11月21日主日礼拝メッセージ  「今を生き、希望へ…」

 

盗人のように…(1-3)

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はテサロニケの信徒への手紙 一5:1-11です。このテサロニケの信徒への手紙 一はパウロが教会に宛てて書いた手紙の一通です。パウロは様々な教会に宛てて手紙を書いていますが、それらはその教会が直面していた課題への助言や質問への回答といった形式で書かれているものも多くあります。実は今日の聖書箇所もテサロニケ教会が直面していた問題への助言としてパウロが書いたものでした。

 

 当時テサロニケ教会ではあることが問題になっていました。それは今日の箇所を読んでいただいてわかる通り、主の日と呼ばれる終末に関しての疑問でした。ゆえにパウロはそのことについてこの手紙で回答しているわけですが、今日の箇所の最初にその大前提となることが書かれています。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。」 

 

 当時、終末というのはもうすぐ起こることとして認識されていました。具体的にはその当時生きている人たちが生きている間にそれは起こるものとして考えられていたようです。ですから、終末への切迫感というものはかなり大きかったでしょうし、それゆえにそれがいつ起こるのかということに対しての関心も大きかったのでしょう。おそらく、テサロニケ教会でも終末の具体的な時期に関してパウロに質問したのだと思われます。

 

 ですが、その具体的な時期についてパウロは全く答えてはいないのです。答えるどころか「書き記す必要はない」とバッサリ切り捨てています。代わりにパウロは具体的な終末の時期などよりも、もっと大切なことについて語っています。それは、主の日に対する私たちの姿勢についてです。彼は「盗人が夜やって来るように、主の日は来る」と語っています。つまり、私たちの思いもよらないときにこそ、それは来るのだと言っているということです。

 

 ところで主の日、すなわち終末についてみなさんどのような印象をお持ちでしょうか?おそらくですが、怖い、恐ろしい、といったあまりポジティブな印象を持たれていないかもしれません。確かに終末というのは神によって全ての人々が裁かれる時ですから、そのような印象を待たれることがあっても不自然ではないかもしれません。しかし、終末というのは私たちクリスチャンにとって究極の希望である神の国が実現するときでもあります。

 

 そのことを思い起こすと、終末の印象も少し変わってくるのではないでしょうか?むしろ、私たちはこの終末を待ち望む存在であり、同時にその終末を見据えつつ現在という時を歩んでいる存在でもあります。私たちは終末に傾きすぎても、現在に傾きすぎても神が招いておられる道から逸れてしまう存在なのだと思います。なぜならば、私たちの目線が終末に傾き過ぎれば、現在という時を懸命に生きることを放棄し、無秩序に生きてしまうかもしれませんし、逆に現在にしか目が向いていないならば、やがて来る希望を見失い、未来を諦観してしまうことになってしまうでしょう。

 

 テサロニケの教会はどちらかといえば前者の状態にあったのかもしれません。だからこそ、パウロはこう語っているのでしょう。「人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。」 パウロはこのように語ることでテサロニケ教会の人々の視線を現在へと向け直させたのではないでしょうか?

 

 

昼に属するとは?(4-7)

 その上でパウロはテサロニケ教会の人々に自分たちが置かれている状況について語ります。「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。」パウロは光と暗闇、昼と夜を対比させながら、神につながれた者は光を照らされていることを語ります。

 

 教会を、そして私たちを照らす光、それは神の御言葉です。パウロは神に繋がるものが御言葉に照らされているからこそ、終末の時に突然襲われることはないと語っています。パウロはある意味で、ここで彼らの疑問に間接的に答えています。テサロニケ教会の人々はいつ主の日が来るのか?という不安でいっぱいでした。しかし、それはパウロを含め、私たち人間に推し量れるものではありません。

 

 パウロは「主の日がいつ来るのか?」ということよりも、主の日を見据えつつ、現在という時を御言葉に従って生きることが何より重要なことだと伝えたかったのではないでしょうか?だからこそ、こう続けてもいます。「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」パウロが語る「目を覚まし、身を慎む」とは、現在という時を御言葉に聴きながら精一杯歩んでいくことを意味しているのだと思います。

 

 私たち人間は現在という時しか生きられない存在です。しかしそうであるにも関わらず、私たちは意外と現在から離れて生きていることがあったるするものなのではないでしょうか。過ぎ去った過去に引き摺られたり、あるいはまだ見ぬ未来を心配したりして過ごしていることが誰しもあったりするものだと思います。もちろん、人間である以上、それらのことは考えるのは仕方のないことですし、全くそれらのことを考えないのも問題でしょう。

