8月27日主日礼拝メッセージ  「たとえすれ違っても」

 

みなさんは誰かを妬んだことはあるでしょうか。おそらく誰でも一度くらいは抱いたことがある感情だと思います。妬みを抱いた時のことを後から思い起こすととても嫌な気分になるでしょう。しかし、そうであるにも関わらず人はその妬みという感情からどうしても自由になれない存在です。私たち人間はなぜこの「妬み」の感情を抱くのでしょうか。それは私たち人間の根底に他者からの愛や関心を欲する思いが存在していて、しかもどこかでそれを受けられて当然という思いがあるからではないでしょうか。

 

 新約聖書マタイによる福音書に「ぶどう園の労働者」の譬えというものがあります。ぶどう園の主人がそれぞれ別々の時間に労働者を雇い、その働きが終わった後、最後に雇った労働者から賃金を払いました。最初に雇われた労働者は最後に雇われた労働者よりも当然多くもらえることを期待していましたが、結果は同じ金額だったのです。最初に雇われた労働者は主人に不平を言いますが、それに対して主人はこう答えます。

 

 「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」この譬えが示す一面には、人間という存在は愛や関心を受けて当然という思いがどこかにあるということでしょう。

 

 最初に雇われた労働者は最後の労働者よりもより多くの賃金、つまりより多くの愛や関心を受けて当然だと思っていたということです。そうであるからこそ最初の労働者と同じ賃金しか受けられないことに不平を言ったわけですから。このことが示すのは私たち人間の他者からの愛や関心を欲する思いというものは私たちが考える以上に強く、深いということでしょう。今日の聖書箇所もそのように人間の妬みが引き起こしていく出来事から始まっています。

 

 今日の聖書箇所である創世記37章は創世記における場面の切り替えが起こる章です。ヤコブからヨセフへと世代の移り変わりが起こりこれからヨセフの物語が展開していきます。しかし、その始まりは不穏なものになっています。3-4にはこうあります。「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。 

 

 ヤコブにはこの時点で11人の息子がいました。その末っ子がヨセフでした。どんな時代でも末っ子は可愛がられると言うことでしょうか、ヨセフもまたヤコブから可愛がられていたことを聖書は伝えています。しかし、ヤコブのそれは少々過剰だったのかもしれません。ヨセフの兄たちはヨセフに嫉妬心を抱き始め、ついにはそれが憎しみに変わり、穏やかに話すこともできなくなったとあります。

 

 このことの背景には様々な事情が絡み合っていたものと考えられます。まずヤコブの課題です。彼には四人の妻がいましたが、その中で彼が最も愛していたのはラケルだとされています。そのラケルとの子がヨセフであり、その他の息子たちは皆ラケル以外の妻との間の子供たちでした。しかし、たとえそうであったとしてもヤコブは彼らを同じように愛する責任が父親としてあったと思います。ですがヤコブはそうはできませんでした。それはヤコブ自身の弱さからくるものでした。

 

またヨセフ自身においても課題はあったと思います。彼は兄たちのことを父に告げ口したり、自分の見た兄たちの神経を逆撫でするような夢の内容を憚ることなく話したりしています。この時点でヨセフはまだ若かったとありますから、気が回らないところも多少はあったでしょうが、それでも兄たちが穏やかに話せなくなるほどになるまでになってしまったのにはヨセフ自身にも原因があると思います。

 

 そしてヨセフの兄たち、無論彼らにも課題はあります。確かにヤコブのヨセフに対する贔屓は目に余るものだったのかもしれません。ですが、彼らはそれらからくる妬みをヨセフにぶつけるのではなく、まずはヤコブに彼ら自身の思いを打ち明けるべきだったのではないでしょうか。ヤコブ自身も無意識の内にヨセフを贔屓してしまっていたかもしれませんし、兄たちの思いを聞けばそれを改める可能性はあったわけですから。

 

 このように三者三様の事情とそれからくる課題が絡み合って決定的に人間関係がこじれてしまう事態にまでなってしまったのだと思います。しかし、これらのことはヤコブたち家族だけに当てはまることではなくて、私たち一人ひとりにも言えることなのだと思います。ヤコブのような無意識に他者を傷つける言動、ヨセフのような他者への無神経さ、そして兄たちの決めつけによる行動、これらような言動は私たちもまた時にとってしまっていることが大いにあるのだと思います。

 

 それらは私たち人間が抱える罪の現れだと思います。彼らは互いに互いの心の内を理解できずにいます。そのことで家族という人間関係の内で最も距離が近いものでさえ危機にさらされています。私たち人間はあらゆる関係の中に生きる存在です。しかし、その関係は必ずしも良好なものだけとは限りません。最初は良好なものであったとしても、些細なことをきっかけに崩れてしまうこともあるからです。

