9月17日主日礼拝メッセージ  「神はそのただ中に」

 

私たちバプテスト教会は「教会学校」というものをとても大切にしています。教会学校自体は他の教派の教会でも行われていることが多いですが、それは大抵の場合子供たちだけの教会学校であることがほとんどです。私たちバプテスト教会のように子供だけでなく大人まで含めた教会学校を行なっているという教派はあまりないと思います。ではなぜ私たちは大人まで含めた教会学校を大切にしているのか?

 

 それは私たちバプテスト教会の在り方の根幹に深く関わっているものだからです。私たちバプテスト教会の1番の特徴として「個の自覚的主体性による信仰」というものがあります。これは私たち一人ひとりが神との間に関係を持ち、個人の自覚的な信仰により神に応答していくということを意味しています。ゆえに神と私たち一人ひとりの間には誰も立つことはありません。

 

 私はこの教会の牧師をしておりますが、私が皆さんの間に立って仲介しているわけではありません。バプテスト教会では牧師も含めて信徒であり、神がその信徒一人ひとりと直接関係を結んでおられると信じているからです。そうであるからこそ一人ひとりが聖書と向き合い、そこから御言葉を受け取っていくことが重要になってくるのです。

 

 もし、私たちの信仰が誰かに仲介してもらえるようなものなら、聖書を読むのも、聖書を解釈するのも、そしてそこから御言葉を受け取るのも全て人任せでいいかもしれません。仲介者である牧師や神父や祭司が代表してそれを行なって、それ以外の信徒はその代表者の仲介による説教を聞いていればいいということになるかもしれません。事実、そのような信仰のあり方を選び取っている教派はあるかもしれません。

 

 ですが私たちバプテスト教会に限ってそれはありえません。私たちは一人ひとりが誰に仲介されるでもなく直接神から御言葉を受け取るのです。このように聞くとこう思われる方がいるかもしれません。「聖書はとても難しくて、自分一人ではとても読めないし、その意味もわからない」と。このようなことは誰でも少なからず思うことでしょう。

 

 しかし、そもそも私たちが聖書を読む理由は何か絶対的な正解を出すためでも、普遍的な真理を見つけ出すためでもありません。そうではなくて私たち一人ひとりが聖書に向き合い、聖書と格闘を続けていくその過程こそに意味があるのです。そしてその過程の中でこそ私たち初めて「御言葉」を受け取っていくことができるのだと思います。

 

 ですが人とは偏ってしまう存在でもあります。自分一人で聖書を読み、その末に受け取ったものを絶対化してしまうこともあるでしょう。事実教会の歴史はそのような「自己絶対化」の危険と隣り合わせのものでした。そしてその中で多くの過ちを犯してきてしまったことも否定できないことでもあります。

 

 だからこそ、私たちバプテスト教会はそのような過ちを犯さないためにも、一人ひとりで聖書を読むことを最大限尊重しつつも、同時に他者と共に聖書を読むことをも大切にしてきたのです、そしてその具体的な形が冒頭お話しした全年齢を対象とした「教会学校」につながってくるのです。バプテスト教会の教会学校では一人ひとりが聖書を読み受け取ったことを分かち合うことを大切にしています。

 

 そうすることで自分自身の聖書の読みが相対化され、自己絶対化の危険から遠ざかることができるからです。またそれだけでなく、異なる他者の意見を聴くことでそれまで気づかなかった聖書の新たな一面に気付かされることさえあります。そのようにして私たちバプテスト教会は神の御言葉を私たちが聖書を共に読み合うそのただ中に見出してきました。

 

 そうであるからこそ子供も大人も共に聖書を読む「教会学校」やあるいは共に聖書を読み互いに意見を交わす「祈祷会」が主日礼拝とともにバプテスト教会の根底を支えるものになっているのです。そしてそのように共に聖書を読み合い、互いに意見を交わし合うことは、聖書に登場する初代教会のころから大切にされてきたことでした。今日の聖書箇所はパウロがその伝道旅行の中でテサロニケにという所に立ち寄った時の出来事が記されています。

