8月28日主日礼拝メッセージ  「しつこさは悪いこと?」

 

しつこさは悪いこと?

 おはようございます。皆さんはこんな場面に遭遇したことはないでしょうか?スーパーで買い物をしている時に子供が親に「これが欲しい」とお菓子やおもちゃを必死にねだり、それに対してその子の親が「買わないからね」と断るような場面です。もちろん親がそう言ったところで子供は簡単には諦めないのがだいたいのその後の展開だと思います。何度かの攻防を経たのち、子供は欲しかったものを買ってもらえないというのが大抵の結末でしょう。

 

 皆さんも思い返してみれば自分が子供だった頃、一度くらいはこのような体験をしたことがあるのではないでしょうか?私も一度と言わず何度もこのような体験をした覚えがありますが、大人になった今になって振り返るとしつこくねだっていた子供の私に親は苦労したかもしれないなと思うわけです。しかし、子供の頃は誰しももっていたしつこさは大人になるにつれ次第になくなっていくものでもあるのではないでしょうか?

 

 それは「しつこさ」というものが一般的には悪いものとされているからなのだと思います。子供だった私たちはその「しつこさ」を嗜められながら育っていくうちに「しつこさ」が削ぎ落とされた大人としてこの社会の中で生活していくことになるわけです。なぜ「しつこさ」はこれほどまでに悪いものとされているのでしょうか?それはやはりしつこくした相手側に多大な迷惑をかけてしまうからというのが1番の理由ではないかと思います。

 

 先ほどお読みいただいた聖書の中でもこの「しつこさ」を持った人物が登場していますが、彼は子供ではない上にしつこく願ったことを最終的に聞き入れられています。聖書では先ほどの私たちのよく知る「しつこさ」の展開とは随分違った結末になっているのですが、その最大の理由は聖書において「しつこさ」というものが、私たちが思っているほど「悪いもの」とは見做されてないことにあると思います。むしろ悪いどころか「善いもの」とされていることがあるのです。

 

 今日はこの「しつこさ」がなぜ聖書において「善いもの」とされているかをご一緒に聖書から聴いていきたいと思います。場面はイエス一行がエリコという町に到着したところから始まります。しかし、直後に町を出ていこうとする描写があるところから、イエス一行はこの町を通りすがっただけで滞在はしなかったのかもしれません。おそらくは先を急いでいたのでしょうか、町に着いたのも早々に出発しようとされています。

 

 おそらくこの時点でイエスの名前はかなりの噂になっていたでしょうから、一瞬といえどもエリコの町に来たイエスを見ようと人々は集まり、そして「あれが噂のイエスか」というような会話も方々でなされていたのかもしれません。そんな会話を耳にしたであろうバルティマイという人がいました。彼は盲人で働くことができず道端に座って人々から物をもらって生活をしていました。

 

 盲人で働くことができない彼は人々からやっかまれていたのでしょう。町の中でも端の方の入り口近くで座っていたのでしょうか。町の中心部からは遠く離れた場所が彼の唯一の居場所だったのかもしれません。しかしそこは、イエス一行が町を後にしようとされた時に呼びかけるには絶好の位置だったかもしれません。彼は意を決してイエスに呼びかけました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」

 

 それは彼にとってはとても勇気のいることだったと思います。普段人々から虐げられ、疎まれてきた自分が誰もが注目するイエスに呼びかけるなどさらに人々から疎まれることになるかもしれません。そして実際それは周りにいた人々が叫ぶバルティマイを叱りつけ、黙らせようとする形で起こっていきました。ですが彼は人々からどんなに叱られ、黙らせようとされてもイエスに呼びかけることを諦めはしませんでした。

 

 彼はますます大きく叫び「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と訴えるのです。彼が叫び、人々がそれを止めようとし、そして彼がまた叫ぶということが何度か続いたのかもしれません。なぜ彼はここまでしてイエスに呼びかけた続けたのでしょうか?それは彼の願いをイエスなら叶えてくださるという彼自身の確信と、この機を逃してはもうイエスに出会うことが出来ないかもしれないという危機感が彼の中にあったからではないかなと思います。

