8月29日主日礼拝メッセージ  「神の招きに応えて」

 

私たちが目指し続けるもの

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はマタイによる福音書13:44-52です。イエスが「天の国」を様々な喩えを用いて弟子たちに語られている場面です。因みにこの「天の国」というのは、マタイによる福音書特有の表現です。他の福音書などでは「神の国」となっていますが、この両者は同じことを意味しています。ですから今日は、今後「神の国」という言葉を用いて考えていきたいと思います。

 

 イエスは地上での歩みの中でこの「神の国」について多くのことを語られました。弟子たちだけでなく、群衆にも語られましたが、その語った内容については決してわかりやすいと言えるようなものではありませんでした。実は今日の聖書箇所の少し前の箇所から「神の国」の喩え話は始まっているのですが、そのどれもが抽象的で、聞き手にはっきりと「神の国」の有り様を示すものではありませんでした。

 

 ですが、この「神の国」こそがイエスがこの地上での歩みにおいて語られ、また自らの行いをもって示そうとされたことそのものだといっても過言ではありません。そのことは、イエスがご自分の宣教を始められたとき「悔い改めよ、神の国は近づいた」と言われたことからも明らかです。言い換えればイエスが語られ、またご自分の行動を持って示されたことはすべて神の国に繋がっていることだと言えます。

 

 だとすれば、私たちがこの「神の国」について深く考えていくことは、イエスが語られた中心メッセージを受け取っていくことだとも言えます。「神の国」の到来の知らせは私たち人間にとっての福音であり、同時に目を注ぎ続けるべき希望そのものです。私たちは「神の国」に招かれ、「神の国」に目を注ぎ続ける存在なのです。

 

 

「神の国」は買えるもの?「宝」と「真珠」(44-46)

 では、イエスはそんな私たちが目指すべき究極の希望である「神の国」をどのように喩えで語られているのでしょうか?まず、44節にはこうあります。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」そして、45-46節の次の喩えにはこうあります。「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

 

 この二つの喩えを見て皆さんどんな「神の国」のイメージを持つでしょうか?この二つの喩えには共通しているいくつかのことがあります。まず、第一にどちらも「宝」や「真珠」といった高価とされるものを探し求めているということ、そして第二に探していたものを見つけると、持ち物をすべて売り払っていること、第三にその「宝」や「真珠」を購入しているということです。

 

 こう見ていくと、「神の国」とは私たちの財産や持っているものと引き換えにして得られるものと考えてしまったりするかもしれません。それは転じて「神の国」とは私たちが所有できるものと考えてしまいがちかもしれません。「宝」や「真珠」はモノですし、一般的には対価を払って購入すべきモノということを考えれば、そのような解釈をしてしまうのも無理からぬことかもしれません、

 

ですが、ここでイエスが宣教の初めに語られた言葉をもう一度確認してみたいと思います。「悔い改めよ、神の国は近づいた」。この言葉の意味を深く受け止めていくとき、先程の二つの「神の国」の喩えの真の意味が見えてくるような気がしてきます。イエスは「あなたたちは神の国に行きなさい」とは言っていません。つまり、私たちの側から能動的に「行く」ものではないということがわかります。

 

 「行く」のではなく、「神の国」の方から近づいてくるものなんですね。そのように考えるならば、「神の国」とは私たちが何かを代償として「獲得」するものではなく、むしろ、神の側から招いてくださり、神によって招き入れられる概念と捉えたほうがより近しい気がします。それは、神が私たちとの断絶しかかっている関係を回復させてくださるということでもあります。その断絶しかかった関係を回復させるために、イエスは神の身でありながら人としてこの地上に来てくださいました。それは神の国がまさに私たち人間の只中に突入してきたという出来事そのものでした。イエスがこの地上に来てくださったことそのものが、まさに神の国の到来を告げる出来事だったというわけです。

 

 そのように考えると、イエスが語られたこの二つの喩えが違ったものとして見えてはこないでしょうか?私たちはこの二つの喩えを私たち人間の側が探し求めるものとして解釈してはいなかったでしょうか?私はイエスが語られたこの二つの例えは実は全く真逆のことを意味しているのではないかとも思うんですね。

 

 つまり、「宝」や「真珠」を探している人は私たちではなくて、神であり、そして神が探している「宝」や「真珠」こそが私たち人間なのではないかということです。そのように考えるならば、この二つの例えは全く違う意味として受け止められることでしょう。

