10月31日主日礼拝メッセージ  「遥かな希望を見つめて…」

 

神の約束(1)

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は創世記15:1-6です。アブラムという人はイスラエル民族の祖となった人で新約聖書の中でも信仰の父として記されるほどの人でした。しかし、そんなアブラムの人生は決して順風の歩みというばかりのものではありませんでした。アブラムは元々カルデアのウルという場所に住んでいましたが、あるとき神の招きに応える形で自分の生まれ故郷を旅立って、神が示す地カナンへとやってきたのでした。

 

 当時、自分の生まれ故郷を出て見知らぬ地に行くということ自体、命懸けのことですし、様々な困難があったことでしょう。行く先々で、飢饉に見舞われたり、戦いに巻き込まれたりとアブラムの人生はとても平穏とは呼べるものではなかったのだと思います。しかし、アブラムはそんな苦難続きの人生にあってもなんとか旅と続けることができました。それは、彼が彼に呼びかけられた神の約束に信頼していたからなのだと思います。

 

 ですが、そんなアブラムであっても神の約束に全くの疑いなく信頼し続けられたというわけではありませんでした。アブラムが神から与えられた約束は「あなたの子孫にこの土地を与える」というシンプルなものでした。しかし、アブラムにはどうしてもそのことを信じきれない理由がありました。それは、彼の妻であるサライが不妊であったいうことでした。それは彼にとって神の約束に目を注ぎ続けることから、視線を逸らさせるには十分すぎるほどの重大な現実の問題でした。

 

 なぜならば、この不妊という問題が解決されない限り、神の約束は果たされないことを意味しているからです。そんな状況が長く続けば約束に対する信頼が揺らいでしまうのも無理からぬことかもしれません。神はそんなアブラムの心の内を察されてこう呼びかけられています。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」聖書中で「恐るな」という呼びかけはよく見かける表現ですが、それはもちろん呼びかけられている対象が「恐れている」からこそそう呼びかけられているわけです。つまり、ここでアブラムは確かに「恐れていた」わけです。

 

 ではこのときアブラムは何を「恐れていた」のでしょうか?それは神の約束が果たされないことへの恐れだったのだと思います。アブラムは神の約束に信頼し、その結果を求めてこれまで歩んできましたが、これまでその約束が果たされることは彼が長らく待ってもありませんでした。このときアブラムの神への信頼は揺らいでいました。彼は約束と現実のギャップに耐えきれず、神に訴えます。

 

 

アブラハムの抗議(2-3)

 「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」この言葉にはアブラムの様々な感情が込められていると思います。果たされない約束への諦観、そんな約束を与えた神への不満、そして閉じられた未来への悲観。アブラムはこのときサライとの間の約束された子を諦め、現在目に見えるところの後継者を据えようとしています。それは言い換えれば、彼が未来を諦めたということでもあると思います。

 

 当時の価値観で言うならば、後継者である自分の子供というのはまさに未来そのものでした。だからこそ、それが閉ざされてしまう不妊という問題はその未来が閉ざされてしまう重大な事柄だったわけです。アブラムはいくら待っても未来が開かれない現実に絶望しかけていました。そしてその絶望は、神への非難へと繋がっていきます。

 

 「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」 この言葉にもアブラハムの神の約束に対しての諦観が現れています。「子孫を与えてくださいませんでした」と過去形で語られていますし、何より「家の僕が後を継ぐことになっている」と神の約束への信頼から離れて自分自身で判断をつけているアブラムの様子が伺えます。

 

 

神の応答(4-5)

 そんなアブラムに神はこう告げています。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」 アブラムはこの神の言葉にどのようなことを思ったでしょうか?神のこの言葉には根拠と呼べるものはなにも示されていません。それどころか、歴然とした現実の問題、アブラムに関してはサライの不妊という問題に全く触れられてはいません。

 

 この時、アブラムにしてみれば神の口から語られる将来の自分の子のことよりも、まずはその前に立ち塞がっている現実の不妊という問題をなんとかしてほしいと思ったのではないでしょうか。なぜならば、その問題が解決しない限り、神が語る約束は果たされることはないのですから。神がアブラムに語る約束には明らかな飛躍があります。どう考えてもこの神の約束は理性的に信じられるものではありません。そのための材料を神はアブラムに語ってはいません。

 

 神が彼に語るのはただ約束だけです。それは私たち人間の論理を超越した神にのみ依存する約束です。そのことを示すようにさらに神はアブラムにこう語っています。「主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 神はアブラムに天の星々を見せ、それと彼の子孫を重ね合わせています。

 

 ですが、このこともまた彼が先程の神の約束に信頼するようになるための根拠とは言えないでしょう。空の星々と彼の子孫に関連性は全くありませんし、不妊という現実的な問題にも依然として神は全く触れてはいません。にもかかわらず、アブラムの応答を聖書はこう語っています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 」ここにも明らかな飛躍があるように思えるでしょう。なぜならば、彼が抱いていた問題はこの時点で何一つ解決されていません。解決されるどころか神はそのことに

言及さえしていません。では、なぜアブラムは神を信じたのでしょうか?

