1月29日主事て礼拝メッセージ  「真の安息」

 

本当の「安息」日とは?

 みなさんは日常的にしっかり休めているでしょうか?忙しくてなかなかしっかり休めていないという方もおられるかもしれません。有名な話ですが「忙しい」という漢字を分解すると心が亡びるとなります。人間はあまりに忙しすぎると段々と心が落ち込んでくるものです。もちろん肉体的にも厳しくなってくると思いますが、肉体以上に心が疲弊してくることを先人は重く受け止めていたのかもしれません。

 

 そのような心が亡びるような状態にならないために私たち人間には休息が必要不可欠です。私たちは適切な休息をとることで心身ともにリフレッシュできますし、そのことがまた新たな働きへの活力にもなるでしょう。そのことは昔も今も、そしてどんな場所に生きる人でも同様でしょう。聖書にもそんな人間にとって必要不可欠な休息について語っている箇所が何箇所もあります。

 

 聖書において休息と言えばやはり創世記において神が天地創造の業を終えられた七日目に休息されたことが印象深いのではないでしょうか。そして、神がモーセに与えられた十戒の中に初めて「安息日」という言葉が出てきます。これ以後イスラエルでは神の創造の業を思い起こすと共に、神の恵みと祝福に感謝して過ごす日として大切にされていきました。

 

 しかしイエスが地上で宣教をされていた時代、「安息日」の在り方は時代の移り変わりと共に変質し本来の意味から離れてしまっていました。今日の箇所で登場するファリサイ派の人々は律法遵守に関して非常に厳しいことで有名な人たちでした。彼らは神から与えられた律法の他に「ミシュナー」という律法に関する独自の注釈を作り、それを代々口頭で伝達していました。

 

 この「ミシュナー」を簡単に言えば「律法をうっかり破ってしまわないための安全装置」のようなもので、相当事細かなものであると言われています。そのミシュナーの量は時代を重ねるごとにどんどん増えていきイエスの時代には膨大な量になっていました。特に安息日をどのように過ごすかは彼らにとっての最大の関心事であったため、「安息日」に関するミシュナーはより細かく定められていたものと思われます。

 

 そんなミシュナーによりこの時代の人々は安息日本来の意味である「神の創造の業を思い起こすと共に、神の恵みと祝福に感謝して過ごす日」として過ごすことが難しくなっていました。なぜならミシュナーの細かい規定によって様々なことが禁止とされ、多くの人によって「安息日」は「安らかに息をつく」どころか非常に息苦しく過ごさなければならない日となってしまっていたからです。

 

 

人を縛る律法でなく、人を解放する律法へ

 今日の聖書箇所では安息日に関する二つの物語が語られています。一つ目の物語はイエス一行が麦畑を通られた場面です。空腹だったイエスの弟子たちは麦の穂を摘んで、手で揉んで食べてしまいました。私たち現代の価値観からするとこの行為はとんでもない行為のように思えるかもしれません。畑の所有者の了解を取らずに勝手に麦を摘んでしまっているわけですから。

 

 ですが、聖書の時代の価値観からすると、この弟子たちの行為というのはそこまでとんでもないものというわけでもありません。それどころかこの弟子たちの行為は律法で認められている行為だったのです。申命記23:26にはこのようにあります。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」この律法は貧しい人に対する福祉のために備えられたものでした。

 

 このことを知らずに私たちの価値観から測ると驚きますが、律法においてはこの弟子たちがした行為は正当なものであったことがわかります。ではなぜファリサイ人たちは弟子たちのこの行為を咎めたのでしょうか。それは彼らの発言にある通り、弟子たちがそれらの行為をしたのが「安息日」であったからという一点に尽きるわけです。つまり、弟子たちが行った麦の穂を摘むことやそれを手で揉む行為が「刈り入れ」や「脱穀」という労働行為にあたることであると彼らは見做していたわけです。

 

 「安息日」には人間は全ての労働をやめなければならない。ゆえに労働に該当する「刈り入れ」や「脱穀」をしている自分の弟子たちをなぜ注意しないのか?と彼らはイエスに詰め寄っているんですね。そんな彼らに対してイエスは次のようにお答えになっています。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。 神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。」

