9月26日主日礼拝メッセージ  「スーパーホワイト企業『神の国』」

 

神の採用面接(1-7)

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はマタイによる福音書20:1-16です。イエスが語られた多くの天の国、神の国の喩えの一つです。この喩えの前半の大まかな内容としては仕事を探している多くの労働者がいる中に、ある葡萄園の主人が自分の葡萄園で働いてくれる労働者を何度も雇いにいくといったものです。現代風に言い換えるならば、就職活動をする就活生と、それを採用する企業といった構図でしょうか。

 

 今日はこの例えを現代風に解釈して皆さんと一緒に読んでいきたいと思います。ある日、株式会社「神の国葡萄園」の社長は、かねてから求めていた新入社員を採用するため朝早くから出かけていきました。すると、何人かの就活生がいたので、その人たちを日給1デナリオンの契約で雇用することにしました。ちなみに、1デナリオンというのは当時の1日分の報酬としては至極妥当な金額です。さて、これで新入社員も迎え入れることができて、労働力も確保することができた、めでたしめでたし、となりそうなところですが、なんとこの社長はまたもや新入社員採用に出かけます。

 

 社長が九時ごろ採用会場に行ってみると、まだまだ就職先が見つからず、うなだれた就活生が多くいました。社長は彼らに話しかけます。「あなたたちも私の会社に来なさい。ふさわしい賃金を払ってやろう。」力なくうなだれていた、彼らの目は社長の一言で輝きを取り戻します。彼らの顔は就職が決まったという安堵の笑みで溢れていたことでしょう。

 

 この後も社長は秘書が止めるのも振り切って、12時、3時と出かけていき、引き続き新入社員を雇用し続けました。そして、とうとう5回目の採用に、もう就業時間もまもなくの5時にも出かけていきました。流石にもう残っている就活生もまばらだったでしょうか、しかし、朝からこの夕方に至るまで一向に就職の決まらない就活生が何人かいました。呆然と立ち尽くしている彼らの姿はある意味1日働いた人以上に疲れ切っているような印象だったかもしれません。

 

 聞けば、彼らは1日中就職先を探したが、誰も雇ってくれないのだと言います。社長はそんな彼らを放っておくことができませんでした。「今からでも遅くないから、私の会社に来なさい」と彼らを雇い入れました。秘書からは「もう労働力は十分ですから、採用しないでください」と言われていたかもしれません。しかし、この葡萄園の社長はどうしても目の前で当てどなく彷徨っている就活生を見捨てることはできないような人でした。

 

 普通に考えれば、この社長がしていることはめちゃくちゃです。採用するならば、必要な人員だけを一度に採用した方が効率的ですし、日給1デナリオンの契約である以上、一日中、きっちりと働ける人を朝雇った方がいいに決まっています。しかし、この社長は何度も出かけて行っては、仕事の見つからない就活生を面接なしで自社へと採用するといった普通では考えられないことをしています。

 

 

スーパーホワイト企業「神の国」(8-16)

 さて、社長が最後の採用をしてから、まもなくして就業時間がやってきました。朝から働いていた人たちも、後から採用された人たちもそれぞれ自分の持てる精一杯の力で働きました。彼らは就職先を探していたときのようなあの不安な表情はしていませんでした。心地よい疲れを感じながらも、しかし、その表情は達成感と喜びに満たされたいたことでしょう。

 

 そんな彼らの元に社長が部下を伴ってやってきます。すると社長は奇妙なことを部下に指示しはじめました。「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に給料を払ってやりなさい」、「なぜ、最後に来た人からなんだろうか?普通なら最初からいた俺たちが先じゃないのか?」そのように、最初からいた人たちは思ったことでしょう。世間一般的に考えてもそちらの方が自然に思えることでしょう。

 

 「まぁ、しかし、最終的にはもらえるのだし、もしかしたら朝から働いていた俺たちには特別ボーナスがあるのかもしれない。だから、最後にしたのだろう」と彼らが話し合っていると、最後に採用されてきた人たちが給料をもらって帰ってきました。最初から雇われていた人たちが訪ねます。「おい、お前たちはいくらもらったんだ?」すると、最後に雇われた人たちが驚きと喜びの入り混じった表情で答えます。「それが、1デナリオンももらえました。私は最後に採用されてたので、こんなにもらえるとは思っていませんでした。いやぁ…あの社長はものすごく気前のいい方ですよ!」

