2月27日主日礼拝メッセージ  「無理解が生む悪霊」

 

癒せない弟子たち(14-18)

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はマルコによる福音書9:14-29です。イエスと数人の弟子たちが、他の弟子たちと一時的に別行動をとっていた後のお話です。この箇所の前の箇所でイエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、山に上られていました。その時の話は今日は詳しくはしませんが、イエス一行が山から降りてくると何やら残してきた弟子たちと律法学者との間で騒ぎになっているのを見つけます。

 

 イエスはその騒ぎを見物していたであろう群衆にことの次第を尋ねると、群衆の中の1人の人がこう答えました。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

 

 ことの次第は彼が言った通りですが、そもそもなぜ弟子たちは自分たちだけで霊を追い出す癒しの依頼を請け負ったのでしょうか?本来ならば、イエスの帰りを待って、イエスに癒しを取り次ぐのが筋なのではないでしょうか?しかし、弟子たちはイエスの帰りを待たずに、自分たちだけで癒しを請け負い、結果それに失敗し、そのことで律法学者たちに突っかかられているといったところでしょうか?

 

 弟子たちがなぜある意味で暴走ともいえるこのことをしてしまったのかは、おそらくこの前の箇所に原因があると思われます。というのも、この前の箇所において、イエスは特定の弟子だけを連れて山に登られたという話を先ほどしました。残された弟子たちにとって、そのことは、自分たちは「選ばれなかった」という劣等感を抱くような出来事だったのではないでしょうか?ゆえにその劣等感を拭い去るためにイエスのいない間に自分たちだけで癒しを成功させて、イエスに認めてもらおうとしたのかもしれません。

 

 こう考えると、弟子たちは自分たちの都合のために癒しの依頼を利用したことになります。イエスのいない間に自分たちだけで癒しの業を行えば、イエスに認めてもらえると言う下心から癒しをしようとしたことになります。そこには、病を負っている人と向き合い、憐れみ寄り添うという、その人への理解がありません。あるのはただ自分たちの都合だけです。

 

それに対してイエスが人々を癒やされるときというのは、どのようなものだったでしょうか?イエスは病を負っている人の願いを受け止め、向き合い、そして深い憐れみをもってその人と接しておられました。その根底にあるのはその人が負う痛みや苦しみへのかぎりない理解でした。弟子たちは自分たちのみに関心が向いていたのに対し、イエスは他者へと関心が向いておられました。そこにこそ、イエスが次に言われることを解き明かす鍵があるような気がします。

 

 

「信仰のない時代」の意味(19-20)

 イエスはことの次第を聞かれると、こう言われました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 イエスの深い悲しみと怒り、そして落胆が伝わってくるような言葉です。しかし、ここで言われている「信仰のない時代」というのはどのような意味なのでしょうか?

 

 先週、私たちは中風を患っていた人を運んできた4人の信仰の箇所を見ました。イエスが彼らの中に見られたのは、イエスがそうされたように友を励まし、その痛みや苦しみに寄り添い理解するようなそんな信仰だったわけですが、この箇所でもまさにそのことに言及されているのだと思われます。そう考えると、イエスが言われた「信仰のない時代」とは、そのような「他者への理解がない時代」と言い換えることができるのではないでしょうか。

 

 イエスの人々への落胆ぶりはよほど大きかったのでしょうか。「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」とかなり強い表現でその怒りを表されていますが、これは特にイエスといつも一緒に行動していた弟子たちに向けられた言葉、言い換えれば私たちクリスチャンに向けられた言葉として受け止めるべきことかもしれません。当然イエスのそばにいる弟子たちこそ、イエスの言葉をより多く聞き、イエスの行動をより多く見ているわけです。それはイエスご自身の信仰の姿を弟子たちに見せていたということです。

 

 無論そこには弟子たちにその自分の信仰に従ってきてほしいという願いも含まれていたことでしょう。ですが、にもかかわらず弟子たちは自分たちのことにしか関心がなくて、イエスがなされたような他者の痛みや苦しみを理解し、寄り添い、励ますということをしませんでした。そんな弟子たちの姿にイエスは「なんと信仰のない時代なのか。」と嘆かれたのだと思います。