 

 

アブラハムの信頼(6)

 もう一度確認すると神がアブラムに語った言葉の中に、彼の現実的な問題に解決の道筋を立てるようなものは一切ありません。アブラムは明らかに現実的な問題について神に訴え、そして自分自身の現実的な選択を語ることで、現実的な問題への神の回答を求めています。ですが、そんなアブラムに対して神はただ約束を語り続けるだけでした。つまり、アブラムが求めていたものは神からは一切得られなかったと言うことです。ゆえに、アブラムは自分が抱えていた問題の解決の目処が神から得られたゆえに、信じたということでは確実にないわけです。

 

 ではなぜなのか?そのことを改めて考えていくと、神がアブラムの視線を変えられた出来事が目に留まるのではないかと思います。アブラムは「不妊」というまさに目の前にある現実的な問題にしか目が向いていませんでした。そしてそれは彼自身の力ではどうすることもできない問題でした。だからこそ、彼はその解決を神に願っていたわけですから。しかし、それゆえにまた彼はその現実的な目の前の問題、言い換えれば現在のことにしか目が向いていない状態にあったのではないかと思うのです。

 

 アブラムはそんな自分ではどうすることもできない現在の問題に押しつぶされそうになっていました。それゆえに彼は神の約束を信じることができず、絶望しかけてもいました。だからこそ神はそんなアブラムの視線を現在という地上から未来という天へと向けられたのだと思います。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」この神の言葉は現在という地上に縛り付けられていたアブラムを未来という天へと解放する言葉でもありました。

 

 この言葉によってアブラムの視線は現在という地上から神が導く約束された未来へと、そしてそこへ導く神へと変えられました。それは、まだ見ぬ未来へ自分の歩みを導く神に信頼することへと彼自身を変えた出来事でもありました。私たちもまたアブラムのように現実の目の前の問題にしか目が向かなくなってしまうことがあったりすると思います。そして、その問題の解決が見えない時、絶望しかけてしまうときもあるかもしれません。

 

 しかし、そんな時こそ神がアブラムに語られた言葉が私たちにも迫ってくるのではないでしょうか?「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」この言葉は現実の問題にしか目が向いていない私たちの視線を未来という天へと向けさせる言葉です。しかし、それは現実から目を背けて、現実逃避するということではありません。現実の問題に向き合いつつ、しかし、私たちの未来の希望を約束してくださる神に信頼する歩みです。私たちはその遥かな希望を見つめつつ、神に信頼する歩みへへと招かれています。私たちがその神の招きに応答していく時、神は私たちを義としてくださいますから。

10月24日主日礼拝メッセージ  「心のひっかかり」

 

カインとアベル(1-5)

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は創世記4:1-10です。アダムとイブには2人の息子が生まれました。兄カインと弟アベルです。聖書はこの2人がそれぞれ異なる職業に就いていたことを語っています。カインは土を耕す者、アベルは羊を飼う者だったとあります。ある時彼らはそれぞれの働きで得たものを神に捧げるために持ってきました。

 

 しかし、ここで驚くべきことが起こります。「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。」とあります。なぜ神はこのようなえこひいきともとれるようなことされたのでしょうか?この箇所についての最も安易な解釈は、アベルは「肥えた初子」という自分の持てる最上のものを捧げたが、カインはそうではなかった。ゆえに、神はカインとその捧げ物には目を留められなかった、というものです。

 

 しかし、仮にそうだったとしても、カインも捧げ物を捧げているわけですから、それを歯牙にも掛けない神の態度は不可解に映ります。私たちは聖書の所々でこのような神の不可解さ、言い換えれば神の自由さを目にすることがあります。その理由については一切語られていませんし、聖書のその理由を解き明かすことについて関心を持ってはいません。しかしとにかく神は私たちの理解を超える選びや決断をされることがあるということは確かに私たちが受け取っていることでしょう。

 

