3月26日主日礼拝メッセージ  「砕かれるからこそ」

 

「ぶどう園と農夫」

 本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合っていきたいと願う聖書箇所はルカによる福音書20:9-19です。この箇所は「ぶどう園と農夫」というイエスの譬え話が語られている箇所です。譬え話はイエスがよく用いられる話法ですが、その真の意味を理解するためには譬え話の表面だけを見ていては難しいです。イエスの譬え話は聞き手に考えさせ、その意味の探究への積極的な参加を促すものだからです。

 

 ゆえにまずその譬え話がどのような文脈で語られているものなのかを知ることが理解への第一歩になります。今日の箇所の直前の201-8は祭司長や律法学者がイエスの権威について尋ねている箇所です。この箇所では彼らはイエスにその権威の出所を尋ねますが、彼らは逆にイエスにヨハネの権威について尋ねられます。どのように答えても自分達の立場を悪くすることに気づいた彼らは答えに窮してしまいました。

 

 5-6には彼らがなぜイエスの問いに答えられなかった理由が彼ら自身の口から吐露されています。彼らは自分達の権威を脅かす存在であるイエスを邪魔に思い、何とかイエスを陥れようとしてこのような質問をしていました。このことは彼ら自身が自らを正しいものであると疑わず、神の権威を濫用して人々を苦しめていたことを裏付けています。

 

 そのような流れの中でイエスが語られた譬え話が今日の箇所である「ぶどう園と農夫」の譬えであるわけです。譬えの流れとしては、主人がぶどう園の収穫に際し、何度も僕を送りますが農夫たちによって追い返されてしまい、息子をも送ったがその息子は財産目当てに殺されてしまい、最後には怒った主人によって農夫は殺され、ぶどう園は他のものに与えられるというなんとも救いが無さそうに思える話です。

 

 この譬え話が示すことはそれぞれの登場人物や場所を置き換えて読んでいくことで比較的簡単に理解することができるでしょう。つまり「ぶどう園」は「イスラエル」、ぶどう園の主人の「ある人」は「神」、「農夫」は「イスラエルの指導者」、僕は「預言者」、そして「息子」は「イエス」となるでしょう。このように置き換えて改めてこの譬えを読んでみると次のようになるでしょうか。

 

 神はイスラエルを民の指導者たちに任せられたが、指導者たちはその本分を忘れイスラエルは何度も神を忘れ、道を外れそうになった。そこで神はイスラエルを立ち返らせるためその度に預言者を送ったが、指導者たちは聞き入れるどころか彼らを邪魔に思い酷い目に遭わせた。それでもイスラエルを見捨てない神は最後にご自分の一人子のイエスを送られたが、彼らはそのイエスをも拒みあろうことか十字架につけて殺してしまった。

 

 

御言葉を追い返し殺してしまう私たち

 このように読み替えていくとイエスがこの譬えを通して語られたことがわかってくるのではないでしょうか。この譬えを聞いた律法学者や祭司長たちも言われているのは自分達だと気づいたとあります。イエスは彼らに考えさせ、自ら気づかせることで彼ら自身の悔い改めを期待されたかもしれません。しかし、このことで彼らの心はますます頑なになり、イエスが語られた譬えの通りイエスを十字架につけ殺す道へと進んでいくことになってしまいます。

 

 さて、この譬えは確かに当時の律法学者や祭司長の欺瞞を明るみに出し、自らの行いを悔い改めさせるために語られたものですが、しかし、同時にこの譬えは彼らだけでなく民衆に向けても語られたものであることに隠された別の意味があるのだと思われます。イエスが民衆をも聞き手に入れているということは普通の民衆…ひいては私たち一人ひとりにもこの譬えは深く関係したものであることを示しています。

 

 その場合この譬えは私たちに何を語りかけてくるのでしょうか。ここで先ほどの譬えの中の登場人物や場所の置き換えをもう一度やってみたいと思います。仮に次のように置き換えてみましょう。「ぶどう園」は「私たち自身の体と命」、ぶどう園の主人の「ある人」は変わらず「神」、「農夫」は「私たちの心」、僕は「御言葉」、「息子」も変わらず「イエス」。このように置き換えた上でこの譬えを理解するならば次のようになるでしょうか。

 

