6月25日主日礼拝メッセージ  「広がりゆく福音」

 

本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は使徒言行録8:26-40です。この使徒言行録には様々なエピソードが記されておりそれぞれに特徴があり印象深いものが多いです。今日の箇所もまた「エチオピアの宦官」という聖書では極めて珍しい人物が登場します。この他の箇所には見られない珍しい人物の登場は、しかし、ルカが使徒言行録を通して語りたかったこと語るためにある意味必要不可欠な存在だったかもしれないと思うのです。

 

 そのことは何であるのかを考えつつ、今日はこの箇所から神がルカを通して私たちに語りかける御言葉を聞いていきたいと思います。この箇所には二人の人物が登場します。一人は先ほど言及した「エチオピアの宦官」、そしてもう一人が「フィリポ」という人物です。このフィリポはイエスの12弟子とは別人のフィリポであろうとされており、原始教会時代の福音宣教者として登場しています。

 

 フィリポは今日の箇所の直前の記事によれば、サマリアで宣教しており多くの人々に福音を語ったことが記されています。そんなフィリポに次の宣教の場所が示されるところから今日の箇所は始まっています。26節「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である。」

 

 ガザというのはイスラエルの南西にあり、エジプトに非常に近い場所にあります。普通に考えれば宣教するならばもっと他に優先すべき場所がありそうなところだったかもしれません。事実ガザへと下る道は「寂しい道だった」と記されています。フィリポはこの天使の言葉にすぐに応答し出発していますが、その心中では様々な疑問が浮かんでいたかもしれません。

 

 「どのような意図で神が自分をこの道へと導かれたのか?」そのような疑問は私たちも時に感じたりすることがあると思います。私たちの視点から考えれば不可解に思える道に神は時折導かれることがあります。その意味はその時点の私たちには計り知れませんが、しかし後から振り返った時にその意味が知らされることもまたあるでしょう。この時のフィリポも同じような思いだったのではないでしょうか。

 

 フィリポがそのように考えていたとき、彼にとっては見慣れぬ人が、逆に自分の慣れ親しんだ行動をとっているのを目にします。フィリポは一目見て彼をエチオピア人とはわからなかったかもしれませんが、ともかく自分と同じユダヤ人ではないとわかったことは確かでしょう。そんな人が自分が何度も耳にしてきた聖書を朗読していることにフィリポはさぞ驚いたことでしょう。

 

 ところでこのエチオピア人について聖書は次のように語っています。「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。」これによれば彼はエチオピアの女王の高官であり国の中で非常に高い地位の人物であったことが想像できます。

 

 加えて女王の全財産の管理を任されるほど信頼されていたことも読み取れるでしょう。そのような人物がエルサレムまで礼拝に来て、また聖書も熱心に読んでいたということに違和感はありますが、しかし、このことこそがこの箇所でルカが語りたいことの本質に繋がってくるのだと思います。つまり、神の福音はイスラエルという個別の枠を越え出て全ての人々へと広がり始めているということです。

 

 しかも異国の高官という権力をもった人物にまで神の救いの射程は広がっていることをルカはこの記事を通して宣言しているだと思います。しかし、さらに重要なのはこの後の展開が語っていることでしょう。フィリポは霊に促されて聖書を朗読している宦官に声をかけています。しかも走って彼のもとまで近づいていることから、そこには特に躊躇も恐れもないように思えます。

 

 そして宦官にこう声をかけます。「読んでいることがお分かりになりますか」フィリポがこのように声をかけたのは宦官が朗読している聖書箇所がその字面からは理解できないものだったからでしょう。ルカは彼が朗読していた聖書箇所を引用して伝えています。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、/口を開かない。 卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」 

 

 私たちもすでにこの羊をイエス・キリストを示していることを新約聖書を通して知らされていますが、異邦人の宦官からしてみればとても理解できたものではなかったでしょう。だからこそフィリポはイザヤのこの箇所を朗読する宦官に先ほどのように声をかけたのでしょう。そして宦官はフィリポに聖書の手引きを頼んでいます。このこともこれまでの常識を覆すような大変な場面でしょう。

 

 異邦人の権力者が自ら進んでそれまでイスラエル民族という一民族だけのものであった聖書の手引きを頼んでいるからです。このことは今や聖書は、国も、人種も、立場も、その他あらゆることを超えて広がっていくことを表しています。そして同時に語り伝えることの大切さも示しています。そのことはパウロもまた語っています。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」