 

 そんな彼は一般的には「しつこい」とされるかもしれません。そしてその「しつこい」ということは当時の一般的な価値観で考えてもおそらく「悪い」ものとされていたのでしょう。何度もイエスに向かって叫ぶバルティマイを周りの人々が叱りつけているところからもそれが伺えます。しかし、そんな彼の「しつこさ」に唯一違った反応を示した人物がイエスでした。

 

 イエスは先を急ぐ身でありながら、この盲人のしつこいまでの叫びを聴かれて「あの男を呼んできなさい」と招かれています。もしかしたら彼の「しつこさ」に私たちも悪い印象を持ったかもしれません。私たちの生きる一般的な社会の価値観ではどうしてもそう思ってしまうのが自然だと思います。しかし、イエスだけはそのしつこさを悪いものだとは見做されませんでした。

 

 むしろここでは彼のそんな「しつこさ」があったからこそイエスに届いたのかもしれません。神は私たちにこのような「しつこさ」を求めているところがあったりするのではないでしょうか?私たちは祈りの中でどこか神に遠慮してしまうことはないでしょうか?しかし、神はこの男の叫びのように大胆にしつこく願っていくことを求められているのかもしれません。

 

 

正しく求める

 男はイエスが招いておられることを知らされると、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあります。この時点ではまだこの男の願いは聞き入れられてはいませんが、彼はこの時点ですでに喜んでいます。男にとってこの後の自分の願いが聞き入れられるよりも、イエスと出会えたこと、そして自分の叫びがイエスに届いたことが何よりの喜びだったのかもしれません。

 

 そんな男にイエスは「何をしてほしいのか」と尋ねられています。この「何をしてほしいのか」という問いかけは実はこの記事の前の箇所でも同じ問いかけをヤコブとヨハネというご自分の弟子たちにもしておられます。彼らはその問いに対して次のように答えています。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 

 

 彼らは他の弟子たちよりも高い地位につけてもらうことをイエスに願っているわけですが、結局この願いは聞かれることはありませんでした。一方でバルティマイの願いは「目が見えるようになりたい」というものでした。その男の願いを聞かれたイエスはこれまでされてきたような癒しの行為ではなく、ただ一言言葉をかけられています。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

 ヤコブとヨハネの願いとバルティマイの願い、この二つの願いは何が違ったのでしょうか?それはきっと色々なことが言えるとは思いますが、まず一つはその願いに対してどれだけその人が真剣であったかということがあるのではないでしょうか。真剣であるがゆえにその真剣さは「しつこさ」となって叫びになっていったのだと思います。

 

 そしてさらにはその願いが正しく、そして正しい仕方で求められているのか、ということがあるのだと思います。もちろんここで言う正しさは神にとっての正しさ、言い換えれば神の義ですから私たちが完全に言い切れることではないかもしれません。しかし、それは私たちに全く知らされていないわけでもありません。私たちは聖書を通して、神の義の断片を知らされています。

 

 そしてそれは私たちが神との出会いを通してより深く神と関わりを持っていくことによって私たちは神の義を求めるものへと造り変えられていくはずです。私たちにはそんな神の義をしつこく求めていくことへと招かれています。神に対する「しつこさ」は悪いことではありません。むしろ神はご自分に対して「しつこい」者をこそ招かれるかたです。

 

 私たち教会は「正しい願い」を常に御言葉に聴きながら、しつこく求めていきたいと願います。

8月21日主日礼拝メッセージ  「弱さを受け入れる強さ」

 

子供の「ような」ものたちとは?

 みなさんは聖書を読んでいるときどのようなことを考えながら読んでいるでしょうか?きっとみなさんそれぞれに色々なことを考えながら読まれていると思いますが、一度くらいはこんなことを思ったことなどはないでしょうか?「なぜあの話の後にこの話が繋がってるんだろう?」とか、「前に言ってることと後に言っていることが矛盾しているような気がする」といったことを思ったことはありませんでしょうか?