 神は自らの創造された「私たち人間の体と命」を「私たちの心」に任せられたが、私たちはその神を忘れ、神との関係を何度も壊してきた。そこで神は私たちを立ち返らせるためその度に御言葉を語られた。しかし、私たちは御言葉を聞き入れるどころか拒絶し自分達の心から追い出してしまった。それでも私たちを見捨てない神は最後にご自分の一人子のイエスを私たちの心に送られたが、私たちはそのイエスをも拒みあろうことか十字架につけて殺してしまった。

 

 このように解釈するならば、私たちにとってどこか遠い存在であるイスラエルに語られたこの譬え話が他ならぬ自分自身に向けて語られたものであると受け止めていくことができるのではないでしょうか。私たちの命は神によって与えられ、そしてその命の管理を任されています。しかし私たちは時にそのことを忘れ自分達の好き勝手に振る舞い、そのことで神との関係を歪めてしまいます。

 

 そのような意味で私たちはこの譬えに登場する農夫そのものではないでしょうか。神が何度も御言葉によって立ち返らせようとされても、それを拒絶してしまう私たち。自分の心の内から御言葉を追い出してしまう私たち。そして神から与えられた命を自分だけのものにするためにイエスを十字架につけ殺してしまう私たち。それらのことを気づかせるものとしてこの譬えが聞こえてはこないでしょうか。

 

 

御言葉に砕かれる私たち

 この譬えを聞いた律法学者や祭司長は自分達のことであると気づきはしましたが、自分達への当てつけだと受け取り悔い改めることはしませんでした。イエスは譬えの最後に次のように言われています。17-18にはこうあります。「『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 

 

 前半の17節は詩篇からの引用で「隅の親石」の大切さを語っています。この「隅の親石は別名「かなめ石」とも呼ばれ、建物全体を支える役割を担っている石のことです。いわば建物の土台部分の石なわけですが、この最も大切な石こそが拒絶され捨てられたイエスであり、同時にそれは御言葉そのものでもあることを私たちは聖書から知らされています。私たちはイエスを土台とし御言葉によって支えられているからこそ倒れることなく立ち続けることができるのです。

 

 そして後半の18節ではそのかなめ石の上に落ちるものも、下敷きになるものも等しく砕かれることが語られています。かなめ石の上に落ちるものとはイエスの御言葉によって自ら悔い改め心砕かれる者、そしてかなめ石が誰かの上に落ちるとは御言葉を聞いてなお拒絶し続ける頑なな心でさえ神によって砕かれるときが来るということを示しているのでしょう。

 

 つまりイエスが語られたこの譬えは全てのものが神によって心砕かれることで神との関係が回復されていくことを示しているものなのだと思います。そしてそれはイエスの十字架によって始まり、今もなお継続しているものです。私たちは誰しもが御言葉によって心砕かれる体験をします。私たちは傷つくことを恐れてそれを避けようとするかもしれませんが、しかしその体験があるからこそ私たちと神との関係は新たにされより強いものになっていくのでしょう。

 

 詩篇はこう語っています。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。 」来週から主日礼拝も新たな年度を迎えます。新たな年度も砕かれた心を持って共に礼拝を捧げて参りましょう。

3月19日主日礼拝メッセージ  「主と同じ姿に」

 

心に書きつけられた手紙

 本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合って行きたいと願う聖書箇所はコリントの信徒への手紙 二3:4-18です。このコリントの信徒への手紙を書いたのはパウロとされていますが、彼は宣教する傍らで常に向き合ってきた一つの問題がありました。それは律法主義的キリスト者との闘いだったわけですが、ここではパウロが彼らとの闘いにおいて最も重要視していた核心の部分について語られています。

 

 その際のキーワードとなる言葉が今日の箇所で何度か出てくる「文字」と「霊」です。「文字」というのはそのまま私たち人間が肉眼で見える文字として書かれたもので、いわゆる聖書中で「律法」と呼ばれるもののことを指しています。対して「霊」とはパウロ曰く、私たち人間の心に直接書き記されたもののことを指しています。パウロはこの「文字」と「霊」を対比させることによって自分が語っている「キリストの福音」とはどのようなものかをここで説明しようとしています。

 

 パウロは4節でこのように語っています。「わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。」「このような確信」というのは直前の3節のことを指しています。それによれば、パウロが抱いていた確信というのは次のようなことになるのだと思います。つまり、神はかつて石の板にご自身の言葉を書き記されたが、今や一人ひとりの心に直接語りかけられ、また書き付けられているということでしょう。神の人間への関わり方が根本的に変化したことをパウロはイエスによって確信していたのです。