 

 最初から雇われていた人たちは思います。「1時間しか働いてもいないあいつらに1デナリオンもやるとは…これは思った通り、最初から働いていた俺たちには特別ボーナスがあるに違いない。」彼らは期待していたボーナスがほぼ確実になったことに喜びながら、自分たちの番が来るのを待ちました。そして、とうとう彼らが給料をもらう時がやってきました。

 

 彼らは渡された給料を確認してみると、そこには彼らが思ってもいなかった金額しかはいっていませんでした。1デナリオン…それは最後に雇われてきた人がもらった金額と全く同じ金額だったのです。彼らはがっくりと肩を落とし、うなだれてしまいました。しかし、同時に彼らは自分たちの中に沸々と湧き上がってくる怒りを感じていました。

 

 彼らの中の1人が言います。「こんなのはおかしい。理不尽だ。1時間しか働かなかった奴らと、朝から夕方まできっちり働いた俺たちの給料がまったく同じとは!」「そうだ!そうだ!」最初から雇われていた彼らはみな、賛同の声をあげ、社長に直談判することにしました。彼らは自分たちの正当な権利を主張するため社長室へと殴り込みます。

 

 社長室のドアが勢いよく開かれ、怒り浸透の彼らが雪崩混んできます。「社長!先程いただいた給料に関して不満があります!社長は最後に雇った人たちにも、1デナリオン渡したそうですね?彼らはほんの1時間しか働いていないと言うのに…一方で暑い中朝から夕方まできっちり働いた私たちにも同じ1デナリオンとはどういうことですか!?これは、どう考えてもおかしい!断固、抗議します!」

 

 この彼らの言い分を聞いて、私たちはどう感じるでしょうか?確かに、私たちの一般的な感覚から言えば、彼らの言い分は正当なようにも感じますし、あきらかな労働時間の違いがあるにもかかわらず、報酬が同じということに不公平さを感じるかもしれません。ですが、一方で彼らは重要なことを見落としているようにも感じます。

 

 社長室に鳴り響く怒号がある程度静まるのをまち、親しみを込めた口調で話し始めました。「私の友人であるみなさん、私はあなたたちに不当なことは決してしていません。朝、私があなたたちとした約束を思い出してください。私はあなたたちと1日1デナリオンの約束をしたはずです。そして、約束通り、私は確かに1デナリオンをあなたたちにお支払いしました。」

 

 この社長は確かに約束を守りました。この点で約束したはずの給料支払わないようなブラック企業ではないわけです。抗議に来た人たちは社長のこの一言で自分がした約束を思い出し、それ以上、何も言えなくなってしまいました。確かに約束されたものを受け取ったのですから、しかし彼らの中の何人かはまだ納得できないような様子でした。

 

 そんな様子に気づいた社長が再び語り始めます。「私が5時ごろ就活会場に行った時、未だに就職先の見つからない何人かの就活生がいました。彼らは確かに、あなたたちのように暑い中を朝から夕方まで働かなかったかもしれない。だけど、彼らは暑い中、朝から夕方までずっと「内定」という「約束」を探し続けていたんだ。その心細さと不安な思いはどれほどだっただろうか…。私はそんな彼らにもあなたたちと同じ「約束」をしてあげたかったんだ。」

 

 早々に就職が決まった人は「内定」という「約束」がもらえます。しかし、決まってない就活生はその「約束」をもらえずに就活し続けることになります。どこにも雇ってもらえないかもしれないという不安を抱えたまま過ごすことになります。それは言い換えれば、神からの救いの約束を受け取れないまま彷徨うことに似ているのではないでしょうか。

 

この株式会社「神の国葡萄園」の社長は「約束」がもらえないということを何よりも憐れなことと考えています。だからこそ、この喩えは私たち人間の常識を超えた神の憐れみ深さを私たちに語りかけているのです。神は群れから迷い出た1匹の羊をためらいなく探しにいくような方であり、それと同じように「約束」をもらえず彷徨う一人ひとりを憐れみ、ご自分の元へと招かれ、最後の1人に至るまで確かな約束を与えてくれる方です。

 

9月19日主日礼拝メッセージ  「神の期待」

 

神の願いを軸として(33-34)

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は詩篇119:33-40です。この詩篇119篇は詩篇中最も長い詩で有名ですが、そのおおまかな内容は「律法」と私たち人間との関係について語られているというものです。「律法」というとどうしても現代の私たちには馴染みがなく、それゆえにイメージしづらいかもしれません。しかし、そのことは私たちが「律法」というものの本質を受け止め直していくときに変わってくるかもしれません。

 

 聖書中、幾度も登場する「律法」が私たちに示すこととはなんなのでしょうか?今日はそれを念頭におきながら、御言葉を受け取っていきたいと思います。まず、33節にはこうあります。「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください。」「掟に従う道」ということから私たちがイメージするのはどんなことでしょうか?