 

 聖書はその全てを通して「神の福音」を語らんとしていますが、私たちがその聖書を部分部分で読んだ時、その内容が一体何を私たちに伝えようとしているのかがわからなくなってしまう時もあったりするものだと思います。先ほど読んでいただいた箇所などはまさにそんな状況に当てはまってくるのではないでしょうか?

 

今日私たちが読んでいく聖書箇所は新共同訳では「子供を祝福する」と「金持ちの男」と言うように見出しが付けられています。一見するとこの二つの見出しが示す内容に全く共通点を見出すことができないのではないかと思われるかもしれません。ですが、この二つの記事をよくよく読んでいくと、なぜこの何の関連性もなさそうな二つの記事が連続したものとして配置されているかが見えてくると思います。

 

 先ほども言ったように聖書はその全てを通して私たちに「神の福音」を語ろうとしています。ゆえに一見すると何の関連性もないようなこの二つの記事の間にも確かな関連性があり、そのことを通して私たちに福音を伝えているのだと想像することができます。今日はこの二つの記事を通して私たちに今語りかけられている福音をご一緒に受け取っていきたいと願います。

 

 13-16節で語られる一つ目の記事はとても有名な箇所です。イエスの元に子供たちを連れてこようとした人々を、弟子たちが叱り、その弟子たちにイエスが憤った、という短いながらも印象的な場面の記事です。特に「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」という言葉はみなさん深く印象に残っているのではないでしょうか?

 

 この記事から「イエスは子供が好き」というイメージが形成されていったのかもしれません。そういうこともあるかもしれませんが、しかし、この箇所の真に言わんとしていることはもちろんそこではありません。イエスは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と語っておられます。子供の「ように」ということは子供は持っているが、大人になるとやがて失ってしまうもののことを指しています。

 

 そしてその子供の頃は持っているがやがて失ってしまうものとは「受け入れる」ことです。この「受け入れる」ということが私たちは大人になるにつれ失っていくものであること。そして同時にそのことがなにより大切なことであることをイエスはここで語っています。しかし、そんな大切なものでありかつ、子供でもできる簡単なことをなぜ私たちは失ってしまうのでしょうか?

 

 

金持ちが尋ねる理由

 その答えは少し後であらためて考えるとして、今度は今日の2番目の記事である「金持ちの男」の話を読んでいきたいと思います。この記事ではある金持ちの男がイエスに質問をする場面から始まります。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 この金持ちの男はイエスに永遠の命を受け継ぐ方法、言い換えれば神の国に入る方法を尋ねています。

 

 そんな男にイエスはこう答えています。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 これはご存じ十戒の一部ですが、要するにイエスはこの男に律法をもって答えているわけです。すると男は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と返答するわけですが、この男の言ったことは事実であると思わせるのがその後の「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」という部分です。

 

 この金持ちの男は本当に神の国を求めていたのでしょう。そのために律法を守り、そしてそのために必要なものをイエスに尋ねもしました。そのことは紛れもなく本当のことでだからこそ「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」のだと思います。ですが、次にイエスが語ったことにこの男は驚き落胆することになってしまいます。なぜなのでしょうか?

 

 「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 イエスはこの男に再び答えました。しかし、それは金持ちの男にとって非常に困難なことでした。それは22節にも書かれている通り、男がたくさんの財産を持っていたからでした。多くの財産を持っているこの男にとって、イエスの要求を受け入れることはできなかったのでしょう。

 

 以上が表面上の「金持ちの男」のお話ですが、そもそもの問題としてなぜこの男はイエスに神の国に入る方法を尋ねたのでしょうか?もちろん、周囲からイエスの噂を聞いたから、ということは少なからずあると思いますが、この男がイエスに尋ねた真の理由は別にあるような気がします。この男は金持ちでした。当時、金持ちは神からの特別の祝福を受けているとされ、地位も名誉も力も持っていました。

 

 そしてこの男はそれらに加えて律法もしっかり守っていたわけですから、当時のユダヤ的な価値観で言えば、神から祝福され神の国に入るような人だろうと周囲からは思われていたかもしれません。ですが当の本人はどうやらそうは思っていなかったのではないでしょうか?なぜならば、もしそう思っていたのならわざわざイエスに神の国に入る方法を尋ねたりはしないはずだからです。