 

 

痛みへの理解と信頼への招き(21-24)

 イエスは怒りと落胆を感じながらも、しかし、いままでそうされてきたように痛みを負ったその子へと向き合われます。その時の様子を聖書はこう語っています。「人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。 イエスは父親に『このようになったのは、いつごろからか』とお尋ねになった。父親は言った。『幼い時からです。 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。』」

 

 現代に生きる私たちからして見れば、この子のような悪霊に取り憑かれた人というのはよくわからないことだと思います。聖書中ではこの子のように悪霊に取り憑かれた人が結構出てきますけれども、その症状は様々で口が聞けなかったり、耳が聞こえなかったり、急に暴れ出したり、と当時の人々にとってもその原因はよくわからず、またその対処法もわからないような病だったのだろうと思います。つまり、多数の人々にとってよくわからないもの、理解できないものを悪霊として扱っていたのだろうと思います。

 

 そしてそのようなことは、悪霊とは呼ばれないものの、現代でも確かに存在するものだと思います。人は自分がわからないものを拒絶し、遠ざけてしまうものです。そのことで、拒絶された人は傷つき、痛みを抱えて、そのことが繰り返されるうちに、精神的に病んでしまうこともあるでしょう。そのことこそが、人の悪意と無理解が生み出す現代の悪霊だと思います。悪霊はその人自身ではなくて、その人の周りの環境が生み出していくものだと言うことも共通していることだと思います。

 

 

祈りと励ましによる癒し(25-29)

 悪霊に取り憑かれたこの子は今まで周りの誰からも理解されず、痛みを溜め込んでいくだけの人生だったのかもしれません。しかし、そこにこそイエスは近づかれ、その痛みや苦しみを理解してくださいました。そして25-27にはこうあります。「イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった『ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。』すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、『死んでしまった』と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。」

 

 イエスは群衆が走り寄って来られるのを見ると、悪霊をお叱りになった、とあります。なぜ彼らが来る前にそうする必要があったのでしょうか?少し乱暴な解釈をすれば、それは群衆の悪意や無理解こそがこの子の中の悪霊を生み出していた原因だから、と読み取ることもできるでしょう。人の悪意や無理解こそが悪霊の正体であることは、現代でも同様だと思います。

 

 そのことで多くの人々が傷つき苦しんでいるのもまた変わらない事実でしょう。しかし、そんな中であってもイエスはそのような人々に、そして私たちにも近づいてくださり、私たちの全てを理解し、共に歩んでくださいます。そして私たちイエスの弟子であるクリスチャンはそんなイエスの歩みに倣うようにと招かれてもいます。私たちがそんなイエスの信仰に倣い、応答していくことができますようにと願います。

2月20日主日礼拝メッセージ  「励ましの信仰」

 

癒し人イエスの噂(1-2)

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はマルコによる福音書2:1-12です。イエスがカファルナウムという場所に再び戻ってこられた場面です。1-2節にはこうあります。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。」イエスはここに戻って来られるまでにすでに多くの癒しの業を多くの人々の前でなされていました。

 

 その噂はすでに多くの人々に広まり、イエスの噂を聞きつけた人々が大挙してイエスのおられる場所に押し寄せたのだと思われます。その人だかりはすさまじく、家に入り切らずに家の外まで溢れかえるほどの人だかりだったと聖書は語ります。イエスがこの時点までに各地を回ってなされていたことは、御言葉を語られることと癒しの業でした。おそらく集まってきた人々はイエスの癒しの業を見るため、あるいは自分も癒してもらうために集まってきたのだと思います。

 

 それは言い換えれば、それほど癒しを必要としている人々が当時多かったことを意味しています。当時の病は身体的なものでももちろんありましたが、それに伴う精神的な痛みや重荷といったものも非常に大きいものでした。身体的な痛みや重荷を負ってただでさえ苦しいのに、そこに差別や偏見といった精神的苦痛まで負ってしまうような本当に辛いものだったのだと思います。