 

 やはり、私たちとって「掟」というと、何か自由を制限されて、厳格にそれを遵守するというイメージが浮かんでくるのではないでしょうか?「掟」という言葉が持つイメージがあまりにも強力すぎて、おそらくはそのようなイメージを持っている方が多いのではないでしょうか?しかし、神に従うという道は本当に不自由なものなのでしょうか?少なくともこの詩篇の作者はそうは考えていないようです。

 

 「最後までそれを守らせてください。」という言葉からも、むしろ、「掟」というものを積極的に受け入れようとさえしています。一見、わざわざ自分の自由を制限する「掟」を求めていくなんて不思議に思えるかもしれません。しかし、ここで一つ疑問が沸いてもきます。それは「自由とはどのような状態のことなのか?」という疑問です。

 

 人生を歩んでいく中で仮に何かに縛られている状態を不自由なのだと考えれば、何にも縛られていない状態が「自由」だと言えます。しかし、それは言い換えれば、何も判断材料がない状態で自ら判断しなければならないということでもあります。つまり、私たちが判断する際の基準や軸といったものが存在しない状態とも言えるわけです。この詩篇の作者はそのような状態こそ不自由であり、掟に従う道にこそ自由があると考えているように思います。

 

 なぜなら、聖書の語る「掟」や「律法」というものは、私たち人間の自由を制限するものでも、縛り付けるものでもないからです。聖書は「掟」や「律法」というものを、神の私たち人間に対する「願い」であり「期待」であると捉えています。つまり、神が私たち人間にこうあってほしい、このように歩んでほしいという願いが形となったものが「律法」だと言えます。

 

 私たち人間はその願いに応答することで神との善き関係の中を歩んでいくことができます。また、そこにこそ、真の「自由」というものがあることを、聖書の根底を流れるメッセージは語っているように思います。ヨハネによる福音書8章にはこのような箇所があります。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 

 

 これはイエスが弟子たちに語られた言葉ですが、真理こそが私たちに自由をもたらし、そしてその真理は御言葉にこそ示されているということがここで語られています。だからこそ、私たちは、神の私たちに対する「願い」や「期待」というものを聖書に聞き続けていく必要があるのだと思います。

 

 

真に目を注ぎ続けるべきもの(35-37)

 さて、ここまでで「戒めに従う道」とは「神の期待に応答する道」だということが見えてきたと思います。しかし、従う道があるということは、当然従わないという道もあることになります。つまり、私たちには「神の期待に応答する道」と「応答しない道」が目の前にあるということになります。もちろん、そのどちらを選びとっていくかは私たちの意思に委ねられていますが、この詩篇の作者は応答する道を切に願い求めています。

 

 それはこの作者自身が「神に応答する道」と「応答しない道」の両方を歩んだからこそではないかと思います。作者は両方を歩んだ上で「神に応答する道」に備えられているという「命」を求めているように思います。「あなたの道に従って/命を得ることができますように。 」ここで求められている「命」とは私たちに自由をもたらす「神との親しい関係」であり、私たちの人生に注がれた恵みや祝福を与えるものであるといえるでしょう。

 

 神との親しい関係の中にこそ、私たち人間を真に生かす「命」があることをこの詩篇の作者は感じていました。私たちはついそのままで「命」があり、「自由」であると考えてしまうかもしれません。しかし、私たちは何かしらの「基準」や「軸」、あるいは「正しさ」がなければ生きていけません。この詩篇の作者が「神に応答する道」と「応答しない道」の両方を歩んだ上で行き着いたのは、「神との関係」をこそ自らの軸として生きていくということだったのです。

 