 

 フィリポはこのとき理解したのではないでしょうか。自分がここに導かれたわけを、人間の尺度で考えれば次の宣教の場所は他にもっとふさわしい場所があったかもしれません。わざわざこのような寂しいところに来てまで語るべきことなどないと思っていたかもしれません。しかし、ここにこそ語るべきことが、そして人がいたことをフィリポはこの宦官と出会い、言葉を交わした時に理解したのだと思うのです。

 

 このことは私たちも教会もまた同じなのではないでしょうか。私たち教会の働きは私たちが意図する場所や時に用いられるわけではないかもしれません。しかし、それは神の不思議な導きによりある時、ある場所で必ず用いられるはずです。全ては神が最善の時に私たちの働きを活かしてくださること、私たちはそのような希望を聖書から受け取っているのです。

 

さて、フィリポは宦官の求めに応えて聖書を説き明かし、イザヤ書からイエス・キリストの福音を語り伝えました。宦官はそのことをきっかけとしてイエスと出会い、彼の中で信仰が芽生えていったのでしょう。宦官はフィリポにバプテスマを受けることを願い出ています。バプテスマは信仰のゴールではなく、信仰のスタートです。宦官はバプテスマを受けた後、「喜びにあふれて旅を続けた。」と語られています。

 

 

 福音を語り伝えることはこのような喜びを伝え、広げていく働きです。私たちはそのような働きにまた喜びをもって応答していきたいと願います。神はたとえ私たちの働きが小さくてもそのことをも必ず用いてくださり益としてくださる方ですから。

6月18日召天者記念礼拝  「神との関係の中で」

 

今日2023年度の召天者記念礼拝をこのように召天者の方々のご家族とご一緒に捧げられることを感謝します。この数年間はコロナ禍にありましたが、今年度はようやくそれも回復され始めてきました。今年もすべてのことが整えられて召天者の方々を記念して礼拝を持つことができました。また今日この場に集うことができなかった方々の上にも主の豊かな慰めと恵みがありますようにと祈ります。

 

 先ほどこれまで大村古賀島教会が見送らせていただいた召天者の方々をご紹介させていただきました。それぞれの紹介を聞きながら毎年私が思い浮かべるのは、それぞれの召天者の方々にその方だけの人生があり、その中で多くの関係を築かれた方々がいるのだろうということです。そしてその関係を築かれた方々の内の一人が今日ここに集まっておられる皆様お一人おひとりなのだということです。人間とは不思議な存在です。たとえ一人の人の生命が終わりを迎えたとしても、その人が築きあげた関係はそれからも繋がっていく。それは、皆様と召天者の方々との関係が今もなお深いものであるからに他ならないからだと思います。

 

 確かに私たち人間はいずれ誰もが死にゆきますが、しかし、その死は絶対的な終わりでも、絶望の出来事でもないことを聖書は語ります。先ほど読んでいただいたルカによる福音書にはまさにそのことが示されているのだと思います。今日は召天者の方々のことを思い起こしつつ、聖書から今の私たちに語りかけられているであろう御言葉をご一緒に聴いていきたいと願っています。

 

 この箇所は二つのイエスの癒しが語られています。一人目はヤイロという人の娘の癒しです。このヤイロという人は会堂長という地位にあった人物でした。当時の人々は私たちが今日のように日曜日に教会に集まって礼拝するのと同じように、地域の会堂に集まって礼拝を捧げていました。会堂長というのはそこの管理者的な立場でもあったでしょうから、礼拝を司る役割の祭司などとも多くの繋がりがあったことでしょう。また当時の病気は祭司が診るのが一般的で、現代の医者のような役割も担っていました。

 

 しかし、ヤイロは見知った祭司に娘を診てくれるよう頼むのではなくて初めてあったであろうイエスにそれを頼んでいるのです。彼がイエスのこれまでの癒しの噂を聞いていたことは間違い無いでしょうが、それにしてもなかなか勇気のいる決断だったと思います。あるいは娘の病状が芳しくなく、祭司にも匙を投げられ頼れるのがもうイエスしかいなかった可能性もありますが、いずれにしてもヤイロがイエスに自分の全てとも言える娘の命を託したことは彼の立場から考えて驚くべきことだと思います。