 

 ヤコブたち家族の関係がまさにそのようなものなのではないでしょうか。ヤコブたち家族も最初は良好な関係だったのだと思います。しかし互いの些細なすれ違いが積み重なった結果、決定的に亀裂が入ってしまったのではないでしょうか。兄たちはこの後ヨセフを殺そうとしてしまうほどその憎しみを募らせていくことになります。もしもヤコブがほんの少し兄たちの思いに気づいていれば、もしもヨセフが少しだけ兄たちに配慮していれば、もしも兄たちがもう少し自分達の思いを素直に口に出していたら結果は変わっていたのかもしれません。

 

 ですがそうはならなかった。このようなことは私たちが今生きているこの世界でもありふれて起こっているでしょう。その究極とも言えるものが戦争なのではないでしょうか。戦争とは人間関係の致命的な破壊の出来事です。しかし、そのきっかけはヤコブたち家族のように初めは些細な出来事であり、そのことが積み重なっていってしまったことで起こってしまうことなのかもしれません。

 

 私たちはこの関係の破壊に対してどうすることもできないのでしょうか。聖書はこのヨセフ物語を通して私たちに一つの希望を与えられています。それはこれから始まるヨセフ物語の中で神がヨセフやヤコブ、そして兄たち一人ひとりに様々な体験を通して気づきを与えられいくということです。そのようにして彼らは神に取り扱われていくことでその心が少しずつ変えられていくことになります。

 

 そしてそのようなことは今を生きる私たちにも日々与えられているものではないでしょうか。私たちが経験するあらゆる出来事を用いて神は私たちを取り扱われ、その心に働きかけてくださっています。そのことで私たちは私たちが抱える罪を超えて行く道へと招かれ、そしてその一歩を踏み出していくことができるのでしょう。神は私たち一人ひとりの心の内を理解してくださり、そして私たちの互いの心を繋いでくださる方ですから。

8月20日主日礼拝メッセージ  「信仰の最大公約数」

 

 

創世記37:2-11

 

 みなさんは何かのこだわりをもっていることはあるでしょうか。それはいろいろあると思いますが仕事だったり趣味だったりでどうしても譲れないことはないでしょうか。きっと誰しもそのようなこだわりがあったりするのではないでしょうか。人はなぜあることにこだわるんでしょうか。人が何かにこだわりを持つ前提条件として確かなことはその事柄に強い関心をもっているということでしょう。

 

 そのことに強い関心がなければそもそも「こだわる」という一つのことを突き詰めて考えていくようなことはないはずだからです。そして人がこだわりを持つ条件としてはもう一つあると思います。それはそのことに関してその人なりの確信があることです。確信という言葉を辞書で調べると「あることを固く信じて疑わないこと。また、固い信念」とあります。つまり人がこだわりを持つのは確信を持つがゆえに譲れないことが出てくるということなのでしょう。

 

 この「こだわり」にはよい部分もたくさんあるとは思いますが、そのこだわりがきっかけとなって時に争ってしまうのも否定できない事実だと思います。なぜならお互いに固く信じて疑わないがゆえにどちらも譲れず衝突してしまうからです。そして互いに相手のこだわりを否定するような方向へと向かっていってしまうことになってしまうことも多々あるのではないでしょうか。

 

 そして教会においてもそのような「こだわり」のぶつかり合いが起きていたことを今日の聖書箇所は伝えています。パウロがここで語っているのはまさにキリスト者のこだわりである信仰の相違をどう受け止めていくかであるわけです。このローマの信徒への手紙はパウロがローマにいるキリスト者たち宛に書いたものとされています。ですがパウロ自身はこの手紙を書いている段階ではローマを訪問したことはありませんでしたから、ローマの信徒たちの状況を人伝てで聞いていたのだと思われます。

 

 ゆえにここで語られているような状況がローマのキリスト者たちの間で実際にあったのかもしれません。最もこのような状況はパウロが関わった他の教会でも起こっていた可能性が高いものですし、どのような教会や共同体でも起こり得ることなので、パウロが自分の経験を踏まえてローマの信徒への勧告として書き記したのかもしれません。

 

 いずれにせよパウロがここに書かれているような状況を重く受け止め、衝突を避けるように勧めているのには、それぞれの持つ確信が生み出す「独善」による裁き合いを危惧していたからなのでしょう。パウロは次のように語り出します。1-3節「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」

 

