6月26日主日礼拝  「日々新たにされて」

 

捨て去るべきものを捨て去れない私たち(5-9a)

 本日皆さんと御言葉を聴いていきたいと願う聖書箇所はコロサイの信徒への手紙3:5-17です。この箇所は厳しい勧告で始まっていて5節にはこのようにあります。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 」ここで挙げられているのは総じて人間が持つ欲望の数々ですが、この手紙の著者はこれらを「捨て去りなさい」という言葉をもって勧告しています。

 

 しかも、この「捨て去りなさい」という言葉の原文は「殺してしまいなさい」とも訳すことができるような、かなり強い言葉であることからも、著者の強い思いが伝わってくるような気がします。著者がこれほど厳しく「欲望」について戒めるのには、おそらくこの手紙の宛先であるコロサイの教会に人の「欲望」についての様々な実際的な問題があったからだと思われます。だからこそ著者はこれほど厳しい言葉を用いてでも勧告しなければならないと思ったのでしょう。

 

 一つ注意したいのはこの著者は人の「欲望」全てを否定しているのではなくて「貪欲」ということについて戒めているというところです。人間には様々な欲望が必ずあります。それを否定し切ることはできないですし、「欲望」というものは時に人間が行動するための活力になったりと、必ずしも悪いものであると言い切ることはできないでしょう。ですから、ここで勧告されているのは、そうした「欲望」の正の側面ではないということです。

 

 著者がここで戒めようとしているのは欲望の負の側面である「貪欲」についてです。「貪欲」は言い換えれば、「欲望」が暴走した状態、あるいは自分で「欲望」を制御できない状態だと言えます。ではなぜそんな「貪欲」が戒められているのかというと、そのことは他者との関係の破壊を引き起こしてしまうからです。「貪欲」のままに生きることは、言い換えれば、自分を第一として、さらに言えば自分を神として生きることだと言えます。だからこそ著者は「貪欲」を偶像礼拝と同じものだとし、厳しい言葉を用いてまで強く勧告しているのです。

 

 そしてそんな「貪欲」は言葉となって他者を傷つけていくこともあります。私たち人間は他者とのコミュニケーションの大部分を言葉によって行なっています。言葉だけがコミュニケーションの手段ではありませんが、それでも私たちはそのほとんどを言葉に依存しているのも確かなことでしょう。言葉は便利なものである一方で、その使い方を間違えれば、容易に他者を傷つけることができてしまう危険なものでもあります。

 

 

日々新たにされて(9b-13)

 著者はそのような貪欲が生み出していく言葉をも捨て去るよう勧告すると共に、「日々新たにされる」ことを勧めています。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」私たち人間は神との出会いによって、その全てを変革されていきます。神との出会いはそれまでの古い自分自身が死ぬことを意味します。 

 

 同時に神との出会いは新しく生まれ変わることでもあります。古い自分は死に、神によって新しく生まれ変わらせられることでもあります。私たちは信仰を告白すると共に「バプテスマ」を受けましたが、あのバプテスマで行われる行為もこの生まれ変わりを象徴するものになっています。水に沈められたそれまでの私たちは一度死に、しかしまた再び水の中から引き上げられることで神によって新たに生まれ変わらせられるのです。

 

 しかし、私たちはここで一つ勘違いをしてしまうかもしれません。それは神によって自分自身が変えられるのはただ一度きりなのだ、という勘違いです。私たちは信仰告白をしたからといって、あるいはバプテスマを受けたからといって、それまでの自分自身がなくなるわけではありませんし、変えられたという実感もそれほど湧かないこともあるかもしれません。私たち人間は本質的に変化を拒む存在であり、それゆえにそう劇的に変わっていく存在でもありません。

 

 それは私たち人間が持つ弱さだともいえます。しかし、そんな変化を拒む私たちの弱さをも神は受け止められ、その上で私たちを変えていってくださることを、この手紙の著者を通して神は私たちに語りかけておられます。「日々新たにされて、真の知識に達する」とは神が私たちに対して起こされる変革が、毎日のように繰り返し行われていくことを知っていくということを私たちに示していると思います。