 

 

中風の人と4人の友人(3-5)

 だからこそ、人々はそんな辛く苦しい病の癒しを求めてイエスを尋ねに来たのだと思います。そんな状況の中、イエスのもとを尋ねた4人の男たちがいました。彼ら自身は病を負ってはいませんでしたが、おそらく彼らの友人でしょうか…中風を患った1人の人を彼らは連れてきていました。中風という病は半身不随や手足の麻痺などの症状の病です。ゆえにこの中風の人は自力でイエスのもとへは来ることができませんでした。そんな彼を4人の友人たちはイエスのもとへと連れていき癒してもらおうと彼が寝ている床ごと運んできたのでした。彼らは「あの方ならきっと君の病も癒してくださる!だから頑張れ!」と病を負った彼を励ましながらイエスのもとへと急いだのだろうと思います。

 

 しかし、彼らは少し出遅れてしまったのでしょうか、すでにイエスのおられる家には大勢の人で溢れかえっており、とてもイエスに彼をみてもらえる状況ではないように思えました。「どうしよう…せっかくここまで来たのに、このままでは彼を癒してもらうことができない…」彼らは一瞬落胆もしたでしょうが、しかし彼らはそこで諦めはしませんでした。なんとか病で苦しんでいる友人を助けたいという思いが、そしてきっとあの方なら癒してくださるという思いが彼らを突き動かしていきました。

 

 彼らは友人の床を担ぎ直すと、なんと家の屋根まで登っていくではありませんか!当時のイスラエルの家屋は家の外に階段がついておりそこから簡単に屋根に登れるようになっていたようですから、現代の私たちの感覚よりかは難しいものではないと思われます。ですが、それでも人一人を担いで家の屋根まで登るというのは大変なことだっただろうと思います。しかも、家の周りは人で溢れかえっていたわけですから、屋根まで辿り着くのはより一層困難なことだっただろうと思います。

 

 しかし、彼らはそんな幾多の困難を乗り越えてついに屋根まで辿り着きました。そして、屋根まで来るとなんとイエスのおられるあたりの屋根を剥がして、友人が寝ている床ごと彼を吊り下ろすというとんでもない行動に出るのでした!現代の私たちからすれば、人の家の屋根を剥がすなんてありえないことだと感じるでしょうが、それはおそらく当時でも同様だったでしょう。

 

 おそらくイエスの周りにいた弟子たちやイエスに会うために詰めかけた大勢の人々も大層驚いたことでしょう。4人の友人たちは屋根の上からイエスに願います。「どうか彼を診てあげてください!彼は長い間病で苦しんでいます。私たちはあなたなら彼の病も癒してくださると信じています!どうか彼を癒してあげてください。」このように必死にイエスに頼んだのかもしれません。

 

 そんな彼らに対しておそらくイエスの周りにいた多くの人々はよい印象は抱かなかったのではないでしょうか?人の家の屋根を剥がしてそこから病人を吊りおろすなど、当時としても非常識なことだったでしょうし、なにより他にも病の癒しを願ってイエスに会いに来た人々もいたのですから、それを差し置いた彼らの願いは、そんな人々にとってみれば急に後から割り込まれたような感覚をもったことでしょう。

 

 彼らの行動は、一見すると非常識で自分勝手なように思えます。しかし、イエスはそんな彼らの中にある「信仰」を見られた、と聖書は語っています。では彼らの行動に彼らの「信仰」とはどのようなものだったのでしょうか?その答えを探究するのは少し後回しにして、少し後まで読んでみたいと思います。5-7「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』」

 

 毎度お決まりになってきましたが、またしても律法学者がイエスに突っかかっています。正確には彼らは「心の中であれこれと考えた」とあるので口には出していないようですが、イエスの言動に対して何か言いたいことがあったのは確かなことでしょう。彼らは、イエスが4人の友人たちの信仰を見て、中風の人に語りかけた「あなたの罪は許される」という言葉が気に食わなかったようです。

 