 

 パウロはこの時対立する律法主義的キリスト者たちから使徒としての適任性を疑われていました。ゆえにパウロの適任性を証明するために信頼できる推薦状を要求されていたのでしょう。ですが、パウロはそのような「文字」としての推薦状は必要ないと語ります。なぜならパウロがこれまで宣教してきたコリントの教会の人々こそがパウロの推薦状であり、彼らを推薦状としているのは彼らの心に書きつけられた神ご自身であると語るのです。

 

 パウロのこの弁明は見方によっては傲慢なようにも思えます。自分の言動は全て神によって保証されている、というようなものですから。ですが5節で「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。」と一言断りを入れていることから、彼が決して傲慢さからこのようなことを言ったのではないことがわかるでしょう。

 

 

人を義とする務め

 ではなぜパウロはこのような確信へと導かれることになったのでしょうか。そこにはパウロ自身が歩んできた道程とそのことで変えられた彼の律法への理解が大きく関係していると思われます。パウロという人はイエスを信じる前はキリスト者を迫害する立場の人間であり、またその急先鋒とも言える人物でした。そんな彼はイエスによってまさに人生を180度変えられた人物でした。

 

 なぜパウロの人生はそれほどまでにガラリと変えられたのでしょうか。そこには彼がイエスと出会う前に抱いていた律法への理解に新たな気づきが与えられたことが原因なのではないかと思います。パウロはフィリピの信徒への手紙にて自身の半生を次のように振り返っています。3:5-6「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」

 

 「律法の義については非のうちどころはない」と自認するほど、彼は律法の理解について自信を持っていました。それまでの彼にとって律法を文字通り守ることこそが信仰だったのでしょう。しかしパウロは先ほどの言葉に続けてこうも語っています。3:7-9「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 

 

 パウロはイエスと出会い、イエスを知ることによって、律法の真の意味をも知らされていきました。パウロがイエスとの出会いによって知らされたもの、それは人は律法によって義とされるわけではなく、ただ神の私たち人間に対する誠実さによって義と認められているということでした。すなわちパウロはこの時、人は律法の文字を遵守することによって救いに至るのではなく、ただ神の一方的な憐れみよって救われるということを知らされたのです。

 

 そのとはパウロの人生を真逆の方向に向けるには十分なものだったでしょう。「文字は殺しますが、霊は生かします。」という彼の言葉はまさに彼のこのような神との出会いと、そしてそこで知らされた律法の新たな理解によって導き出されたものであると言えます。パウロはガラテヤの信徒への手紙において律法を「人間をリキストの下へと導く養育係」に例えています。またローマの信徒への手紙では律法は人間に罪を自覚させるためのものであるとも語っています。

 

 

神によって造り変えられる

 つまりパウロは律法というものはあくまでキリストの前段階としての備えであったと解釈していたといえます。それゆえにこれまでの「文字」に仕える務めから「霊」に仕える務めへと新たに召されたことを語っているのです。

 

7-11節には次のようにあります。「ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。」

 

 

パウロは「文字」に仕える務めと「霊」に仕える務め、言い換えればキリストに仕える務めを対比させながら語ってはいますが、それは新しい務めの素晴らしさを強調するためであって、「文字」に仕える務めを無意味なものであるとは言っていません。しかし、パウロは人間が「文字」に仕えていたときに受けていた栄光以上のものが、キリストによってもたらされたことを伝えるために本来対立概念ではないはずの「文字」と「霊」を対比させる形で語っているのでしょう。

 

 そしてパウロはこの新たな務めに私たちが召されているということを希望として語っています。パウロがここで語りたかったことはつまり、すべてのキリスト者は、死の恐怖と人を罪に定める務めから解放されて、神の永続する栄光を共にすることが許されているということです。そしてその過程において私たちは主と同じ姿へと造り変えられていくという希望を示されています。

 

 私たち人間の力では私たち自身を変えることはできませんが、しかし神によって私たちは変えられ新しくされていきます。私たちは日々新たにされているという恵みを受け取りながら、それぞれが神に招かれた務めに応答していきたいと願います。

3月12日主日礼拝メッセージ  「何者だと言うのか」

 

人々は何者だと言っているか?