 そして、そこにこそ自分を生かす「命」というものを見出したのでしょう。それは、他のこの世であらゆる「軸」とされるものには代え難いものを見出したということでもあると思います。私たちは神との個人的な出会いを通して、そして関係を経て、そのことを受け取っていきます。それは言葉で言い表すことは難しいですが、不思議な安らぎや暖かさがあるように思います。そしてそのような「命」の道は私たち一人ひとりに開かれているものです。神は私たち一人ひとりと関係を持たれることを何より願っておられるからです。

 

 一方で「神の期待に応える道」から離れさせるような様々な「試み」もあるということをも聖書は語っています。「不当な利益にではなく/あなたの定めに心を傾けるようにしてください。むなしいものを見ようとすることから/わたしのまなざしを移してください。」この詩篇の作者は「自己の利益のみの追求」や「関係を破壊する」ものから離れさせくださるようにと、神に祈っています。

 

 作者がこのように祈っているということは、自分では弁えていたとしても、どうしてもその方向に心が傾いてしまうことがあったのだと思われます。しかし、そのことは私たちにも当てはまることであり、人間共通の性質であるとも言えます。そして、私たちは神の示す道を歩んでいたとしても、そのような方向に心が傾くことは往々にしてあるでしょう。聖書に登場する人物たちもそのような「神の示す道」と「そこから逸れる道」を交互に行き来しながら歩んでいます。

 

 だからこそ、私たちはこの詩篇のような祈りを継続的に祈っていく必要があるのでしょう。そしてそれは、私たちに与えられている「掟」すなわち、御言葉に聞いていくことで、また立ち返っていく歩みに導かれるのだと思います。私たち人間は、「罪」を犯し続ける存在ですが、しかし、そのから立ち返る道が神によって備えられてもいます。

 

 だからこそ、私たちは「罪」を犯し、神によって「罪」を示され、神によって立ち返らされる、というサイクルの中を生きていると言えます。それは、両側が崖になっている道を歩んでいくものと似ているかもしれません。私たちが道から外れて崖に落ちそうになると、「掟」というガードレールによってそのことに気付かされ、また元の道へと戻ることができます。

 

 律法の本質とはそのような「神の期待に応える道」から逸れることのないように神によって設けられたガードレールだと言えます。だからこそ、十戒などの具体的な内容を守ることそのものが重要なのではないということがわかると思います。重要なのは、その行為が神の期待にかなう行為なのかどうかということです。イエスは形式主義の律法学者たちに対して強烈な批判をされましたが、それは彼らが「律法」の本質を理解せず、その形式だけを人々に押し付けていたからでしょう。

 

 そのような形式だけの律法であれば、確かに不自由さや息苦しさを感じるだけのものになってしまうでしょう。しかし、これまで何度も確認してきたように、神の「律法」とは神の私たちに対する「期待」であり、神との関係の中で、私たちが自らの意思をもって応答していくときに、私たちに真の「自由」をもたらす恵みに溢れた神の「配慮」とも言えるでしょう。

 

 

神は我が軸(38-40)

 そして、私たちは神の期待に応える道を歩んでいくほど、神への信頼は深まっていきます。38-39にはそんな神の約束に信頼する作者の信仰が現れています。「あなたの僕に対して、仰せを成就してください。わたしはあなたを畏れ敬います。 わたしの恐れる辱めが/わたしを避けて行くようにしてください。あなたは良い裁きをなさいます。」この作者と同じように、私たち一人ひとりには神との信頼関係の先で受け取る約束に期待しつつ歩んでいく道へと招かれています。

 

 しかし、その信頼は先に神が私たち人間に対して信頼してくださったからこそ、今私たちに与えられているものでもあります。神の私たち人間に対する信頼はイエスという形をとって与えられ、また示されました。イエスは生ける「律法」であり、生ける御言葉です。イエスはご自分の弟子たちをその出会いから、ご自分の十字架の死に至るまで信頼し続けられたのと同じように、私たち一人ひとりを今も信頼し続けてくださっています。

 

 神と人が「信頼」し合う関係こそが私たちに「命」をもたらします。この混迷の時代において、私たちは不自由さや息苦しさを感じたり、見つめ続けるべき「正しさ」や「軸」を見失ってしまう時が度々あるかもしれません。そんな時私たちは、なにも信頼できず、迷い、戸惑い、そして絶望の崖へと落ちかけてしまう時があるかもしれません。

 

 

 しかし、そんなときにこそ、私たちの中に「命」をもたらす御言葉がきっと響いてくるでしょう。神はいつも私たちに「期待」され、その愛の関係の中へと招き続けてくださっていますから。