 

 そう考えると、この男がイエスに尋ねた本当の理由が見えてはこないでしょうか?この男は周囲の評価とは裏腹に自分では神の国に入るためにまだ何か足りないものがあると思っていて、それをこそイエスから聞きたいと思っていたのだと思います。そんな彼の思いは真摯なものだったのでしょう。だからこそ、イエスも彼を慈しみ答えられたのでしょうから。

 

 しかし、彼は一点だけ大きな思い違いをしていることがありました。それは私たちもまた時に思い違いをしてしまうことと同様のこと、自分の力によって神の国に入ろうとしてしまうという思い違いです。イエスは男に二度返答されていますが、どちらの答えも男の問いに直接答えているものではありませんでした。それは男に気づかせるためにあえてそのようにお答えになったからだと思います。

 

 特に二度目の答えである「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」は男にとって困難な課題でしたが、もし仮に男がそのことを実行すると答えても、イエスはさらに男にとって困難な課題を出したのではないでしょうか。つまり、イエスはこの問答を通してこの男に「神の国は自分の力で手に入れるものではない」ということを気づかせたかったのだと思います。

 

 ここでイエスが1番目の記事で語られたことを振り返ってみたいと思います。イエスは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 と言われました。つまり、神の国は受け入れるものであって、自力で入るものではないということがわかります。そして、私たちが受け入れることができなくなるのは、自分自身の「弱さ」を認めることができなくなるからなのだと思います。

 

 子供は自分の弱さを表現する方法として本能的に泣き、そしてそのことをためらいませんが、大人は自分自身の弱さを隠し、泣くことを我慢してしまいます。それは自分の弱さを認められないこととつながってくるのではないかと思います。金持ちの男もまた自分に自身の弱さを認めることができませんでした。しかし、自分の弱さを認めて、受け入れることこそ「神の国への入り口」であることをイエスは無理難題を突きつけることで男に伝えようとされたのだと思うのです。

 

 今日私たちは二つの聖書の記事を読んできました。一見何の関連性もないような二つの記事でしたが、それらは実はつながっており、自分の弱さ受け入いれる強さこそが神の国へと繋がっているという福音を私たちに語ってくれたような気がします。私たちが真摯に御言葉に耳を傾け、その福音を求めていく時、神は聖書を通して豊かな福音を語ってくださいますから。

8月14日主日礼拝メッセージ  「苦難で終わらせない」

 

なぜ私たちは疲れてしまうのか?

 最近はまたコロナウイルスの感染が拡大してきました。以前に比べて重症化率は幾分低いようですけれども、その代わりに感染力が高く、これまでにないほどの感染者数が出ています。思えばこのコロナ禍が始まってから丸2年半以上が経過しました。このコロナウイルスが出始めた当初、私たちはどこかこの流行はすぐに収まるだろうとたかを括っていたところがもしかしたらありはしなかったでしょうか?

 

 しかし実際はすぐに収まるどころか、むしろ感染は拡大し続け世界中で多くの死者が出ることとなってしまいました。その時私たちはこのことに少なからず恐れの感情を抱いたのではないでしょうか?その後コロナは何度かの収束と拡大を繰り返しつつ現在も未だに完全な収束とはなっていないわけですが、私たちはこの2年半以上もの間このウイルスに振り回されながら生活してきたことは否定できない事実でしょう。

 

 それは私たちの日常生活のあらゆる場面でそうだったと思いますが、特に思うのは精神的に振り回されてしまっているということが大きいのではないでしょうか?私たちは当初この新型ウイルスの登場に油断していたところがあったと思います。しかし、その予想以上の凶悪さが知れ渡り始めた時、次に私たちは恐れを抱きました。そして、何度かの収束傾向と再拡大を繰り返す内に私たちの心は安堵と緊張を繰り返すこととなっていったのだと思います。

 

 そのようなことを繰り返している内に私たちの心はいつしかコロナ禍に対する恐れの感情よりかは「疲れ」のほうが大きくなっていったのではないでしょうか?このコロナ禍の中での生活は忍耐を強いられる戦いとも言い換えることができると思いますが、現在の私たちはまさにこの長い戦いの中でひどい疲れを覚えている状態と言えるのではないでしょうか?