 

 イエスは聖書の箇所を引用しつつ彼らに答えることで、本当に大切なことは何であるのかということを逆に彼らに問い返しているように思います。律法の字面を優先するあまり、律法に込められた本当の意味を見失ってしまっているのではないか?そのようなことをイエスは彼らに問いかけているのではないでしょうか。本来人を解放するはずの律法がそれとは真逆の人を縛り付けるものになってしまっていたからです。

 

 

必要を満たしてくださる神

 ファリサイ人たちは律法の字面としての遵守を重んじるあまり、律法本来の意味を見失ってしまっていました。そのことはまた今日の箇所での二つ目の物語にも示されています。ここではイエスが手の不自由な人の癒しを行ったことが問題にされようとしています。このことももちろん安息日に行ったからということが問題にされたわけです。彼らは癒しに関して命に関わる場合には安息日であっても例外として癒しを認めていましたが、そうでない場合は認めてはいませんでした。

 

 ここでは手に対する癒しですから、彼らのルールにおいては例外に当てはまらないため律法違反になってしまうわけです。イエスは先ほどの麦の一件での答えを受けても何も気づかない彼らに今回はより直接的に問いかけを返されています。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」 

 

 このイエスの問いかけは「律法の本質とは何か?」と問いかけているに等しいものだと思います。「この一番忘れてはならない律法の本質をあなたたちは忘れてしまったのか?」とイエスは彼らに問いかけているのです。律法の目的は本来、善を行うことであり、命を救うことのはずです。そのための指標として律法が与えられたのですから。しかし、長い時の中でその本質は失われ、代わりに律法の字面を守るという形式的な部分だけが残り、それが重要視されるようになっていまいました。

 

 イエスはそんな律法の現状に切り込まれ、本来大切にしなければならないものをもう一度見つめ直すようにと問いかけられているのです。そして「安息日」とは本来神が人のために備えられた恵みであるはずです。しかしファリサイ派の人々はその「恵み」を「重荷」へと変えてしまっていました。

 

 私たちもそのように本来「恵み」であるはずのものを「重荷」に変えてしまっていることが時にあったりするかもしれません。本来自分を解放してくれるはずの御言葉を自分やあるいは他者を縛り付けるものにしてしまう時があるかもしれません。しかし、神は束縛ではなく解放を、そして重荷ではなく「安息」を与えてくださる方です。

 

 私たちはそのことを御言葉を読むたびに思い起こしつつ、神が与えてくださる安息を感謝して受け取りたいと願います。

1月22日主日礼拝メッセージ  「今日の恵みを確かめて」

 

福音書記者ルカの意図

 本日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はルカによる福音書4:16-30です。この箇所はマタイによる福音書とマルコによる福音書にも同様の記事がある箇所ですが、このルカによる福音書では他の二つの福音書にはない特徴が二つあります。特徴の一つ目は他の福音書に比べてより詳細に書かれているということです。

 

 他の二つの福音書ではイエスがナザレで受け入れらなかったということだけが端的に書かれているだけですが、ルカではイエスの安息日の会堂での様子などが細かく描写されています。そして特徴の二つ目が時間的な順序を無視しているということです。これはどういうことかと言うと、この記事より後に書かれている出来事がこの記事の中で既に起こったこととして描かれている点です。

 

 23節でイエスはこう言われています。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 このイエスの言葉によれば既にイエスがカファルナウムで癒しの業をされたことが前提になっています。しかし、そのことは今日の箇所のあとである31節以降で語られている出来事なのです。

 

 普通物語は時系列的に語られていくのがセオリーですし、そのほうが読者も理解しやすいので特別な理由がなければそのようにするはずです。この箇所があえてそのセオリーを無視して書かれているのには何かしらのルカが意図したことがあるからだと思います。ではなぜルカはこのように他の二つの福音書には見られない大きな特徴を持たせてこの出来事を語ろうとしたのでしょうか。

 