 

 「宝」や「真珠」という高価なものとして神は私たち人間を求め続けてくださっています。イザヤ書43:4にこんな御言葉があります。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し(ている)」。神は私たち人間を何よりも高価な存在として受け止めてくださっています。だからこそ、根気強く探し求め続けてくださり。そして私たちの代価としてご自分の持ち物すべて、言い換えれば神が最も大切にされているもの、イエスを差し出してでも、私たちを買い取ってくださるということをこの喩えは示しているのでしょう。

 

 「神の国」は私たち自身が自力で見つけるものでも、獲得するものでもありません。私たちは神によって神の国へと招かれている存在です。そして、私たちを「宝」のように探し求め続けてくださり、一粒の「真珠」を見つけるように、一人ひとりが神との関係を取り戻していくことを何より喜んでくださいます。

 

 

湖に投げられた網—神の忍耐に込められた神の願い—

 そのことを踏まえて次の喩えを読んでみると、最初に読んだ時の印象とはまた違ったものに受け止められるかもしれません。47-50「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」 

 

 この箇所は伝統的に終末時の神の裁きを喩えた箇所と解釈されてきました。私たちはこのような神の裁きの箇所を読むたびにどのようなことを考えるでしょうか?「厳しい」「恐ろしい」そのような思いになる方も少なくないかもしれません。そして、このような終末時の裁きを示している聖書箇所はこの箇所以外でも比較的多く見受けられます。

 

なぜ、このような恐ろしく、厳しい裁きを示す箇所が聖書には多いのでしょうか?神は私たち人間を無慈悲に裁くことが目的だからでしょうか?いえ、そんなことはないはずです。先程の喩えの通り、むしろ神は私たち一人ひとりを「宝」のように、「真珠」のように、高価なものとして見てくださり、ご自分の全てを差し出してでも買い取りたいを願われている方だからです。

 

 だとすれば、この箇所が示しているのは、神は終末時まで私たちが神に応答することを忍耐しつづけてくださっているということなのではないでしょうか?そして、神はそのときまで根気強く私たちを探し求めてくださっているということをこそ、この喩えは示しているのだと思うんですね。

 

 

神の国を悟ったもの(51-52)

 イエスはこれらの喩えを語られた後、弟子たちに問いかけます。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは「分かりました」と答えていますが、実際のところはおそらく理解していなかったのだと思われます。なぜなら、このとき彼らはイエスが指し示す「神の国」よりも、自分たちが思い描く「神の国」の実現を思い描いていただろうからです。

 

 弟子たちは自分たちの力でそこに近づき、そして獲得するものとしての「神の国」を見ていました。そしてイエスが現実のものとしてそれを成し遂げてくださると思っていました。しかし、イエスが捕らえられ、十字架につけられると、彼らは逃げてしまいました。それは、イエスが示された「神の国」と弟子たちの求めていた「神の国」が異なっていたからこそだったのだと思います。そして、そんな弟子たちの姿はどこか私たちにも重なってくるものがあるかもしれません。私たちもどこか自分の理想としての神の国を目指してしまっている時があるかもしれません。弟子たちのように自分の思いが先行して、神が示す「神の国」を見失ってしまう時があったりするかもしれません。

 

 しかし、イエスはそのことを解られながらも、なおこう続けられました。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」 この言葉は13章で語られたすべての「神の国」の喩えの最後に語られた言葉であり、「神の国」の真の意味を誤解している弟子たちに、そして私たちに向けられた言葉です。

 

 「新しいもの」と「古いもの」とはどういう意味でしょうか?それは、「神の国」がイエスにおいてすでに開始されたものであり、しかし、未だ完成していないいうことを受け止めるときに見えてくるかもしれません。つまり、「新しいもの」とは、まだ見ぬ完成された神の国であり、私たち目指し続ける希望であり、そして、古いものとは、この世界に顕されている神の行動への私たち人間の応答を示しているのだと思います。

 

 そして、イエスはこのどちらもが必要であることを語られています。どちらかだけでは「神の国」を学んだことにはならないということです。新しいものだけでは、神がこの世界の現在に関わってくださっているということを受け止めず、現実逃避的な終末主義に走ってしまうでしょう。逆に古いものだけでは、現在の神の国の不完全さに絶望し、ニヒリズムに走ったり、あるいは、人間の力で神の国を完成させようとしたりしてしまうでしょう。

