3月31日イースター礼拝メッセージ

 

「識る」復活

 

 

ヨハネによる福音書20:1-10

新共同訳209p

口語訳175p

 

 

 今年もイースターを迎えました。イースターは私たちにとってクリスマスと並ぶほどの喜びの日です。しかし、クリスチャンでない人たちからするとクリスマスの意味は理解できたとしても、イースターの意味やその喜びというものはおそらく理解に苦しむものだろうと思います。クリスマスという救い主誕生の出来事はある意味で私たちが理解しやすい、あるいは共感しやすいものだと思います。

 

 なぜなら「生まれる」ということ、また誰かが「生まれた」ことの喜びは私たちも目で見て、理解できるものだからです。しかし、一方でイースターの喜びは「救い主の復活」からくるものです。私たちは「復活する」ということを目で見て、理解できるでしょうか?いいえ、おそらく誰一人できないと思います。私たちは「復活」を直接肉体の目で見るわけでもなく、あるいは自分の肉体に起こったこととして経験するわけでもないからです。

 

 ではなぜ私たちはイースターを喜びの出来事として受け止めているのでしょうか。このイースターの時、私たちは改めてその出来事が私たちに示す意味を考えていきたいと思います。ヨハネによる福音書は復活の出来事を誰もいない墓の場面から記しています。今日の場面において登場するのはマグダラのマリア、ペトロ、そしてイエスの愛しておられた弟子の三人ですが、三人は互い以外は誰とも会うことはありません。

 

 他の福音書ではマリアが墓において誰かしらに会うことから物語は展開していきますが、ここではそうではありません。そしてこの三人がこの場面においてとった行動もそれぞれ異なるものになっています。これらのことは何を意味しているのでしょうか。その意味も含めて考えていきたいと思います。

 

 マリアはまだ暗い中墓へと向かいました。彼女の心の内はこの時と同じようにイエスが死なれたという絶望感で真っ暗だったことでしょう。しかし、そんな中でもただじっと悲しんでいることもできなくて、イエスの墓へと向かったのかもしれません。墓には封がしてあって行ってもなにもできないと分かっていながらも彼女にできるのは墓まで行くこと、イエスに少しでも近づくことだけだったのかもしれません。

 

 しかし、そんなマリアは墓の前で驚くべき光景を目にします。なんと墓の入り口を塞いでいるはずの石が取り除けられていました。マリアはこのことを見て何を思ったでしょうか。それはその後の彼女の言葉に表れています。彼女はイエスの弟子たちのもとに走って向かうとこう言います。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

 

 彼女は墓から石が取り除けられていたのを見はしましたが、墓の中までは入っていませんでした。彼女にとって「墓」は恐れそのものだったからです。もしそこに入ればイエスの死を改めて見させられるかもしれない。そのことは彼女にとってもう一度絶望を味わうことでもありました。だから彼女は石が取り除けられた墓をただ見ただけで決して中には入ろうとしなかったのでしょう。

 

 さらにマリアは「主が墓から取り去られました」と言っています。つまり何者かによってイエスの遺体が持ち去られたと彼女は考えていたわけです。さらに「どこに置かれているのかわからない」とは彼女がイエスを遺体だけでなく、その関係性までも見失いかけていることを示唆しているのではないでしょうか。マリアはこの時暗闇から抜け出せなくなっていたのかもしれません。

 

 そのようなマリアの一方で、マリアから知らせを受けたペトロともう一人の弟子はイエスの墓に向かって駆け出しています。この二人もまたイエスの死に絶望していたことでしょう。あるいはイエスを見捨てて逃げたことへの後悔もあったかもしれません。いずれにせよこの二人もまたイエスの死に対して強い感情を抱いていることは確かなことでしょう。

 

 それゆえに走り出さずにはいられなかったのでしょう。二人は墓まで走り、もう一人の弟子の方が先についたとあります。そして彼は墓を覗きはしましたが、中には入らなかったともあります。彼もまたマリアと同じく墓を「恐れ」そのものとして受け止めていたのでしょう。その中に入ったら自分自身の中にある恐れに飲み込まれてしまいそうに感じたのかもしれません。それゆえ彼はペトロより先に着きながらも、墓の中まで入ることはしなかったのでしょう。