 理由は彼らが語っている通りで「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか?神を冒涜している!」という論理だったわけです。今では考えられないことですが、当時の病とは、「その人あるいはその人の家族の罪の結果である」という感覚が社会通念としてありました。そんなこともあり、病気の人は必然的に罪人扱いもされていたわけです。

 

 そして、罪を許す権威を持っておられるのは神お一人だけ、というのもまた当時の社会通念でした。そういう意味で言えば律法学者たちの言い分は真っ当なものだったわけです。しかし、イエスはそんな彼らの考えを見抜いてこう言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」

 

 イエスはここで律法学者たちに、そしておそらくそこにいた全ての人々に問いを投げかけられています。「 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか?」皆さんはこの問いの正解がお分かりになるでしょうか?この問いの正解は後者、つまり『起きて、床を担いで歩け』という方がより困難なものとされています。

 

 中風の人が起きて床を担ぐには病が癒やされなければなりません。そして、病が癒やされるにはその人の罪が赦されなければなりません。つまり、後者は前者の内容を含んでいることになり、必然的に後者の方が困難なものになるわけです。そしてこのことは逆に言えば、前者のことは容易なことであることを示しているのだと思います。

 

 当時の社会通念では「あなたの罪は赦される」ということは非常に困難なことでした。なぜなら、そのことは神のみに帰されているものだと受け止められていたからです。しかし、イエスはそのことをこの問いを通して変革されました。イエスは人々にこの問いを投げかけられた後、 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」と言われ、中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言われました。 

 

 すると、「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。」と聖書は語ります。このことは「あなたの罪は赦される」と病気の人に言うことよりも困難なこと、つまり神の権威によってイエスがその人を癒やされたということですが、そのことが示しているのは単に神の権威をイエスが帯びていることを示すためだけではなく、「あなたの罪は赦される」ということ、言い換えれば病を負っている人を励まし、支えることをイエスは人々に勧めたと言うことでもあるのだと思うのです。

 

 なぜなら、イエスがあの中風の人の4人の友人の中に見た信仰こそが、そのような痛みや苦しみを負っている人を神が憐れむように、励まし支えることそのものだったからです。もちろん彼らは最終的な癒しは神にのみ帰するものと考えていたことでしょうが、しかし、イエスが何より彼らの中に見られ、そして人々に求められたのは、神の愛を受けたものとしてその愛を波及させていくことだったのだと思います。

 

 私たちの生きる現代でも病に限らず様々な痛みや苦しみで溢れています。しかし、イエスがその身を持って示されたように、私たちはその痛みや苦しみを理解し、そして共に励まし合い支え合いながら生きていきたいと願います。

2月13日主日礼拝メッセージ  「心を耕す神」

 

イエスと群衆(1-2)

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はマルコによる福音書4:1-9です。イエスが群衆に喩えを用いて語られる場面です。「おびただしい群衆が」とありますから、イエスの噂を聞きつけた人々がこぞって話を聞こうと押し寄せてきたものだと思われます。あまりの人数のためでしょうか、イエスは船に乗って湖の上へと出られました。一方の群衆は湖畔にいたとありますから、イエスと群衆との距離は離れていたことになります。

 

 今まで私たちは人々に近づくイエスの姿を多く見てきたかもしれません。病を患っている人に近づいたり、悪霊にとりつかれている人に近づいたり、異邦人に近づいたりと、イエスは自ら進んで当時忌避されている人々に近づいていかれました。そのイエスの印象のままこの箇所を読むと、なんだか少し違和感を感じるかもしれません。今まで積極的に人々に近づいていったイエスがここでは群衆を避けて離れているように感じられるかもしれません。

 

 しかし、この箇所はイエスが群衆を避けるために離れられたのではなく、むしろある意味で群衆に近づくための方法だったと言えます。イエスがこれから語ろうとしておられることは「神の国」についての教えでした。「神の国」はイエスの宣教の中心であり、全てとも言える大切なものです。その大切な教えを集まってきた全ての人々に届けるためにイエスはあえて群衆から離れられ、船の上から話されたのだと思います。

 