 

 だからこそ、私たちは神の示す希望に目を注ぎつつ、現在の歩みにおいて招かれている神の働きに参加するよう呼びかけられてもいるのです。そして、そうあり続けることが真の「神の国」へと繋がっていくことを示しているのだと思います。神は私たちに遥かな希望を示しつつ、また今この場所においても確かに働かれている方ですから。

8月22日主日礼拝メッセージ  「共に希望を目指して」

 

現在の苦しみと将来の栄光(18)

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はローマの信徒への手紙8:18-25です。まず18節にはこうあります。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」いきなり、すごいことが書かれています。ここだけ読んでもとても「へー、そうなんですね」とは すんなり納得できない言葉だと思います。

 

 なぜならば、苦しみというのは誰だってできれば避けたいと思うものですし、とても取るに足らないものとは考えられないはずだからです。このような解釈が難しい箇所を理解するには文脈を理解することが大切です。この箇所の少し前の14節から読んでみたいと思います。『神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。』

 

 この箇所を読んでみるとわかるように、パウロの語る「現在の苦しみ」というのは、キリストと共に苦しむ苦しみであることがわかります。では、キリストはどのような苦しみを受けられたでしょうか?キリストが苦しんだのは私たち人間の罪のため、すなわち人間の不理解性のためでした。キリストは私たち人間の神と他者への不理解という罪を全て十字架上のご自身で引き受けられ、苦しみ、そして死なれました。

 

 つまり、キリストと共に苦しむということは、そんな人間の不理解性による罪の結果を私たち自身が受け止め、責任を負うということです。ですが、私たち人間には私たち自身の罪の責任を負うことはできません。私たち自身が罪の責任を負うことができないからこそ、神はキリストの十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださったのです。だとすれば、私たち人間がキリストと共に苦しむという意味での責任はどのようなことなのでしょうか?

 

 

人間と他の被造物との関係(19-20)

 そのことは、19-20節につながってきます。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 」ここで言われている「被造物」とは人間以外の被造物のことです。そして、神の子とは、先に言及されていたパウロの語る私たち人間の「将来の栄光」を受けた状態だと言えます。

 

 そして、「被造物が虚無に服している」というのは、人間以外の被造物、言い換えれば神の創造された被造世界は人間の罪の影響を受けているということを意味しています。それは具体的にどのようなことなのでしょうか?順序立てて考えると、まず私たち人間の罪、これは他者への不理解性ですが、この罪が他の被造物に影響を及ぼしているということです。他者への不理解性は、他者のことを顧みないエゴへと発展していきます。その人間のエゴにより、被造世界は大きな痛みを負い続けています。

 

 本来、神は人間に対して神の意図に沿うように被造世界を管理することを人間に託しましたが、人間は神の意図に反し、自らのエゴのままに被造物を取り扱い続けています。そのことは、大気や水の汚染、自然資源の乱開発など多くのことが物語っている否定しようのない事実でしょう。このように、被造世界は人間の罪の影響により、神の意図した方向から逸れ、滅びへの道を進んでしまっている状態だと言えます。

 

 ですが、そのような滅びへ向かいつつある被造世界であっても、同時に希望をも持っていることをパウロは語っています。そしてそれは、私たち人間に示されている神の救いと密接に関係していると言います。

 

 

うめきの先に待つ希望(21-23)

 21-23節「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 被造物だけでなく、の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」

 

 パウロのこの言葉によれば、私たち人間が神によって救われていくこと、すなわち神の子とされていくことで、被造世界もまた神による救いを得ていくといいます。つまり、神による人間の救済は、同時に被造世界の救いにもつながっていることだと言えます。人間が「神の子」とされ、神との永遠の関係に入ることで、被造世界もまた神の意図した本来の姿を取り戻していくということです。

 

 だからこそ、人間と被造世界は共にうめき、神の救いを共に待ち望んでいる存在だと言えます。本来、人間と被造世界は対立するものでも、人間が一方的に被造世界を利用するものような関係性でもありません。むしろ、共にうめき、共に神の栄光を待ち望む存在として、人間が被造世界に配慮しながら、神の意図した方向へ共に歩んでいく存在であると言えます。

 

