4月24日主日礼拝メッセージ  「信じる者へと」

 

イエスはそこに(19-20)

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はヨハネによる福音書20:24-29です。12弟子の一人であるトマスがイエスの復活を疑う有名な場面です。イエスの弟子たちはイエスが陥れられ、十字架にかけられるために捕らえられると逃げさってしまいました。イエスの弟子であることで、自分まで捕らえられ殺されることを恐れたためでしょう。

 

 そして、その恐れというのはイエスが十字架に架けられ殺されてしまった後まで続いていました。むしろ、イエスが本当に殺されてしまったことでその恐れは逃げ出した時よりもますます大きくなっていたのかもしれません。自分たちが希望をかけていたイエスが本当に死んでしまったことへの絶望感、そのイエスを裏切ってしまったことへの罪悪感が彼らの中に渦巻いていたかもしれません。そんな彼らは一箇所に固まり家に鍵をかけて潜んでいました。

 

 イエスを殺した一派に見つかれば、自分たちの命も危ないという中で、彼らは人目に付くことを恐れ、家の中に閉じこもって、なんとかほとぼりが冷めるのを待っていたのでしょう。それは言い換えれば、彼らが自分たちの心の中に閉じこもって、他者と隔絶された場所へと逃げ込んでいたことを意味しているのだと思います。それほどまでに弟子たちは恐れや戸惑い、そして大きな不安に心が支配されてしまっていたのだと思います。

 

しかし、そんな彼らの恐れや戸惑い、そして不安を察するかのようにそこにイエスが現れられたのです。それは聖書には非常にあっさりとした描写で描かれていて、少し拍子抜けするほどかもしれません。少し読んでみます。19節「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。 

 

家の戸に鍵をかけていたにも関わらず、イエスが来られたことが書かれていることから、イエスが何か不思議な力を使って家に入って来たことを表していると解釈することもできるかもしれません。しかし、そうであるにしてはイエス出現の記述としてはあっさりし過ぎている気がします。このことから、次のように解釈することができるのではないでしょうか?

 

つまり、イエスは最初から弟子たちのいる家のなかに、弟子たちのそばにおられたのだと。しかし、弟子たちは恐れと戸惑いと大きな不安の中でイエスがそこにおられることに気づくことができなかったのではないでしょうか?先週、私たちはマグダラのマリアと復活のイエスの出会いの箇所を読みましたが、そこでもマリアはイエスと対面しておきながら最初はイエスだとは気づきませんでした。

 

彼女が大きな失望と悲しみの中にあったことで、彼女はイエスのことが見えなくなってしまっていましたが、ここでの弟子たちもまたマリアと同じように恐れと戸惑いと大きな不安の中に居続けたことでイエスに気づくことができなかったのではないでしょうか?しかし、そんな弟子たちに対して、マリアの時と同じようにイエスはご自分から近づき声をかけられています。

 

「あなたがたに平和があるように」この言葉に込められた意味はなんでしょうか?聖書の語る「平和」とは単純に表面的な争いがない状態を指している言葉ではありません。そうではなくて何処にも欠けがない綺麗な円のような状態のことを指しています。それは転じて神と人、そして人同士の良き関係を表す言葉として用いられる言葉です。

 

 ゆえにイエスが弟子たちに「平和があるように」と声をかけられたということは、彼らの中で言い争いや分断が起きかけていたのではないでしょうか?そして、その理由はおそらくイエスの復活に関することだったのではないかと思います。この前の箇所でペトロともう一人の弟子は「主が取り去られた」というマリアの言葉を聞いて直接イエスの墓まで行きました。そのことで彼ら二人は確信に至らないまでも、イエスが復活されたのかもしれないということを他の弟子たちに話したのかもしれません。

 

 ですが、当然それで信じる弟子たちばかりではなかったでしょう。彼らは墓に直接行ったわけではありませんし、復活のイエスにあってもいません。ゆえに、彼ら弟子たちの中ではイエスの復活について論争が起こっていたと考えても不思議なことではないでしょう。そんな彼らの意見の対立はやがて彼らの関係の悪化を引き起こしてしまうような状態だったのではないでしょうか。

 

 そんな状態の彼らだからこそ、イエスは「あなたがたに平和があるように」と声をかけられたのだと思います。分断されかけた彼らの関係をイエスは「平和」へと導いこうとされたのだと思います。そしてそのために自ら手とわき腹を弟子たちにお見せになったのでしょう。なぜならば、彼らの論争の原因がイエスの復活についてだったからです。そしてイエスが手とわき腹をお見せになった後に、「弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。イエスは疑う弟子たちに自ら近づかれることで、彼らに出会ってくださったのです。