 

 2-3にはこうあります。「パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また、『このメシアはわたしが伝えているイエスである』と説明し、論証した。」

 

 パウロは多くの場所を旅してその所々で伝道していきましたが、その際必ず初めに立ち寄ったのがユダヤ人の集まる会堂でした。ですがパウロはその場所で一方的に宣教したわけではありませんでした。「聖書を引用して論じ合い」とあるように互いに双方向に意見を交わしながらのものだったことが伺えます。つまり、彼らは会堂である教会で共に聖書を読み合いながら、受けとったことを分かち合っていたということです。

 

 パウロが上から一方的に彼の意見を押し付けたわけでも、あるいは彼が人々の上にたって信仰を仲介したわけでもないのです。パウロはあくまで会堂に集う人々と同じ立場、同じ目線で彼らと共に聖書を読み、そしてその中から共に御言葉を聞いていったということなのです。これはまさしく私たちバプテスト教会のあり方の雛形と言えるものなのではないかと思います。

 

 昨今「個人的な信仰はあるが教会には行っていない、あるいは行きたくない」という「霊的だが宗教的でない」人々が増えていると言われています。つまり「信仰」と「教会生活」の分離が起こっているということです。共同体性ということを自らの信仰から完全に切り離した人々が世界的に多くなっています。もちろん自分自身の個人的な信仰というものも大切なものだと思います。

 

ですが今日私たちが確認してきたように信仰とは時に独善的な自己絶対化の危険と常に隣り合わせでもあります。そうであるからこそ、私たちは一人の信仰だけでなく、共同体性のある共に聞き合う信仰をも大切にしなければならないでしょう。そしてまた、聖書にも示されているように御言葉とは私たちが共に聖書を読み合う中に現れていくものでもあります。

 

 神は私たちが共に集まるその只中に伴っていてくださる方ですから。

9月10日主日礼拝メッセージ  「本質を見つめつつ」

 

先日連盟の壮年大会にZOOMで出席しました。その中の閉会礼拝の説教が「今本質に立ち返る」という題でなされていました。内容はその題の通りこれまでの私たちの歩みを振り返りつつ、私たちの信仰の本質に今の時代に適した形式を合わせていこうといったものでした。私たちの信仰の本質、それはただ神のみに信頼し続けるということです。神を直接目で見ることはできませんが、私たちの信仰の本質は私たちの心の内に確かに宿っています。この本質を具体的に表し、私たちが他者と共に共有できるようにしたものが今行っている主日礼拝式や毎月行っている主の晩餐式という形式です。

 

形式は本質に先立つことはありません。形式はあくまで本質を具体的に表し、異なる他者間でその本質を共有するためにあるからです。だからこそ、本質が形式から抜け落ちれば、それらは単に形骸化したただの制度に成り果ててしまいます。しかし、だからと言って私たちが今行っているような主日礼拝式や主の晩餐式という形式が不必要ということにはなりません。なぜならば、形式とは本質を取り出し、外的に表すことによって私たちが共有できるものになるからです。それは、教会という共同体を形成していく中で必要不可欠なものです。本質は、形式があるからこそ具体化され、共有化されるからです。

 

少し難しい話をしたので、いったんまとめると信仰はその本質だけ持っていても、礼拝式のような形式だけ行っていてもダメで、それらが両立していなければならないということです。私たちの中にある神から与えられた信仰の本質は、私たちに働きかけて具体的な行動、形式を促します。その形式によって、私たちはお互いに信仰の本質を確認することができて、そのことでまた信仰の本質へと戻っていくことができるのです。

 

しかし、私たち人間はとかく形式主義に陥りがちです。形式から本質が抜け落ちて、その形式は何のためにしているのか分からなくなっているのに本質を問い直すことなく形式だけ行い続けていく、そして形式そのものに意味があるかのように振る舞ってしまう。このような形式主義は、聖書のなかで厳しく批判されています。イエスやパウロは形式的になっていた当時の律法学者たちに、律法の本質を問い直しました。