 

 イエスはそんな彼の願いを聞き娘のいる場所へと向かうことになります。そんな中、イエスは癒しを求めるもう一人の人物と出会うことになります。彼女は出血が止まらないという病を12年間も患っており、それに加えてその病の治療のために全財産を使い果たしてしまうという散々な目にあっていた人でした。聖書の時代、病というのは現代以上に辛く、苦しものでした。

 

 当時の病は身体的な痛みはもちろん、精神的にも大きな痛みを負うものだったからです。もちろん現代でもそのようなことは残念ながら少なからずあると思いますが、当時は病を負っているだけであからさまに差別の対象にされるほどでした。そのことは人々の規範であった「律法」に記されており、それにより彼女は12年間、身体的な痛みだけでなく、精神的な痛みを受け続けていたのです。

 

 特に彼女の負っていた病は社会的にも疎外されるようなものとされていましたから、彼女はこの12年間まともに他者との関係を持つことなく過ごしてきたのだと思います。医者からも見捨てられ、ヤイロと同じように彼女が頼ることができるのははもうイエス以外にいなかったのでしょう。そんな彼女は最後の望みをイエスにかけていたのでしょう。群衆がひしめく中、なんとかイエスに触れようと彼に近づいていきます。

 

 群衆をかき分け、やっとのことで彼女はイエスの服の房に触れることができました。その瞬間、彼女の病は癒やされ、12年間負い続けてきた病が癒やされたことを聖書は伝えています。12年もの間おそらくはまともに人との接触もできなかった彼女でしたが、イエスに触れたことでその病は癒やされたのでした。彼女は病が癒やされたことで喜びに溢れたでしょうが、本当の癒しはむしろここからの出来事だったのではないかと思います。

 

 イエスは自分に触れた女に次のように声をかけられています。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」イエスはこの女性に「救い」を宣言しています。そして「安心していくように」と最後に言葉をかけておられます。彼女はこれからどこにいくのでしょうか。それはこれまで疎外されてきた共同体の中に、人と人との関係の中に戻っていくようにイエスによって押し出されているのです。

 

 つまり、彼女にとっての本当の救いは身体的な病が癒やされたこと以上に阻害されてきた関係の回復にあったことを聖書は語っているのです。イエスが彼女をわざわざお探しになり、声をかけられたのは神の「救い」は双方向の関わりによって初めて「救い」となるからだと思います。彼女の神と、そして人同士の関係が回復されたことでイエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と声をかけられたのだと思います。

 

 さて、そのような出来事の後、話はヤイロの娘に戻ります。一行はヤイロの家に着く前に娘は亡くなってしまったことを告げられます。ヤイロはこれを聞いてがっくりと項垂れたでしょうが、イエスはそんなヤイロに声をかけられています。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」 このイエスの言葉は先の女性にかけられた言葉とどことなく似ています。

 

 どちらの言葉も「信仰」や「信じる」ということが言われていますが、この「信仰」や「信じる」という行為は「神への信頼」という言葉に言い換えることができます。つまり、イエスが癒やされた女性やヤイロに語った言葉の真意は自分を救ってくださる神への信頼への招きということでしょう。そこにこそ聖書が語る「救い」の本質があるのだと思います。

 

 イエスはヤイロの娘の手を取り「娘よ、起きなさい」と呼びかけられています。ここでもイエスは病を癒やされた女性の時と同様に声をかけられています。このことはイエスがヤイロの娘と向き合われ、関係を結ばれたということを意味しているのでしょう。そのイエスの言葉によってヤイロの娘は命を得たことを聖書は私たちに証言しています。

 

 そしてこのことは今もなお私たちの間で起こっていることなのだと思います。今日私たちは召天者の方々を思い起こしながら、この礼拝を捧げています。そのことはまた私たちと召天者の方々との関係が今もなお続いていることでもあります。そしてその関係の中心に神がおられてその私たちの関係を繋ぎ続けてくださっています。私たちがそのように受け止めていく時、私たちの経験する死とは絶対的な終わりでも、絶望の出来事でもないことを知らされていくのではないでしょうか。

 

 