 

疑うトマス(24-25)

 しかし、その場に居合わせなかった弟子がいたことをもまた聖書は語っています。その弟子の名は「トマス」です。彼は「自分たちは主を見た」という他の弟子たちに向かってこう言います。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 この言葉から疑り深い彼の性格が読み取れますが、しかし、見なければ信じようとしなかったのは何もトマスだけではなく、他の弟子たちも同様であったことを私たちは先ほど確認しました。

 

 ゆえに、「トマス」とは弟子全体を、ひいては私たち人間全体を代表していると言えるでしょう。なぜならば、私たち人間は目に見えるものだけに頼ろうとしてしまう存在であり、同時に目に見えないものや体験できないことを疑ってしまう存在だからです。しかし、そのことは人間である以上、拭い去れない限界であり弱さでもあるでしょう。だからこそ、イエスはまたトマスにも近づかれてこう言われたのだと思います。

 

歩み寄るイエス—出来事を現される主—(27)

 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」イエスはトマスの言った通りのことを許してくださっています。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 イエスは彼のこの言葉に歩み寄り、彼の、弟子たちの、そして私たちの限界や弱さに寄り添ってくださっています。

 

 イエスは私たちの抱える限界や弱さを理解しておられ、そしてそのことに同情してくださる方です。そのことはヘブライ人への手紙でもこう語られています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 」イエスは私たちと同じ人の姿を体験されたからこそ、私たちの限界や弱さに同情してくださる方なのです。

 

 ですが、同時にイエスはこうも言われています。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。私たち人間は確かに目に見えないものや、体験できないものを信じることができない弱い存在です。私たちには神は見えませんし、触って確認することもできません。しかし、イエスはそんな見えない神に信頼する一歩へと招いておられます。なぜなら、私たちが見えない神に信頼し、歩んでいくときに、そこに備えられた神からの見えない恵みをも受け取ることができるからです。

 

 私たちの目には映らなくても、神はいつも私たちと共におられ、その行く道を確かなものとしてくださいますから。

4月17日イースター礼拝メッセージ  「振り向けばそこに」

 

墓の外と墓の中(11-13)

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はヨハネによる福音書20:11-18です。マグダラのマリアが復活の主と出会う印象的な場面です。マグダラのマリアはイエスに長らく付き従ってきた女性で、イエスが十字架に架けられてからもそばに居続けた人物です。そういう意味ではイエスの最もそばにいた人物であり、イエスに最後まで希望を抱いていた人物だと言えます。

 

 そんな彼女がイエスの死に直面した時の絶望はいかほどだったのでしょうか?きっと深い悲しみとやりきれない苦しさが彼女を襲ったのではないでしょうか。そんな彼女の心情は20:1からも読み取れます。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」彼女はイエスの死に絶望しながらも、何もしないでじっとしていることはできなかったのでしょう。無駄を承知で一人イエスが葬られている墓まで足を運んでいます。

 

 この当時の墓には入り口に石で蓋がされており、それは一人で動かせるようなものではありませんでした。ゆえに墓まで辿り着いたとしても中に入ることはできないことを承知で彼女は墓に向かったことになります。そして、「まだ朝早く、暗いうちに」向かった彼女の心の中もまた暗く、一人で歩むその足取りは重いものだったでしょう。今までずっと共に歩んできたイエスから切り離され、一人ぼっちになったような感覚を覚えながら彼女は絶望の墓へと向かっていきました。

 

 ところが、彼女が墓に着くと、なんと墓の入り口を塞いでいるはずの石が取り除けてありました。彼女はそのまま中に入ることも出来たはずですが、そうはせずにペトロたちのところにそのことを知らせに行きました。ゆえに3節以降マリアはしばらく登場せずペトロたちの話に切り替わりますが、11節にて再びマリアが登場しています。そして11節にはこうあります。「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 」マリアはこの時点でもまだ墓の外にいます。なぜ彼女は墓の中に入らないのでしょうか?