 

 しかし、私たちが過去や未来に過剰に執着しすぎてそれに囚われてしまう時、私たちは現在という時を蔑ろにしてしまうことがあったりするのではないでしょうか?パウロが昼に属しているとテサロニケの人々に語ったのは、言い換えればあなた方は現在という時にしか生きられない、と言っているのだと思います。そして逆に夜に属するということは、過去に執着したり、未来に思いが傾きすぎることで、夜のように何も見えなくなっている状態、つまり、現在がよく見えなくなっている状態であると言っているのだと思うのです。

 

 そしてそのことこそが、私たちの主の日に対する私たちの向き合い方を変えさせるものなのでしょう。つまり、私たちが過去や未来に傾きすぎている、すなわち夜に属している時、私たちは主の日が突然襲いかかってくる恐ろしいものとして受け取ってしまうでしょう。なぜなら、現在という時に備えられた御言葉という光が夜には届かないからです。しかし、私たちが昼に属する時、私たちは光という御言葉を受けとりつつ、現在という時を噛み締めながら生きることができるでしょう。だから、目を覚まし続けるということは、御言葉に聞きつつ、現在を一歩一歩歩むことであり、そのことだけが、私たちに主の日という終末が襲いかかってくるものとしてではなく、むしろ、迎え入れるものとして受け取らせてくれる向き合い方なのだと思います。

 

 

救いの希望を持って生きる(8-10)

 パウロはそんな昼に属するテサロニケの人々に、そして私たちにこうも勧めています。「わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。 」パウロは昼に属する、現在を生きていく上でいくつかの大切なものを身につけるよう勧めます。それらが信仰、愛、希望です。しかし、これらのものは私たち人間が自力で獲得できるものではありません。

 

 これらのものは御言葉によって私たちに与えられる神の賜物だからです。そしてこれらのものは現在を生きている私たちを支え続けてくれるものです。私たちは神に信頼しつつ、その愛に生かされ、そして希望に向かって歩み続けることへと招かれています。御言葉という光によって、私たちに信仰、愛、希望が与えられ、そしてそれらが私たちを現在という昼へと繋ぎ止めてくれています。

 

 

励まし合い、創り上げ合う(11)

 そしてパウロは最後にこう語っています。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。 ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」 

 

 神は私たちを決して滅びに定められる方ではありません。むしろ、目覚めていても眠っていても、昼に属していようと夜に属していようと一人ひとりが救われることを願っておられます。だからこそ、私たちは互いに励まし合い、助け合いながら、お互いを建てあげる教会を目指していきたいと願います。信仰、愛、希望を抱きつつ、神の期待される働きにこれからも応答して参りましょう。

11月14日主日礼拝メッセージ  「移り変わる働き」

 

新たな王の選び —なおも用いられる神—(1-4a)

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はサムエル記上16:1-13です。イスラエル王国の初代の王はサウルという人物でした。彼は王として立てられてしばらくは、素晴らしい働きをしましたが、やがて神の言葉に背くようになり、自分勝手に行動するようになってしまいます。このことを重く受け止めた神は新たな王を立てるため、預言者サムエルを遣わします。

 

 サムエルはサウルのことを嘆き悲しみながらも、神の言葉にしたがって神の示すベツレヘムのエッサイという人のもとを訪ねることになりますが、サムエルはそのことをためらうようにこう言っています。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」この言葉にはサムエルの様々な感情が込められているのだと思います。サウルはサムエルが神によって遣わされて王となった人物でした。

 

 それゆえにサムエルにはサウルを選んだ責任を感じていたのだと思います。だからこそ、サムエルはサウルが変わってしまったことを嘆き悲しんだのでしょう。にもかかわらず、神がまた王を選ぶ働き手として自分を遣わされることへの恐れというものもあったことでしょう。それはおそらく、自分の命が奪われるという恐れよりかは、遣わされるのは本当に自分で良いのか?という恐れであり、同時にイスラエルの王を選ぶ神の働きを果たすことができないかもしれないという恐れだったと思います。

 

 このサムエルの姿というのは、どこか私たちと重なってくるものがあったりするかもしれません。私たちも神に示されたと信じた働きをした結果、必ずしもよい結果にならないということもあるでしょう。そんなとき、私たちもサムエルと同じようにそのことに対する責任を感じたりすることもあったりするかもしれません。それと同時に、もう一度神の働きへの招きに応答するのが恐くなったりするものかもしれません。