 そのように人間と被造世界の関係を受け止めていく時に、私たち人間がキリストと共に苦しむという意味での責任という意味が見えてくるのだと思います。私たち人間には「人間の罪」の結果そのものの責任を負うことはできません。なぜなら、人間の罪というものは人間が人間である以上拭い去ることのできない性質だからです。

 

 ゆえに、私たち人間に託されている責任とは、被造世界を人間のエゴのままに「支配する」ことではなくて、人間と被造世界が共に神との善き関係の中で歩むことができるように配慮しつつ、歩むことだと言えるでしょう。私たち人間にはそのような責任が神から託されているのです。

 

 キリストが私たち人間の罪の責任を負われたように、私たち人間には被造世界と共に生きる責任に応答するよう神から招かれています。そのことが、キリストと共に苦しむことでもあり、その苦しみが将来の栄光につながっていることをパウロは語っています。そのように考えると、神の救いというものは、単に私たち人間だけの救いに留まらないことがわかります。神の救いは私たち人間にとっての救いでもあり、同時にこの世界全体の救いでもあるのです。

 

 言い換えれば、それは神と人との関係の回復が私たち人間にとっての救いであり、同時に被造物全体にとっての救いであるということです。その点において、私たち人間に特別な役割が期待されていると言えるかもしれません。というのも、神の救いの本質は、関係の回復にあるからです。神は人間を「神と関係を持ち、神に応答する存在」として創造されました。

 

 それは、人間が神からの呼びかけに自らの意志を持って応えていく存在だということです。人間はその点において他の被造物にはない能力を持っているとともに、同時にその能力に伴う責任をも負っているといえます。その責任は時に私たちにとって重荷となり苦しみになることがあることでしょう。だからこそ、人間はその責任を負うよりも、自らのエゴのままに被造世界を利用してきました。

 

 そのことを考えれば、私たち人間にその責任を担うこと、すなわちキリストと共に苦しむことは不可能のようにも思えてきます。誰だって苦しみを負うこと、責任を担うことは避けたいと思ってしまうだろうからです。私たちでは到底その苦しみや責任を負うことはできないかもしれません。人間は弱くて不完全で、未だ罪に塗れたままの存在であることに変わりはないからです。

 

 しかし、そんな弱く不完全な存在で罪に塗れた私たち人間と神は関係を持ってくださり、そしてその罪の責任を自らが負ってくださいました。そのことを思い起こす時に、私たちは自らの罪のままに被造世界を利用し尽くす歩みではなく、神が私たちにそうしてくださったように、被造世界と善き関係を保ちながら、共に歩んでいく道へと一歩踏み出していけるのではないでしょうか?

 

 私たち人間が被造世界に及ぼしてきた罪の影響は今多くの形で表れています。地球温暖化、海洋汚染、水質汚染、大気汚染、森林破壊、生態系の破壊など、あげていけばキリがないほど多くの影響が出てきています。それらはみな私たち人間の罪の結果であり、被造世界があげるうめきそのものだと言えるでしょう。

 

 被造世界は神が意図した方向に進んでいくことを待ち望んでいます。そして、そのことは私たち人間の救いと連動しています。神の救いは、神、人、そして被造世界すべての関係と秩序が神によって回復された状態です。それは私たちが未だ見ぬ私たち人間にとっての、そして被造世界にとっての究極の希望です。私たちはその救いを求めて被造世界と共にうめき、現在の苦しみを負っています。

 

 その救いは未だ完成してはいません。私たちは未だ自らの罪の結果を被造世界に負わせ続けています。しかし、同時に私たちには神の確かな希望が聖書を通して示され続けてもいます。その希望を示されている私たち人間が、その希望に向かって、神との関係への招きに応答して一歩踏み出していく時、神と私たちとの関係の回復という救いを受け取ることができるでしょう。

 

 そして、それは同時に被造世界の救いにもつながっていきます。なぜなら、神の救いは私たち人間だけに与えられた救いではなく、被造物全体に与えられた救いだからです。私たち人間がそのことを受け止めつつ、キリストが苦しまれた十字架の出来事を自分自身の事柄だと受け止めていく時、被造世界に対して今の私たちができる責任に応答していくことができるでしょう。神は私たちすべての人類を、そしてすべての被造物を救いへと招き続けてくださっていますから。

8月15日主日礼拝メッセージ  「理不尽の中でも」

 