 パウロはまず食物規定に関することを例に挙げながら話を展開していきます。食物規定とは律法に書かれている食べ物に関する掟であり、ユダヤ教徒はそこにおいて禁止されているものを食べることはありませんでした。これは特にユダヤ教から改宗したキリスト者に多かったようで彼らはキリスト者になってもその掟を守り続けていたわけです。

 

 対してユダヤ人ではない異邦人キリスト者は律法を守る文化がありませんでしたから、当然ながら食物規定など守ることなくなんでも食べていたわけです。またパウロのように元ユダヤ教徒であってもなんでも食べていた人たちもいました。パウロはキリスト者になっても食物規定を守り続ける人たちのことを「信仰の弱い人」と言っていますが、このことはそのような人たちを非難するという表現ではありません。

 

 むしろ、その人たちを非難しないようにと勧告しています。ですからここでパウロは信仰の強い人と弱い人がいて、どちらが優れているかというようなことを語っているのでは全くありません。そうではなくて、人にはそれぞれ信仰の応答の仕方が違うということを語り、そしてその応答はそれぞれの確信に基づいてなされているのであるからお互いに尊重するようにと勧めているわけです。

 

 パウロはさらに語ります。5-6節「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」

 

 パウロは信仰の応答の仕方はそれぞれの確信に基づいて決めるべきであり、そのことを互いに非難し合ったりすることをこそ避けるべきであると語っています。なぜならばそれらの応答は全て神への感謝を表現しているものであり、そのことを他者が裁くことはできないからです。私たちは神に感謝するあらゆる自由が認められています。その神から与えられた自由を侵害することは誰にもできないのです。

 

 もちろんだからと言ってなんでもかんでも認められるということではないと思います。私たちに与えられている自由は神の義においての自由だからです。ゆえに神と人、そして人と人との関係性を破壊するような方向性の言動は認められないでしょうが、逆に言えばそうでない限りはそれぞれの確信に基づいた応答の自由が認められているということです。

 

 人は他者とのささいな違いが気になってしまう生き物です。神に感謝するという根本の部分では一致しているはずなのに、その表現の仕方という枝葉の部分で論争が起きます。それはこのローマの信徒への手紙が書かれた初代教会の時代から現代に至るまで変わっていないことではないでしょうか。私たちはささいな違いからくる不一致で歪み合うよりも、私たち一人ひとりとそれぞれの仕方で出会ってくださった神に対するそれぞれの確信を尊重し合うことが大切なのだと思います。

 

 私たちに与えられた信仰の確信は決して独善的なものではありません。それは私たち人間が誰一人として同じでないように、それぞれに適した形で与えられた神とのつながりそのものです。だからこそ私たちはそれぞれの確信を互いに尊重しつつ、互いに異なるものであってもそれぞれを繋いでくださる神を共に賛美することへと招かれています。

 

 今の時代は多くの異なるもの同士が非常に近い距離で生きている世界です。そんな中では特にお互いの違いが目立って感じられるかもしれません。そしてそんな他者を非難したり裁きたくなってしまうこともあるかもしれません。自分の中の「独善」を振りかざしたくなってしまうことがあるかもしれません。ですが、そんなときに神が私たちに示してくださった「寛容」が思い起こさせられるでしょう。

 

 

 神は私たちを大いなる寛容を持って耐え忍び続けてくださっています。だから私たちもそれぞれの「独善」ではなく、それぞれの確信に基づく「寛容」をもって応答していこうではありませんか。神はあらゆる私たちの応答をも用いて、ご自分の業を完成させられるお方ですから。

8月13日主日礼拝メッセージ  「君たちはなにを守るか」

 

世の中には様々な慣習や制度といったものがあります。それは地域や文化、そして時代などによってそれぞれ多くのものが存在していると思います。私たち人間はこれら多くの慣習や制度の中で生きているわけです。これらの慣習や制度といったものは本来人間が生活しやすくなるように、あるいは重要な出来事を風化させないために作られたものがほとんどでしょう。

 

 つまり、私たちが生活している中であまり深く考えずに行っている慣習や制度にはそれが出来ただけの意味というものが存在するわけです。ですがそれら一つ一つの意味を確認しながら行動している人はほとんどいないでしょう。多くの場合それでも実際的な問題は起こらないでしょうし、一つひとつ確認して納得してから行動していてはとても時間が足りないということもあるだろうからです。

 

 ですが、私たち人間は不思議なことにそこに実際的な問題が起こっていても、時にその慣習や制度を優先させてしまうということがあったりすることもあるのではないでしょうか。本来、人間が生活しやすくなるように、あるいは重要な出来事を風化させないために作られた慣習や制度のために人が苦しんだり、重荷を抱えてしまっては本末転倒です。