 そこには、ルカがこれから語るイエスという人物の紹介をまずしたかったからではないかと思います。というのもこの箇所はイエスがガリラヤで伝道を始められたことが語られた直後に置かれています。つまり、これから本格的にイエスの宣教が始まっていくという中でイエスという方がどのような方であるのかをここで読者に紹介しておきたかったという意図があったのだと思います。

 

 ゆえにルカはあえて時系列的には矛盾する位置にこの記事を置き、その代わり詳細にイエスの姿を描くことで読者にそのことを前提とした上でこれから先の物語を読んでもらおうとしたのだと思います。ではルカがそうまでして紹介したかったイエスの姿とはどのようなものでしょうか。

 

 

イエスの宣教の始めに

 まず冒頭の16節を見てみたいと思います。「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。」ルカはまずイエスが会堂で礼拝されているところを紹介しています。イエスが会堂で教えられたり、お一人で祈っているという箇所はいくつもありますが、会堂で他の人々と共に礼拝をしているという描写はあまりありません。

 

 ルカはこうしたイエスの姿を描くことで礼拝の中に伴われるイエスを紹介したかったのだと思います。私たちと共に祈り、御言葉を聞かれるイエスは私たちにとって身近な存在のように感じられます。旧約時代の礼拝は神殿や幕屋で行われ、かつ祭司などの限られた人々しか参加できませんでした。また、儀式ばった形式的な内容が礼拝の多くを占めていました。

 

 ルカはイエスの到来によって礼拝の形も移り変わっていったことを伝えようとしたのではないかと思います。すなわち神もまたその礼拝のただ中におられ、そして多くの人々に御言葉によって語りかけるという礼拝です。そのことを示すようにここでは御言葉の朗読をされるイエスが描かれています。礼拝の中心が儀式から御言葉へと移り変わっていったことが示されています。

 

そしてイエスが読まれたイザヤ書の箇所もイエスがどのような方であるのかを指し示すものでした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」 

 

 イザヤが預言したこの言葉はこれからのイエスの歩みそのものといっていいものでしたが、イエスはこれにつづけて「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われています。時系列的にはこれから起こることをイエスはすでに実現したと語られています。イエスがなぜこのように言われたのかという疑問の答えは後ほど考えていくとして、イエスに対する反応は様々であったことを聖書は伝えています。

 

イエスの故郷の人々

 22節にはこうあります。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか。』」 この人々はナザレの人々でイエスを子供の頃から知っていたであろう人々です。ゆえにイエスの言葉を聞いて素直に褒めた者もいたものの、多くはイエスのことを訝しんだのかもしれません。同郷でヨセフの子であったイエスは彼らにとっていわば身近な存在でした。

 

 人は身近な存在やもののことを他の人よりも知っていると思いがちです。そしてそのことが意識的にせよ無意識的にせよ特権意識を生んでいきます。そのことを示すかのようにイエスは彼らにこう言われます。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 

 

 このイエスの言葉は先ほども申し上げた通り、イエスが既にカファルナウムに行かれたことを前提としている発言です。イエスはカファルナウムで多くの癒しをされました。そのことが郷里のナザレの人々にも既に広まっていたのでしょう。そのことを知った彼らが要求してくることを先取りしてイエスはここで語られています。またイエスは聖書の出来事を引用されて彼らの心のうちを曝け出そうとされています。

 

 25-27節にはこうあります。「確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 

 

 ここでイエスが引用されている聖書の出来事はそのどちらもが神に最も近いと自負していたイスラエルよりも、むしろ神から遠いと見做されていた異邦人に救いが与えられていったことを伝えています。つまりここでイエスが語ろうとされたこととは身近であるということが生む特権意識への警告なのだと思います。イエスに近いナザレの人々、神に選ばれたイスラエル、そして私たち教会、一人ひとりのクリスチャンにも向けられた言葉でしょう。

 

 私たちだけが神を知っている、神に救われているという特権意識を持つならば、イエスは私たちにもまたナザレの人々にかけられた言葉を語られるでしょう。ですが私たちがそのような特権意識ではなく、別の方向に目を向ける時、私たちは神が確かに私たちに関わってくださっていることを実感することができるでしょう。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」