 神が私たちの理解の範囲内に収まる方ではないということは、神がご自分の独り子と引き換えにしてでも私たち人間を救う選びをなさったということに最もよく表されているのではないでしょうか?そしてこの神の選びは、私たち人間にとって素直に恵みとして受け取りやすいことだと思います。なぜならそれが私たちにとって都合の良いことと重なるからです。都合のいいというと少し誤解を招きそうですが、要するに神の救いの選びは、私たちの救いの求めとマッチしているということです。神の選びと私たちの求めが合致する時、私たちはその神の選びをすんなり受け入れることでしょう。

 

 ですが、神の選びは必ずしも私たちの求めとは合致しないこともあります。それは神が必ずしも私たちにとって「都合の良い神」というわけではないからです。神の選びは時に私たちにとって「不都合のもの」として映ることがあるかもしれません。聖書は私たちにとって都合がいいだけの神を語ってはいません。むしろ、私たちにとっての「不都合さ」によって何かを問いかけようとされる方なのだと思います。

 

 カインにとってここでの神の選びは「不都合」極まりないものであり、カインの主観で考えるならば「不条理」ともいえることだったでしょう。しかし、カインに対する神の問いかけこそが、神がこのような一見「不条理」ともいえる選びをなさったことの意味を示しているような気もします。

 

 

どうして怒るのか?(6-7)

 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」 神はまずカインに怒りの理由について問いかけています。単純に考えるならば、神がアベルの捧げ物だけに目を留め、カインの捧げ物には目を留めなかったえこひいきに対する怒りと考えるのが自然なような気はします。

 

 しかし、神がわざわざカインにその怒りの理由を問いかけているということは、そのような単純な理由ではないような気がします。またカインが顔を伏せたことについても神は問いかけていますが、カインがもし純粋に神への不満を抱いていたのなら、神の言われる通り、顔を伏せずにしっかりと神を見つめカインの方から神に問いかければよかったのではないでしょうか。

 

 これらのことから、カインが顔を伏せた理由は「神への怒り」ではなくもっと別のところにあるように思います。そして、それこそが神がこのような一見カインにとって「不条理」とも言えることをされた理由でもあるのだと思います。そしてそれはアベルとの関係についてのことだったのではないかと思うのです。カインはこの後、弟アベルを殺すことになるわけですが、もし、彼とアベルとの関係が良好だったのであれば、そのようなことまではしなかったのではないでしょうか。

 

 カインがアベルを殺すまでに至ってしまったのは、ここで語られている神のアベルに対するえこひいきが直接的な原因ではないのではないでしょうか。おそらく、カインとアベルの関係はもとから、あまりよくはなかったのだろうと想像できます。それも、カインが一方的にアベルを良く思っていなかったのではないかと思います。そして、そのことをカイン自身もどこかで自覚していたのだと思います。

 

それはカインにとって、自分の中にある向き合わなければならない問題でした。しかし、カインはそんな自分自身と向き合うことはできずにいました。ことの始めはささいなことだったのかもしれません。始めの内にその問題と向き合っていれば簡単に解決できたものだったかもしれません。しかし、そのような自分自身の中にある問題というのは時が経てば経つほど、解決は難しくなっていきます。

 

 神はそのことをご存知であえてカインがその問題と向き合うよう仕向けられたのではないでしょうか?そのように考えれば「どうして怒るのか?」という神のカインへの問いかけは「あなたの怒りはどこからきているのか?」「あなた自身の中から来ているのではないか?」という意味を含んだもののような気がしてきます。今カインがこの問題と向き合わなければ取り返しのつかないことになることを神はご存知だったからこそ、このような方法でカインに気づきを与えようとされました。

 

 神はカインに忠告します。「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」カインは自分が正しくないことを自分自身でわかっていました。しかし、そのことを素直に認めることができずにいました。だからこそ、神に正面切って抗議するのでもなく、顔を伏せ行き場のない怒りを抱えていたのだと思います。

 

 カインはまさに神の愛の関係という家から飛び出そうとしていました。しかしその戸口にこそ「罪」が待ち伏せていることを神はカインに語っています。そして出て行ったのならば自分の力でその罪を支配しなければならないのです。ですが、罪を支配することなど私たち人間には不可能です。それほどまでに罪の影響力は大きく、むしろ罪の方が簡単に私たちを支配してしまうからです。そのことを示すように結局カインは自分の中の問題と向き合うことなく、アベルを殺害するという最悪の結末を引き起こしてしまいます。

 