本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は詩篇57:1-12です。まず、1節にはこうあります。『指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。』詩篇はこの57編のように、その詩がどんな場面を思い浮かべて詠われたものかが書かれていることが多々あります。

 

 この57編では、後にイスラエル王国の二代目の王となるダビデが、初代の王サウルの憎しみを買い、サウルがダビデを殺そうとしたことで逃亡生活と余儀なくされたときのダビデの心情を詠っているものとして書かれています。ダビデがそれほどまでにサウルの憎しみをかった理由はなんだったのでしょうか?それははっきり言ってサウルのダビデに対する嫉妬による逆恨みでした。

 

 ダビデはその目覚ましい活躍により、多くの民衆の人気を得ていきました。しかし、そのことで自分の王位がダビデにとって代わられるのではないかと危惧したサウルは、ダビデを亡きものにしようと画策します。それはダビデにとってみれば理不尽極まりないことでした。イスラエルのために、そしてサウルのために、これまで必死に尽くしてきたダビデに対する扱いとしては到底考えられない仕打ちです。

 

 ダビデ自身、そんなサウルの理不尽な仕打ちにどれだけ心を痛めたことでしょうか。理不尽や不条理は聖書の時代も現代も変わらず世界に溢れています。そして、理不尽や不条理な出来事が自分に降りかかったとき、私たちは耐え難い思いになります。「なぜこんな仕打ちを受けなければならないのか?」「どうしてこんなことがひどいことが起きるのか?」

 

私たちは理不尽や不条理に直面したとき、そう問わずにはいられないでしょう。ダビデはどうだったのでしょうか?もちろんダビデにもそのような思いはあったことだろうと思います。しかし、彼はそんな理不尽や不条理への問い以上に、言葉にせずにはいられないことがありました。それは一体なんだったのでしょうか?2-5節を読んでみたいと思います。

 

 「憐れんでください/神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし/災いの過ぎ去るまで/あなたの翼の陰を避けどころとします。いと高き神を呼びます/わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。天から遣わしてください/神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。わたしを踏みにじる者の嘲りから/わたしを救ってください。わたしの魂は獅子の中に/火を吐く人の子らの中に伏しています。彼らの歯は槍のように、矢のように/舌は剣のように、鋭いのです。」

 

 ダビデは理不尽や不条理への問いではなく、ただそんな状況からの救いを求め、叫んでいます。しかし、その言葉の端々から読み取れるのは、彼が本当に危機的な状況にあって、追い詰められた極限状態にあるということです。おそらく、精神的にも肉体的にもボロボロだったことでしょう。理不尽という災いの中で、しかしダビデはただひたすらに神へと呼びかけています。

 

 逆に言えばそのような理不尽の中でダビデが頼れるのは神しかいなかったということでもあるかもしれませんし、同時にこの理不尽な状況から救い出してくれるのは神以外にはいないと彼が確信していたということでもあるでしょう。次々と襲いかかるサウルの追手をかわしながら、彼はただひたすらに神を、そして神が自分に対して尽くされると信じる「慈しみとまこと」を求めて祈ります。「慈しみ」とはどんな時であっても変わることのない神の愛であり、そして「まこと」とは神の私たちに対する信頼であり、また神がこの世界に対してなされる「義」そのものです。

 

 

・神の救いへの信頼(6-7)

 ダビデは神が自分自身を愛してくださっていること、そしてまた自分自身を神が信頼してくださっていることを信じていました、だからこそ、彼は耐え難い理不尽や不条理の中にあっても、神に祈り、助けを求めていきました。そのことは、ダビデが神との確かな信頼関係を築いていたことの表れでしょう。そのことはまた次の言葉にも現れています。6節「神よ、天の上に高くいまし/栄光を全地に輝かせてください。 」この言葉は彼の信仰告白とも言える言葉です。

 

 ダビデを信頼し、そしてダビデがその信頼に応答して信頼を返している神は、天におられます。私たち人間には知覚することはできませんが、しかし、確かに私たち人間と関係をもってくださる神が、その主権によって確かにこの世界を導いておられる存在なのだということを、聖書は語っています。ダビデの「栄光を全地に輝かせてください。」という願いは、まさにそんな神の主権をこの地上に表してくださいという叫びです。

 