 

 先ほど言った通り彼女は無理を承知で墓に向かいました。入り口には自分の力ではとても動かすことのできない石があるはずだったからです。しかし、どういうわけかその石は取り去られており、入ろうと思えば簡単に入ることができる状況でした。ではなぜ彼女はすぐに墓の中に入らなかったのか?それは彼女自身墓の中を見ることが怖かったからではないかと思うのです。

 

 なぜなら、墓の中に入ることでもう一度イエスの死に向き合わざるをえないかもしれなかったからではないでしょうか?そこでイエスの遺体を見つけてしまうかもしれませんし、そこに遺体はなかったとしても、彼女自身イエスの死を目の当たりにしているわけですから、やはりもう一度絶望を味わうだけかもしれません。だからこそ彼女は墓の外で泣くことしかできなかったのだと思います。泣き崩れるように地面に倒れた彼女が、ふと目を上げた時、見たくない墓の中の様子が彼女の目に入ってしまったのでしょうか?

 

 彼女はちょうどイエスの遺体が置いてあるはずの場所に二人の天使が座っているのを見たとあります。もう一度絶望を味わうと思われた場所にはイエスの遺体はありませんでした。しかし、墓の入り口の石が取り除けられていたこと、また実際遺体がそこになかったことから、彼女は誰かがイエスの遺体を持ち去ったのだと思ったのでしょう。彼女はついに墓の中まで足を踏み入れて、二人の天使に向かって言いました。

 

 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 マリアが「わたしの主」と言っていることから、彼女がいかにイエスに深い信頼と希望をかけていたかがわかります。しかし、その希望ももはや潰えてしまった。マリアにとってこの墓の中は絶望の中にいるのと等しい状況だったでしょう。彼女は、せめて彼女にとってかつて希望だったイエスの遺体を探そうと、墓の入り口へと振り返ります。

 

 

2度振り向いた先に(14-16)

 そのとき、彼女の目に飛び込んできたのは、墓の入り口に立っている一人の人でした。その人は実は復活のイエスご自身でしたが、彼女はまだこの時点ではイエスだとはわからなかったとあります。なぜ彼女は気づかなかったのでしょうか?先ほども言った通り、マグダラのマリアはイエスに長らく付き従ってきた女性で、イエスが十字架に架けられてからもそばに居続けた人物です。

 

 そんなマリアが目の前のイエスに気づくことができませんでした。それは、深い悲しみとやりきれない苦しさの中でマリアは絶望に飲み込まれてしまいそうになっていたからなのではないでしょうか?彼女が希望として見つめていたイエスはまさに目の前におられるのに、気づくことができない。このことは、マリアだけではなく、私たちにもまた起こり得ることなのではないでしょうか?

 

 私たち人間は深い悲しみや苦しさの中に置かれている時、目の前のことがうまく見えなくなってしまうことがあるのではないでしょうか?悲しさや苦しさだけに囚われてしまって、目の前にある希望を見落としてしまうこともあったりするでしょう。マリアはまさにそのような状態だったのだろうと思います。

 

 しかし、そんなマリアにイエスは「マリア」と呼びかけられました。その呼びかけはおそらく彼女が何度もイエスから呼びかけられていた深い愛がこもったようなものだったのでしょう。後ろから聞こえてきた聞き慣れた呼びかけにマリアは思わず振り返ります。そして、彼女もまたイエスに対して何度もそう呼びかけていたであろう「ラボニ(先生)」という言葉で返事をしました。

 

 マリアはイエスから名前で呼び掛けられた時、初めてその人がイエスだと気づくことができました。それは言い換えれば、私たちの側からイエスを見つけることができないということを示しているのではないでしょうか?そして、そのことは同時に、神は私たち一人ひとりのことをその名前で呼び掛けてくださっており、絶望から希望へと目を向け直させてくださる方であることを示しているのだと思います。

 

 

墓の中でなく(17-18)

 マリアは最初イエスの墓に入ることができませんでした。しかし、恐る恐る踏み入れた墓の中で出会ったのは彼女が希望としていたイエスご自身でした。それは彼女にとって希望と再び出会った出来事だったでしょう。言い換えれば、そのことは彼女の視線を絶望から希望へと向け直させる出来事でした。墓の中、絶望を見つめるしかなかった彼女を、イエスは「希望」へと、墓の外へと振り向かせたのです。

 

 しかし、そんな中でイエスは彼女にこうも言われています。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」この言葉は何を意味しているのでしょうか?「すがりつく」というのはニュアンス的には対象を掴んで離さない

という感じでしょうか?ようは自分のそばに留めておく、といった意味だと思います。

 