 このカインの状況は私たちも時に陥ってしまうものかもしれません。私たち人間は自分自身の中にある問題と向き合うことがなにより難しいものです。なぜならそれは誰に指摘されるでもなく、自分で無視しようとすれば無視できてしまうものだからです。同時にそれは往々にして自分にとって見たくないもの、避けたいものです。だからこそ私たちはその自分の中の問題を放置してしまいがちです。

 

 ですが、その自分の中の問題というのは始めは些細なものであっても、放置している間にどんどん膨れ上がり、最終的に破壊的な結末を引き起こしてしまうことになります。ゆえにこのカインへの問いかけは、私たちにも向けられた神の問いかけです。誰からも指摘されず、自分で見ないふりをしていても、神は私たちそれぞれの心のうちをご存知です。神はそんな私たちに問いかけます。「どうして怒るのか?」「どうして顔を伏せるのか?」と私たちはその問いかけにどのように応答するでしょうか?

 

 カインは残念ながら神の呼びかけに立ち返ることはせず、戸口で待ち伏せていた罪へと手を伸ばしてしまいました。カインには罪を支配することはできませんでした。しかし、それは私たちも同様です。私たちの力で罪に抗うことはできません。カインと私たちに何の違いもありません。カインが、そして私たちが罪の支配から逃れる道はただ神の愛の関係の中にとどまり続けることだけです。それこそが、神が備えられる私たちのための救いの道だからです。

 

 神は私たちに問いかけるために私たちには理解を超えた方法で呼びかけられる時があるのだと思います。それは私たちに「心のひっかかり」を生じさせるものかもしれません。そしてそれは私たちにとって都合が悪いものかもしれません。しかし、同時にそれは私たちに向けられた神の大切な問いかけです。私たちを破壊的な結末から救おうとされる神の呼びかけです。

 

 その呼びかけに私たちが心を砕いて応答していく時、神は私たちを罪から守ってくださり、その愛の関係の中で生きる道を備えてくださるでしょう。たとえ神のなされることは神秘に包まれていたとしても、神は確かに私たちを愛してくださり、一人ひとりを確かな救いへと導いてくださる方なのですから。

10月17日主日礼拝メッセージ  「助け合い、共に…」

 

全てを備えられる神(4b-9)

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は創世記2:4-25です。神が天地を創造された後、最後に人を創造されます。人の創造が語られているこの箇所は、言い換えれば人がどのような存在であるのかを語っているということでもあります。今日はそのことを念頭におきながら、この創造物語から御言葉を受け取っていきたいと思います。

 

 人は土の塵から神によって形作られたと聖書は語ります。土は大地を形作っているものです。つまり、神は自らが創造された地から人を創造されたということです。そのことは、人が、神が創造された世界の一部であることを意味しているのではないでしょうか。さらに人は神により「命の息を吹き入れられ」て生きる者になったともあります。つまり、人は神が創造された世界の一部であると共に、神によって明確な働きを期待されて創造された者だということです。

 

 そして、命が生きていくために、また人がその働きを成していくために必要な全てのものをも神は備えてくださっていることが語られています。「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせた。」このことは、私たち人間を含む被造物全てが神の確かな配慮のもとに創造され、そして生かされていることを語っているのだと思います。

 

 

職務への招き(15)

 さて、先ほど神は人に明確な働きを期待されて創造されたと言いましたが、そのことが15節にて語られています。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」「地を耕し、守ること」それこそが神が人に期待された働きでした。それは、言い換えれば「神が創造された世界の手入れをする」こととも言えると思います。人は他の被造物を自分勝手に支配するのではなく、神の意図された方向へと耕し、守るという働きへと招かれています。世界を導く神は、人にご自分の働きの一部を任せようとされています。

 

 だからこそ、私たち人間はこの神から託された働きに向き合わなければならないでしょう。そのために私たち一人ひとりができることは小さなことかもしれませんし、それゆえに「それが何になるのか」と諦観してしまいそうになることもあるかもしれませんが、しかし、そんな小さな一歩へとこそ神は私たちを招いておられます。なぜなら、その一歩を踏み出すことこそが、唯一神が導いておられる全体が調和した世界へとつながっているからです。

 

 

取って食べなさい(16)

 そして神はご自分の働きの一部を託された人に豊かな恵みを享受する許可を与えられました。「園のすべての木から取って食べなさい。」神は人にご自分の働きの一部を担うことを期待されていましたが、ただそれだけではありませんでした。神は豊かな恵みをも人のために備えられていました。これは単純に食物だけのことではなく、私たちがこの世界で発見するあらゆる恵みのことを指しているのだと思います。

 