 私たちが召された方々を思い起こし続けている限り、神はそこに豊かに伴ってくださり、その関係をいつまでも繋ぎ続けてくださるお方ですから、祈ります。

6月11日主日礼拝メッセージ  「約束が与えるもの」

 

先週に引き続き今週もローマの信徒への手紙を読んでいきたいと思います。パウロの書いた手紙はその独特の言い回しや表現から、その箇所に込められた意味を受け取ることが難しいものであることは皆さんも感じられていることだと思います。特にローマの信徒への手紙は先週も述べましたが、パウロ自身の信仰を体系的にまとめた論文的要素が大きく、彼の書いた手紙の中でも解釈が難しい箇所も多々ある書物です。

 

 しかし、彼がこの手紙を通して語ろうとしていること自体はそこまで難しくもなく、むしろシンプルであるとも言えると思います。今日もまたパウロが語る言葉の意味を丁寧に確認しながら、そこに込められた御言葉をご一緒に受け取っていきたいと願います。ですが今日の箇所は始まりからなかなか受け入れ難い内容で始まっています。18節「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」

 

 このパウロの言葉を簡単に受け入れられる人はなかなかいないのではないでしょうか。「苦しみ」は誰もができるならば避けたいと思っているでしょうし、そのように考えるのが当然だと思います。ですがパウロがここで語りたいのは、「苦しみなど取るに足らないのだから、喜んで受けろ」というようなことではなく、「将来表される栄光の素晴らしさ」の方にあります。

 

 つまり、パウロはここで「将来の栄光の素晴らしさを強調して語るために、あえて「現在の苦しみ」を取るに足らないものと断じているわけです。そのように強調してまで語りたい将来の栄光というものを語る前に、パウロは私たちが生きる現在の状況についてまず語り始めます。19-20「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」

 

 ここで語られている「被造物」というのは人間以外の被造物を指しています。人間ももちろん被造物ではあるのですが、そう捉えてしまうとここでは文脈的に齟齬が出てきます。では人間はどのように語られているのかと言えば「神の子とされるもの」として、また「人間以外の被造物が待ち焦がれるもの」として語られているのがわかります。

 

 「神の子とされる」ということの意味は23節にありますが、「私たち人間の贖い」、すなわち「神による救い」を指しています。ではなぜ私たち人間の救いを人間以外の被造物が待ち焦がれているのかと言えば、私たち人間の罪の影響が被造物全体に及んでいるからだとパウロは語っているのです。創世記3:17に次のように語られています。「神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。』」

 

 アダムとイブは神との約束を違えたことで神との関係を歪め、罪を具体化させてしまいました。その罪の影響を大地、すわわち人間以外の被造物は被ることになってしまったことがこの箇所から受け取れるでしょう。なぜ大地は人間の罪の影響を受けることになったのか、それは神が人間に被造物の管理を任されたということと関係しているでしょう。

 

 神は人間を創造される前にこのように言われました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 この箇所の「支配」は原語の意味から考えれば「治める」という表現の方が適切だと思われます。つまり、神は人を被造物を適切に治めるものとして創造されたということです。

 

 本来、被造物を収めるはずの人間が堕落したことで、人間の管理を受ける被造物もまた堕落してしまいました。このことは私たちが現在見ている光景にも明らかでしょう。大気や水の汚染、私たちが生きる世界の自然資源の大量浪費などを振り返れば、とても私たち人間の影響が被造物に及んでいないとは言えないでしょう。そのことを深く受け止めていたからこそパウロはこう語るのです。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」と。

 

 しかし、パウロはこのように被造物が人間の罪による多大な影響を受けていることを語るのと同時に、希望をも持っていることを語ります。その希望は「神による人間の救済」であり、そのことで被造物全体が救われることを語っています。私たちの救いは神との関係の回復です。そのことで私たちは本来神が意図された被造物との関係をも取り戻し、すべての関係が平和にされた時へと導かれていきます。それが冒頭でパウロが語る「将来わたしたちに現されるはずの栄光」なのです。

 

 パウロはこの栄光を終末の時に見ています。このような希望を今見えないものとしながらも、現在見えないものであるからこそ忍耐して待ち望むように勧めています。パウロはそのように希望を待ち望む私たちに助け手が与えられていることを次に語ります。26-27「同様に、も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、の思いが何であるかを知っておられます。は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 

 