 つまり、ここでイエスがマリアに言っているのは、希望とは自分のそばに留めておくものではなくて、自分から離れていたとしても見つめ続けるものであるということではないでしょうか。「希望」はすがりつくものではなくて、見つめ続けるもの…イースターの出来事とは、まさに私たちを絶望から希望へと振り向かせてくれるものです。そして、私たちはその出来事を忘れることなく見つめ続けていきたいと思います。イエスはいつも私たちに呼び掛け続けてくださり、その復活という希望を示し続けてくださっていますから。

4月10日主日礼拝メッセージ  「弱さの先に…」

 

恐れもだえるイエス(32-36)

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はマルコによる福音書14:32-42です。イエスが十字架を目前にして、ゲッセマネで祈られる場面です。イエスはこの時、三人の弟子たちを連れられています。この弟子たちはペトロ、ヤコブ、ヨハネで先々週の箇所と全く同じ顔ぶれですが、やはりここでも特別彼らが優れていたから、イエスから選ばれたといったことはありません。

 

 なぜなら、この場面において彼らはイエスから「目を覚ましていなさい」という言葉を受け取っておきながら、結局眠気に抗うことはできずに目を覚ましていることはできなかったわけです。それも、3度に渡りそのやりとりがあってなお、なのですから、とても彼らが優れているように描かれているということはないでしょう。むしろ、弱さや限界を抱えた生の人間として描かれています。

 

 そしてその弱さや限界といったものは、イエスご自身もまた体験されたものであることを、この場面は描いているのだと思われます。なぜなら、33-34節にこのようにあるからです。「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。』」 

 

 この場面においてイエスは恐れ、もだえ、そして死ぬほどの悲しみを覚えておられます。十字架という究極の苦しみ、そしてその先にある死を前にして、人間の持つ、弱さや限界を体験されています。しかしそれは人間として当然の感情であり、反応です。イエスはこれらのことを体験されることで、私たち人間がもつ性質を真に理解してくださったのだと思います。

 

 しかし同時にイエスはこうも祈られています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 イエスは苦しみが取り除かれることを祈りつつも、それでもなお神の意思が実現することを願っておられます。これはイエスご自身の神の性質がそうさせたのだと思います。

 

 イエスはこれら人の性質と神の性質との間で葛藤されています。私たち人間にはそのことはとても推し量れない苦しみですが、イエスがその葛藤を通ってくださったからこそ、私たちは神が私たちの弱さや限界を理解してくださる方であることを知らされ、そのことで同時に私たちは神が信頼に足る方であることを示されてもいます。だからこそイエスが神であり、同時に人として私たちのもとにきてくださったことは私たちにとってなによりの福音なのです。

 

 そのことは私たちに、私たちもまたイエスのように祈ることを赦されていることを示しているからです。イエスがこの場面で祈られた祈り「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」とは、神の意思が実現することを祈ってはいますが、可能ならば別の方法で実現することを祈っている祈りと言えます。

 

 私たち人間は弱さや抱えた限界ある存在です。そんな私たちは神の意思の実現のために全てを投げうつことは難しいのかもしれません。そのことはペトロをはじめとした弟子たちが示しており、同時に彼らの姿は私たちの姿でもあるからです。私たちは目の前の苦しみや痛みや悲しみや恐れからすぐに逃げ出してしまう脆い存在なのです。そのことは人間である以上、避けられないことであり、拭いきれない私たちの弱さでしょう。

 

 しかし、イエスはそんな弱さを抱えた人間であっても、神にご自分と同じように祈ってよいという招きをしてくださっているのではないでしょうか?つまり、神は私たち人間の弱さや限界を理解してくださった上で、最善の道を示してくださることをご自身の行いでもって示してくださったのだと思うのです。

 

 

赦し、背負われるイエス(37-42)

 そのことはイエスと弟子たちのやりとりにもまた表れていることだと思います。イエスは一人で祈られた後、弟子たちのもとに戻られますが、弟子たちは眠気に抗うことはできずに眠ってしまっていました。イエスが「わずか一時も」と言われていることからそんなに長い時間というわけでもなかったはずですが、そのわずかな時間でも弟子たちは目を覚ましていることができませんでした。

 

 このことは結局3度も続くことになりますが、この出来事はつまり人間とはどんなに強がったとしても、その弱さに抗うことはできないことを示しているのではないでしょうか?ペトロはイエスから離反を予告された時、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」となんとも勇ましい発言をしていて、他の弟子たちもそれに続いたとありますが、結局彼らはイエスが言われた通り裏切りの結末を辿ることになりました。

 