 衣食住はもちろん、この世界のあらゆるものが神からの恵みとして私たちに与えられているということでしょう。そうであるからこそ、私たちにはこの世界を楽しみつつ生きることが神によって許可されています。神から託された働きに応答し、そして、神から与えられた恵みに感謝しつつ、楽しんで生きる、神との関係の中で生きるとはそのような生き方なのだと思います。

 

 

食べてはならない(17)

 そのように考えると、私たちの生は限りなく自由なものであるともいえます。しかし、それは一般的に言われているところの「自由」とは少し違います。ここでの自由は神との関係における自由です。だからこそ、神は次に人にこう言われます。「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」神は人に限りない自由を保証した後に、突如禁止の命令を下します。しかし、禁止はしますが、禁止されたものは人から遠ざけられることなく、依然として人の手の届く範囲に置かれることになります。

 

 「禁止するくらいならわざわざ置かなければいいのに」と思われるかもしれません。しかし、それは神が人に自らの意思を持って、それを「取らない」という選択を期待していたからなのではないかと思います。神は私たち人間に何かを強制されることはありません。ただ人間の自発的な応答を願い、期待をかけられています。それは、神がなによりも私たち人間を尊重してくださっているからこそであり、同時にそんな私たち人間と親しい関係を結ばれたいと願われているからでもあります。

 

 こうして見てみると、神が人との関係を始められるにあたって私たち人間に語られたことが見えてきます。それは、「働きへの招き」と「恵みの備え」、そして「神の警告」です。このうち、「神の警告」すなわち、禁止命令が特に印象に残ってる方が多いかもしれません。しかし、神が私たち人間に語られたのはそれだけではないということに今日は特に目を向けていきたいと思います。

 

 むしろ、ここで神の禁止命令だけを抜き出して解釈することは、神が人間に期待されているあり方を歪めてしまうことになるでしょう。聖書はむしろ「働きへの招き」と「恵みの備え」があることを特に強調しているようにも思います。なぜならば、神がなにより望んでおられるのは私たち人間を尊重した善い関係を築くことであって、人間の意思を強制させるような、隷属させるということではないからです。

 

 

共に応答する者として(18-25)

 このように、神は私たち人間を尊重してくださり、神の愛の関係の中を歩んでいく者として取り扱ってくださっていることがわかります。そして神は、その歩みを助ける存在をも備えてくださろうとしています。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」「良くない」この言葉に何か引っかかるものはないでしょうか?

 

 神はその言葉によってあらゆるものを創造されていきましたが、創造の後、その全てのものを「良しとされた」と創世記1章にはあります。しかし、ここで唯一の「良くない」という言葉が出てくるのです。そして、それこそが「人が独りでいること」だったわけです。この創造物語において、唯一「良くない」と表されていることが人間に関係しているのは驚きであり、同時にその意味を深く受け止めていかなければならない部分でもあると思います。

 

 では、なぜ人が1人でいるのは良くないと神は言われたのでしょうか?それは、おそらく神と人との関係に重なる部分があるのだと思います。神は人を一個の独立した存在として尊重してくださっていることはこれまでに見てきたことだと思います。つまり、神が人に呼びかけ、人がそれに応答するといった関係性を何より大切にされているということです。そして、その関係において神が託された働きに応答することを願われています。

 

 しかし、その働きは1人で応答していけるものではありません。共にその働きに応答し、お互いに助け合い、励まし合う存在が必要不可欠でした。だからこそ、神は人に「助け手」を備えようとされたのだと思います。そして、人間自身もそれを求めているところがあるのだと思います。20節には「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。 」とあります。

 

 別の訳では「人には彼と向き合うような助け手は見つからなかった」とあります。人には自分と向き合ってくれる自分とは異なる人の存在が必要だったということなのだと思います。だからこそ神は最初の人とは異なる存在、もう1人の人を新たに創造されました。互いに向き合う存在として、互いに励まし合う存在として、そして互いに助け合う存在として。

 

 その関係は一方的なものではありません。一方が他方を従わせたりするような関係ではなくて、お互いに向き合う関係であることが大切なことなのだと思います。私たち人間は自分と異なる他者の存在が前提にあります。神が「人は独りでいるのは良くない」と言われたのは、私たち人が他者と向き合い、他者と助け合い、そして他者と響き合うことこそが、神と人、そして人と人が善い関係を保ちながら歩んでいくために必要なものだったからでしょう。

 

 私たち教会は神から託された働きに応答する者が集められています。それは私たち人間が独りでその働きに応答していくことができない者であるからこそ、神が集められた共同体だと言えるのではないでしょうか?そうであるからこそ、私たちは互いに向き合い、励まし合い、そして助け合いながら、神が私たちに託された働きに共に応答することへと神から招かれているのでしょう。神は私たち一人ひとりを尊重してくださり、豊かな恵みと共に私たちの歩みを導いていてくださいますから。

10月10日主日礼拝メッセージ  「神へ返すもの」

 

ユダヤ人にとっての税金とは?