 パウロは霊、すなわち聖霊が私たちにすでに与えられていること、そしてその聖霊こそが私たちと神との関係をつなぐ存在であることを告げるのです。私たちが神との関係を持とうとする時、聖霊がそのことを助けてくれるのです。祈る時はもちろん、聖書を読むときも聖霊の助けによって私たちはそのとき語られる御言葉を受け取っていくことができます。

 

 私たちが聖霊の助けなしに聖書に向き合うとき、私たちはそこから希望を受け取れないかもしれません。パウロの語った通り、この世界は人間の罪の影響が大きすぎてあらゆる歪みが希望を見えなくさせているからです。しかし、聖霊はそのような歪みの先にある希望を輝かせて、私たちに見えるものとして示してくれます。また見せるだけでなく、希望の先取りとして私たちに体験させることもあるのです。

 

 そんな希望の先取りはイエス・キリストの復活において初めて示されました。私たちはそんなイエス・キリストの希望を聖書を通して現在受け取っているはずです。そのことを思い返すとき、私たちは神の約束される将来の栄光が確かに与えられるものであることを確信することができるでしょう。なぜならイエスというご自分の一人子をお送りくださった方が約束されることはまた、確かに果たされるものであると信頼することができるからです。

 

 そしてパウロは最後にそのような確かな希望が全ての人間に与えられていることを語ります。29-30「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」

 

 この箇所は一見すると神が予定されていたものだけを救い出すかのように読めるかもしれません。しかし、パウロはそのような意味でこのように語ったのではないでしょう。パウロが予定されたものが救われるかのように語ったのは、全ては神の御手の中で導かれていくという信頼の表現なのだと思います。

 

 神はパウロを通して私たちに希望の約束を与えられています。今を生きる私たちにはその約束された未来は目に見えないものかもしれませんが、その約束は私たちが生きる現在に意味と目的を与えます。私たちは被造物とどのように関わっていくべきなのか。そして私たち人間同士はどのように共に生きていくべきなのかを…。私たちは神が示す希望によってそのようなことをも問いかけられているのです。

 

 私たちが現在に絶望することなく、約束された希望から現在を見つめ直していくときに、現在の私たちの生き方が示されていくでしょう。私たちに与えられた聖霊はいつも私たちのそばに立って必要な助けを備えてくださいますから。

6月4日主日礼拝メッセージ  「律法、その意味…」

 

今教会学校では2ヶ月にわたってローマの信徒への手紙を読み進めています。このローマの信徒への手紙というのは題名通りパウロがローマにいるキリスト者たちに送った手紙なわけですが、この手紙を書いた時点で彼はローマには行ったことは一度もありませんでした。ですのでこの手紙は彼がまだ見ぬローマにいる同胞に向けて書いたものということになります。

 

 ゆえにその内容というのはパウロの自己紹介的な要素が大きく、とりわけ自分の信仰、および神学をまとめた一種の論文のような構成になっているとも言えます。ですのでその内容はとっつきにくく、難解なようにも思えてくるのではないでしょうか。皆さんも最初にこのローマの信徒への手紙を読まれた時そのように思われたかもしれません。しかし、よくよく読んでみるとパウロが語りたいことというのは手紙全体を通して、また手紙のそれぞれの箇所において非常にシンプルであることが見えてくると思います。

 

 今日はこの一見難解に思えるローマの信徒への手紙からパウロを通して神が語られる御言葉をご一緒に聞いていきたいと思います。まず7節にはこうあります。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」

 

 パウロは「信仰による義」ということを非常に大切にした人物であることはご承知のことだと思います。そのことは彼の信仰の核となるものとしてこのローマの信徒への手紙の冒頭部分において紹介されています。この「信仰による義」というのを簡単に言い表すならば「人はその行為によってではなく、ただ神の誠実さによって正しいものとされる」と表現できるでしょう。

 

 それをさらに噛み砕いて言い直すと「人はただ神によってのみ救われる」ということになるでしょう。こうして彼の主張を噛み砕いてみると、このパウロの主張は聖書全体を貫くメッセージにも一致しますし、同時に非常にシンプルであることがわかるのではないでしょうか。人は神によってのみ救われるというメッセージは今の私たちもまた聖書から受け取っている信仰の軸とも言えることでしょう。

 