9月12日主日礼拝メッセージ  「和解の先に…」

 

ヨセフの歩みと和解への導き

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は創世記44:32-45:8です。ヨセフとその兄弟たちが和解する場面ですが、今日の箇所に入る前にこれまでのヨセフや兄弟たちの歩みについて簡単に振り返ってみたいと思います。なぜなら、それまでのヨセフや兄弟たちが経験してきた出来事によって「和解」という出来事の本質が見えてくるからです。

 

 ヨセフという人は11人兄弟の末っ子として生まれました。ヨセフは末っ子ということもあって、お父さんのヤコブに特別に可愛がられながら育ちました。そのような環境もあってか、ヨセフの兄たちはしだいにヨセフに対する妬みが募り、ヨセフに対して憎しみを抱くようになります。そして、とうとうヨセフは兄たちによって売り飛ばされてしまうことになります。

 

 売られたヨセフが行き着いた先はエジプトでした。ヨセフはエジプトという見知らぬ地で、懸命に働きますが、理不尽なトラブルに巻き込まれたり、またそれが原因で牢屋に入れられたりと長い苦難の日々が続きました。しかし、一方でそんな長い苦難のなかにあってこそ、ヨセフの神への信頼は強められていきました。

 

 そして、いつしかそんな苦難の日々も過ぎヨセフはその働きがファラオに認められ、エジプトの宰相、実務のトップの地位に就くことになります。ヨセフ自身はそのことを神の導きとして受け止め、これまでと同じく懸命に働き始めます。これまでの苦難の日々から解放され、エジプトの宰相という普通ではありえない地位を得たヨセフ、もはやその心にはなんの憂いもないように思えました。しかし、ヨセフの心にはこれまでずっと残っているしこりがありました。

 

 それは兄たちとの関係に関することでした。ヨセフはこれまでの人生の中で兄たちとの関係の不和の一端は自分にもあったことを感じていたのでしょう。実際、ヨセフは兄たちの気持ちも考えないような言動をしていました。ヨセフは兄弟たちから離れたエジプトという地で、1人神と対話していく中で示されていったのだと思います。

 

だからこそ、ヨセフの心は満たされることはなかったのだと思います。ヨセフはエジプトの宰相という地位も名誉も得ましたが、彼の心にはそれではどうしても埋まらない穴が空いていたんですね。それこそが、兄弟との崩れた関係だったのです。しかし、そんなヨセフに転機が訪れます。それは世界中が飢饉に見舞われ、ヨセフの兄たちがエジプトに食料を買いに来た時のことでした。

 

ヨセフは兄たちを見ると一眼で気付きましたが、兄たちのほうはヨセフに気が付きませんでした。まさか自分たちが売ったヨセフが生きていてエジプトの宰相になっていようなどとは考えられなかったでしょうから、無理からぬことかもしれません。ともかく、兄たちとの和解を願っていたヨセフですから、この時点で兄たちに名乗り出てもよかったはずです。しかし、彼はそうしませんでした。なぜなのでしょうか?

 

 それは、ヨセフが「和解」という出来事が神の業であることを感じていたからなのではないかと思います。ヨセフはこれまでの人生の中で兄たちとの関係の不和の一端は自分にもあったことを感じていながらも、しかし、兄たち自身の思いについて知る機会はもちろんありませんでした。互いを理解しようとしなければ「和解」はありません。

 

 ヨセフはそのような互いを理解する機会を神が与えてくださることを期待して名乗らなかったのだと思います。その過程を経なければ真の「和解」には至らないことをヨセフは感じていたからこそ、この出来事を神に委ねたんですね。そして、ヨセフが名乗り出なかったことで、ヨセフの兄たちは自分自身を見つめ直すような体験をしていくことになります。

 

 兄たちがヨセフを売ったとき、彼らは兄弟を1人失っていくばくかの銀を得ましたが、そのことと重なるような出来事を彼らは再び体験させられていきます。彼ら自身その体験を「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは。」というほど、かつての出来事を思い起こさせるために神が備えた出来事だと感じたのでしょうか、そのことで兄たちはこれまで自分がしてきたことを否応なく思い出すこととなりました。

 