 

 そしてそんな神によって日々新たにされていくことで、私たちは「真の知識」、すなわちキリストと一つとされているということを実感していくのです。私たち人間は一人ひとりが違う存在です。人種、国籍、性別、肌の色、性格、置かれた環境など、全てが一人ひとり異なっています。しかし、私たち人間は一人ひとりが異なるがゆえにそのことで争い、その関係を破壊してしまう存在でもあります。

 

 他者を理解せず、他者を誤解し、他者とすれ違い、他者を傷つけてしまう存在です。ですが、そんなバラバラに思える私たち人間を神は繋いでいてくださることを私たちは聖書から知らされています。「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。 

 

 すべてのもののうちにおられるキリストによって私たちは個人でありながら、一人ひとりが繋がれ一つとされていることこそ、この手紙の著者が語る「真の知識」なのだと思います。関係を破壊する私たちの「貪欲」は、神によって取り扱われることで関係を繋ぐ「知識」へと造り変えられていきます。著者はそのことを確信をもってこう語ります。

 

 「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。 」私たちは神に出会い、神によって赦され、神によって生まれ変わらせられるからこそ、関係を繋いでいく歩みへと踏み出していくことができます。

 

 

愛は完成させる(14-17)

 私たちはキリストの愛を受けて、その愛を反射させる存在として一人ひとりが召されています。それはキリストの愛に私たちが応答する歩みです。私たち一人ひとりバラバラでは、その歩みに疲れ、挫折してしまうこともあるかもしれません。ですが、神はそのために教会という共同体へと私たちを招いてくださり、共に励まし合い、助け合うことで、キリストの愛に応答する歩みを続けていくことができるのです。

 

 最後に著者はこう勧めます。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」私たち教会は共に聖書を読み、御言葉に聴いていくことで、日々新たにされて、その歩むべき道を示されていきます。私たちは御言葉に向き合い、御言葉と格闘しながら、自分自身が変えられていくことを恐れずにこれからも歩んでいきたいと願います。

6月19日召天者記念礼拝  「解放する霊」

 

本日皆さんと御言葉を聴いていきたいと願う聖書箇所はローマの信徒への手紙8:12-17です。このローマの信徒への手紙は聖書の中でも特に難解とされている書物です。その理由は、この手紙の著者であるパウロという人物が自身の信仰について体系的にまとめたもの、すなわち現代でいうところの論文のようなものだからです。ですから、そのまま読むとよく意味のわからない単語が多く出てきますし、話も所々複雑で理解が困難な部分があります。

 

 ですが、それらを丁寧に紐解いていくことで、神がパウロという人を通して私たちに語られようとしていることが必ず見えてくるでしょう。私たちは聖書から逃げることなく、そこに隠されている神からのメッセージに耳を傾けていきたいと思います。しかし、今日の箇所でも早速それが何を意味しているのかわからない単語が登場しています。それらが「肉」と「霊」です。

 

 12-13を改めて読んでみたいと思います。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 」どうでしょうか?「肉」と「霊」という単語の意味がわからない限り、ここでパウロが言わんとしていることを理解することはできないと思います。

 

 「肉」と「霊」ということを一般的な言葉で言い換えるとするならば、「肉体」と「魂」というものが最も当てはまりそうだと思えるかもしれません。しかし、それらを当てはめたとしてもこの箇所の意味は依然としてよくわからないままでしょう。ではいよいよこれらの単語の意味はどういうことなのか?ということになってきますが、これら「肉」と「霊」という言葉は一般的な言葉では言い換えることができないものなのです。

 

 これらの単語は現在キリスト教の基礎となっている考え方を土台としてパウロによって用いられています。つまり、人が神への反抗と罪の支配によって自己を決定づけられている状態のことを「肉」と表しており、反対に人が神との良好な関係によって自己を決定づけられている状態のことを「霊」と表しているのです。違う言葉で言い換えるならば、「肉」とは人間の自己への関心であり、「霊」とは人間の他者への関心ということになるでしょう。

 

 このことを先ほどの箇所に当てはめるならばこうなります。「わたしたちには一つの義務がありますが、それは、『自己への関心』に従って生きなければならないという、『自己』に対する義務ではありません。 『自己』に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、『他者への関心』によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 」どうでしょうか?先ほどよりもこの箇所が言わんとしていることが見えてきた気がしないでしょうか?