 

 もう一人の弟子が墓に入るのを躊躇っていると、ようやくペトロも墓に着きます。彼は前の二人とは対照的に迷うことなく墓の中へと入っています。彼にとって「墓」とは恐れそのものというよりかは、イエスとまた出会えるかもしれない場所だったのかもしれません。それゆえ彼はマリアから知らせを受けた時、イエスにまた出会えるという「期待」から走り出し、「墓」へと向かったのでしょう。

 

 しかし、彼が墓で見たものはイエスではなくイエスの遺体を包んでいた「亜麻布」だけでした。この亜麻布はいうなれば「イエスを死へと閉じ込めていたもの」です。その亜麻布だけがここにあるということは、それ自体がイエスの復活を示すものですが、ペトロはそのことに気づくことができませんでした。そして、ここで墓に入ることを躊躇っていたもう一人の弟子も墓の中へと入ってきています。

 

 彼は墓の中の光景を見ると、信じた、とあります。しかし、何を信じたかまでは聖書は語っていません。イエスの復活なのか、それとも別の何かなのかはわかりませんが、9節の言葉には少なくともこうあります。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」つまりペトロもそしてこのもう一人の弟子もまた、この時点では真の意味でイエスの復活を信じていたわけではないということです。

 

 ところで今日の聖書箇所には「見る」を意味する言葉が4回出てきます。1節でマリアが墓から石がとり抜けられていることを見ました。また、5節でもう一人の弟子は墓を覗き込んで亜麻布が置いてあるのを見ました。ここでの「見る」は原語のギリシャ語では「ブレポウ」という言葉が使われており、これは「ただ単に見る」という意味の言葉です。

 

 また7節でペトロはもまた亜麻布を見ますが、ここでの「見る」は「セオレオウ」という言葉が使われており、これは「注意深く見る、調べる」という意味があります。そして最後8節の「見て」は「エイドン」という言葉であり、これは「見て、理解する」という意味があります。このようにこの箇所では三つの意味の「見る」という言葉が出てくるわけです。

 

 しかし、いずれの「見る」においてもイエスの復活を「見る」ことはできなかったわけです。パウロは「見る」ことに関連してコリントの信徒への手紙 二5:7で次のように語っています。「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」と。私たちはイエスの復活を「見る」でしょうか。いいえ、いずれの「見る」をも超えて、私たちはそれを「識る」のです。

 

 「識る」とは単に知識として「知る」わけではなく、そのことを全身全霊で受け止めて自分の事柄とすることを意味します。その時初めて私たちはイエスの復活を自分自身に関係のあることとして、そしてそれゆえに喜びの出来事として受け止めることができます。それはそれぞれが神との関係において「識らされて」いくことでもあります。私たちはそのことを通して今も働かれる復活の主と出会うからです。

 

 私たちが神から「識らされた」復活、この福音の出来事を共に喜び合いたいと思います。イースターおめでとうございます!

3月17日主日礼拝メッセージ

 

真の光の道標

 

 

ヨハネによる福音書12:27-36a

新共同訳192p

口語訳161p

 

 

 現代では当たり前ですが夜であっても必ずどこかしらに光が灯っています。道路の街灯だったり、街の建物から漏れる光だったり、あるいは車のライトの光だったりと私たちは真の意味で真っ暗闇を経験することはそうそうありません。しかし、そのことは聖書の時代では全く異なることでした。人口の光がない古代世界では月明かりだけが唯一の夜の間の光だったからです。

 

 もしこの月が雲に隠れでもしたら、それこそ真っ暗闇に包まれてそこから一歩も動けなくなってしまったこともあったことでしょう。このように古代世界では今以上に光の有無は切実な問題でした。そして聖書には「光」に関する多くの記述が残っています。それらは文字通りの光というよりかは何らかの例えとして用いられていることが多いですが、しかしそれでも聖書が語る「光」もまた意味するところは同じなのだと思います。

 

 つまり、「光」は私たちにとって必要不可欠なものであり、同時に私たちの行く手を照らし、指し示し、そして暗闇の中で希望を与える存在だということです。そのような存在として「光」を捉えていくのならば、聖書が語る「光」がまた違ったものとして見えてくるのではないでしょうか。今日はそんな聖書が語る「光」について考えていきたいと思います。