 群衆に囲まれたままではとても集まってきた全ての人々に語りかけることは無理だったのでしょう。イエスは船に乗ったことで、群衆から物理的な距離は離れていったかもしれませんが、精神的な距離はむしろ近づいていかれました。それはこれから語ることを1人も聞き漏らしてほしくないというイエスの願いでもあったのだと思います。「神の国」という福音を集まってきた全ての人々に届けるためにイエスは語り始めます。

 

 イエスは「喩えでいろいろと教えられた」とあります。先週、私たちはイエスの語る喩えの意味について考えていきました。「喩え」は、その真の意味を私たちに想像させるためにあえて想像の余地を残した形で私たちに投げかけられています。ゆえにイエスの語られる喩えは私たちが日常会話で使う話を分かりやすくするための例え話ではなくて、その喩えを聞いた人にその意味を探究するようにと招くためのものだと言えます。

 

 そしてその「探究」こそが神との対話そのものです。現代に生きる私たちは、直接イエスと話したり、直接彼の語った喩えを聞くことはできませんが、しかし、今も聖書を通してその喩えを聞くことができます。神からの問いかけに、私たちが応答し、そしてまた新たな投げかけがあって、ということこそが神との対話であり、私たちが聖書を読む意味そのものです。

 

だから、私たちは聖書を読む時、その時自分が神からの問いかけられているものを意識しつつ、自分を省みながら一つひとつの言葉を受け取っていかなければならないでしょう。私たちは聖書の言葉が示す意味を限定して、こうである!と決めつけるよりも、私たちに対する神の自由な語りかけとして受け取るべきなのだと思います。そのときにこそ、聖書の言葉は私たちを生かす豊かな恵みとして響いてくるものだと思うからです。

 

 

それぞれの種(3-7)

 さて、そのような自由な解釈を許容しつつ、今日イエスが語られているたとえ喩えを見ていきたいと思います。3-7節にはこうあります。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」

 

 イエスが語られたこの喩えは、実はこの後、イエスご自身によってその意味が弟子たちに説明されている珍しい箇所でもあります。13-20節がそうですが、そういう意味でこの喩えは他のイエスの語られた喩えとは少し異なり、その解釈の方向性がある程度絞られているものと言えるかもしれません。もちろんこのことは聖書中の全ての箇所においても言えることです。私たちは聖書の解釈を託され、また許されていますが、しかしだからと言って自分の都合の良いように好き勝手に解釈していいものでもありません。そこにはある程度の指針となる方向性が存在しているのだと思います。

 

 イエスは喩えで語られることによって聞き手に想像の余地を与えられていることは明らかですから、イエスの喩えの説明はその喩えの意味を一つに限定させるものではありません。そうではなくて、13-20節ではイエスはその解釈の指針となる方向性を弟子たちに示したのだと思います。その方向性の中で私たちには解釈の自由が許されているということなのだと思います。

 

 人間というものはつい偏りがちな存在で、ある事柄を取り扱うときに、何か一つのものに決めつけ、固執してしまうか、あるいは無秩序に好き勝手にしてしまいがちです。少し話は逸れますが、初代教会の時代でもそのようなことは起こっていました。ガラテヤの教会の人々は「キリスト者となっても律法は守らなければならない」という解釈に固執し、それ以外の考え方を認めようとはしませんでした。

 

 反対にコリントの教会の人々は「自分たちはすでに救われたのだから何をしてもいいだろう」と考えていました。しかし、そのどちらの考えもパウロ、もといパウロを通して語られる神は否定しています。その理由は聖書全体の指針が示す方向性から逸脱している解釈だったからではないかと思います。このあたりで少し話をまとめると、聖書はその解釈を私たちに託し、求めているけれども、しかし、だからと言って聖書全体が語る方向性を無視した好き勝手な解釈は許容されていないということでしょう。

 

 それを踏まえた上で今度はイエスが語られた喩えの説明を見ていきたいと思います。14-19節「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

 