 

 

肉の束縛から神の霊による自由へ(14-15)

 つまり、この箇所が示すことは「自己中心的な関心」に従って内向きに生きるのではなく、神と他者へと開かれた外向きの方向への招きだというこということです。そしてそのように方向付けられたものが「神の子」とされることを聖書は語ります。14-15「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」

 

 聖書は「神の子」とされることを単なる概念的なこととしては語っていません。そのことは私たちにとって実感を持ったものとして、私たちが体感できるものとして示されているのです。そのことは「アッバ、父よ」という言葉に象徴される私たちと神との関係にこそ表されています。私たちは神の招きによって、神との関係に入れられます。そのことによって、私たちは神と他者への関心へと方向付けられ、自己への関心から解放されていきます。

 

 私たち人間が持つ「自己中心的な関心」という内向きな方向性は、神によって「他者への関心」という外向きの方向性へと導かれていきます。これがパウロの語る「肉」からの解放であり、私たち人を人間を真に生かす神が与えられる「救い」でもあります。私たちはこのような「神の子」とされて生きることが許されており、また同時にそのように生きるようにと招かれてもいます。

 

 今日私たちが礼拝を捧げながら思い起こしている召天者のお一人おひとりはそんな神の招きに応答して神との関係の中を生きられた方々でした。この地上での歩みを神に従い、神と共に歩まれた方々でした。天へと召された今もなおその魂は神と共にあり、神との関係の中を生きておられます。

 

 そしてそれは同時に未だこの地上での歩みを続ける私たちとの関係も神によって繋ぎ続けられていることをも意味しています。なぜなら、神は私たちを「他者への関心」へと方向づける方だからです。今日、私たちは私たちが見送った召天者の方々を思い起こしつつ、神へと礼拝を捧げました。そして私たちはこれからもこのことを続けていきたいと思います。

 

 神は私たちを他者への関心へと方向付けてくださり、また私たち同士の関係を繋ぎ続けてくださっていますから。

6月12日主日礼拝  「語るべきことを語るために」

 

封じ込めようとする力との対峙 (1-22)

 本日皆さんと御言葉を聴いていきたいと願う聖書箇所は使徒言行録4:1-31です。ペンテコステの後、ペトロとヨハネが民衆に宣教していると、彼らは突如捕らえられてしまいました。その理由は彼らがイエスの復活を語っていたからでした。4:1を見るとサドカイ派の人々がその場にいたとありますから、復活をないものとして考えている彼らにしてみれば、堂々と復活を語っているペトロたちが気に食わなかったのかもしれません。

 

 しかし、ペトロたちを捕らえにきたのはサドカイ派の人々だけではなく、祭司や神殿守衛長もいたとありますから、サドカイ派の人々の信仰的な問題だけではないように思えます。彼らが捕らえられた真の理由は「誰の許可を得て、そして何に基づいてこんなことをしているのか?」という権威に関する問題だったわけです。そのことを裏付けるように5-7にはこうあります。

 

 「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。 大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。 そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した。 」たった二人を尋問するためだけにしては多すぎるほどの人間が集まってきています。しかも彼らを捕らえた次の日とありますから、このことへの関心度がよほど高かったということでしょう。

 

 これらのことはただ単にサドカイ派とイエスを信じるものたちとの信仰的対立の問題ではなく、ペトロとヨハネを含むイエスを信じるものたちが、当時の権力者から疎まれ、また危険視されていたことを示しているでしょう。だからこそ、彼らはペトロたちを黙らせようと早速圧力をかけにきたのだと思います。イエスご自身もファリサイ派や律法学者たちからよくこのような権威問答をふっかけられていましたが、今度はそれがイエスの弟子たちにまで及んできました。