 

イエスのこの言葉の真の意味は神の御言葉は必ず実現するということ、そして「今日」あなたに与えられている恵みが確かにあることを思い起こさせるものなのです。イエスは私たちといつも共にいてくださり、御言葉を語りつづけてくださり、今日の恵みを数えるようにと教えつづけてくださっています。私たちは神の言葉を受けたものとして驕ることなく、一つ一つの恵みに感謝して今日を生きていきたいと願います。

1月15日主日礼拝メッセージ  「お言葉ですから」

 

イエスの評判

 本日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はルカによる福音書5:1-11です。イエスが弟子たちをお招きになる有名な箇所でマタイ福音書やマルコ福音書にも同様の記事があります。しかし、このルカ福音書の弟子召命の記事はマタイやマルコのそれと比べて異なる部分が多いのです。このように福音書には同じ出来事の記事であっても、それぞれで細部が異なるものが多くあります。

 

 なぜ同じ出来事を伝えるための記事であるのにそれぞれで内容が異なっているのでしょうか。その理由は様々ありますが、その中でも最も重要な理由は各福音書記者たちがその出来事の記事を通して読者へ伝えたいメッセージがそれぞれ異なっていたからということだと思います。そうであるならば、私たちはそれぞれの記事の違いを歴史的な矛盾としてではなく、御言葉の豊かさとして受け止めていくことができるでしょう。聖書は歴史書ではなく、神のメッセージが内包された書物だからです。

 

 そのことを踏まえて今日の箇所を読んでいきたいと思います。まず1節にはこうあります。「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」ゲネサレトというのはルカが使うガリラヤ湖の名前ですから、場所の点で言えばマタイとマルコと共通しています。ですが、ルカではガリラヤ湖畔におられたイエスに群衆が殺到しています。

 

 これはマタイとマルコにはありません。マタイとマルコで描かれているイエスがガリラヤで伝道を始められてすぐに弟子をお招きになったのに対し、ルカ福音書では弟子をお招きになる前に方々で癒しをされたり、教えを語られたりしたことが記されています。ゆえにこの時点でイエスの評判はそれなりに高まっていたのでしょう。そんなイエスに群衆が殺到したのも不自然なことではないでしょう。

 

 イエスは漁師であるシモン、後のペトロの持ち舟に乗られて舟の上から教えられました。このことからこの時点で既にイエスの群衆からの人気はかなり高かったことが伺えます。そのことはもちろんイエスを自分の舟に乗せたシモン自身もわかっていたことでしょう。噂に聞いていたイエスを間近で見、そしてその教えを聞いたシモンはどのような想いだったのでしょうか。やはり噂通りの人だと思ったのでしょうか。

 

お言葉ですから…

 そしてイエスは話し終えられるとシモンにこう言われました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」シモンにしてみればこのイエスの言葉は予想外の言葉だったでしょう。確かに今舟には乗っているものの、それはイエスの宣教の場所を確保するためであって、漁のために舟を出したわけではないからです。しかも自分達は既に一晩中漁をした後でした。

 

 それでも収穫は一切なかったのです。にもかかわらずイエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われる。これを言われたシモンの感情は最初の驚きからやがて怒りに変わっていったのではないでしょうか。イエスが自分をからかっているのかと思ったかもしれません。イエスは漁に関しては素人で、自分達はプロの漁師、その自分達が一晩中漁をしたにも関わらず何も獲れなかった。

 

 どう考えても今漁をしても何も獲れるわけはないことはシモンが一番よくわかっていることだったでしょう。シモンはイエスのこの言葉を拒否することもできたはずです。いえ、普通に考えればむしろ拒否する方が自然です。シモンの漁師としての経験からも獲れないことはわかっていましたし、なによりもシモンもプロの漁師としてのプライドがあったでしょう。

 