 しかし、このことで弟子たちを責める権利は私たちにはないはずです。なぜなら、私たちもまたペトロや他の弟子たちと同様に弱さや脆さ、限界を抱えた人間の一人であるからです。そこに例外はありません。聖書中に描かれる弟子たちの姿とは、私たち一人ひとりの姿であり、彼らの発言の一つひとつもまた私たちの発言そのものだからです。

 

 そんな私たちの姿を最もよく表しているのがペトロでしょう。彼の言動の一つひとつは私たちがついとってしまう言動そのものであると思います。出来もしないのに出来ると言ってみたり、自分の価値観だけで物事を考えてしまったり、しかし、その一方でイエスの招きに素直に応答する部分もあったりと、人間の様々な面を見せているのがペトロという人物です。

 

 ところで、このペトロという名前はマタイ福音書によればペトロがイエスへの信仰を告白した際、イエスによって名付けられた名前とあります。その意味は「岩」であり、ペトロが語ったイエスへの信仰告白という「岩」の上に教会を建てるということから付けられた名前だとされています。言い換えれば、ペトロという名前は、ペトロ個人の名前というだけでなく、「イエスへの信仰を告白した者の名前」とも言えるのではないでしょうか?

 

 一方ペトロの元々の名前は「シモン」と言いますが、この名前は言い換えれば私たち弱く脆い人間としての名前と言えるのではないでしょうか?そして、イエスはこの場面ではペトロに対して、「シモン」と呼びかけられていることから、人間としての弱さを認めきれない、受け止めきれない「シモン」に、私たちに対して呼びかけられているのだと思います。

 

 私たちはつい自分の中にある弱さや脆さといったものを認められず、自分の中から追い出そうとしてしまう時があったりするのではないでしょうか?この時の弟子たちもそうでした。彼らは自分の中の弱さを認められずにいました。しかし、そんな彼らにイエスはこう言われます。「心は燃えても、肉体は弱い。」と。この言葉は文字通り人間の強がる心に反しての弱い体を指していると解釈されますが、あるいはこうも解釈できるのではないでしょうか?

 

 つまり、強くあろうとする心も人間の一部であるのと同様に、その弱さもまた人間の一部であるということを私たちに示しているのではないでしょうか?ペトロは強がりました。そして自分の中の弱さを認めることができませんでした。私たちもまたペトロと同じようになっている時がきっとあるのではないでしょうか?なぜならば人間とは自分自身の中にある弱さと向き合うことがなにより難しい存在だからです。

 

 しかし、イエスはそんな弱さを抱えた私たちをその弱さごと受け入れ、愛してくださっています。だからこそイエスが語られた「もうこれでいい」は、私たちが自分自身で受け入れられない弱さをも、イエスが受け止めてくださっていることを伝える言葉として響いてくるように思うのです。イエスは人間の弱さを体験され、そしてその弱さを受け入れられました。

 

 それは私たちの弱さを真に理解してくださったということでもあります。だからこそイエスは私たちの弱さに同情される方であるとともに、その弱さの先にある真の強さへと招かれる方でもあります。使徒パウロはこう語っています。「わたしは弱い時にこそ強い」と。弱さから目を背けず、それと向き合い、そして受け入れる時、私たちは神によって強くされていくのでしょう。神はいつも私たちと共におられ、その弱さの先へと導いてくださいますから。

4月3日主日礼拝メッセージ  「神の真実への応答」

 

イエスへの信仰か?イエスの信仰か?(1-2)

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はローマの信徒への手紙5:1-11です。まず1-2節にはこうあります。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」

 

 「信仰によって義とされる」聖書をある程度読んでいれば必ず聞いたことのあるフレーズですが、実際のところこのフレーズの意味を皆さんはどのように解釈しているでしょうか?というのもここで言われている「信仰」という言葉が一体誰の信仰を指しているのかということによって、このフレーズの解釈は全く違ってくるからです。伝統的な解釈ではこの「信仰」とは私たちの信仰、つまり人間側の神への「信仰」を指している、とされてきました。

 

 その解釈が一番自然なように思えますし、皆さんもしっくりくるのではないでしょうか?私たちが神を信頼する「信仰」によって、神が私たちを義としてくださる、というのは一見どこにも矛盾がなく、それ以外の解釈のしようもないように思えます。ですが、実はこのフレーズはこれとは全く異なるものとして解釈することができます。そのことを考えていく上で、一箇所関連する箇所を読んでみたいと思います。

 

 同じくローマの信徒への手紙の3:21-22「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」この箇所では神の義と信じること、すなわち「信仰」についての関係が示されています。

 

 この箇所によれば、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」とされていて、先ほど見た伝統的な解釈と一致しています。しかし、先ほどいったように実はこの箇所は訳の仕方によって全く異なる意味のものとして受け取ることができます。今読んだのは新共同訳ですが、聖書教会共同訳という最新の聖書訳では以下のように訳されています。

 

 「しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。」この訳によれば、イエス・キリストの真実、言い換えればイエスの信仰によって、私たちに義が現されたとなっています。どうでしょうか?先程の新共同訳とはかなり、いえ全く違っているものとして感じられたのではないでしょうか?