 ダビデはどんな理不尽や不条理、苦難の中にあっても、神への賛美を止めることはありませんでした。それは、彼に慈しみとまことを尽くし続けてくださる神に、何より彼が信頼していたからこそであり、その信頼関係の中でこそ、この世界に存在する理不尽や不条理やあらゆる苦難に対する救いがもたらされることを彼が確信していたからでしょう。

 

 しかし、その確信すらも彼が自らの力で獲得したものではありませんでした。ダビデの確信は、神が慈しみとまことを尽くしてくださることに応答した信頼関係の中で建て上げられ、神によって確かなものとされていきました。だからこそ、ダビデは神に応答するようにこう詠っています。

 

 

・神の慈しみとまことへの賛美(8-11)

 8-9節「わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして/あなたに賛美の歌をうたいます。目覚めよ、わたしの誉れよ/目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。」ダビデの言う「心を確かにする」とは「確かなる神に心を向け続ける」ということだと思います。

 

 この世界には多くの理不尽や不条理や苦難があります。そんな中にあって、私たちは時に自分の周りから誰もいなくなって、自分を助けてくれる存在がいなくなったような感覚に陥ることがあるのではないでしょうか?現実に起こってくる理不尽や不条理を前にして、私たちは無力感に苛まれ、どうしようもなく絶望しかけてしまう時があるでしょう。

 

 そんな私たちがたどり着く先は絶望だけなのでしょうか?いえ、聖書はそんな私たちの絶望を切り裂いて、確かな希望の光が私たちに届いていることを語り続けています。「目覚めよ、わたしの誉れよ/目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。」ダビデの賛美もそのことを詠っています。「曙を呼び覚ます」とは、彼が絶望の淵にありながらも、そこに確かに注がれる希望の光を受け取ったが故の賛美の言葉なのだと思います。

 

 このとき、ダビデの現実の状況はなにもよくはなっていませんでした。サウルと和解したわけでもなければ、追っ手がいなくなったわけでもありませんでした。彼が置かれた現実は何一つ好転してはいませんでした。にもかかわらず、彼は賛美せずにはいられませんでした。現実の状況が好転すれば、確かに神に感謝し、賛美するのも自然に思えるかもしれません。

 

 しかし、聖書の語る賛美は現実の状況が好転したからなされるものとしてだけ語られているわけではありません。むしろ、この箇所のように、現実の状況は何一つ好転していないにもかかわらず、聖書の登場人物たちは神を賛美しています。これは聖書の語る信仰というものが、明らかに一般的に言われるところのご利益信仰とは異なることを意味しています。

 

 聖書が語る「信仰」とは、何かの利益があるから神を信仰するのではありませんし、その逆に人間が何かをしたから、その見返りとして神から何か利益がもたらされるわけでもありません。そうではなくて、神がまず人間に対して慈しみとまことを尽くしくださっているということ、そしてその神の慈しみとまことに応答した人間が神を信頼することで建てあげられていく神と人との間の信頼関係こそが聖書の語る「信仰」であり、同時にその関係こそが「救い」そのものだといえるでしょう。

 

 だからこそ、「心を確かにされた」ダビデからは、神への賛美が溢れてきたのでしょう。「主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し/国々の中でほめ歌をうたいます。 

あなたの慈しみは大きく、天に満ち/あなたのまことは大きく、雲を覆います。 神よ、天の上に高くいまし/栄光を全地に輝かせてください。」

 

 ダビデは自分が置かれた理不尽や不条理の中にあっても、神との信頼関係によって神を賛美していきました。それは彼が「神との信頼関係」こそを自らの救いだと受け取っていたからであり、その関係の中にいる限り、希望は確かに示されているということを彼が受け取り直したからでしょう。

 

 私たちも人生の中でどうしようもない理不尽や不条理に直面することがあります。しかし、そんな中であっても神は私たち一人ひとりに確かに慈しみを与えてくださり、そして私たちに信頼を注いでくださっています。私たちがその神の慈しみと信頼に応答していく時、それは信頼関係となり、そして「救い」になっていくことでしょう。神はいつも私たちに語りかけてくださり、その応答を期待されていますから。

8月1日主日礼拝メッセージ  「理解し合う共同体」

 

・受け入れられないサウロ(26)