 本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合って行きたいと願う聖書箇所はルカによる福音書9:18-22です。この箇所の中心的なテーマは「イエスは何者なのか?」というものです。この問いかけはキリスト教信仰において根源的なものであり、そうであるからこそ私たち自身にも問いかけられているものです。「イエスは何者なのか?」という問いは言い換えれば「イエスをどう見ているか?」ということでもあります。

 

 今日は私たちがイエスをどのように見ているかということを振り返りつつ御言葉を聞いていきましょう。今日の箇所は「イエスが一人で祈っておられる」ところから始まっています。イエスが度々一人で祈られてたことは各福音書が伝えていることですが、ルカでは特にそれが顕著です。そしてルカはそのことをイエスの生涯において特別重要だと思われる出来事の前におくことが多いです。

 

 具体的にはヨハネからバプテスマを受けられて聖霊が注がれる前や、12人の弟子を選ばれる前などにおいてイエスは一人で祈られていることが記されています。イエスは重大な決断の前や重要な出来事の際、よくお一人神に祈られました。一人での祈りは神にこれからの行先を問うことでもあり、同時にこれまでの歩みを振り返ることでもあります。イエスはお一人で祈られることで自らの想いを父なる神の意志と重ね合わせていたのだと思います。

 

 そしてそのような祈りは私たちにも招かれ、許されている祈りでしょう。私たちは共に祈り合うことも大切なことですが、それと同じくらいに一人で神に祈ることも大切です。一人で神に祈ることは言い換えれば一人で神に向き合うことであり、それは同時に自分自身と向き合うことでもあります。自分自身のこれまでの歩みを振り返り、またこれからの歩みの行く先を見定めることは、神との個人的な祈りの中で示されていくものです。

 

 さて、イエスは一人の祈りを終えられた後、まず弟子たちに「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられています。これまでのイエスの働きで群衆たちの中ではイエスに対する噂がたっていたのでしょう。イエスについて様々な評価がされていたようです。弟子たちはイエスの問いにこう答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」 

 

 ここで挙げられている人々はみなメシアではありません。ヨハネ本人が語っていたように彼らは来るべき方の道をまっすぐにするもの、要するにメシアの先触れでした。群衆はバプテスマのヨハネと同じような役割の預言者という評価をイエスにしていたわけです。つまり群衆はまだ見ぬメシアに自分たちの思い描くメシアの姿を重ね合わせながら期待して待っていたということです。

 

 イエスはヨハネと同様に来るべきメシアの到来を告げるメッセンジャーであり、それゆえにイエスはヨハネの後を継ぐものとして群衆に人気の預言者として見做されていたのだと思います。自分たちを救うメシアが来る、というメッセージは当時のイスラエルにおいて人々が心から待ち望む希望溢れたメッセージでした。そのメッセージを人々は自分たちの夢や理想の状況を含んだメッセージとして受け取っていました。

 

 しかし、彼らが待ち望んでいたメシアは既に来ていました。ヨハネはそのメシアこそイエスであると語り、人々に説いたと思われますが、人々はそうは受けとらなかったのでしょうか。それともまた別の理由からでしょうか…。メシアが来ているということを受け入れることは、人々がもはや彼を自分たちの夢や理想に合うように作り替えることができないことを意味しています。

 

 ゆえに「メシアが来た」というメッセージよりも「メシアが来る!」というメッセージの方が人々から好まれるのです。それは当時のイスラエルでも、そして現代の私たちも同様かもしれません。私たちは私たちの理想に合わない既に来ているメシアよりも、私たちに都合の問いメシアを求めてしまいがちです。しかし、そんな私たちにイエスはこう問いかけるのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と。

 

 

あなたは何者だというのか?

 この問いというのは私たちに常に問われていることだと思います。ペトロはこのイエスからの問いに「神からのメシアです。」 と答えました。これはより詳しく言えば「あなたはヨハネや他の預言者のようなメシアの先触れではなく、あなたこそがメシアなのです」という信仰告白と同じ言葉でした。「神からのメシア」つまりメシアは「神から来るもの」との告白は、言い換えればメシアとは自分たちがコントロールできないものであることを認めることです。

 

 そのことは裏を返せば、メシアが私たち人間を神の意志に沿うように造り変えることを受け入れることでもあります。しかしそのことはただ口で告白して終わるようなものではないということをイエスは弟子たちに語られています。21-22にはこうあります。「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。『人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。』」

 