 

 それもそのはず、イエスへの信仰とイエスの信仰では意味が全く違ってきます。実はこの箇所は原文のギリシャ語の文法上、どちらとも訳せるものとして以前から議論になっていました。しかし、イエスへの信仰としてとったほうが自然であり、違和感がないためそちらの訳が多くの指示を集めていました。しかし、昨今、この箇所への見直しが進められ、聖書教会共同訳では「イエス・キリストの真実」という訳が採用されたというわけです。

 

 なぜそのような訳が採用されたのかについては、やはり私たちの信仰というものがどこまでも受動的なものであり、神の真実が先行しているということを強調したかったためだと思われます。私たちの信仰とは神の私たちに対する真実、まことへの応答だといえます。そうであるがゆえに、私たちの信仰とは私たちの決意による能動的なものではなく、あくまで神の真実に対する応答なのです。

 

 そのように考えると、この「神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現された」という訳も説得力がありかつ自然なものとして受け取れるのではないでしょうか?しかし、そうなってくると一体どちらの訳が正しいのか?という疑問が新たに生まれてくることになります。しかもこれだけ訳によって意味が違ってくる箇所ですから、その疑問はより深いものとして私たちに迫ってくるでしょう。

 

 私たちはこれらのどちらかを選ぶべきなのでしょうか?あるいは、これらどちらの解釈の中にも私たちに示されている神のメッセージが込められていると信じるべきでしょうか?私は個人的には後者なのだろうと信じています。なぜなら、確かに私たちは神のまことによって義とされ、今も神の愛の中で生かされている存在であることは確かですが、同時に神は私たちに対してそのまことや愛に対する応答をも求めておられるということも確かなことだからです。

 

 聖書は「信仰」についてこの両面から語っています。だからこそ、この神の真実と私たちの信仰は切り離すことができないものであり、深く関係しているものだと言えます。私たちの信仰は神の真実によって与えられ、同時に神の真実は私たちの信仰の対象です。私たちは、私たちにまことを尽くし続けてくださる神に信頼し、また希望をかけているからです。

 

 

神との和解という救い(6-11)

 ところで、神の真実、言い換えれば神のまこととは一体どういう意味でしょうか?聖書にはこの表現が時々登場しますが、この言葉を皆さんはどのように受け止めておられるでしょうか?神のまこと、この言葉をよりわかりやすく言い換えるのならば、「神の私たち人間に対する誠実さ」と言い換えることができると思います。神は私たち人間に対してどこまでも誠実な方です。そのことが今日の6-8に示されています。

 

 「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

 

 神は私たちへの愛ゆえに、私たちを救う決断をしてくださいました。そして、神はそのご自分の決断に対してどこまでも誠実な方でした。そのためにご自分の独り子を惜しむことなく私たちに与えられ、またその独り子であるイエスは父なる神の決断にどこまでも誠実に従われた方でした。この誠実さこそが、「神の真実」「神のまこと」です。私たちはこの神の真実から神の愛を受け取り、そしてその愛に応答するようにと招かれ続けているのです。そのことはまた9-11に示されています。

 

 「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。 

 

 「神との和解」こそ私たちに与えられた「救い」であり、「希望」です。イエスが私たち罪ある者のために死んでくださったこと、そのことが神の愛の証明であり、そして、同時に私たち人間が神に敵対しているにも関わらず、神は平和を実現してくださることが神のまことの証明です。私たちは聖書からこれらのことを示され続けています。誤解を恐れず言えば、それらが私たちが神を信頼する根拠です。

 

 神が私たちのためにイエスの死と復活を通して成し遂げてくださったこと、そして私たちの神の愛と真実に対する信頼によってのみ、私たちは神によって義とされるのでしょう。神は今もなお、私たちに変わらぬ愛とまことを尽くし続けてくださっていますから。