 

 このコロナ禍がそうであるように、先の見えない状況の中で私たちは疲れ、そして希望を見失いかけてしまうことも時にあったりするでしょう。私たちは自分に降りかかる苦難に対して、なぜこのようなことが起こるのか?なぜこんな目に遭わなければならないのか?と問わずにはいられないことがあります。神が私たちに愛を与えられるのなら、なぜこのような苦難を許されるのかと問わずにはいられないことが私たちにはそれぞれあることでしょう。

 

 それは聖書の時代から現代まで変わらぬ、私たち人間の普遍的な悩みでもあるのだと思います。特にこのヘブライ人への手紙が書かれた時代にはクリスチャンに対する厳しい迫害があったであろうとされています。そのような中で初めのうちはなんとか耐え忍んでいたものの、次第に教会の人々は疲れ果て気力を失っていってしまったのでしょう。この手紙の著者はそのような疲れ果て気力を失ってしまった人々に対して書かれたものなのです。

 

 私たちは初代教会のような迫害を受けているわけではありませんが、コロナ禍という擬似的な迫害の中で疲れてしまっているというところでは共通する部分があると思います。そのように考えると、この手紙は私たちに向けられたものとして響いてくるのではないでしょうか?

 

 

鍛錬の意味

 初代教会の時代でも、そして現代でも私たちに襲いかかる苦難、それは私たちにとってできれば避けたいものでありながらも、同時に避けることのできないものであることがほとんどでしょう。だからこそ私たちはその苦難の意味を求めずにはいられません。人は自分に降りかかる苦難を無意味なものと思いたくないからです。

 

 そのような私たちにこの手紙の著者は一つの勧めをしています。それは私たちに振りかかる苦難を主からの鍛錬として忍耐せよ、という勧めです。ここであえてこのことを勧めと表現したのは、苦難の意味を受け取るのは究極的には神と個人との関係において受け取っていくものなのであって、他人から押し付けられるものではないはずだからです。

 

 それでもなお著者が一人ひとりに降りかかる苦難を主からの鍛錬として耐えるよう勧めているのには、その苦難の中でもなお、神の確かな寄り添いがあるのだということを伝えるためなのではないかと思います。「神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 」著者はそのことを伝えるために私たちがすでに神の子として取り扱われていることを思い出させます。

 

 そして私たちの肉の父がそうであるように、霊の父である神も私たちに鍛錬を受けさせる方であると語ります。確かに私たちは父親に限らず、親に鍛えられる、少し言い換えれば厳しく育てられることでより良く成長することができたのだろうと思い返すことが少なからずあったりするのではないでしょうか?親は子供のことを思うがゆえに時に厳しく接する時もあることを私たちは身をもって経験していますが、そのことと同様に神もまた時に私たちに厳しい鍛錬を課されることがあるということでしょう。

 

 そして「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」という言葉が示す通り、その鍛錬は私たちにとって善きものとなるがゆえに課されているのだと著者は語ります。そしてその目的は私たち一人ひとりをご自分の神聖に与らせることだと言います。このことを言い換えるならば神はご自分の似姿へと人間を導いていくために、私たちを鍛えられるといったことでしょうか。

 

 私たちは神によって鍛えられ、その度に神の似姿へと造り変えられていく存在なのでしょう。しかし、そうはいっても著者自身が書いているように「鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われる」という言葉で語っている通り、私たちは自分に降りかかる苦難を素直に受け止めることは難しいでしょう。私たちはその苦難のゆえに気力を失い疲れ果ててしまいそうになっているわけですから。

 

 ですが同時に著者はそれら鍛錬の意味は後から振り返ってみた時にその真の意味を表すこともまた語っているのです。「後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 」神からの鍛錬は私たちにとって時に厳しく、痛みを伴うこともあることは確かなことなのかもしれません。しかし、それらは私たちが神との関係の中で少しずつその意味を受け取っていくことで、自分に振りかかった苦難を主からの鍛錬であると初めて受け入れることができるのではないでしょうか?