 

今日の聖書箇所はエレミヤ書71-11節ですが、旧約の時代から人々の形式主義的傾向に対して神は厳しい言葉をイスラエルの民たちに投げかけています。エレミヤが預言を語ったこの時代、南北に分裂したイスラエル王国は滅びに瀕していました。北イスラエルはすでにアッシリアによって滅ぼされ、その後、南ユダも王がエジプトのファラオに討たれ、エジプトの圧迫下にありました。そんな中、ユダの人々は主の神殿に望みをかけ、礼拝をしていました。そんな中でのエレミヤの預言が今日の箇所です。

 

主の神殿に集まるユダの民たちに、神はエレミヤを通して語りかけます。3-4節「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」

 

まず、ユダの民は「お前たちの道と行いを正せ」と言われています。つまり、それほどまでにユダの民の歩んでいる道は神の道から逸れていたということです。どのように逸れていたんでしょうか?一見すると彼らは、自分たちの危機に際して、主の神殿にきて、礼拝をし、とても主に信頼しているかのように見えます。ですが、彼らの実際はそうではありませんでした。

 

そのことが、次の言葉に現れています。「主の神殿、主の神殿、主の神殿という」彼らは、主の神殿で礼拝をしていましたが、主ご自身ではなく「主の神殿」という建物を強調しています。三度も繰り返すほどに「主の神殿」そのものにを賛美しているかのようです。当時の主の神殿は改築されたばかりで、見た目もしっかりしていたのでしょう、その建物の強固さを強調しています。「主の神殿がここにあるのだから、主は必ずここにおられて、私たちをどんな敵からも守ってくださる」そのように考えていたかもしれません。

 

主の神殿は確かに、主ご自身がその名を置くと言われた場所でした。しかし、神殿そのものはあくまで形式であって本質ではありません。彼らの信仰の本質も私たちと変わらず、「ただ神のみに信頼し続けること」だったはずなのに、彼らからはいつの間にかその本質が抜け落ちて、神殿という形式に信頼を置いてしまっていたのです。見た目も立派で、強固な神殿があるのだから大丈夫、とユダの民たちは「神ご自身への信頼」という本質より「目に見える神殿」という形式にとらわれてしまっていたのです。

 

5節以降では、彼らがいかにこの形式だけの信仰であったのかが語られています。「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。」

 

つまり、ユダの民たちは神が言われることと真逆のことをしていたということです。彼らにはもちろん神から律法が与えられていました。律法の本質はパウロ曰く「罪の自覚を生じさせる」ものです。つまり「人間に罪とは何なのかを示し、神との正しい関係を築き上げるように導く」のが律法の本質です。ユダの民たちは、律法に書かれている文字という形式を持ってはいましたが、その本質が抜け落ちていました。だから、律法で罪と示されているこれらのことを行い、神との関係を崩していました。

 

このようにユダの民たちは本質と形式が一致していませんでした。自分たちの信仰は「神に信頼する」という本質があるはずなのに、形式である神殿そのものに依存してしまう。「神との正しい関係を築く」ということが本質である律法のはずなのに本質とは真逆のことをしてしまう。私たちはどうでしょうか?私たちの本質と形式は一致しているでしょうか?続く8節からは、神はこの本質と形式が一致していないことに対しての怒りが現れています。

 

 「しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。 わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」

 

 非常に厳しい言葉です。なぜこれほどまでに厳しいのかというと、この本質と形式の一致ということが信仰において最も大切なことだからでしょう。イエスも本質と形式が一致していない律法学者には相当厳しい言葉を語られていました。パウロもそうでした。「お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。」本質が抜け落ちた信仰がどれほどむなしいことなのか、神はそれをはっきりと語られています。

 