 しかしながら、パウロが生きた時代には今の私たちほどにはこのメッセージはすんなりと広まってはいかなかったのです。なぜすんなりとはいかなかったのか、そこで問題になって来たのが今日の箇所でも言及されている「律法」との関係についてです。ユダヤ教、さらにいえばイスラエル民族はこの「律法」と共に生きてきた人々でした。それゆえに彼らは「律法」を重んじ、それを遵守してきました。

 

 そのような彼らにとって「律法」とはまさに神との関係そのものであったのだと思います。律法を守り続けることが神との関係そのものであり、同時にそれは神の救いに繋がっていることと彼らは考えていたとしても不自然なことではないでしょう。ですが、パウロはそのような彼らに対して「律法」の本質をここで示そうとしています。それは彼自身がかつて律法を何よりも重視しており、その遵守こそが救いにつながっていると信じていたことと無関係ではないでしょう。

 

 パウロはフィリピの信徒への手紙において自らの過去を次のように語っています。3:5-6「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」

 

またガラテヤの信徒への手紙ではこう語っています。1:13-14「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」

 

 この二つの手紙においてパウロは自らの過去を告白していますが、どちらにも共通している内容が「律法の遵守について自分は誰よりも優れていた」という自負でしょう。パウロは彼自身が告白している通り、イエスに出会うまでは、律法を最重要視するユダヤ教の一員でした。その中でもとりわけパウロは非の打ち所がないと自負するほどに律法に忠実であったことがわかると思います。

 

 しかし、そのように考えるとパウロのその後の生き方と矛盾が生じてはこないでしょうか?もしパウロが律法の遵守によって救われると考えていたのならば、その律法の遵守において非の打ち所がないと自負するパウロはすでに救いを実感していたのではないでしょうか。そしてもしそうだとすれば彼の回心など起きなかったのではないでしょうか。

 

 また今日の聖書箇所にはパウロが自らの二律背反性に苦悩している描写が見てとれます。15節にはこうあります。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」このことから「パウロは自らの律法の実行不可能性について悩んでおり、この箇所はその心情の吐露なのではないか」という解釈がありますけれども、それは先のパウロの律法の遵守に対する自負から退けられるでしょう。

 

 ではどういうことなのか。今までのことを整理すると次のように考えられるのではないでしょうか。つまり「パウロは律法を実行不可能なものとは考えていなかったし、実際自らが律法を実行していた。しかし、彼は律法の実行、言い換えれば人の行為によっては、人は救いに至ることはできないことに気付かされた。ゆえにパウロは神の救い、神との関係の回復は律法の実行からくるのではなく、キリストの信仰によってのみ与えられるということを確信した。」

 

 そのように考えたときにパウロがこの箇所を通して語りたかったことが見えてくるでしょう。パウロは律法の本質は人の罪を明るみに出すものであり、それ以上でも以下でもないことを語ります。たとえ人が律法を遵守し続けてもそのことによって人は救いに至るわけではない。神との関係の回復という「救い」はただイエスによって与えられること、そのことをこそパウロは語りたかったのです。

 

 神が与えてくださる救いは最初から最後まで神の一方的な恵みの出来事です。そのことだけを神はパウロを用いて語られました。これは本当にシンプルな聖書全体を貫く軸ですが、私たち人間はそんなシンプルなことでさえ見失ってしまうものでしょう。パウロが「律法」を「善いもの」と語っているように、律法とは本来私たち人間を神への信頼へと向かわせる「善いもの」でした。

 

 しかし、人間によって誤解され、神との関係を修復する道具と見做された結果、極端な律法主義などの誤った解釈が広まっていきました。現代を生きる私たちにとって「律法」に該当するものがあるとすれば、それは聖書でしょう。聖書はその解釈を私たち読み手に大きく委ねている書物です。私たちが聖書を誤った解釈としての律法のように道具として扱うか、それとも神への信頼へと向かわせる「善いもの」として受け取っていくのかは私たち自身に問われていることなのです。

 

 だからこそ私たちは神との関係において読んでいかなければならないでしょう。私たちはいつも聖書から御言葉を受け取るために、神に尋ね求めつつ、互いに聴き合いつつ読んでいきたいと願います。神は御言葉を尋ね求める私たちのただ中にいつも伴ってくださいますから。