 イエスは弟子がイエスをメシアであると告白した直後に自らの受難を予告しています。この予告に示されている内容は少なくとも群衆には受け入れがたいものであったことは確かでしょう。彼らは力強く、栄光に満ちたメシアを想像し待ち望んでいたわけですから、もし人々がイエスのこの予告を聞いていたならこの時点で人々からの反感を買ってしまっていたかもしれません。

 

 結局イエスが囚われ十字架につけられていく姿を目にすることで彼らはイエスをメシアとは認めず、逆に糾弾していくわけですが、今はまだその時ではないということでしょうか、イエスはこの受難の予告を口外しないよう弟子たちを戒められています。つまりこの時点でイエスの受難の予告を聞くことができたのは弟子たちだけということになりますが、弟子たちはイエスのこの予告をどのように受け止めていたのでしょうか。

 

 今日の箇所では明言されていませんが、9:45ではイエスが二度目の受難を予告した際に弟子たちにはその意味が理解できなかったことが記されています。つまり弟子たちもまたイエスの語られた苦難や拒絶や死という概念をメシアに当てはめることができなかったということです。このことは弟子たちの思い描くメシアの姿が人々の期待するメシア像とそう大差ないものであったことを示してもいるでしょう。弟子たちはこの後イエスの死という出来事を経験することによって初めて真のイエスの理解へと進んでいくことができました。

 

苦難を通り抜けてこそ

 このような弟子たちの姿はまた私たち自身の姿でもあるのだと思います。私たちもまた自分自身の中で救い主に対する、神に対するイメージがあるでしょう。そしてそのイメージを自分勝手に当てはめてしまうこともあったりするのではないでしょうか。しかし神は私たち人間の想像通りの方でないことはイエスが語られた通りです。私たちは私たちの期待通りの神や、都合の良い神を求めてしまいがちです。

 

 ですが私たちの信仰とは、神が自分たちがコントロールできないものであることを認め受け入れることでもあります。その中においては弟子たちが体験したように苦難を通り抜けなければならないこともきっとあるでしょう。しかしまたそれを経験したからこそ初めて見えてくるものも確かにあるはずです。イエスは苦難の中にある弟子たちを決して見捨てることはなさいませんでした。

 

 むしろ苦難の中にある弟子たちを励まし、支えてくださっていました。「あなたはわたしを何者だと言うのか。」この問いをイエスから問われた私たちが自分自身がイメージする神の姿を捨て去る時、本当の意味で「神からのメシアです。」という告白へと導かれていくのだと思います。

3月5日主日礼拝メッセージ  「譬えの持つ意味」

 

本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合って行きたいと願う聖書箇所はルカによる福音書8:16-18です。この箇所はこの箇所単体で解釈するよりもその前の箇所と合わせて解釈した方がより善い理解に導かれると思いますので、そこから確認してみたいと思います。今日の箇所の前でイエスは大勢の群衆に語られています。イエスが群衆の前で語られること自体は聖書中に多くの記事で記されています。

 

 その中でも特徴的なイエスの語り方が「譬え」による語りかけだと思います。私たちも日常的な会話の中で例えを使って話すことがときにあると思います。その理由はそのままでは分かりづらい話を聞き手の身近なものに例えることによって本来分かりづらいものを理解しやすくするために用いられるものです。ですがこれと同じ感覚でイエスの「譬え話」を私たちが聞くならば、余計に理解が難しくなってしまうかもしれません。

 

 そうなってしまうであろう理由はいくつかあると思います。まずに現代日本に生きる私たちは聖書の時代の文化や慣習には馴染みがありません。先ほども言ったように例えとはそのままでは分かりづらいものを身近なものに例えて分かりやすくするわけですから例えた先の物事が身近なものでなかったなら分かりやすくなるはずもありません。イエスの語られる譬えは全てがそうではありませんが、やはり当時の時代背景や文化、慣習などを前提として語られています。

 

 ゆえにそれらが身近ではない現代日本に生きる私たちには聖書中の例え話の意味する意味がうまく伝わってこないことも多いでしょう。ですがこの理由以上にイエスの譬え話の意味を理解困難にさせている理由が他にあります。それは、そもそもイエスは聞き手にわかりやすく伝えるためという理由で譬えを用いたわけではないということです。そのことはイエスの弟子たちが譬え話の説明をイエスに求めていることからも窺えます。

 