 

 今日の聖書箇所はヨハネによる福音書12:27-36aです。過越際を前にエルサレムに入られたイエスが十字架を目前にして弟子以外の人々の前で語られる最後の場面になります。まず27節にはこうあります。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」

 

 このイエスの言葉からはイエスご自身の相反する感情が伺えます。十字架の出来事は私たちにとっては救いの出来事でしたが、イエスご自身にとって紛れもなく苦難の頂点とも言える出来事でした。「神との関係の断絶」という究極の苦しみを引き受けられることは人としてこの世界に来られたイエスにとって心騒がせられるには十分すぎる出来事だったことでしょう。

 

 ご自身の救いを祈らんとするほどにこの時イエスは人の抱える弱さをご自身の身で経験されていたのだと思います。しかし、一方で「まさにこの時のために」と、ご自身がこの世界に来られた目的である十字架と向き合う覚悟をも語られています。そして「父よ、御名の栄光を現してください。」と続けられています。ここで語られている「栄光」という言葉、その意味するところは何でしょうか。

 

 その答えはイエスの言葉に応えられた父なる神の言葉の中にあります。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」この言葉によれば栄光はすでに現されているものであり、イエスの十字架が初めてのことではないということがわかります。つまり、「栄光」とはこれまで人々に示されてきた神がご自身を示された出来事全てを指しています。

 

 ヨハネによる福音書においてイエスが人々の前でなされた奇跡の一つひとつはもちろん神の栄光を現された出来事ですが、その出来事の外側、つまり奇跡の現象によって神は私たちに栄光を示されたのではありません。そうではなくてその奇跡の本質によって私たちに神の栄光、言い換えれば神がこの世界に確かに働きかけておられることを私たちは識るのです。

 

水をぶどう酒に変えた奇跡の本質は、これまでにない新しい出来事を神が始められるということでした。5000人の給食の奇跡の本質は、私たちが気づかない恵みを神は確かに備えてくださっているということでした。盲目の人の目を開かせた奇跡の本質は、私たちの閉じている霊の目を神が開かせてくださるということでした。そして死者を蘇らせた奇跡の本質は、神との関係の中に入れられることこそが復活であり、命であるということでした。

 

 それらの奇跡の本質はその現象は異なるにせよ今を生きる私たちの間でも起こっていることではないでしょうか。だとすれば私たちも神が表される栄光を今もこの目で見ていることになります。神は今もなおその栄光を現し続けてくださり、私たちにご自身を示し続けてくださっているのです。私たちが神を信じるという決断に導かれることも一つの奇跡なのですから。

 

 イエスの言われた「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」というのは、まさに奇跡の一つひとつは私たちのために、さらに言えば私たちが神を認識し、信じるために神が備えてくださったものだということを示しています。そして、その奇跡の内でも最大のものがイエスの十字架に他ならないことを私たちはすでに聞いています。

 

 イエスは十字架を前にして群衆に語られます。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。この世の支配者とは何でしょうか。それは具体的な誰かと言うよりかはこの世を支配しているかに思える権力や武力やその他あらゆる諸力のことを指していると思われます。

 

 つまり、それらが追放されるということはそれらの諸力に隷属させられていた世界から神の完全なる支配が広がる世界へと移り変わることを意味しています。イエスが語られるこの世の裁きとはそのことを指しているのです。そして、そのために神が起こされる奇跡がイエスの十字架であるわけです。十字架はこの世の基準で考えれば、「死」と「罪」の象徴です。

 

 しかし同時に、その十字架は神によって「救い」と「栄光」の象徴として用いられることになります。私たちは十字架で神の逆転劇を目撃するのです。そしてそれは世界全体に届けられている救いです。「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」イエスのこの言葉は、救いは全ての人類へ、さらに言えば全ての被造物へと向かっていることを示しています。

 

 そしてこの救いは全ての人の前で輝く「光」でもあります。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」。「光」は私たちに届けられていますが、同時に私たちは容易く光を見失ってしまう存在でもあります。光を遮るためにこの世のあらゆるものがそれを隠してしまうからです。だから私たちはその光を暗闇の中を歩くための道標として決して目を離さずに歩いていくことが求められています。