 

 ペトロたちを尋問している人々は、この尋問によって真実が知りたいというわけではありませんでした。そうではなくて、彼らは自分達の権威を圧力によってペトロたちに認めさせて、自分達の権威を脅かすような言動、すなわちイエスについて語ることをやめさせたかったわけです。だからこそ、二人を尋問するには多すぎるほどの人数を揃え、かつ当時の権力者を大勢集めたのでしょう。

 

 そのような事情を知ってか知らずかは分かりませんが、ペトロは彼らが尋ねてきたことに堂々と答え始めます。9-12「今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。 この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 

 

 ペトロのあまりにも堂々とした振る舞いに、彼らは面食らってしまったのでしょうか、彼らは何も言い返すことができなかったとあります。それにしても、以前イエスが捕らえられ逃げ出したペトロとは思えない態度です。あの時イエスを何度も否定したペトロが、今や時の権力者たちの前で堂々とイエスを証しています。しかし、このことはなにもペトロ本人の努力によって成長したというものではありませんでした。ペトロが語り出す部分の8節にはこうあります。「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。」

 

 ペトロは聖霊の助けと導きを受けることでここまで堂々とイエスのことを証することができたわけです。ペンテコステに弟子たちのもとに降った聖霊は、イエスへの理解を開く存在であり、同時にそのために人を御言葉を語る器とさせる力を持っています。ペトロは聖霊に助けられ、また導かれることで、困難な状況であっても御言葉を語っていくことができました。

 

 私たち教会に集められた一人ひとりもまた御言葉を語る役目を託されています。現代の日本では少なくともこの聖書の時代のようにあからさまな圧力をかけられたり、あるいは暴力的な迫害があって御言葉を語るのが困難であるということはないでしょう。しかし、現代では逆に人々が無関心であるがゆえに語ることが困難であったりするかもしれません。

 

 しかし、私たちがそのような困難を感じている時こそ、聖霊の助けと導きが私たちに注がれているときでもあります。ペトロが困難の中であっても聖霊の助けに従って大胆に御言葉を語っていったように、私たちもまた聖霊に促されて、与えられた御言葉を語っていきたいと願います。私たちは自分自身で御言葉を語るのではなく、聖霊の導きのままに語るものなのですから。

 

留められぬ真実の証人(23-31)

 結局、ペトロたちを尋問していた人々は、ペトロとヨハネに対して圧力をかけて脅すことしかできませんでした。彼らが最も恐れていたのは、民衆にイエスのことが広まることでしたから、これ以上ペトロたちがイエスのことを語らないように命令したわけです。彼らの目的は最初からこれだったわけですが、そのために権力を濫用し、真実を覆い隠そうとし、自分達に都合のいいことだけを広めようとするのは聖書の時代も、そして現代も変わらないことかもしれません。

 

 しかし、そのような理不尽にペトロたちは毅然としてこう返しています。19-20「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」 ペトロたちのこの言葉は、彼らを脅しにかかった人々とは対照的です。ペトロたちを脅しにかかった人々は民衆の顔色を伺いながら、自分達の行動を決めていました。なぜなら、民衆の支持を失うことが彼ら権力者にとって最も恐ろしいことだったからです。

 

 私たちは権力者ではありませんが、このペトロとヨハネを脅した権力者たちのように誰かの顔色を伺いながら、自分の言動が左右されている時というのは時にあったりしないでしょうか?その時私たちはその誰かの影響下にあり、それは言い換えればその誰かに従っているということになっているのではないでしょうか。私たちは誰かの顔色を伺って物事を判断するべきではなく、また真実を捻じ曲げようとする圧力に屈するべきでもないのです。私たちは自分の言動の基準を他者に委ねるべきではないということです。

 