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は使徒言行録9:26-31です。まず、26節にはこうあります。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」サウロは後に「パウロ」と呼ばれるようになり、新約聖書中にある多くの手紙を書いたり、また当時ユダヤ人から避けられていた異邦人に積極的に福音伝えたりと、初期の福音伝道において大きな役割を果たす人物になっていきます。

 

 しかし、そんなサウロですが、元々はクリスチャンを迫害する側の立場の人間でした。しかも、サウロはその中心的な人物であり、率先してクリスチャンを迫害していました。当然、そんなサウロの噂は広く広まっていたのでしょう。先程の26節の「皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」というのは当然の反応と言えるでしょう。これまでのサウロの行動を考えれば、迫害者の急先鋒から一転してキリストの弟子になったなど露ほども想像できないでしょう。むしろ、自分を弟子と偽り、内部に入り込み、更なる迫害のための裏工作だと考えられても不思議ではありませんでした。

 

 

・理解者の助け(27)

 そんな全方位から疑われていたサウロでしたが、幸いなことに彼には一人の理解者がいました。27節「しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。 」このバルナバは、サウロを弁護し、サウロ自身の代わりに他の人々の前でサウロについての証をしました。

 

 サウロの神との出会いは劇的なものでした。それは、サウロにとって、人生の向きを180度転換させるほどの衝撃的な出会いでした。そのことは、まさしくサウロ自身が新たに生まれ変わった出来事だったのです。神との出会いは、それまでの自分自身がキリストと共に死に、そして新たに生まれ変わることでもあります。サウロは自分自身の力で変わったのではありませんでした。神との出会いによって、変えられ、そしてその招きに応答したことで、これまでの彼の歩みとは全く異なる道を歩み出すことになりました。

 

 しかし、そのことは時に周りの人間にとっては理解し難いことのように映る場合もあるでしょう。特にサウロの場合はなおさらのことでした。今まであれだけクリスチャンを迫害してきたサウロが、それとは真逆の行動、つまり「イエスの名によって大胆に宣教」することなど考えられなかったことでしょう。事実、仲間の弟子たちも信じることができず恐れたとあります。

 

 そんなサウロはおそらく一人で弟子たちの元に来たとしても、門前払いを食らっていたかもしれません。そうであってもおかしくないほどにサウロのこれまでの行動が強烈なものだったからです。おそらくサウロ自身の口から自分自身の証や弁明をしても彼らには聞き入れてもらえなかったことでしょう。だからこそ、バルナバの存在は大きいのです。彼と言う助け手がいたからこそ、サウロは使徒たちと会うことができ、そして他の弟子たちの理解も得ていくことができました。

 

 ここまでの出来事を振り返ってみると、私たちにも同じような経験があったりするかもしれません。あのサウロを恐れた弟子たちのように、私たちも他者の過去ばかりに目が囚われて目の前の「今」のその人が見えていないということはないでしょうか?私たち人間はどうしても、過去に囚われてしまいがちな存在です。その人が過去にどんなことをしたのか、その先入観で目の前の「今」のその人を見てしまう時があったりするのではないでしょうか?

 

 ですが、サウロがそうであったように過去のその人と、今のその人は違います。サウロは主に出会い、心から悔い改めて、新たなものとして生まれ変わらされました。弟子たちは、今のサウロのことを「彼は迫害者である」という固定観念で見ていましたが、神はそんな弟子たちの、私たちの固定観念を突き破って、サウロ自身を生まれ変わらせ、その生き方を転換させることができる方です。そのことを示されていくとき、私たちは過去という固定観念を捨てて、「今」のその人と向き合っていく勇気が与えられていくことでしょう。

 

 

・主によって、仲間によって支えられるパウロ(28-30)

 バルナバの助けによってなんとかサウロは使徒たちや他の弟子たちの理解を得ていくことができました。サウロはそのことでさぞ勇気づけられたことでしょう。28節には「主の名によって恐れずに教えるようになった。」とあります。 つまり、裏を返せば彼はそれまでは常に恐れを抱いていたということです。そこには、サウロ自身負い目も関係していたことでしょう。

 

 「あれだけ、激しくクリスチャンを迫害し、多くの人々を殺してきた自分がイエスを宣教することなどできるのだろうか?」「いや、たとえできたとしてもそんなことをしていいのだろうか?」そんな葛藤がサウロの中にはあったのかもしれません。それに加えて周囲からの冷ややかな視線、そして極め付けはこれまで共に迫害をしてきたであろうユダヤ人たちから命を狙われることになってしまったことで、サウロの心には大きな恐れが生まれていったのでしょう。