 自分の自信があることに全くの素人に的外れなことを言われた時、誰しもそのプライドを傷つけられたかのような思いになるのではないでしょうか。つい、ムキになってつっぱねてしまいがちだったりするでしょう。ですがシモンはここでそれとは違った返答をイエスに返しています。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」

 

 シモンは自分達が既に漁をしたことを断りつつも、しかしイエスの言う通り再び漁をすることを承諾します。なぜシモンはこのような応答をしたのでしょうか。先ほども言ったように普通に考えればイエスの言葉を拒否してしまいたくなる状況です。シモンが自分の経験と自信に信頼すれば、きっとイエスの言葉を拒否していたことでしょう。

 

 ですが彼はおそらく内心様々な葛藤があったであろうにも関わらず最終的にはイエスの言葉を受け入れる選択をしました。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」この言葉はシモンの状況を考えればなかなか簡単に出てくる言葉ではないでしょう。なぜならシモンにとってイエスにこの応答をすると言うことは今まで自分が頼りにしてきたものを捨て去ることに等しいからです。

 

 シモンはこれまで自分の経験やそれに裏打ちされた自信に頼って生きてきました。言い換えれば自分自身の力に頼って生きてきたわけです。しかしここで彼はそんな自分に頼る生き方からイエスに信頼する生き方へと一歩踏み出したのです。なぜシモンはそんな決断をイエスに会って間もないにも関わらずすることができたのでしょうか。

 

 確かに彼はこの時イエスに会ったばかりだったでしょうが、しかしイエスのことを伝え聞いてはいたはずです。イエスの行動、イエスの言葉を人から聞き、そして先ほどは同じ舟の上という一番近くでイエスの語る言葉を聞いていました。だからこそシモンは自分の経験では考えられないようなイエスの言葉にも応えていくことができたのではないでしょうか。

 

 

人間をとる漁師としての教会

 このシモンが直面した状況はまた、私たちにも当てはまることでしょう。私たちもまた聖書からイエスの言葉を知らされています。それは私たちが直接体験したことはないものですが、それを聞かされているからこそ私たちは神がどのような方であるのか、そして神はどんな約束をしてくださっているかを識ることができます。

 

 シモンが「お言葉ですから…」という応答をした時点では彼はまだ神の出来事を体験してはいません。そうであるにもかかわらず彼がイエスの言葉に従って応答することができたのはイエスがまず彼に近づいてくださり、そして彼もまた聞かされた言葉からイエスを信頼する決断をしたからこそなのだと思います。

 

 このシモンのように私たちはいつもイエスから招かれているのです。自分自身に信頼する歩みではなく、イエスに信頼を置く歩み、すなわち信仰へと招かれています。この後シモンはイエスの言葉に従って漁に出た結果、舟が沈みそうになるほどの大漁を経験します。しかし、それはシモンにとって大きな人生の転機となりました。

 

 イエスはシモンにこう言われます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」この言葉はまた私たち一人ひとりに向けられているイエスからの招きでもあります。私たち教会に集められた一人ひとりはシモンのように御言葉を聴き、その言葉に信頼し、委ねて、神の出来事を経験させられた者たちが集められた共同体です。

 

 そうであるからこそ私たち教会は「人間をとる漁師」として建てられています。私たちは御言葉に聴き、信頼して、まだ見ぬ神の出来事を期待しつつ神の招きに応答していきたいと願います。

1月8日主日礼拝メッセージ  「指し示す先は」

 

ヨハネとは?

 本日みなさんと共に御言葉を受け取って行きたいと願う聖書箇所はルカによる福音書3.15-20です。ここでは有名なバプテスマのヨハネが登場しています。この場王手スマのヨハネという人物は福音書にしか出てこない上に各福音書の序盤にしか登場しませんから、その人物像が読み取るのにそれほど多くの箇所はない人物です。

 

 ですがこのヨハネに関して言えばその登場が少ないわりに記憶に残っている人はかなり多いのではないでしょうか。それは彼の一つひとつの言動に印象深いものが多いからではないかと思います。なんといっても彼はイエスにバプテスマを授けたことが1番に思いつくことではないでしょうか。そのことは彼自身今日の箇所でも「自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない」といっている通り、ヨハネ自身もそして聖書の読者である私たちにとっても考えられないものでした。