 

 私たちが真の光を道標にしている限り、暗闇が私たちに追いつくことは決してありません。なぜなら、私たちは私たちの力ではなく、イエスによって引き寄せられて、神との関係の中で守られ続けているのですから。

 

 

 

光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。

3月10日主日礼拝メッセージ  苦難の意味は

 

 

ヨハネによる福音書12:1-8

新共同訳191p

口語訳160p

 

 

 私たちは今受難節の時を過ごしています。この時期というのは私たちにとってイエスが通られた苦難を思い起こす時です。そして私たちが毎年そのことをするのは私たちがその意味を覚え続けるためです。なぜなら私たちが受け取った救いの裏には、このイエスの苦難というものが必ずあるからです。私たちはそのことを無視して、あるいは見えないふりをして救いに入るということはできません。

 

 イエスの苦難と私たちの救いは表裏一体であり、だからこそ教会は十字架を救いのシンボルにしてきたのですから。ではイエスの苦難とは一体どのようなことであったのか、みなさんはどのように受け止めているでしょうか。聖書にはイエスは数々の侮辱を受け、鞭で打たれ、弟子たちにも逃げられて、十字架につけられ、死なれたことが書かれています。

 

 確かにイエスが受けられた苦難は表面的にはその通りのことで間違い無いでしょう。しかし、それらはイエスが受けられた苦難の本質ではありません。その本質にこそ私たちの救いと表裏一体であることの意味が隠されています。イエスの苦難を改めて受け止め直す時に、私たちの救いもまた新たな意味をもつものとして私たちに迫ってくるはずです。

 

 今日はそのようなイエスの苦難の意味をご一緒に聖書から聴いていきましょう。今日の聖書の場面はベタニアという村です。このベタニアはラザロの復活という奇跡が起こされた場所でした。そのことはつまり、神の業が示された場所であることを示しています。そして、イエスはこのベタニアを一度は離れられましたが、「過越際の六日前」に再びこのベタニアに立ち寄られたことを聖書は語っています。

 

 「過越際」は神が出エジプトによってイスラエル民族を救った出来事を記念して行われる祭りで、ユダヤ人はその時期になると毎年エルサレムに登っていました。つまりイエス一行もその過越祭に向かう途中、このベタニアに立ち寄ったということです。なぜわざわざイエスはベタニアに行かれたのでしょうか。ラザロの一件も終わって、「過越際」も迫る中、もう一度このベタニアに行く理由は見当たらないように思えます。

 

 しかし、そこには明確な理由が当然ありました。それはこれからイエスが受けられる苦難を示唆するとともに、そのイエスの苦難によって人々に与えられる救いの「形」を示すことにありました。それは一体どのようなことなのか…それはこの場面で描写されている一つひとつの要素を繋ぎ合わせていくと見えてきます。まず初めに確認したいのは、ここで描かれているのは食事の席であるということです。

 

 そしてそこには多くの人がいたことが想像できます。中でもラザロ、ラザロの兄弟であるマルタとマリアの姉妹。そしてイエスの弟子たち、最後にイエスご自身と多くの人たちがその場に居合わせていたことがわかります。当然ながらそこにいた人たちは立場も状況も、そしてそれぞれの人物がここで行なっている行為も異なっています。

 

 そしてそのそれぞれが行なっている行為には象徴的な意味があります。まずマルタは給餌をしていたとあります。イエスのために、そして他の客のために奉仕をしていました。つまりマルタは「奉仕をする者」の象徴です。次にラザロです。彼は「イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」とあります。彼は特に何もしてはいなかったのですが、彼はイエスに復活させられた者としてこの中の誰よりもイエスに感謝していたことでしょう。つまり、ラザロは「神に感謝する者」の象徴です。

 

 そしてマリア、彼女は純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの足に塗った、とあります。彼女は自分の持っている最高のものをイエスに捧げていったことから、マリアは「捧げる者」の象徴でしょう。最後にそのマリアの行為を非難したイエスの弟子のイスカリオテのユダはどうでしょうか。彼は「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と一見もっともらしいことを言ってはいます。

 

