと思っていたのだと思います。しかし、神はそんな彼らを再び関係へと連れ戻してくださるのだと、イザヤは語ります。

 

 傷つき、気力を失った彼らに慰めを与え、そして破れた関係を繋ぎ直してくださるということを神はイザヤを通して語りかけられています。この神の呼びかけは、彼らにとってどれほどの励ましだったでしょうか。彼らにとって、神との関係こそが、自分たちのアイデンティティであり、精神的支柱そのものでした。それが失われてしまったと感じていたからこそ、彼らは希望を失っていたのですから。

 

 しかし、そんな彼らに語られた慰めという関係の回復のメッセージは、気力を失い項垂れていた彼らの視線を再び神へと引き戻し、生きる力を取り戻させるものだったことでしょう。そしてそのメッセージは現代の私たちにも呼びかけられているものだと思います。たとえ私たちがどんな状況にあったとしても、神は決して私たちを見捨てる方ではなく、慰めを語り、そしてご自分との関係へと招き続けてくださっている方なのです。

 

 神との関係の中を生きていくことこそが私たちに生きる力を取り戻させ、希望を示されることなのだと思います。なぜなら、神との関係こそが私たちの精神を養ってくださるからです。御言葉によって生かされるとはそのようなことを言うのだと思います。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」私たち人間は肉体と精神どちらも神の養いを必要としています。

 

 そのどちらが欠乏しても私たちは生きていくことはできません。捕囚期のイスラエルのように精神的支柱であった神との関係が、御言葉が欠乏しては生きる気力を失い、希望も見失っていきます。ただ神との関係によって受け取る御言葉だけが、私たちを希望へと繋ぎ続けるものだからです。イザヤはこう語ります。「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。 

 

 

永遠に立つ御言葉(6-8)

 イザヤは私たちの目に見えるものは全てがやがて朽ちていくが、しかし神の御言葉だけは永遠に残り続けることを語ります。それは、捕囚の中にあったイスラエルの民にどのように響いたのでしょうか?彼らは自分たちを滅ぼしたバビロニア帝国があまりにも強大なものとして見え、永遠に続くものかのように思えていたのではないでしょうか。そしてそれゆえに自分たちのこの捕囚生活も永遠に続くかのように感じていたのかもしれません。

 

 しかし、そんな彼らに神はイザヤを通して語ります。「草は枯れ、花はしぼむ。」と。私たちの目に見えるものはいつかは崩れ去ります。どんなに強大に見える国でも、どんなに偉大とされている人でもいずれは消えゆきます。そうであるがゆえに私たちは目に見える強大なものや偉大とされるものに頼ることも、そして恐れることもないのです。ただひとつ立ち続けるのは神の御言葉だけです。私たちはそれゆえにこの御言葉にこそ信頼して歩んでいくことができます。

 

 現代の私たちはどうでしょうか?私たちは御言葉にこそ信頼を置いて歩んでいるでしょうか?私たちの生きるこの世界では日々様々なことが起こっています。それらの中には私たちを不安にさせるものや恐れを抱かせるような出来事も残念ながら多くあります。確かに私たちはそれらのことを現実の課題として受け止めていく必要はあります。私たちの信仰は決して現実から目を逸らすためのまやかしではないからです。

 

 しかし、同時に私たちはそれらのことがいずれは消えさり、神によって善き方向へと導かれるということを既に知らされています。そうであるからこそ、私たちは現実の様々な問題や課題に対して悲観しすぎたり、絶望したりすることはありません。私たちはそれらの課題に対して御言葉に聞きつつ、神に信頼する歩みの中で示される応答の形を実践していくことへと招かれ、それこそが神が良しとしてくださるということを示されているからです。

 

 

和解の福音(9-11)

 神はイスラエルの民を、そして私たちをその御言葉によって慰め、そして励ましてくださいます。イスラエルの民も、私たちも御言葉によって養われ生かされています。しかし、それは神が私たちとの関係を回復させてくださったからこそなのです。私たちはそのことを今待ち望んでいるクリスマスの出来事から示されてるのと同じようにまた、今日の箇所からも示されているのではないでしょうか。

 

 11節「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。 」私たちはすぐに道を誤り、それぞれの方向に向かっていってしまう羊の群れですが、神はイエスという羊飼いを私たちに与えてくださっています。この羊飼いは群れからはぐれた一人ひとりを自ら探し求められるほどに私たちを愛してくださっている方です。私たちが希望を見失い、気力をなくしているときにも慰めの言葉で呼びかけてくださり、そして確かな希望へと導いてくださいますから。

12月5日主日礼拝メッセージ  「真に大切なもの」

 

本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はマルコによる福音書7:1-13です。今日の箇所は福音書には何度も見られるイエスとファリサイ人、律法学者たちによる論争の場面ですが、中でもこの箇所はイエスと彼らとの論争の原因となった根本的な部分が語られている箇所です。まずはその根本的な部分とは何だったのかを確認していきたいと思います。

 

 ファリサイ人と律法学者たちは、イエスの弟子たちが手を洗わずに食事をしているのを見てイエスに問いかけます。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」この食事の前に手を洗うという行為は現代では衛生的な常識になっていて、現代を生きる私たちからしてもこのことは当たり前のことだと思うと思いますが、当時は衛生的な問題というよりかは、宗教的な常識として浸透していました。

 

 

特に律法を厳格に遵守しようとするファリサイ派からしてみればこのことは守るべき当然のことでした。しかし、実は食事の前にこの手を洗うという行為は律法として聖書に記されたものではありません。3-4節にそのことについて書いています。「――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――