 

 また彼は悔い改めのバプテスマを授けるために、人々に説教を語っていました。その内容はかなり激しいもので聞いている人に切迫感を抱かせるものでした。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 」このような言葉から始まる彼の説教は神への畏怖と神の裁きというものを人々に思い起こさせるには効果的だったのかもしれません。

 

 このようにバプテスマのヨハネという人はその登場箇所が少ないながらも印象的な場面や突き刺してくるような言葉のおかげで私たちはたやすく彼のことを思い起こすことができます。実際の彼自身も各福音書において描かれている姿から遠くはないでしょうが、彼がこのように非常に印象深く描かれているのにはそこに大きな意味があるからだと思うのです。みなさんは、それは一体どのようなことだと思われますでしょうか。

 

指し示すものとしての教会

 それを見つけるためにはまず彼が何をした人物だったのかを思い起こす必要があります。彼がしたことは具体的には先ほどのバプテスマを授けたり、悔い改めの説教をしたりということではあるのですが、それらに共通しているものとは何でしょうか。それは「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」することなのだと思います。この言葉はイザヤ書の 一節ですが、ヨハネはこの神の言葉に応答して活動を始めたのだと思います。

 

 そしてもうひとつ彼には「主を指し示す」ということをなによりも貫き通した人だったと思います。彼が語ったのは彼自身のことではなく、神を指し示す言葉であり、人々を神へと立ち返らせるための言葉でした。彼はなによりも人々が悔い改めて神に立ち返ることを望み、そのために働いていた人物だと言えるでしょう。そのことを考えるとバプテスマのヨハネという人物の働きとは教会の働きと似ているのではないでしょうか。

 

 教会も「主の道を整え、その道筋をまっすぐに」する働きを神から託されたものたちの共同体です。そして「主を指し示す」という働きもまた同様です。教会はそれ自体が指し示されることはありませんが、神を指し示し続けるために福音を語りつづけています。その点においてもヨハネと共通するのではないでしょうか。またヨハネは人々の反感も承知の上で様々なことを語りました。

 

 その一つが厳しい裁きの言葉です。先ほどバプテスマのヨハネは印象に残りやすい人物ではないかという話をしましたが、その理由の一つが彼が人々に語った言葉にあります。例えばルカ3:7-9にはこうあります。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」 

 

 人々を「蝮の子ら」と呼び、神の怒りや裁きが強調されているかのような印象をうける言葉が並んでいます。こようにヨハネの言葉は一度聞いたら忘れられないほど強烈な言葉が多かったのです。そうだとすれば教会もまたヨハネのように神の怒りや裁きを強調したかのような言葉を語る必要があるのかという疑問に突き当たるかもしれません。事実教会はその歴史の中で厳しい裁きの言葉を語ってきたことは否定できないでしょう。

 

裁くためでなく、救うために

 確かに神の裁きはバプテスマのヨハネの言葉も含めて聖書の中で何度も語られていますし、イエスご自身も裁きについては多くの言葉を残されています。ですがそれは神の裁きの恐ろしさやその結果としての滅びが、語られたことの本質ではありません。そうではなくて、その裁きを通して人々が悔い改めに導かれ、神の救いを受け入れることこそがその本質なのです。

 

 そこへと導くための過程として裁きと告げる言葉が必要だったから、ヨハネもイエスも裁きの言葉を語られたのだと思います。裁きとは神の手段であって目的ではありません。神の目的は私たち人間を救われることであって、裁きによって滅ぼされることではないからです。それは旧約の時代から一貫している神の義です。親が子供が危険に状況に陥りそうになったのを見たら、強い言葉を使ってでもその危険から遠ざけようとしないでしょうか。

 