 私たちはどうでしょうか?私たちも時にヨセフの兄たちと同じような体験をさせられていることがあったりするかもしれません。かつての自分の過ちや罪が、ある出来事をきっかけにして思い起こさせられることはないでしょうか?それはおそらく私たちにとってあまり心地いいものではないかもしれません。

 

 しかし、その体験があったからこそ、あらためて自分自身と向き合い、自分の過ちや罪を受け止めることができたということもあったりするのではないでしょうか。そしてそうした出来事の体験そのものが神によって「和解」へと導かれているということなのかもしれません。ヨセフの兄たちはこの出来事によって自分自身と向き合っていくことになりました。そして彼らのうちの1人、ユダがヨセフに語り始めます。

 

 

ユダの嘆願

 このユダという人はヨセフのお兄さんでヤコブの四男にあたります。ユダは、ヨセフを売ろうと言い出した張本人です。そのときのユダは他者の痛みや苦しみを理解することのない人間でした。だからこそ、ヨセフを売ろうともしたのでしょうし、父ヤコブにヨセフは野獣に殺されたのだと平然と嘘も付けたのでしょう。

 

 しかし、ユダは父ヤコブのあまりにも深い悲しみ様を目の当たりにしたことで、自らの罪を示されることになりました。自分としたことは父ヤコブの悲しみ、そして弟ヨセフの痛みを全く理解しないものだったと、ユダは気付かされていきます。また、ユダはタマルという嫁との間の関係においても、タマルの痛みや悲しみを示される出来事を経験することによって、ユダは少しずつ変えられていきました。

 

 神はヨセフを長い時間をかけて関わり続けられることで少しずつ変えられていったように、ユダの身の回りに起こったあらゆる出来事を用いて、ユダという人を造り替えられていったのだと思うんですね。だからこそ、ユダはヤコブに対して語ったことを、正直にヨセフの前でも語ることができたのではないでしょうか。

 

 32-34「実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。 何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」 

 

 このユダの言葉はヨセフを売り飛ばそうと提案したときのユダから出たとは考えられない言葉です。ユダたち兄弟はヨセフから、ヨセフの後に生まれたベニヤミンという12人目の弟を連れてくることを命じられていました。しかし、父ヤコブはヨセフを失ったこともあり、ベニヤミンをユダたちに同行させることを頑なに拒否していました。

 

 しかし、食料も底をつき、何としても再びエジプトに行かなければならない状況にある中でユダは兄弟たちの中から1人たち、父ヤコブの説得に努めました。『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』この言葉に表されているようにユダの必死さにヤコブもベニヤミンの同行を認めてくれました。

 

 しかし、ヨセフにそんなヤコブの命そのものとも言えるベニヤミンをエジプトに置いていけと命じられ、ヤコブは前言の通り、自分の身を顧みず訴えます。「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」 

 

 

ヨセフの涙

 ヨセフは、ユダがヨセフの前で父ヤコブがヨセフを失ったときの苦悩を理解し、そしてそんな父をこれ以上悲しませたくないという必死の嘆願を聞きました。それはユダが自らの罪を認め、そのことと深く向き合ったからこそ出てきた言葉でした。ヨセフはこの時、長い時間をかけて神が自分たち兄弟の和解を導いてくださったことを感じたのでしょう。

 

 ヨセフはここまで来てやっと自分がたどってきた人生の意味を見出すことができたのでしょう。ヨセフの人生は決して順調なものではありませんでした。むしろ様々な出来事に振り回された波乱の人生だったといえるでしょう。そんな中でヨセフにとってみれば苦難の方が多い人生だったかもしれません。エジプトで地位を得た後も、ヨセフの心にはずっとモヤがかかっていたままでした。

 

自分の人生の意味と壊れたままの関係が彼の心をずっと縛り付けていたのでしょう。ヨセフにとって兄弟との関係の回復がなければ、人生の意味も見出せなかったのだと思います。ヨセフは今こそ神が真の和解へと導いてくださったことを感じ、兄たちに自分身を明かし、こう言います。

 

「今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。…神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」

 

 ヨセフはこれまでの自分の人生の意味をこのとき初めて受け取ることができたのでしょう。自分の数奇な人生とそこで経験した様々な苦難に何の意味も見出せなかったヨセフ。しかし、兄たちとの和解の出来事を通して、その意味を受け取ることができました。そのことはヨセフやユダを神が長い時間をかけて取り扱ってくださり、和解へ向けて導いてくださった中で起こされた一つの奇跡かもしれません。