 

 私たち個人としてもそうですが、教会としての歩みにも、そしてさらに言えばより大きな共同体としての働きにもまた、このことは言えるのだと思います。私たちはつい託された働きを永続的なものとして考えてしまいがちです。それゆえに、サムエルがサウルへの想いに引き摺られたように、古い働きを終えて新たな働きへと移ろうとするときになかなか割り切れずに前に進めないこともあるでしょう。

 

 しかし、神の選びがサウルから新たな王へと移っていったのと同じように、私たちに託される働きもまた時代によって移り変わっていくものなのではないでしょうか?そうだとすれば、サウルの選びというのもサムエルが責任を感じるような失敗などではなく、その時代に必要だった神の選びということなのではないかと思うのです。なぜならば、サウルを王とした選びもまた確かに神の選びだったわけですから。しかし、その時代に必要とされた働きも、時代と共にその働きを終え、新たな働きへと移っていきます。

 

 神がサムエルを新たな王となる者のもとに遣わそうとされたことは、まさに神の託す働きが変わる転換点だったのだと思うのです。私たちもそんな神の託す働きの転換点に立ち会うことがあるでしょう。そんな時、私たちはサムエルのように戸惑い、恐れ、その新たな働きに応答していくことを躊躇して、前の働きに引き摺られてしまうこともあったりするかもしれません。

 

 しかし、そんなサムエルに、私たちに神はこう語られるのです。「なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」 神はサムエルに、そして私たちに一歩踏み出していくことを促されます。新しい働きへ向かうことは確かに多くの不安や恐れが伴うことですが、そんなサムエルを、私たちを神は励ましてくださり、新たな働きへと招いてくださっています。私たちはその神の新たな働きに期待し、そして神の助けに信頼して応答していきたいと願います。

 

 

何によって見るか?(4b-10)

 さて、サムエルはそんな恐れを抱きながらも、最終的には神の言葉に従ってベツレヘムへと向かいます。そこで神に示された人物であるエッサイに出会うと、早速、彼の息子たちを見定め始めます。サムエルはエッサイの息子の内の1人であるエリアブに目を止めると、彼こそが神が選ばれた新たな王に違いないと確信します。サムエルがなぜそう直感したのかは書かれていませんが、彼に対しての神の言葉にそれが示されています。

 

 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 この神の言葉から、サムエルがエリアブの容姿や背の高さを基準として判断していたことがわかります。サムエルはエリアブの立派な体格や見た目の美しさを見て、彼こそが王として選ばれたに違いないと確信したのでしょう。

 

 ですが、神はサムエルの確信とは裏腹に「彼を退ける」と彼が王として選ばれたのではないことを告げています。サムエルの基準というのは極めてわかりやすい者でした。

体格の良さや、背の高さ、見た目の美しさというもの、つまり表面的な部分を基準として神の選びかどうかを判断していました。そして、それらの基準は転じて力の象徴であったり、強さの象徴でもありました。もちろん、これらの基準は現代でも残っていますし、私たちもまた少なからずその基準の影響下にあることは否定できない事実でしょう。

 

 人間というのはどうしても目に見えるものに重きを置きがちで、そのことをなんらかの判断の基準にしていることは意識的にも無意識的にも日常的に繰り返されていることだと思います。ですが、そんな私たちの無意識レベルにまで浸透している価値観を神はここで砕かれています。「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

 

 神はここではっきりと私たち人間の基準とはことなる基準で人を見られるということを語られます。それは心によって見るということでした。では心によって見るとはどういうことでしょうか?人間は心と体を持っています。しかし、その心と体、この場合の体は行動ですが、それらは必ずしも一致しないこともあります。つまり、行動では良いと思えることをしているように見えたとしても、実は心では真逆のことを考えているというのはあり得ることだからです。

 

 聖書の中にもそのような人は出てきていたりします。イエスを陥れようとしたファリサイ派や律法学者たちは口ではイエスを敬っておきながら、心の中ではイエスをどうやって殺すかを考えていました。そのような心と行動の不一致は人間であれば誰でも経験したことのあるものではないでしょうか。ですが同時に、私たち人間は目に直接映らない心を軽視しがちで、それよりかは目に見えてはっきりとわかる姿や言動を基準にして判断をしてしまいがちです。

 