 

 そしてそのことはあくまで神と個人との間に起こる出来事であって、他者がその苦難の意味を押し付け、定義づけることは決してできないことも、私たちは今一度弁える必要があるでしょう。その人に起こった苦難の意味はその人自身にしか受け取ることはできませんし、また受け入れるという決断もできないことなのです。だからこそ私たちは一人ひとりが神との豊かな関係を持っていくことが大切なことなのだと思います。

 

 私たちはその人生の中で様々な苦難を経験します。そのことは避けられないことですし、誰もが認めざるを得ない事実でしょう。そして私たちはその意味を見出すことができない時、気力を失い疲れ果ててしまいそうになるでしょう。しかし、私たちにはその苦難にいつも寄り添い、励まし続けてくださる神がいるのです。時にその苦難をも用いて私たちを鍛えてくださる神がいるのです。

 

 そのことは私たちにとって苦難を苦難で終わらせない何よりの慰めなのではないでしょうか。神は私たち一人ひとりを愛する子として扱ってくださり、その苦難の只中を共に歩んでくださいますから。

8月7日主日礼拝メッセージ  「隔ての壁を越えて」

 

隔ての壁

 今年も8月を迎えました。私たちはこの8月になるとどうしても思い返さずにはいられない出来事を思い返すでしょう。今から77年前の昨日、86日には広島に、そして77年前の明後日89日には私たちの住んでいる長崎に原子爆弾が投下され、多くの命が一瞬にして奪われました。私たち大村古賀島教会ではこの出来事を忘れないために毎週の主日礼拝の開始時刻は11:02、長崎に原爆が投下された時刻から礼拝を始めています。

 

 多すぎる命と深い悲しみと痛みを生み出した太平洋戦争は1945815日にようやくの終戦を迎えました。現代に生きる私たちはこの出来事を忘れることなく思い起こし続ける必要があるでしょう。私たち人間は時が経てば経つほど、過去の出来事を忘れ、風化させてしまうものです。たわいない出来事なのであればそれもいいでしょうが、しかし戦争という人の罪が具体化した出来事を決して風化させるわけにはいかないでしょう。

 

 残念ながら人類史上争いが消えたことはただの一度もありません。それは個人間の小さなものから、国家間同士の戦争、そして世界中を巻き込んだ世界大戦に至るまでありとあらゆる争いがこの世界では起こり続けています。私たちの記憶の新しいところでは今まさに現在もロシアとウクライナとの間で戦争は起こっており、しかもそれはあからさまな侵略目的での戦争であることに、戦争が始まった当初私たちは大きな衝撃を受けたことを思い返します。

 

 私たちはこの事実から目を逸らすわけにはいかないでしょう。すなわち人間は時代が変ろうともその本質は何も変わっていないということに。もちろんそれでも人間は争いを止めるための努力は懸命にしてきました。その一つが先ほどの戦争という出来事を風化させないことであり、その出来事を思い起こし続けることで戦争という出来事の愚かさや悲惨さを語り継ぎ後の世代へと伝えていくことは大切なことだと思います。

 

 ですが、それでも人間は争いを止められないかもしれないと思ってしまうかもしれません。その理由は先ほどの人の本質に関わることだからであり、しかも残念なことに歴史がそれを証明してしまってもいます。では私たちは諦めて、終わりのない争いという絶望の道へと進んでいくしかないのでしょうか?いいえ、決してそんなことはないはずです。確かに私たちの本質は変わらないかもしれません。

 

 相変わらず争いを起こし続けてしまうかもしれません。しかし、それでも私たち人間には同時に「平和」を求め続ける想いがあることもまた否定できない事実でしょう。人間は争い続けてきた歴史があるのと同時に、平和をも絶えず求め続けてきました。私たちは「平和」という言葉を口にする時、あるいは耳にする時どのような状態を思い描くでしょうか?戦争状態ではないことが平和なのでしょうか?暴力がないことが平和なのでしょうか?