 しかし、だからといって自分勝手に振る舞ってよいのだというわけでもありません。他者に基準がなければ、あとは自分自身にしかその基準は見出せないではないか、と私たちは思うかもしれません。しかし、私たちはその基準を常に神に、御言葉へと求めるべきなのです。私たち人間は不完全で弱いからこそ、自分自身から出る言葉で語ることは到底できないでしょう。

 

 ペトロをはじめとするイエスの弟子たちもイエスを裏切った後自分自身の弱さや愚かさに打ちひしがれて立ち直ることができないでいました。しかし、そんな弟子たちに聖霊が注がれたことで、彼らは立ち直らせられて語るべき言葉を語っていくものと変えられていきました。

 

 私たち教会もまたこの聖霊の働きのもとに建てられていることを改めて思い返します。私たちがどのような状況であっても語るべきことを語り、なすべきことを成していくことができるように、これからも神との関係において御言葉に聞きながら歩んでいきたいと願います。

6月5日ペンテコステ主日礼拝  「理解へ導く霊」

 

誤解を超えて—歩み寄り理解するために—(17-22)

 本日皆さんと御言葉を聴いていきたいと願う聖書箇所は使徒言行録28:17-31です。パウロは彼のことをよく思わないユダヤ人の手によって陥れられ、無実の罪を着せられてしまいますが、彼はそのことについて皇帝に上訴することを願い出ました。こうしてパウロは皇帝のいるローマへと旅立つことになりましたが、その旅路は困難を極めるものでした。

 

 彼の乗った船はローマへと向かう途中で暴風に襲われ、遂には難破までしてしまいます。そのような困難に見舞われつつもなんとかローマに到着したパウロでしたが、罪人としてここに連れてこられた以上、見張りをつけられ自宅に軟禁状態で住むことを余儀なくされます。ですがパウロはそのような状況にあっても彼自身が受け止めていた使命を諦めることはしませんでした。

 

 パウロは自分に与えられた働き、キリストを宣教することを自分の使命として受け止めていました。特に異邦人へ福音を伝えることを神がそのために自分を選ばれたものであると理解していました。そのことをパウロはガラテヤの信徒への手紙にて次のように語っています。「ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。」

 

 このように異邦人への伝道を自分に託された働きとして受け止めていたパウロはローマで伝道することを以前から熱望していました。そんなパウロですから、夢にまで見たこのローマで早速異邦人伝道に向かうのかと思いきや、パウロがローマに到着して最初に取り組んだことはそうではありませんでした。17節にはこうあります。「三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。」

 

 パウロがローマに来て初めてしたこととはその地のユダヤ人たちを集め、彼らの前でこれまでの経緯を説明することでした。パウロは自身に与えられた使命を異邦人への伝道であると受け止めながらも、だからといってユダヤ人たちのことをどうでもいいと思っていたわけではないということです。パウロにしてみれば一部のユダヤ人たちに陥れられ、そこで関係を切りたくなってもおかしくはなかったはずですが、彼はそのようなことはせずに、むしろユダヤ人たちとの関係を築いていくことを選んだのでした。

 

 このように、異邦人への伝道を使命としていたパウロが、以前から訪問したいと熱望していたローマへ来て初めにしたことは、ユダヤ人たちとの関係の構築でした。そのことは、彼が異邦人と同様にユダヤ人への伝道を大切に思っていたからこそであり、なにより福音の力を信じていたがこその行動だったのだと思います。そのことは福音は神と人との破れかけた関係を回復させるものであるのと同時に、人同士の破れかけた関係をも再び繋ぎ合わせることができるものであるとパウロが信じていたからだと思うのです。

 

 だからこそ、パウロはローマのユダヤ人たちにこれまでの次第を細かく説明してできる限り誤解を生じさせないようにしようと努めたのだと思います。パウロがこうして誠意を尽くしてユダヤ人たちに説明したからこそ、ユダヤ人たちもまたパウロの語ることに耳を傾け、パウロのことを理解しようと努めたのでしょう。

 

 

諦めぬパウロ—招き続ける神の愛—(23-28)