 しかし、神はここでサムエルの基準を逆転させるよう彼を導いています。人の心に目を向けるように彼を招いています。それは言い換えれば、人がどのような理由で今目に見える行動をするのかについて考えさせることでもあります。神は心を、心の向きをこそ何より大切にされる方です。そのことと同じように人同士もまた互いに心を見つめ合うことを神は私たちに語りかけているのだと思うのです。

 

 

忘れられたものを見出す神(11-13)

 では神が最終的に選ばれた人物はどんな人物だったのでしょうか? サムエルは神の基準に従ってエッサイの息子たちを順に見ていきましたが、どの息子も神が選ばれた人物ではありませんでした。そして彼はエッサイに尋ねます。「あなたの息子はこれだけですか。」それに対してエッサイが答えたのは「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」という回答でした。

 

 このやりとりを見てみなさんどう思われるでしょうか?なんらかの違和感を感じないでしょうか?というのも、私は、エッサイが末っ子の存在を今まで忘れていたかのような印象を受けるんですね。5節に「サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。 」とあります。サムエルは当時有名な預言者でしたし、いけにえの会食というのは当時重要なものでしたから、エッサイとしてみれば息子たち全員を集めてサムエルの招きに応じるのが普通です。

 

 しかし、末っ子1人だけがその場に連れてこられていなかったということは、エッサイが忘れてしまうほどに彼は気にも留められていなかったということを意味しています。エッサイはサムエルに尋ねられて初めて「そういえば、そうだった」くらいの感覚で末っ子のことを思い出したのではないでしょうか。ここにもエッサイという人間の基準による判断があります。彼にしてみれば長男やそれに近い息子ほど重要で、末っ子などその存在も忘れるほどだったのかもしれません。

 

 しかし、そんな忘れられた存在をこそ神は探し求められていました。神はサムエルを用いてエッサイの末の息子であるダビデに油を注ぎ王としましたが、その選びは人間の価値基準からはとても考えられないような選びでした。神は自分の働きをその時に応じて変化させ、そしてその働きによって忘れられた多くの人々を見出すことを願っておられます。

 

 私たち教会はその神が示される新しい働きに期待しつつ、喜びをもってその働きに応答していきたいと願います。

11月7日主日礼拝メッセージ  「教会の使命」

 

イスラエルの状況

 本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は出エジプト6:2-13です。創世記で登場したヤコブが息子ヨセフの導きによりエジプトに移り住んでから数百年後のお話です。イスラエル民族はエジプトで暮らす内、どんどん数を増していきました。しかし、そのことが逆にファラオに脅威と見なされ、重労働を課されて虐待されることになってしまいました。ファラオによるイスラエルへの虐待は次第に厳しさを増していき、人々は大いに嘆き苦しむことになってしまいました。

 

 そんな状況に現れたのがモーセという人でした。彼は同胞であるイスラエル民族をこの状況から救い出すために神によって召し出された人物でした。モーセは神の召しを拒みながらも、最終的にはそれに応え、ファラオに「イスラエルの民を解放するように」という神の言葉を伝えます。しかし、そのことによってファラオは民を解放するどころか、ますます厳しい労働を課すようになってしまいました。そのことで、同胞であるイスラエルの民からも恨まれてしまったモーセは今日の箇所の少し前の部分で神に抗議しています。

 

 「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」 イスラエルのそしてモーセの現状はよくなるどころか、ますます悪くなっていきました。

 

ただでさえ悪い状況がますます悪くなっていくということは、私たちも人生の中で経験したことがあるのではないでしょうか。そして、それはどこか今の社会の現状にも重なってくることかもしれません。そんな状況にいればモーセのように神に向かって抗議したくなる時もあることでしょう。「彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」 実際的な為政者であるファラオによって、民が苦しめられているのを、神はただ傍観しているかのように感じてしまうこともあったりするかもしれません。

 

 

約束の再確認

 神はそんなモーセに応えます。「わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした。 」神はアブラハムに語られた約束を再び語られ、そのことを忘れることなく思い起こされることを語られます。長い年月を経て、イスラエルの民自身は忘れてしまったとしても、神は一度交わされた約束を違えることはないお方です。

 

 そしてまた、神は民のうめきの声、嘆きの声も決して無視される方ではないのです。私たち人間のうめき、なげき、そして祈りを神は確かに聞き届けてくださり、救いの道を備えてくださいます。だから、絶望することはないのです。現状は好転せず、それどころかますます悪くなっていくような状況にあっても、神はその中に響く私たちのうめきや嘆きや祈りを聞かれ、そして救いの約束を思い起こしてくださる方です。