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はマタイによる福音書22:15-22です。イエスは多くの律法学者やファリサイ人から逆恨みされていました。それは、イエスが彼らが独自に作り出した決まり事を守ることに夢中になって、本来守るべき神の律法を歪めていたことが発端でした。つまり、簡単にいえば彼らは本質的な誤りを指摘されて逆ギレしていたわけです。

 

 そんな彼らの逆恨みは次第にエスカレートしていき、どうにかしてイエスを殺せないものかと色々と画策し始めます。彼らは何度もこのような画策を実行しては、ことごとく失敗していますが、それでも一向に諦めようとはしません。もはや、彼らは自分たちの正当性を主張することよりも、ただただイエスへの憎しみで行動しているといえるでしょう。今日の箇所でもファリサイ派の人々が、ヘロデ派の人々と結託してイエスを陥れようとしています。

 

 ところで、今日の箇所では「税金」をめぐっての話が展開されていきますが、当時の税金に関する感覚は今の私たちの感覚と少々異なります。というのも、当時のイスラエルはローマの支配下にあり、ユダヤ人たちはローマへの納税義務を負っていました。つまり、自分の国に納税して、そのお金が自分たちへの福祉や公共のために使われるというものとしてではなく、自分たちの国を支配している国、すなわちローマから搾取されているものとして納めていました。

 

 ゆえに、当時のユダヤ人にとって、「納税」というのは単なる経済的負担であるだけでなく、失われた自由の象徴としての嫌悪の対象であったといえます。彼らは税金を払うたびに、自分たちが自由ではなく、ローマという国の支配下にあることを思い出していたことでしょう。だからこそ、聖書中たびたび登場する「徴税人」たちは自分たちを支配するローマの手先として同じユダヤ人であったとしても蔑まれていました。

 

 こういうわけで、当時のユダヤ人にとって「税金」というものは特別な意味を帯びていました。だからこそ、イエスを陥れようとする彼らはこの税金のことでイエスに罠をしかけようとしたわけです。

 

 

イエスを陥れようとする人々の欺瞞(15-16)

 彼らはイエスのもとにやってきてまずはこう切り出します。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」もちろん、これは彼らの本心ではありません。彼らは自分たちこそが正しく、イエスは律法の破壊者だと本気で思っているからこそ、 こうして陥れようとしているわけですから。

 

 むしろこの言葉は、彼らが自分たち自身をこのように思っているということなのだと思います。彼らは自らを省みることなく、また、イエスの語る言葉を理解しようとするのでもなく、ただ自分たちと対立するイエスをいかなる手段を用いてでも排除しようとしているからです。それは、彼らがヘロデ派の人々と結託しているということにも現れています。

 

 このヘロデ派の人々というのは、当時のイスラエルを納めていた権力者ヘロデを支持する人々のことです。ですが、治めるといっても先ほど言ったように当時のイスラエルはローマの支配下にありましたから、あくまでもローマがヘロデの支配権を承認しての実質的なローマの間接統治というのが実情でした。つまり、ヘロデ、そしてそんなヘロデを支持するヘロデ派の人々というのは自分たちを支配するローマにへつらう者であり、ユダヤ人にとってみれば嫌悪の対象だったわけです。

 

 しかし、そんなヘロデ派の人々とファリサイ派の人々はここでは結託しています。元々、ファリサイ派の人々は、ローマの占領政策を憎んでいましたし、それを容認するヘロデ、そしてヘロデ派の人々とは対立していたはずです。それが、イエスを陥れるという一点において一致した彼らは今手を組んでいます。

 

自分たちの本来の主張を曲げてまでそうしているということは、彼らの中にイエスへの憎しみ以外の関心がもはやないことを意味しています。彼らがイエスと本心から話し合い、建設的な議論をすれば、彼らも自らを省みて違った道を歩み出せたかもしれませんが、残念ながらそのようにはなりませんでした。人は憎しみで目が曇りだすと、本来目を注ぐべきものから視線が逸れてしまうことがありますが、彼らはまさにそのような状態だったと言えるでしょう。

 

 

律法に適っているか?(17-20)