 神は私たちを滅びという危険から救われるために強い言葉として裁きを語られ、またそれをヨハネや他の預言者たちにも語らせたのだと思います。そのような裁きの言葉の本質を弁えたのであれば、私たち教会はその言葉から逃げることなく受け止めつつ、またその本質を損なわないように語っていく必要もあるでしょう。裁きの言葉というのは基本的に私たちにとって聞き感触の悪い言葉ですし、また語り方を間違えれば人が人を裁いていくためのものになってしまうでしょう、ゆえに聞くことを避けたり、また語ることを躊躇してしまうこともあるでしょう。

 

 ですが旧約の預言者たちやバプテスマのヨハネはそれらの言葉を恐れずに語ってきたことも私たちは聖書から知らされていることでしょう。特にバプテスマのヨハネは時の権力者相手にも臆することなく語ったことが記されています。19-20「領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、 ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。 

 

 ヨハネの説教は権力者への告発をも含んでいたのでしょうか。そのことが原因で彼はヘロデに囚われることになっていましました。ですがここで語られていることの本質は「ヘロデの罪をヨハネが告発し、それによってヨハネが囚われてしまった」という歴史的な出来事ではありません。そうではなくて神の言葉を語ろうとする時、それが妨げられることがあるということでしょう。

 

 教会はそれら様々な困難と向き合いつつも、御言葉を語り続け、神を指し示し続けていく使命を託されています。ですが私たちは同時にそれらの困難に一人で向き合わなければならないわけでもありません。神はそのために私たち一人ひとり異なる賜物を与えられたものたちを集められて、その賜物を生かしあってその使命に応答するようにと招かれているのです。

 

 「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 」とある通りです。新しく始まったこの2023年の教会の働きもそれぞれの賜物を活かしあって神を指し示し続ける歩みをしてまいりましょう。

1月1日主日礼拝メッセージ  「思いはあらわにされて」

 

神に捧げられるイエス

 みなさん、あけましておめでとうございます。2023年は日曜日からスタートしました。去年1年間の恵みに感謝しつつ、この新しい1年にも神の豊かな恵みがあるように祈ります。さて、私たちはつい先週クリスマスを迎えました。イエス・キリストの降誕の出来事の意味を確認しながら、クリスマスに至るアドベントの時、そしてクリスマスと過ごしてきました。

 

 クリスマスとは神の救いの出来事そのものであるのと同時に、私たちがまだ見ぬ救いの約束のしるしでもありました。今日の聖書箇所でもそんな約束を知らされ、そして救いを見させられた人物が登場します。先ほどお読みいただいた聖書箇所はルカによる福音書2:21-35です。この箇所はイエスの誕生の後、ヨセフとマリアがエルサレムに来るところから始まっています。

 

 22-24にはこうあります。「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に次のようにあるからです。「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。」

 

 ここでのヨセフとマリアの行動は律法に沿ったものであったことがわかります。イエスの誕生の出来事は彼らにとって驚くべき出来事であり、一般的な出産とは異なっていたことは間違いないでしょう。それゆえに彼らの心の中にはいまだに多くの戸惑いや恐れや疑問もあったのではないかと思います。ですが彼らはそんな状況だったとしても自分達がなすべきことをなそうとしています。

 

 それがここの彼らの行動につながっています。「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」とある通り、イスラエルの長子が生まれた際、両親はその子を神に捧げるために神殿に詣でる必要がありました。そして子供を産んだ後の清めの儀式のために山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽を捧げることになっていました。彼らが律法に忠実に行動しようとしているところからも彼らの信仰が伺えるでしょう。

 

 ヨセフとマリアの中にある戸惑いや恐れや疑問は、この時点で解消したわけでは決してなかったでしょう。ですが彼らはそんな中でも神の約束に信頼し、その時自分が成しうる最善のことをしました。それは彼らにとっての精一杯の応答です。私たちもまた彼らのようにその歩みの中で多くの戸惑いや恐れや疑問を抱えながら生きているでしょう。

 

 ですが同時に神からの御言葉も聖書を通して受け取っているはずです。その御言葉によって私たちは励まされ、支えられ、生かされています。彼らが神の御言葉に信頼して応答していったように、私たちもまた日々与えられる御言葉を糧として歩んでいきたいと願います。

 

 