 なぜイエスはそのようなことをされたのでしょうか。イエスは弟子たちから喩えの意味を尋ねられた際、次のように答えられています。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、/『彼らが見ても見えず、/聞いても理解できない』/ようになるためである。」 要するにイエスは分かりやすくするためではなく、むしろ意図して分かりづらくするために喩えを用いていたということになります。

 

 しかし一方で「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」と弟子たちに語っていることから全く理解できないものとして譬えを語っているわけでもありません。譬えを語られた後に「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われていることからも譬え話を通して聞き手に理解を求めていることは間違いのないことでしょう。イエスがこのように回りくどい方法で語られた理由を示す一節が今日の聖書箇所の中にあります。

 

 それが18節の言葉です。「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」ここの「どう聞くべきか」というところにイエスがあえて分かりづらい譬えを用いた 理由が込められています。「どう聞くか?」ということは聞き手自身に解釈が問われているということです。つまり、イエスが語る譬えは聞き手が語られた言葉と向き合い、そこから想像力を働かせてその言葉の意味を理解していくことを期待している方法ということになります。

 

 これは裏を返せば、ただ単に言葉の表面的な意味だけを追いかけていては決してその真の意味に辿り着けないと言うことでもあります。これはイエスの譬え話だけではなく、聖書全体にも言えることだと思います。いえ、誤解を恐れず言えば聖書全体が巨大な譬え話のようなものだと私は思います。聖書は私たち人間に与えられた神の言葉ですが、聖書に書かれている文字それ自体が御言葉なのではありません。聖書は確かにその中に御言葉を内包していますが、それを聴く私たちに御言葉を切に求める想いを要求してきます。

 

 そのような想いを持って私たちが聖書に向き合う時に初めて聖書は御言葉を語り出すのです。だからそのような御言葉を求める想いで読むのでない限り、私たちは御言葉を聞きとることはできないでしょう。イエスがあえてわかりづらい譬えを用いて語られたのは私たち聞き手にそのような御言葉を切に求める想いを持って欲しかったからなのだと思います。

 

 もしイエスの譬えがわかりやすくすぐにその意味がわかってしまうようなものであったのなら、私たちはそれ以上求めようとはしないでしょう。しかし、イエスがそう語られたようにその譬えが分かりづらいものであればこそ、私たちの中に「求める想い」が生まれていくでしょう。そしてそれを繰り返していくこことで私たちと神との関係はより強められていくのだと思います。

 

 イエスは譬えを語られた後「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われましたが、それは決して一部の人だけに理解できれば良いという意味で言われたのではないと思います。そうではなくてイエスの言葉を聞くすべての人が、そして聖書を読むすべての人が御言葉に出会うことができるようにとの招きの意味が込められているのだと思います。

 

 そのことを示すかのようにイエスは次のような譬えを語られています。「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」ここで言われている「ともし火」とは「御言葉」のことだと思われます。

 

 イエスは確かに御言葉を譬えを用いて語られましたが、しかしその本当の理由は人々に御言葉の真の意味を覆い隠すためではなかったということです。私たちが聖書の言葉を御言葉として受け取るためには、私たちが御言葉を切に求める想いが必要だとイエスはご存知だったからこそ、私たちにその想いを育ませるように導かれたのだと思います。

 

 それが私たちには一見分かりづらいと思える譬えを用いて語るという方法であり、そのことで私たちに御言葉を求める想いを持つよう招かれていたのです。そしてそのような想いを持って私たちが聖書に向き合うのであれば、御言葉は必ず明らかにされることも語られています。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」とはまさに私たちにとって必ず御言葉が与えられるという希望の言葉でしょう。

 

 これらの言葉の最後に先ほどの18節が続いています。「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる。」16-17節の意味を踏まえた上で改めてこの18節を読むと、少し受ける印象も変わってくるのではないでしょうか。最初に置かれた「だから」も「私たちが御言葉を切に求める思いで聖書を読むのならば必ず御言葉は与えられる。『だから』、どう御言葉に向き合うべきかに注意しなさい。」という自然な文脈として読むことができるでしょう。

 

 2022年度の大村古賀島教会は「御言葉に問い続ける」を年度主題として歩んできました。しかし、そのテーマはたとえ年度が変わろうともこれから大切にしていき続けたいテーマです。なぜなら神は私たちをいつも御言葉へと向き合わせようと招かれているのですから。私たちはそのことを思い起こしながらこれからも御言葉に問い続けて参りましょう。