 ユダの民たちは形式上の礼拝はしていても、そこに本質は伴っていませんでした。礼拝の本質は「神と出会い、神を賛美し、その恵みに感謝する」ことです。彼らは本質的に神に出会っていませんでした。神の言葉も聞いてはいませんでした。神に信頼していませんでした。神が彼らに求めていたのは、信仰の本質を見失うことなく、その本質に促されて、形式として具体的な応答を表していくことです。これは同時に現代の教会で生きる私たち一人一人にも求められていることだと思います。

 

 神は救いの条件として私たちの行為を求めているのではありません。私たちの行為とは一切関係なしに、イエス・キリストの十字架によって神は私たちを許され、救いを与えてくださいました。神が求めておられるのは、私たちの信仰の本質に基づいた応答です。それは礼拝であり、賛美であり、祈りであり、証であり、献金であり、伝道といった全ての信仰の行為です。私たちが、信仰の本質を見つめつつ、その本質を形式で具体化し共有し、神に応答していく時、神はその私たちの心からの応答を喜んでくださいます。

9月3日主日礼拝メッセージ  「『私』の真の理解者」

 

みなさんは誰にも言えない悩みがあるときどうするでしょうか。多くの場合は誰にも言えないのだから自分の中で溜め込むしかなくなると思いますが、それはその悩みの原因が誰かに言ってもどうにもならないだろうと自覚しているとき特にそうなりがちになるものかもしれません。誰かに少し助けてもらったり、あるいは話を聞いてもらえるだけで楽になるという悩みももちろんあると思います。

 

 ですが、中にはそのようにしても解決できない悩みというものも私たちの人生にはあるものではないでしょう。自分でも他の人の力を借りたとしてもどうにもならないとき、私たちの不安やあるいは痛みは外への行き場をなくして自分自身に蓄積されていってしまったりするものでしょう。そのような状況は誰にとっても本当に苦しいものだと思います。

 

 人は他者に自分のことを理解してもらえないとき最も苦しみを感じる存在だからです。今日の聖書箇所にもそのように一人誰にも理解してもらえない悩みを抱えて苦しむ一人の女性が登場します。それはハンナという名前の女性です。彼女はエルカナという男性の妻ですが、エルカナにはハンナの他にもう一人ペニナという妻がいました。そしてこのペニナには子供があったが、ハンナにはいなかったということが語られています。

 

 このような子供がいることいないことに関する記述は聖書中で多く出てくることですが、それは女性は子供を生むことこそが最も重要な務めであり、義務であるというような価値観があったからです。現代では考えられないような古びた価値観ですが、当時のイスラエルとしてはそのような価値観の中にあったわけです。当然ながらそのような価値観の中から生まれてくる負の部分として子供を持てない女性への偏見や差別がありました。

 

 すでに子がいるペニナは子がいないハンナをなじり責めていたのでしょう、「彼女を敵と見るペニナは、主が子供をお授けにならないことでハンナを思い悩ませ、苦しめた」とあります。ペニナはハンナに対する明確な敵意を持っていたことがわかります。おそらくペニナはエルカナの2番目の妻であり、そのことに関する引け目がハンナへの中傷に発展したのかもしれません。

 

 しかし当然ながら子がないことはハンナにはどうしようもないことでした。「主はハンナの胎を閉ざしておられた」とある通り、これはハンナ自身の力でどうすることもできないことだったわけです。そのような自分ではどうすることもできないことで悩みを抱える時、私たち人間は自分自身の無力さからくる悲嘆や行き場のない怒りを心の中に溜め込んでいってしまうものではないでしょうか。

 

 ハンナはまさしくそのような状況に置かれていたのだと思います。ペニナの無理解からくる悪意がハンナを苦しめていました。そのようなハンナを気遣おうとしていたのがエルカナでした。彼はハンナがぺニナに傷つけられていたのを直接知っていたかはわかりませんが、彼女たち二人の仲がよくないことには気づいていたことでしょう。様々なことでハンナをフォローしようと努めていることが語られています。

 