このようにしてパウロはユダヤ人たちに歩み寄り、ユダヤ人たちもまたパウロに歩み寄るという形で、パウロのローマでの宣教はスタートしました。パウロはこれまでの自分の経緯を説明した後、ユダヤ人たちにイエスについて、そして神の国について語り始めています。次々にパウロを訪ねるユダヤ人たちに朝から晩まで説明を続けたとありますから、パウロがユダヤ人たちに対しても異邦人と同じくらいの熱意をもって語っていたことがわかると思います。

 

 そのときのユダヤ人の反応について聖書は次のように語っています。「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。 」パウロはユダヤ人たちにもイエスを信じて欲しかったからこそ、朝から晩まで熱心に宣教したのでしょう。その甲斐もあってか、幾人かのユダヤ人たちはイエスを受け入れたことが語られています。しかし、聖書はまた信じようとしなかった人々がいたということも包み隠さず語っています。

 

 パウロは以前アテネでの宣教において同じ経験をしています。いえ、おそらく彼は幾度となく同じ経験をしてきていたでしょう。パウロが語ったからといってそれを聞いた全ての人々がイエスを信じるわけではありません。そのことを聖書ははっきりと語っています。そもそもイエスを信じる出来事はイエスとその人との出会いの出来事であって、パウロを含めて私たち人間に引き起こせるものではないのです。

 

 パウロ自身イエスとの個人的な出会いを経て、イエスを信じる道へと導かれたように、私たち一人ひとりもまたイエスとの個人的な出会いの経験があるからこそ、信じるという決断へと導かれたのですから。そのことはパウロ自身、アテネでの失敗の経験を経て、わかっていたことでしょう。以前のパウロは自分の宣教で人を信じさせることができると思っていたふしがあったかもしれません。それがパウロのアテネでの失敗でした。

 

 パウロはその失敗によって、人は人の説得ではなく、神との出会いによって「信じる道」、「信仰」へと導かれるということを改めて思い知ったのではないかと思うのです。だからこそ、パウロはアテネでの失敗の後、自分が受け取った福音をそのまま伝えるということを大切にしていったのでしょう。「あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるため」という彼の言葉がそのことを最もよく物語っていると思います。

 

 パウロはこのような経験を経たことで人間の力の限界を知っていったのだと思います。私たち人間は神へのそして他者への不理解性という罪を抱えた存在です。そうであるがゆえに人間は神の思いから離れていくこともありますし、また人間同士でもお互いに誤解やすれ違いで大きな争いにまで発展してしまうことがあります。事実ここでのパウロとユダヤ人との間にも意見の不一致がありました。

 

 これらのことは私たちが一人の人間同士である以上、避けられないことですし、どうしても起こってくる現実の姿です。人は他人と同じにはなれませんし、そうであるからこそ完全に理解しあうことはできないでしょう。そんな思いを抱きつつだったでしょうか、パウロは去りゆくユダヤ人たちに対してイザヤ書を引用してこう言っています。「この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」

 

 この言葉はパウロの彼らへの当てつけだったのでしょうか?彼が人間の罪、神と他者への不理解性に絶望していたのならばあるいはそうだったかもしれません。しかし、パウロは絶望からこの言葉を彼らに言い放ったわけではなかったのだと思います。なぜなら、パウロはそんな人間の罪を贖い、救済する神を、そして人類を救いへと導く福音の力を知らされていたからです。パウロはこの後も諦めることなく福音を伝え続けました。それは彼が私たちを理解へと導く神の力を信じていたからに他なりません。

 

 そしてそれらのことを私たちに知らせ、理解へと導く存在が聖霊です。今日はペンテコステ、私たちに理解をもたらす聖霊が与えられたことを記念する日です。私たちが互いに歩み寄り、神への、そして互いの理解へと踏み出していくとき、そこには必ず聖霊の働きが備えられています。私たちはその働きに期待と信頼を寄せつつ、これからも教会の働きをご一緒に進めていきたいと願います。