 神の言葉は私たち一人一ひとりに蒔かれていきます。イエスの説明では、道端のものと石だらけの所と茨の中のものがそれぞれ別々の人とされていますが、しかし、あえてここはそれらが1人の人の心の状態を表すものとして解釈してみたいと思います。そのように解釈すると、道端や石だらけの所や茨の中とは、私たちの御言葉を受け入れることのできない心の状態を表しているということになるでしょう。つまり、御言葉と向き合う状態でなかったり、より深く御言葉と対話していく状態でなかったり、御言葉以外のものに心が囚われてしまっている状態といった、私たち一人ひとりに起こる心の状態のことを指していると解釈できます。

 

 私たちがこれらの心の状態になっている時、私たちは御言葉を受け取ることができません。私たちの心が道端や石だらけの場所や茨が生い茂っているような耕されていない時には私たちは素直に神の御言葉を受け入れることはできないのです。しかし、イエスはまたこうも言われています。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

 

 良い土地、すなわち私たちの心が耕された状態であった時には、その種は私たちの想像を遥かに超える恵みをもたらしてくださることを、この御言葉は示しているのだと思います。そして、私たちの心を耕してくださるのもまた神ご自身なのだと思います。たとえ、御言葉を受け入れられない私たちであっても神は辛抱強く私たちと関わってくださり、私たちの心を耕し続けてくださいますから。

2月6日主日礼拝メッセージ  「想像される御言葉」

 

喩えが指し示すもの(10-12)

本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はマルコによる福音書4:10-34です。イエスはその伝道活動の中で多くの喩えを用いて弟子たちや群衆に宣教をされました。現代を生きる私たちも普段の会話の中である事柄を何か別のものに例えて話すことがありますが、それは通常、話を分かりやすくするために用いられる技法です。しかし、イエスに限っては、譬えは必ずしも話を分かりやすくするためのものとして用いられたわけではありません。

 

皆さんは福音書を読んでいて、イエスの喩えが分かりやすいものと感じるでしょうか?それとも分かりづらいと感じるでしょうか?イエスが語られた喩えは、当時の文化や風習がある程度わかっていないとむしろ分かりづらくなるものも多いですが、そのことを抜きにしてもイエスの語る喩えは分かりづらいものだったのだと思います。それは今日の箇所の最初の部分で、弟子たちがイエスに譬えについて尋ねていることからも見て取れるでしょう。もし、イエスの譬えが分かりやすいものであったならば、そのような質問はしないと思います。

 

 話を分かりやすくするために喩えを用いられていることが、弟子たちにもわかったでしょうから。弟子たちもなぜ回りくどく、分かりづらい喩えで話されるのか、その意味がわからなかったからこそ、イエスに喩えを用いて話す理由を尋ねたのだと思います。そんな弟子たちにイエスは答えられます。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。 それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」 

 

 つまりイエスは、あえて喩えを分かりづらくするものとして用いられていたということになります。明らかに私たちとは喩えの用い方が違います。分かりづらくするために喩えを用いるなんていうことは、私たちはまずしないと思います。そんなことしても何の意味もないですし、むしろコミュニケーションに齟齬が生まれて、誤解を招くだけですからね。しかし、ことイエスに限っては、この分かりづらい喩えを用いられたのには明確な理由があったからでした。

 

 「それは、/『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるため」でした。 これはイザヤ書から引用されたものですが、預言者イザヤは民を頑なにするメッセージを語るように神から遣わされた預言者でした。その言葉が引用されているので少し強い言葉の印象を受けると思います。

 

 イエスと弟子たちの会話の流れを考えると、「弟子たちは赦されるけど、弟子じゃない人たちは赦されないよ!」という意味にとられてしまうかもしれませんが、しかし、イエスが真にこの言葉で伝えられたかったのは、そのような単純で表面的なものではない気がします。なぜならば、イエスはまたこうも言われているからです。

 

 

開示されゆく御言葉(21-25)

 少し飛んで21-23節にはこうあります。「また、イエスは言われた。『ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。 聞く耳のある者は聞きなさい。』」どうでしょうか?先程とは真逆と思えることをすぐ後の箇所で語られています。

 