 

 それらは一般的な平和の概念にはある種当てはまるかもしれません。ですがそれらで平和を定義するのはどこか本質を欠いている気がしてこないでしょうか?なぜなら人間には戦争状態や暴力行為に至るまでのもっと本質的な原因があるはずだからです。そしてその原因こそが聖書の指し示すところの「罪」なのではなのだと思います。私たち人間が争いから自由になれないのは、この「罪」が私たちの中に存在しているからなのです。

 

 

キリストは平和

 先ほどお読みいただきました聖書箇所には私たち人間が求め続けてきた「平和」について語られています。14節にはずばりこうあります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」聖書の定義する平和とは私たちが一般的に定義するところの平和とはずいぶん違うように感じるかもしれません。ただこれだけでは聖書が語らんとしている平和の意味はよくわからないままですから、もう少し先の16節まであらためて読んでみたいと思います。

 

 「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 」ここには聖書が私たちに語ろうとしている「平和」の姿がダイレクトに描き出されています。

 

 聖書の語る「平和」を一言で言い表すならば「敵意が滅ぼされること」と言えると思います。そしてその敵意こそがまさに私たち人間の「罪」から生み出されていくものでしょう。私たちの罪は敵意を生み、そして敵意は隔ての壁を作っていきます。それらはやがて他者への暴力となっていき、それらが拡大して戦争という出来事にまで発展してしまうのだと思います。

 

 聖書が語るのは、戦争や暴力という表面に見える部分がない状態を「平和」と言っているわけではありません。そうではなくて、その戦争や暴力に発展してしまうもの、すなわち私たち一人ひとりの内にある「罪」が贖われることこそを「平和」と定義しているのです。では「罪が贖われる」とは具体的にどのようなことでしょうか?

 

 そもそも聖書の語る「罪」とはその意味をひたすら還元していくとするならば、「他者への不理解性」だと言えるのだと思います。アダムとイブが神から食べてはならないとされた実を食べてしまった時、そこには彼らの神の愛に対する不理解がありました。アダムがイブにその責任を転嫁しようとした時、そこにはイブという他者への無理解がありました。そして群衆がイエスに無実の罪を着せ、十字架につけた時、彼らはイエスに対する無理解がありました。

 

 このように聖書が語る「罪」の本質はこの「神と他者への不理解性」だと言えます。それこそが私たち人間が抱える「罪」の正体であり、同時に人間が争いを止めることができない理由です。そしてこの「罪」とは私たちが一人の人間である以上、自分自身では決して拭い去ることができないものでもあります。なぜなら、私たちは一人ひとりが独立した一つの生命であり、そうであるがゆえに自分とは異なる他者のことを本能的に拒絶してしまう存在だからです。

 

 そんな私たちにはどうすることもできない「罪」を神はイエスの十字架を通して贖ってくださったことを聖書はその全てを通して私たちに語っているのです。イエスは私たち人間の全ての「罪」を十字架に集められてそこで死んでくださいました。そのことはまさに私たちが持つ隔ての壁が取り壊された出来事でした。しかし、聖書の語る平和はそれだけでは終わることはありませんでした。

 

 「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 」聖書の語る「平和」、それは私たち一人ひとりの内にある「罪」という隔ての壁が取り壊され、そして私たち一人ひとりが新しくされていくことで異なるもの同士が一つとなっていく道、言い換えれば互いを理解していく道へと導かれていくことだったのです。

 

 私たち人間は確かに歴史上争いを繰り返し続け、そしてそれは今もなお続いていることかもしれません。そのことを思い起こす時に私たちは平和など実現することはないのだと絶望してしまう時があるかもしれません。しかし、それでもなお私たちが聖書から受け取るのは、神が真の平和を実現されるという希望のメッセージです。

 

 私たちがその神からのメッセージに耳を傾け続け、そして一人ひとりが神によって新しくされていくことで世界は真の平和への道へと進んでいくことでしょう。神は私たちの隔ての壁を取り壊し、異なるもの同士を和解させてくださる方なのですから。