 

 そのような方であるからこそ、神はこう続けられます。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。 そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」

 

 神はこの地上での状況がどんなに悪い状況に見えても、そこにも確かな神の関わりがあることを告げられています。「腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」という言葉は、神の御手が確かに私たちを取り巻く状況に関わってくださっていることを示しています。そして、神はイスラエルの民をそして私たちを贖う、つまり買い取ってくださる方です。当時のイスラエルのように私たちもまた悪くなるばかりの状況に囚われてそこから抜け出せなくなっていたとしても、神はそんなイスラエルの民を、私たちをそこから連れ出してくださり、ご自分の民としてくださる方です。

 

 「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」この言葉の通り、私たち一人ひとりもまた神が私たちを見つけ出し、贖ってくださったからこそ、私たちは神の民として迎えられています。一人ひとりのなげき、うめきの声を神が聞き届けてくださったから、私たちはここにいます。そして、私たちにとっての約束の地、神の国へと導かれて行きます。そのように考えると、この神が語る出エジプトの約束が、私たちに向けられたものとして感じられてくるのではないでしょうか?

 

 私たち一人ひとりのうめきや嘆きは神のよって聞き届けられ、神によって一人ひとりが見つけ出され、そして神によって約束された神の国へと導かれ、その旅路を歩んでいます。そのことを私たちは福音として受け入れています。しかし、そのことをすぐに受け入れられたかというと、そうでなかった方も多くいらっしゃるのではないでしょうか?そこには多くの葛藤や悩みや戸惑い、そしてそれ以外にも自分の日々の生活で精一杯でとても心穏やかにそのことを聞く余裕がないという方もおられたかもしれません。

 

 

聞くことができない私たち

 聖書もまたこう語っています。9節「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった。 」このときのイスラエルの民の姿はまさに福音を、御言葉を聞く余裕もない状況にある人々の姿でしょう。そしてそれは現代も同様なのかもしれません。様々なものに追われて、余裕がなく、将来への不安が渦巻くこの現代社会は、苦役に喘ぐ当時のイスラエルの民と重なる部分があったりするのではないでしょうか。

 

 目の前のことに囚われて、神の御言葉を聞くことができないという経験は、私たちの歩みを振り返ってみても多かれ少なかれあったりすることだと思います。それほどまでに私たちを取り巻く現実の問題というものは私たちに対して大きな影響を与えますし、それゆえに心囚われて私たちを神から遠ざけていくのだと思います。民のそのような反応は神の言葉を語るモーセにも影響を及ぼしています。彼は神のこう訴えています。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか。」 

 

 モーセ自身もイスラエルの民と同じように気力を失いかけています。自分に託された責務の重さと語れど語れど届かない苦しみに、彼は押しつぶされそうになっていたことでしょう。このモーセの姿もまた、私たちと重なる部分があるのではないでしょうか?私たちクリスチャンは福音を受け取ったものとして、その福音を語っていく務めを神から託されています。私たちは教会という共同体としてその務めを共に担っているわけですが、語れど伝えど届かない苦しみというのも大いに経験していると思います。

 

 そのように考えると、モーセとイスラエルの民の関係は、私たち教会と現代社会の関係に重なってくるのではないでしょうか?しかし、そんなモーセにそして私たち教会に神はなおこう語ります。「主はモーセとアロンに語って、イスラエルの人々とエジプトの王ファラオにかかわる命令を与えられた。それは、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せというものであった。 

 

 神は一貫しています。それは「救いの約束」を語り続けること。このことを弛まず続けることを語られています。たとえ聞かれなくとも、たとえ届かなくても、神の救いの約束を語り続けることが、モーセのそして私たち教会の務めなのです。モーセが神の名を知らされたのと同じように、私たち教会もまたイエスという救い主の名を知らされています。

 

 モーセはやがてイスラエルの民を率いてエジプトを出発し、約束の地カナンへの旅路に出ることになりますが、その旅路もまた多くの困難があった道のりでした。しかし、モーセはそんな困難の中にあっても主の御名に信頼し、またアロンや多くの人々と助け合いながら約束の地へ向かっていったように、私たち教会もまたイエスという御名に信頼し、その救いの約束を語り続けながら、そして多くの人と共に助け合いながら神の国への旅路を歩んでいきたいと願います。