 このことから、イエスがあえて分かりづらい喩え話を用いて語られるのは、人々にその真の意味を隠すためというわけではないし、弟子たちだけ赦して、弟子じゃない人たちは赦されないためにそうしているわけでもないということがわかります。では本当の理由とはどのような理由なのでしょうか?この箇所も喩えで語られているので、相変わらず分かりづらいと思いますが、こう解釈できると思います。

 

 まず、イエスが言われる「ともし火」とは「御言葉」のことです。御言葉は伝えられるために語られていきます。つまり、「升の下や寝台の下」のような隠れた場所におかれるのではなく、「燭台の上」という多くの人に対して語られていくということです。そして、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。 」とは、御言葉はその意味が隠されるために語られるのではなく、明らかにされるために語られていくということだと思います。

 

 そして最後の言葉「聞く耳のある者は聞きなさい。」とは、意味の秘められた御言葉を受け取って、それを解釈していきなさい、という受け手の想像を促す神の招きなのだと思います。イエスの語る喩えは確かに難解なものが多いです。そのままでは抽象的すぎて何を語ろうとしているのかわからないものもありますが、しかしそれは完全にその意味を隠すことが目的で語られているものではありません。

 

 なぜなら、イエスは最終的に「聞く」ことを求めておられるからです。だとすれば、わざわざイエスが分かりづらい喩えを用いる理由は一つです。それは、私たち一人ひとりに御言葉を受けとること、すなわち御言葉を想像することを求めておられるからだと思います。現代に生きる私たちは、聖書の言葉から御言葉を受け取っています。しかし、それはただ単に聖書を字面通りに読んだだけでは受け取れないものです。

 

 なぜなら、御言葉とは神と私たちとの対話の中でこそ受け取っていくものだからです。聖書の文字を読むことと、御言葉受け取ることは全く違います。聖書の文字を読むだけなら、何も考えずにできますが、御言葉を受け取ることは私たち受け取り手の想像力を要求されます。「神はこの聖書の言葉を通して私に何を語っているのだろうか?」と問いかけながら読む中で受け取るのが「御言葉」です。

 

 だからこそ、「御言葉」は聖書の中に隠されています。それはちょうど、イエスの言葉がその喩えによって真の意味を隠していたのと同じことです。イエスが弟子たちに、そして群衆に喩えを用いて語られたその真の理由とは、彼らにその喩えの奥にある真の意味、すなわち「御言葉」を自分自身で受け取って欲しかったからなのだと思います。誰かの言うことを鵜呑みにするのでもなく、わからないから投げ出すのでもなく、イエスの語る喩えと向き合って…格闘して…悩んだその先にある御言葉をこそ聞いてもらいたいとイエスは願っておられたのだと思います。

 

 そしてそれこそが神との対話なのだと思います。逆に言えば私たちはその中でしか「御言葉」を受け取ることはできません。神との関係の中でしか、私たちは御言葉を聞くことはできません。そして、その神との対話を続けていくことこそが、神と私たちとの関係をより豊かなものにしていくのだと思います。だから「神との対話」に終わりはありません。

 

 そのことは次の箇所にも示されていると思います。33節「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。」イエスは人々の力に応じて語られた、とあります。これだけ聞くと、聞く能力の高い人と低い人がいてそれぞれに応じて語られた、と受け取れるかもしれませんが、ここはむしろそれぞれの状況や心の状態に応じてということと解釈すべきかもしれません。

 

 つまり、神はそれぞれの状況や心の状態に合わせて御言葉を語ってくださるということなのではないでしょうか?だからこそ、神は私たちを対話へと招かれて、その人へ向けた御言葉を語ってくださるのでしょう。それは、誰かの言うことを鵜呑みにするだけだったり、わからないから投げ出してしまったのでは、決して受け取ることのできない神からの豊かな恵みです。

 

 私たちは聖書の言葉という難解な「喩え」を日々聞いています。しかし、その譬えと向き合って、格闘して悩んだ先にあるのは、神から私たち一人ひとりのために語られた「御言葉」です。私たちはその恵みによって生かされ、養われ、支えられています。聖書の言葉に込められた御言葉を想像しながら、今週も歩んで参りましょう。