 

 そしてまた神は私たち一人ひとりにもヨセフやユダのように、どんな苦難の中にあっても、忍耐強く関わってくださり、その歩みの一歩一歩を導き支えてくださる方です。私たちの周りの起きるあらゆる出来事を通して神は私たちに関わり、長い時をかけて私たちを少しずつ造り替え続けてくださっています。私たちはそんな日々そんな神を感じつつ、感謝して日々の一歩一歩を神に信頼して歩んでいきたいと願います。

9月5日主日礼拝メッセージ  「神の国のかたち」

 

たった一人を求めて(10-14)

本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はマタイによる福音書18:10-20です。まず、10-14節の迷い出た羊の喩えですが、この箇所はあまりに有名すぎて私たちにとってもはや当たり前に聞こえてしまうかもしれません。聖書を読んだことがない人でも一度は聞いたことがあるかもしれない箇所であり、まして聖書に馴染む深い人にとっては何の驚きも見出せなくなってしまったという方も少なくないかもしれません。

 

 ですが、改めてこの箇所を読んでみると、実はこの喩えというのは、聞くものにとって驚くべき出来事を指し示していることが受け取れると思います。この喩えが当たり前になっている方はもう一度初めてこの喩えを聞いた思いになって考えていただければと思います。喩えは100匹の羊を飼っている人とはぐれた1匹の羊との間で展開していきます。

 

 私たちはもはや無意識的にはぐれた1匹の羊に自分自身を重ねてこの喩えを読んでしまうかもしれません。しかし、今だけはあえて100匹の羊を飼っている人に自分自身を重ねて読んでみたいと思います。私たちは100匹の羊を飼っています。しかし、その中から1匹の羊がはぐれ出てしまいました。さぁ、あなたならどうするでしょうか?

 

 この喩えの通りに99匹を残して、はぐれでた1匹を探しに出かけるでしょうか?あたりはもう暗くなり始めて夜になりかけているかもしれません。そのまま夜になれば、探し出すのは非常に困難ですし、はぐれた羊は他の獣に殺されてしまうかもしれません。つまり、そんな状況でたった1匹の羊ために探しに出るのは無謀極まりないことですし、可能性から言ってもほぼ絶望的な状況だと言えます。

 

 私たち自身は、もしそんな状況であればとても探しには行けないと思ってしまうかもしれません。探し出せる可能性も絶望的で、自身の身にも危険が及ぶのであれば、はぐれた1匹のことをあきらめてしまうかもしれません。みなさんはどうでしょうか?そんな状況下で自分が羊の飼い主の立場であれば、どのような選択をするでしょうか?少なくとも、迷わず1匹を探しにいくという選択をする人はなかなかいないのではないでしょうか?

 

 そのような視点でこの話を考えていくと、この喩えが限りなく可能性の低いはぐれた一匹の羊を危険を顧みず、どこまでも探し回るというとんでもない喩えだということが見えてくるのではないでしょうか?しかも、この喩えでさらにとんでもないことが言われていたりします。「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」

 

 私たちは仮にはぐれた1匹の羊を探しに行き、運良く見つけられたとしても残された99匹よりもそのはぐれた1匹を喜ぶなんてことができるでしょうか?むしろ、はぐれた1匹を迷惑に感じたりすることはあっても、喜ぶということはなかなか難しいかもしれません。少なくとも私は素直に喜ぶなんてできないな、と思ってしまいます。

 

 私たちはこの「迷い出た羊の喩え」をもはや、無意識的に神の私たちへの愛を表す喩えとして当たり前に受け取ってしまっているがゆえに、この喩えのありえなさを見落としたり、あるいは忘れてしまったりしていることがあるかもしれません。しかし、この喩えが示しているのは、私たち人間に対する神の愛の「ありえなさ」なんですね。

 

 神はどんなに可能性が低くても、たとえご自分の身を犠牲にされてでもたった一人の私、あなたを探し求め続けてくださる方です。神は私たち一人ひとりのことを100人いる中の1人とはみておられません。そうではなくて、神にとって私たち一人ひとりは「絶対に失いたくないかけがえのない1人」なんですね。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」この一言が、神の心からの願いを私たちに伝えているように思います。

 

 

神の働きに委ねるとき(15-17)

 このことを踏まえて次の箇所を読んでいきたいと思います。15-17「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」

 