 しかし、その実、彼は自分の罪を棚に上げてマリアを非難していたわけですから、彼は「訴える者」の象徴としてここに登場しているのでしょう。このようにこの食卓の登場人物それぞれには象徴的な意味があり、そしてそれら異なる者たちが一堂に食卓についているという点こそが、イエスの苦難によって人々に与えられる救いの「形」そのものなのだと思います。

 

 この食卓についている人々は立場や状況や働きやその他あらゆる違いがありながらも、誰一人としてこの席から排除されてはいません。自分の罪を棚に上げて他者を非難していたユダでさえそうなのです。このことはつまり、神の救いというものが全ての人に開かれているものであることを私たちに示しています。そしてそうであるからこそ、イエスの死は全ての人のための死であったことに繋がってくるのです。

 

 ではイエスの苦難の本質とは一体なんなのでしょうか…イエスの死は私たちの救いと表裏一体なのでしょうか。それはイエスが受けられた苦難、そして死の意味が「神との関係の断絶」に他ならなかったからです。イエスは人々から侮辱され、弟子たちからも逃げられて、そして最後には一度は神に見捨てられて、十字架の上で死を経験されました。

 

 イエスは十字架上で他者との全ての関係性を断ち切られました。そしてそのことは本来私たち人間が受けるべき罪の代価であったわけです。イエスが引き受けられた「死」は本来私たちが受けるべき裁きでした。私たちは神との関係を断ち切られて、その関係の中で生きることができない状態、つまり真の意味での「死」を受けるべき存在だったわけです。

 

 イエスが言われた「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」という言葉にはこれからご自分が受けられる「死」があらゆる意味で決定的なものであることを示唆したものだったのです。そしてイエスが語る「貧しい人々」とは人類全てのことを指しているのでしょう。私たちは皆一人ひとり貧しい存在ではありますが、互いの関係が断ち切られることはありません。

 

 なぜならイエスが「関係の断絶」という「死」を代わりに負ってくださったからです。だから私たちはこのイエスの苦難を、イエスの「死」をこの受難節の度に思い起こすのです。そしてその神の救いの出来事が全ての人に届いているということを教会は証し続けるのです。私たちは一人ひとり立場も状況もその他あらゆるものが異なるものではありますが、一人ひとりが神から招かれて、今こうして同じ食卓を囲んでいるのです。

 

 そのような神の救いとそれをもたらしたイエスの十字架の出来事に感謝しつつ、この受難節の時を過ごして参りましょう。祈ります。

 

 

 

この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

3月3日主日礼拝メッセージ  「ここ」にいる神

 

世の中には多くの「神」と呼ばれているものが存在しています。もちろんそれらは私たちクリスチャンにとっての神ではありませんが、それぞれの信仰において「神」と呼ばれていることは確かなことだと思います。そしてそこには様々な神の姿が語り継がれていて個性豊かな神の姿を見ることができたりします。それと同じとまでは言いませんが、私たちが信じる聖書が語る神、ヤハウェもまた強烈な個性を持った方であることは皆さんご存知の通りだと思います。

 

 その中でも聖書が語る神の最大の特徴はどんなものだと皆さんは考えておられるでしょうか。実はその特徴は聖書の最初から最後まで一貫して語り続けられているものであり、それこそが私たちの信仰を支えているものと言っても過言ではないものなのです。今日は私たちが信じる神の個性、特徴を振り返りながら、御言葉を聞いていきたいと思います。

 

 今日の場面はイエス一行がベタニアという村に来た時のことです。そこにはラザロという病人がいましたが、イエスが到着したときにはすでに亡くなっていました。ラザロにはマルタとマリアという兄弟がおり、この時点ですでにイエスと面識があったようです。当然のことながら自分の兄妹が亡くなったことで、悲しんでいたマルタはイエスがこられたのを知ると彼に駆け寄り言います。

 

 「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。このマルタの言葉に皆さんはどのような印象を受けられるでしょうか。前半だけ見れば、どこかイエスを非難しているような印象も受けるかもしれません。

 

 しかし、一方で後半部分ではイエスが神に願うのならば…とイエスを信頼しているような言葉もあります。ゆえにこのマルタの言葉は解釈が難しい部分があると思いますが、この発言のキーとなるのは「もしここにいてくださいましたら」という部分にあります。実はこのマルタの言葉は後の32節にて彼女の姉妹であるマリアも全く同じ言葉をイエスに言っているんですね。