異邦人を照らす啓示の光

 さて、彼らが神殿でイエスを捧げようとしている時、シメオンという人物が彼らの前に現れます。この人物について聖書は次のように語っています。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」

 

 このシメオンという人は神からの約束を受けていた人でした。それはやがて神が遣わされるであろうメシア、救い主と会うまで生き続けるというものでした。彼がその約束を受けてからどれほどの時間が経過していたのか、また彼がどれほど長生きしたのかということまでは聖書は語っていませんが、しかしその後の彼の言葉から彼にとってそれなりに長い時間を経てからのイエスとの邂逅であったであろうことが想像できるでしょう。

 

 シメオンにとってその約束が語られた時の心境はおそらく手放しで信じられるものではなかったかもしれません。しかし、彼はその約束に信頼をもって応答していったのでしょう。彼について「信仰があつく」と言われていることはまさにそのような彼の神への信頼を語っているのだと思います。そんなシメオンについに自分に語られた神の約束の成就を見させられる時がやってきたのです。

 

 霊に導かれてイエスのもとへと連れて来られた彼は幼子イエスをその腕に抱きながらこう言います。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」 

 

 シメオンはイエスこそ約束されていたメシアであると確信しています。そのイエスこそが神の与えられた「救い」そのものであると語ります。そしてその救いはイスラエルのみならず万民のため、異邦人を含めたすべての人類に及んでいることが彼の口から語られるのです。この彼の言葉を聞いたヨセフとマリアが驚いていたことからも窺えるように、シメオンが語った異邦人にまでおよぶ救いという概念は当時画期的でした。

 

 

支払われる代価

 シメオンに語られていた神の救いは、イスラエルの民に語られていた救いを遥かに超えていました。ですがそれゆえにその救いには大きな代償が支払われなければならないことをもシメオンは聞かされていたのでしょうか、マリアに次のような預言を語っています。34-35「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 

 イエスが救い主であるのならば、多くの人を立ち上がらせるというのはすんなり受け入れられるでしょう。ですが、シメオンはイエスが多くの人を倒すとも語っています。これはおそらく多くの人にとってイエスの存在とその言葉が躓きになるということなのだと思います。実際聖書では律法学者やファリサイ人たちがイエスを疎ましく思い、無実の罪を着せることで十字架に架けていきました。

 

 そのことはまさに「反対を受けるしるし」そのものだと言えます。そしてそのことでマリア自身も深い傷を負うことをシメオンは語ります。「剣で心を刺し貫かれ」るとはイエスの死によってマリアが苛まれるであろう深い悲しみや痛みのことを指しているのでしょう。これはマリアに語られた言葉ではありますが、イエスと関係の深かった全ての人に向けられた言葉なのだと思います。

 

 シメオンはこのように救い主の誕生を喜び祝いながらも、神がもたらす「救い」には確かな代償があることを告げました。それは本来ならば私たち人間が支払わなければならないものでしたが、神はそれらを全てイエスに負わせられて、イエスご自身もまたそれらを自ら背負ってくださいました。その結果をシメオンは最後に「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」であると語っています。

 

 ここで言われている「多くの人の中にある思い」こそがイエスが引き受けてくださった私たちの「罪」そのものであり、それはイエスの十字架の死によって私たちの罪が明らかにされたことにつながっていきます。私たちはつい先週イエス・キリストの降誕の出来事を共に祝い喜び合うクリスマスを迎えました。しかし、ともするとそのことを私たちは一時の喜びや興奮で終わらせてしまってはいないでしょうか。

 

 イエス・キリストの降誕は確かに喜びの出来事であり、神の救いそのものでした。しかし、ここでシメオンが語っている通り、その神の救いには大きな代償が伴っていたことも私たちは思い起こすべきでしょう。神ご自身が私たちの代わりに支払ってくださった私たちのための代償です。今日はこの後2023年最初の主の晩餐式を行います。神が私たちのために備えてくださった大いなる恵みに感謝しつつ晩餐に与り、そして今日から始まった新しい年の歩みにも神が豊かな恵みと導きを与えてくださることに期待して歩んでいきたいと願います。