 この箇所は教会においての「罪」の取り扱いについて語られている箇所です。みなさんはこの箇所をどう読んでいるでしょうか?この箇所は一見すると、罪を犯した人に対しての対応が事務的に語られているようで、少し冷淡な感じの印象を受ける方もおられるかもしれません。色々な解釈があると思いますが、一つ確かなことは、著者マタイはこの箇所を単なる事務的な裁きの手続きとして語っているわけではないということです。

 

 なぜなら、15節の「兄弟を得たことになる」という言葉からもわかるように、この箇所は決して共同体からの罪を犯した人の排除を目的としているわけではなく、むしろ、先の「迷い出た羊の喩え」に示されているように、はぐれた羊を連れ戻すということに焦点が当てられているからです。だからこそ、著者はこの箇所を語る上での誤解を避けるために、あえて直前に「迷い出た羊の喩え」を置いたのだと思うんですね。

 

 つまり、この箇所は、罪を犯した人を共同体から排除するためのプロセス、なのではなくて、1匹の羊を決して失わないために、なんとか教会という共同体へと連れ戻そうとする神の願いが込められている箇所だということです。それを前提とした上で、この箇所を読み直してみるとおそらく少し違った印象を受けるのではないでしょうか?1人でダメなら2人で、2人でダメなら3人で、それでもダメなら全員を用いて、なんとか失われそうな1人を連れ戻そうとする神の執念が伝わってくるような印象を受けないでしょうか?

 

 それを前提として上でですが、一方でこの箇所は人の共同体の中で起こる「罪」とどのように向き合っていくべきなのかが示されている箇所でもあります。神は「罪」を放置するのでも、人を「切り離すため」に裁くわけでもありません。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 という言葉の通り、私たちが1人も滅びることのないために、神は私たち一人ひとりにその罪を示し、そして私たちがその罪から悔い改めて新たな道を歩み出すことを願っておられます。

 

 そうであるならば、16-17の言葉も違った意味を持ってくることになるでしょう。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」 

 

 これらは私たちにとってなかなか厳しい言葉として聞こえるかもしれません。罪を犯してしまった人を追い詰めていくような印象を受けるかもしれません。しかし、この箇所が語る御言葉はそうではありません。「異邦人か徴税人同様に見なしなさい」この言葉は決してその人を貶めるための言葉ではありません。当時、異邦人や徴税人は最も神の救いから遠い人々とされていました。

 

 しかし、それは裏を返せば、最も神が探し求めておられる人々だということです。神はご自分から遠くはぐれてしまった1匹の羊のために、どんな可能性が低くても、そしてどんなにご自分が痛みを負おうとも、探し続けてくださる方だからです。

 

 

和解の只中におられる神(18-20)

 18節は神の国の先取りとしての教会が示されています。「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」天と地、すなわち「完成された神の国」と「未だ途上にある神の国である教会」は神によって繋げられ、神によって承認され、神によって導かれているということが示されています。

 

 教会という共同体の中では様々なことが起こります。その中には解決するのが難しい問題もあるかもしれません。それは教会が神の国を先取りしながらも、依然として罪を抱えた私たち人間同士の交わりであるが故に起こってくる必然とも言えます。しかし、一方で私たちは「完成された神の国」を希望として示され続けてもいます。

 

 私たち教会はそんな「完成された神の国」へと向かう途上を歩んでいる存在です。だからこそ、人間にとって最も困難なことや不可能と思えるものが幾度も目の前に立ちはだかったとき、私たちは諦めてしまったり、投げ出してしまうことがあったりするかもしれません。そして、そんな私たちにとって最も困難なものの一つに人同士の和解があるのではないかと思います。

 

 私たち人間は互いを理解し合えない「不理解性という罪」を抱えた存在です。そうであるがゆえに、互いを理解し、赦し合うという「和解」は人間にとって最も困難なものでしょう。しかし、そんな私たちを励ますようにイエスはこう言われます。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 

 

 私たち人間にとって最も困難な願いである和解、しかし、そんな困難な願いであっても私たちが互いを理解し合う心を持ち共に祈るなら、イエスもその場に伴ってくださるという希望を私たちは受け取っています。そのことは私たちに示される神の国の形と重なっています。神は私たち一人ひとりを熱心に探し求められ、互いを引き合わせて、その豊かな愛の関係の中へと招き続けてくださっていますから。