 

 そのことはそれだけこの場面においてこの言葉が重要な意味を持っていることを示唆しているからでしょう。ではその意味とはなんなのか。それは彼女たちがイエスがこことは違う場所にいたことを示すもの、さらに言えばラザロの側にはいなかったと思っていたことを示す言葉だということです。確かにイエスはラザロが亡くなった時、物理的にはベタニアにはいなかったかもしれません。

 

 しかし、イエスがこれからマルタに語ろうとしておられることはそのような次元の話ではないのです。イエスはマルタに「あなたの兄弟は復活する」告げます。それに対してマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えています。このイエスとマルタの会話は一見噛み合っているかに思えますが、ここでイエスが語る「復活」とマルタが信じる「復活」は実は異なっています。

 

 イエスはマルタに語られます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。イエスは自分自身が復活であり、命である、と語っておられます。まずこのことの意味を考えてみたいと思います。2週間前の宣教でイエスは「大祭司」であるというヘブライ人への手紙の箇所を私たちは読んだと思います。

 

 そこにおいてイエスは父なる神と私たち人間とを仲介してくださる祭司の役であることを私たちは受け取ったかと思います。イエスは父なる神と親しい関係を持っておられる方であり、同時にイエスご自身も私たちと親しい関係を持ってくださる方であるわけです。つまり、イエスは父なる神と私たち人間との関係を繋ぐ存在であるわけです。私たちが祈りの最後に「イエス・キリストの御名によって…」と祈るのはイエスを通して父なる神と関係が繋がっていることを思い起こすためでもあります。

 

 そうであるならば、イエスが言われた「わたしは復活であり、命である。」の意味が見えてくるのではないでしょうか。つまり、このイエスの言葉を言い換えるならばこうなります。「神との関係に繋がれていることこそが復活であり、命である」と。イエスは神との関係概念こそが私たちにとっての復活であり、命であり、さらにいうならば救いであるとここで語られているわけです。

 

 マルタは「復活」とは終わりの日にこそ神が与えられるものだと考えていましたが、実はそうではないのです。イエスという神と私たちとを繋ぐ存在、換言すれば神と私たちとの関係こそが復活であり、命であり、また救いなのです。そうであるからこそ、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」という言葉もその意味が明らかにされるでしょう。

 

 「信じる」とは「信頼する」ことです。そして「信頼」することは信頼される者と信頼する者との間に関係性が必要不可欠です。イエスはこの場面においてマルタという個人と向き合っておられます。そしてその中で彼女に語りかけ、そしてその応答を求めておられることに私たちは気づくはずです。「このことを信じるか」。神はマルタとの信頼関係を築かれ、そしてその関係をより強いものへされようとしています。

 

 私たちもまたこのマルタと同じような経験があったりはしないでしょうか。私たちは時に私たちに振り抱える困難に神に対して「もしここにいてくださいましたら」と抗議する時があるかもしれません。しかし、マルタがそう思っていたように、また私たちがそう思っているように、神は果たしてそこにおられなかったのでしょうか?ラザロが亡くなった時、神はラザロの側におられたのではないでしょうか。

 

 なぜなら神はまたラザロとも親しい関係を持ってくださっていたはずですから。そしてその関係の中に入れられている限り、たとえ死んでも生き、決して死ぬことがないことをイエスはマルタに、そして私たちに語っておられるのです。聖書が語る神の姿はまさしくこの私たち人間との関係をこそ最も大切にされる方です。アダムとイブが神に背き、隠れていた時、彼らを呼ばれたのは神でした。

 

 アブラハムに約束を与え、その人生を変えたのは神でした。苦難に喘ぐイスラエルの声を聞き、モーセを召し出し、出エジプトの旅路を導いたのは神でした。迫害者であったパウロと出会い、その目を開かせたのは神でした。それら全てのことは神がその一人ひとりと出会ってくださり、親しい関係を結んでくださったからこそ彼らの中で命となり、復活となり、そして救いとなっていったことなのです。そしてその神の出会いは私たちもまた受け取っているものでもあります。

 

 だから私たちもまた神からの問いかけにこう信頼をもって応えていこうではありませんか。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と。祈ります。