 そんな彼らはイエスにこう問いかけました。「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」彼らがこのように質問したのはもちろんイエスを陥れるためだったのです。つまり、この質問はイエスが肯定しても否定しても彼らの思惑通りになるようになっていたわけです。

 

 なぜなら、適っていると答えれば、ローマの支配を肯定することになり、民衆の支持を失いますし、適っていないと答えれば、逆にローマに叛逆するものとなってしまうといった具合でした。彼らにとってその問いの答えなどどうでもよく、ただイエスの発言を引き出して言質をとろうとしていたということが、この質問の仕方からもよくわかるでしょう。

 

 彼らの質問の意図はともかくとして、純粋に彼らの質問で問題にされていることを取り出して考えるのならば、その行為は律法に適っているか?だといえます。他の聖書箇所からも度々見てきましたが、律法とは人間を縛る「戒め」ではなくて、本質的には私たちに対する神の「願い」であり「期待」です。ゆえに、「律法に適っているか?」とは言い換えれば「神の願いに適っているか?」ということです。

 

 イエスは一貫してこのことを語ってこられました。イエスと律法学者やファリサイ人たちとの対立の根本的な原因はまさにこの一点に尽きるわけです。イエスは自分で律法を守っていると自認しながら、それを他者に押し付けている彼らの欺瞞をこれまで幾度となく暴かれてきましたが、ここでも彼らはイエスの言葉によって自分たちの自己矛盾に気づかされていくことになるわけです。

 

 イエスは彼らにこう言います。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」イエスがこう言われると彼らはデナリオン銀貨というローマ帝国の通貨を取り出しイエスに手渡します。このデナリオン銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が彫ってあったと言われていますから、イエスは銀貨の表面を彼らに見せながら、「これは、だれの肖像と銘か」と言われたのだと思います。彼らは「皇帝のものです」と即答しています。この一連のやり取りはさらっと書かれていますが、しかしこの中ですでに彼らの自己矛盾が暗に指摘されていたことにお気づきでしょうか?

 

 先ほども言ったようにファリサイ人たちは、自分で律法を守っていると自認しながら、それを他者に押し付けていました。しかし、彼らは自分たちが守っていると思っているところの律法で禁じられているはずの「刻んだ像」入りの硬貨を即座にイエスに手渡しています。つまり、律法の字面ばかりにこだわり、厳格にそれを遵守しているとうそぶいていた彼らは実の所、自己矛盾にも気づかずに、あるいは見て見ぬふりをしている、そしてイエスの語る律法の本質には目を向けようともしないものたちだったというわけです。

 

 だからこそ、イエスは彼らを「偽善者」という厳しい言葉で批判し、彼ら律法学者が本来目を向けていくべき「律法の本質」を見つめるようにと促されようとされたのだと思います。そのイエスの願いが最後のこの言葉に込められているのではないでしょうか?「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 イエスはデナリオン銀貨を彼ら自身に見せながら彼らの発言を引き出すことで、彼らがイエスにした問いの答えを彼ら自身に言わせました。

 

 しかし、彼らの問いの答え以上に、大切なものがあることをイエスはまたここで彼らに示されています。すなわち、皇帝の像が刻まれた銀貨が皇帝に属しているように、神の像として創造された人間は神に属しており、神へと返されなければならないということを、イエスが彼らの問いを逆に利用して彼らに示されました。

 

 そして、このイエスの言葉は私たちにも語りかけられているものでもあります。私たちは律法の本質、神の期待に目を注ぎながら歩んでいるでしょうか?私たちも時に今日見てきたファリサイ人と同じように様々なものに心が囚われて、本来目を注ぐべきものが見えなくなってしまう時があるかもしれません。しかし、そんな時にこそ、私たちを招く神の呼びかけが聞こえてくるでしょう。なぜなら、私たちの心は本来、神と共にあって、やがてその神の愛の関係の中へと帰っていくのですから。

10月3日主日礼拝メッセージ  「考え直す」

 

考え直す兄と言うだけで実行しない弟(28-30)

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はマタイによる福音書21:28-32です。ある人に2人の息子がいました。彼は自分の持つ葡萄園に働き手がいないことに頭を悩ませていました。そこで彼は自分の息子たちにそこで働いてくれるよう頼みに行きました。最初に彼は2人の息子のうち兄の方を訪ね、葡萄園で働いてくれるよう頼みましたが、兄には「いやです」とキッパリと断られてしまいました。

 

 おそらく、このお父さんと兄は仲が悪かったのかもしれません。たびたびお父さんの頼みをつっぱねていたかもしれません。兄の返答にお父さんは悲しげな顔でその場を立ち去ったのでしょうか。しかし、兄はそんな父の様子を気にするそぶりもなく、自分のやりたいことをやり始めました。