 

 そんな、周囲からの不理解により、サウロはユダヤ人たちからも、クリスチャンからも疎まれる存在となってしまいました。周りに誰も味方がいない、理解してくれる人がいないというのは辛いものです。ましてサウロのような迫害者からキリストの弟子へといった、極端な事情の場合はなおさらでしょう。彼には助け手が必要不可欠でした。サウロだけでは、とてもこの状況を乗り切ることはできなかったでしょう。

 

 しかし、そんなサウロに神はバルナバという確かな助け手を備えていてくださっていました。そして、神がバルナバを用いてサウロを弟子たちの共同体へとつなげていったことで、使徒たちへ、また他の弟子たちへとサウロへの理解が広がっていくこととなりました。サウロはこうして弟子たちの共同体である教会へと繋げられていきました。そんな互いに互いを理解し合う共同体に繋げられたからこそ、サウロは恐れずに宣教していくことができたのだと思います。

 

 このように教会とは、そして教会の業である宣教とは一人では到底なしてことはできない働きだということがわかるでしょう。私たちは一人ではそれぞれが主から託された働きをなしていくことはできません。サウロのように周囲の無理解に恐れて、その働きへの一歩を踏み出していくことができないこともあるでしょう。だからこそ、私たちは教会という共同体として、互いを理解し合いながら、そして励まし合いながら、それぞれに託された働きに、また教会として託されている働きに共に参与していくことができるのです。

 

 サウロは教会に繋がり、宣教の働きを続けていく中で多くの困難に見舞われました。特にユダヤ人たちからの暗殺の手は、彼がますます大胆に宣教するようになったことで、より一層激しさを増していったことでしょう。そんな、サウロでしたが、ここでも彼は仲間の弟子たちの助けによって、その暗殺の手から逃れることができたと聖書は語っています。

 

 

・信頼の上に築かれる教会の基礎(31)

 そして31節にはこうあります。「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」この一節には教会が発展していった様子が簡潔に記されていますが、その結果に注目するよりかは、むしろその過程にこそ私たちが目を向けていくべき大切な部分があるように思います。

 

 まず、「教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち」とあります。ここから、各地方に建てられた教会同士が良い関係を築き上げていった様子が伺えます。私たち一人ひとりが互いに励まし合い、協力し合いながら、その働きをなしていくように、教会同士もよい関係を築き、また互いに励まし合い、協力し合いながら、その働きを進めていったと言うことだと思います。

 

 私たちバプテストはそれぞれの教会の自立性ということを大切にしつつも、しかし一方でこのような教会同士の協力関係、協力伝道をもまた大切にしています。それは、一つの教会ではなし得ない働きを互いに励まし合い、協力することでより大きな働きを成すための試みです。

 

私たち一人ひとりはそれぞれ弱さを抱えています。私たちはその一人の弱さを知っているからこそ、教会という共同体に繋げられることで、サウロがそうされたように、周囲の理解の中で大きな励ましと支えを受けながら、それぞれが託された働きに一歩踏み出していくことができます。そのことと全く同じ理由で、一つの共同体である教会もまたそれぞれが弱さを抱えています。

 

 初代教会はその一個の教会として弱さを自覚していたからこそ、互いによい関係を築きながら互いに協力し合うことでより大きな働きに踏み出すことができたのだと思います。

 

 そして、そのような平和な関係、言い換えれば互いに理解し合い、支え合う関係こそが教会の基礎になっていったのだと思います。そして、そのことを一人ひとりに示し、行動へと促していったのは、私たちが今も受け取っている神の御言葉です。御言葉には私たちを変える確かな力があります。サウロがその生き方を180度変えられたように、私たちもまた「前」の自分ではなく、「今」の自分へと変えられていきます。そのことを私たちが示されるときに私たちは「前」の他者への偏見ではなく、「今」の他者を理解していくことができるでしょう。

 

 そんな神によって変えられた一人ひとりが、教会という共同体へ繋げられ、そしてより教会同士の協力関係というより大きな共同体へと繋げられていくことで私たちの他者への理解という「基礎」は発展していくことでしょう。神は今も私たちに教会という理解し合う共同体へと招き続けておられますから。