 

 ここに書かれている「昔の人の言い伝え」というのが今日のポイントです。これらのことは「人の言い伝え」つまりは、「神の言葉としての律法」ではなく、人間が勝手に作り上げた決まり事だったわけですね。ではなぜそんな決まり事を作って言い伝えていたのかというと、何かの弾みに神の言葉である律法を破ってしまわないため、つまりは律法を破らないための安全装置としての役割が「言い伝え」にはあったわけです。この「言い伝え」が出来た初めのうちはおそらくその意味をわきまえていた人がほとんどだったでしょうが、時を重ね、何代にもわたって「言い伝え」られていくうちに「神の言葉である律法を破ってしまわないため」という意味よりも「食事の前に手を洗う」という行為そのものが重要視されて伝わっていってしまったのでしょう。

 

 イエスの生きられた時代ではその行為の意味、つまり「本質」が何であるかもわからず、ただその「行為」を遵守するという本末転倒な状態になってしまっていました。しかし、このことは何も彼らだけでなく、私たちにも起こりうることだと思うんですね。私たちも毎週日曜日に主日礼拝を捧げたり、水曜日には祈祷会を持ったり、また日々祈ったり、聖書を読んだりしていますが、それらのことの意味をわきまえずに、ただその行為だけをしているならば、彼らと同じく本末転倒な状態になっていることになってしまうでしょう。

 

 人間というのはそのように「形式的」な方向に流れてしまう傾向にあるのかもしれません。行為の一つ一つの意味を確認しながら行うというのは神経を使いますし、疲れもするでしょう。しかし、こと信仰に関しては「なぜその行為をするのか?」という本質が何よりも大切です。なぜならば、神は私たちの「心の向き」「心の応答」をこそ何より見られる方であり、私たちはその「心の応答」の表現として主日礼拝や祈祷会や祈りをしているわけだからです。

 

 だからこそ、今日の箇所に込められているメッセージというのは、ファリサイ人でもユダヤ人でもない私たちにも関係のあるものだといえますし、むしろいつも問いかけられているものとして受け止めていく必要があるのだと思います。

 

 

偽善者とは…?(6-8)

 イエスは「人の言い伝え」、言い換えれば「形骸化した制度」を、さも当然守るべきものとして考え、それを他者にも押し付けて憚らないファリサイ派や律法学者たちに対してこう答えられています。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 

 

 イエスは彼らに対して「偽善者」という厳しい言葉で批判されています。なぜ彼らが偽善者と言われているのか?それは本来の律法の意味、つまり本質を忘れ、形式的行為の遵守をこそ善いものとしているからでしょう。本来の律法の意味とは何だったでしょうか?それは神の私たち人間に対する「願い」でした。私たち人間はもし何の基準も示されなければ、自らのエゴのままに行動し、他者との関係を破壊してしまう存在です。

 

 それゆえに、神は私たち人間に「生き方の基準」となる律法を与えられたのだと思います。律法は確かに具体的な私たちの行為について書かれてはいますけれども、しかし、その意味するところは、私たち人間一人ひとりが、神とそして人同士と善い関係を保ちながら生きてほしいという神の願いのはずです。なぜならば、神がまず私たち人間を「信頼」してくださり、その信頼の表現として「期待」をかけられているからです。

 

 「あなたはそれをしてはならない」という言葉は命令の言葉ではありません。そうではなくて、「私が信頼しているあなたはそれをしないはずだ」という神の期待であり願いの言葉なのです。それこそが「律法」の真の意味であり、本質です。だから、この本質を内包していないならば、たとえその律法に書かれた行為をしたところで何の意味もないことになります。イエスはこのことを指して彼らを偽善者と言われたのでしょう。

 

 彼らが言い伝えていたものはこの神の願いから限りなく遠ざかっていました。なぜならば、本来の律法の意味からはもちろん、それを表現するための律法の具体的行為からも離れて、自分たちが独自に作り出したものを、しかもそれが本来どのような意味であったのかすら弁えずにいたからです。しかもそのことを人々に強制することで、本来、自発的に応答し、神との関係を深めるための律法を、ただ意味もなく人々を縛り付け、圧迫するものという本来の意味とは真逆のものとしてしまっていました。

 

 

本質と形式の逆転(9-13)

 イエスはさらに具体的な例を挙げながら続けます。9-13節「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 

 イエスは「あなたの父と母を敬え」という十戒の中の一つの律法を具体例に出して、彼らの偽善を指摘しています。この律法を本来の意味で解釈するならば、「一番近い家族である父や母と善い関係を保って欲しい」という神の願いだったはずです。しかし、彼らが語っていたことはその真逆のことを意味するものでした。彼らが語っていたのは、本来の律法からはかけ離れたものになってしまっていました。イエスはそれゆえに彼らと何度も衝突することになりますが、それはそれだけこの事柄が重要なものだからでしょう。

 

 つまり、イエスが語られた形式主義に対する警告は現代を生きる私たちにも同様に語りかけられているものであり、聖書中何度も語られているほどに私たち人間はその傾向が強いことを示しているんではないでしょうか?形式主義は重要でないものを重要視し、神の言葉を無効にしてしまいます。だからこそ、私たちは、そして教会は自分たちの一つひとつの行為を吟味しつつ、その本来の意味を問い直し続けていく必要があるのだと思います。

 

 そのことが神の私たちへの期待に応答していくことにもつながっているからです。クリスマスを待ち望むこの時、神が私たちのためにイエスを遣わしてくださり、そして語られた言葉の意味を思い起こしながら、今週も歩んで参りましょう。