 4-5にはこうあります。「いけにえをささげる日には、エルカナは妻ペニナとその息子たち、娘たちにそれぞれの分け前を与え、 ハンナには一人分を与えた。」当時礼拝には動物のいけにえを捧げることが習慣になっており、いけにえの残りの部分を礼拝者たちで分け合って食べていたようです。そして「ハンナには一人分」と訳されている箇所は様々な訳が考えられ、「二重に」つまり「二人分」と訳されたり、あるいは「特にいい部分」などにも訳される箇所です。

 

 そのような訳として考えるならばハンナに対するエルカナの印象が少し変わってくると思います。また、彼は泣いて何も食べようとしないハンナに次のように声をかけています。「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」 皆さんはこれらエルカナのハンナに対する配慮にどのような印象を持たれるでしょうか。

 

 人によって解釈が分かれるところかもしれませんが、これらのエルカナの配慮はどうやらハンナにはあまり響かなかったようです。「十人の息子にもまさる」という言葉はもちろんエルカナにとってハンナを励ます言葉だったわけですが、ハンナにとってはその言葉はかえって痛みを増すものとして受け取られたかもしれません。ハンナにとってエルカナの配慮は逆に苦しくなってしまうものだったかもしれません。

 

 なぜなら彼女の真の想いをエルカナは理解していないから、いえ理解できないからといった方が正しい表現でしょう。もちろんエルカナにハンナに対する悪意や敵意があったわけではありません。それどころか彼は心からハンナを心配し様々な配慮や言葉をかけていったのだと思います。ハンナ自身もそれは気づいていたかもしれません。

 

 ですがそれでもなお人は他者の心の内を完全に理解し受け止めることはできないのです。だからこそハンナはエルカナに自分の思いを吐き出すこともできず、痛みを抱え続けているのです。人間にはエルカナのような他者を理解しようとしても完全に理解できない不理解性と、ペニナのようにそもそも理解しようとしようともしない無理解性という性質を持っています。

 

 そしてこれらこそが聖書が語るところの「罪」と呼ばれるものの正体です。無理解性はもしかしたら人間自身で克服できるのではないかと考えるかもしれません。ですが私たちはエルカナのように親しい人でさえ完全に理解できない不完全さを抱えた存在です。それは私たち人間が独立した一つずつの命をもつ存在だからです。そうである以上、不理解性からは絶対に逃れることはできません。

 

 それは本当に悲しくもあり、苦しくもあります。人には真なる理解者はいないのでしょうか。誰にも打ち明けられず、自分ではどうすることもできない想いを受け止めてくれる存在はいないのでしょうか。いいえ、聖書はそのような存在をこそその全てを懸けて私たちに証しし続けています。自分の想いの行き場をなくしたハンナは神に祈ります。

 

 泣きながらも、悩みながらも、そして嘆きながらもひたすら神に向かってその想いを打ち明け続けます。それは祈りという名の神との対話そのものでした。ハンナの誰にも理解されず、注ぎ出すことができなかった思いが神によって受け止められていきました。ハンナは祈りの後言います。「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。 今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。」

 

 ハンナはどれだけ自分の境遇が辛いものでも、そしてそれが誰にも理解してもらえなくても絶望することはありませんでした。それは彼女が彼女の信仰において神だけは自分の想いを完全に理解し、そして受け止めてくださることを知らされていたからなのだと思います。聖書は彼女の祈りを終えた後の様子をこう記しています。「彼女の表情はもはや前のようではなかった。」

 

 

 彼女が願っていた「子供が欲しい」という願いはこの時点で叶えられてはいません。にもかかわらず彼女の表情は悩み嘆き泣き崩れていたときのようではありませんでした。イエスの言われた言葉が思い出されます。「あなたの信仰があなたを救った」言い換えれば「あなたの神への信頼があなたを救った」。誰に理解されなくても神は私たちの全てを理解してくださり、そしてその全てを受け止めてくださって、善き方向へと導いてくださるかたですから。