 

 それからお父さんはもう1人の息子である弟にも頼みに行きました。すると、兄とは対照的に弟は二つ返事でお父さんの頼みを聞いてくれました。無事に働き手が見つかったことにお父さんは安堵したでしょう。葡萄園で彼がくるのを待っていました。ですが、いつまで待っても弟は来ませんでした。「確かに、頼みを受けてくれたのにおかしいな」とお父さんが思っていると、葡萄園の扉を叩く音が聞こえました。

 

 「あぁ、やっと来てくれたか!」お父さんが喜びながら扉を開けてみると、そこに立っていたのは、頼みを聞いてくれた弟ではなく、頼みを断られたはずの兄が少し居心地悪そうに立っていました。しかし、お父さんはそんな兄を優しく迎え入れます。聞けば、兄は一度は父の頼みを断ったものの、後から考え直してここに来たのだと言います。

 

 父の言葉を一度は拒否するが、しっかり受け止め直す兄と「行きます」と言っておきながら結局行かなかった弟、対照的な兄弟の喩えは今の私たちに何を語りかけているのでしょうか?それを受け止めていく上で、この2人の兄弟たちの姿というものは、次のように言い換えることができるかもしれません。

 

つまり、父の頼みを一度は拒絶するものの、後から考え直し、自らの行動を改める兄は、自分の中の問題を自覚し、それと向き合い、そして自らの行動を改めた人たちということです。そして、父の頼みを表面上受け入れるものの、言うだけで実行しなかった弟というのは、自分の中の問題を自覚することなく、それと向き合おうともしなかった人たちと言えるのではないでしょうか。

 

 そのように考えていくならば、今の私たちにもこの喩えが身近なものとして響いてくるのではないでしょうか。なぜならば、私たち人間は自分自身の中の問題と向き合うということが、何より難しい存在だからであり、しかし、一その一方でそのことへとこそ神は私たちを招く方だからです。

 

 

自ら考え、問題を自覚する者(31-32)

 ところで、この喩えを語られたのは祭司長や民の長老たちだったとあります。彼らはイエスを陥れようとあれこれと画策していましたが、結局うまくいかず、彼らの思惑通りには行きませんでした。そんな彼らはイエスからこの喩えを語られたあと、このように問われています。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」そして、問われた彼らは「兄の方です。」と正しい答えをしています。

 

 彼らは兄のとった行動が正しいと思っていたわけです。しかし、そんな彼らにイエスはこのように言われています。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」 

 

 イエスは彼らが口で正しい答えをしながらも、実際の彼らの行動は喩えの中の弟のようであるということを暗に語っています。彼らは自分のしていることが正しいと信じきっていました。しかし、だからこそ、自分の歩みを思い直し、行動を変えるということができませんでした。イエスはむしろ、彼らが蔑んでいた徴税人や娼婦たちの方が先に天の国に入ることを告げています。

 

 祭司長たちと徴税人や娼婦との決定的な違いはなんでしょうか?それこそが、イエスが問題にしていることであり、同時に神の国への入り口でもあるのだと思います。それは、彼らが自分のしていることを正しいと信じて疑っていないか、正しくないことを知っているかです。前者は先ほども言ったように自分のことを信じきっていますから、自分で自分の歩みを考え直すことはないでしょう。

 

 しかし、後者の場合は自分が善くないことをしている、あるいは善くないと知りながらもしてしまっているという自覚があります。そうであるからこそ、自分の歩みを振り返り、考え直す可能性も出てくるわけです。イエスはこの喩えを通して、自分自身を見つめ直すことへと導こうとされています。神の招きは、自らと向き合うことへの問いかけでもあるからです。

 

 そして、それは今の私たちにも問いかけられ続けていることでもあります。私たちはつい自分のしていることは正しいと思い込みたくなります。そして、そのことが行き過ぎると、他者の批判も届かなくなっていき、自分で自分の歩みを考え直すということがなくなっていきます。しかし、そんな時に響いてくるのが神の私たちに対する問いかけなのだと思います。

 

 「あなたがしようとしていることは神の思いに適っているか?」そのような問いかけが私たちに響いてくるときに私たちは自らの歩みを考え直し、神の招く正しい方向へと歩みを改めることができるでしょう。だからこそ、私たちはいつも神の御言葉に耳を傾け、その導きを祈りつつ神の招く新しい方向へと勇気をもって歩みだしていきたいと願います。