 

 そのような時にこそ、その慣習や制度が作られた本来の意味を確認することが大切になってくるでしょう。そうしていくことで私たちは改めてその意味を受け止め直して今の時代や地域や文化に合わせた慣習や制度のリメイクをしていくことができるからです。そうしていくことで私たちはその慣習や制度の大切な意味が取り戻されて、それまで感じていた苦しみや重荷から解放されていくはずです。

 

 今日の聖書箇所にもそのように人々が慣習や制度の本来の意味を見失ってしまっている場面が出てきます。聖書に登場する慣習や制度は多くありますが、その中でも最もそれを巡って議論を引き起こしているのが今日の箇所にも登場する「安息日に関する問題」でしょう。「安息日」というのは神がモーセを通してイスラエルの民に与えた戒めの中で語られたもので神を礼拝するための休息の日のことです。

 

 イエスの時代には、この日にしてはならない行為が細かく定められており、それを厳格に守ることが律法に忠実な証とされていました。今日の箇所はそのような安息日に起こった出来事です。初めに安息日に、イエスは会堂で教えておられたとあります。安息日の会堂、つまり人々が礼拝のために集まってくる時のことでした。そこに一人の女性が登場してきます。

 

 11節にはこうあります。「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」。聖書には様々な病を負った人が登場します。そしてそれぞれの病にはそれが示す比喩的な意味もあるのだろうと思います。この女性は「腰が曲がったままになる病」を負っていました。腰は人体を支える最も大切な体の部分だと思います。

 

 その腰が曲がったまま治らないというのは本当に苦しいものだと思います。それは比喩的な意味で言い換えるならば、自分の生き方を曲げられているような状態と言えるのではないでしょうか。この女性は何かに縛られながら生きていくこと余儀なくされた人々を表しているのだと思います。しかも18年とありますから、相当長い時間そんな状態に置かれていたということを示しているのでしょう。

 

 イエスはそんな女性を憐れまれたのかここではご自分から呼び寄せてその病を癒されています。イエスによって腰が真っ過ぐにされたことは、この女性の生き方が変えられたことを示してもいるでしょう。女性はイエスと出会ったことでそれまでの何かに縛られた生き方から解放されて自分らしく生きていくことができるようになったのではないでしょうか。

 

 イエスに手を置かれたこの女性はたちどころに腰が真っ直ぐになったことが語られています。この女性は18年も腰が曲がったままだったのですから、その病を治すために様々なことを試したことだと思います。しかし、結局それらでは彼女の病を治すこと、言い換えれば生き方を変えることはできなかったのでしょう。彼女にとってイエスとのこの出会いこそが自分の生き方が変えられ、そして何かに縛られた生き方から解放された決定的な出来事だったのだと思います。

 

 だからこそ彼女は心から神を賛美したのだと思います。彼女に起こされた出来事は単なる身体的な病の癒しを超えて、彼女自身の縛られた生き方を自由へと解放する救いの出来事だったのです。しかし、ここではそのような本来喜ぶべくはずの救いの出来事を目の当たりにしても、喜びとは真逆の反応を示している人物がいます。14節にはこうあります。「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない』」。

 

 この会堂長の言い分は当時のユダヤ教の規定から考えれば正しいと言えるものかもしれません。ですが当時のユダヤ教の規定は長い時間の中で後から細則のようなものが色々と付け足されていった結果、守らなければならないとされるものが膨大なものになってしまっていました。そのことにより、人々はそのような制度に縛られて、不自由で、重荷を抱えた生活を余儀なくされていました。

 

 イエスと出会う前の腰の曲がった女性はまさしくそのような当時の制度に縛られ、苦しみと重荷を背負わされていた人々を象徴する存在だったのでしょう。イエスはそのように制度に人を合わせようとする者に言われます。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

 

 イエスは「偽善者たちよ」という辛辣な呼びかけで語り始められています。安息日の遵守を命じている会堂長の行為は確かに当時のユダヤ教の制度で言えば妥当なものだったかもしれません。しかし、そのユダヤ教の制度の根幹を成す本来の律法の意味から考えればイエスの言われる通り偽善以外の何ものでもなかったでしょう。律法の本来の意味とはまさに人間が生きやすくなるように、また大切な出来事を風化させないために神が人に与えられたものに他ならないからです。

 

 私たちが生きている中でもこのようにある慣習や制度の本来の意味が失われてしまっていることがあったりするのではないでしょうか。私たち人間はどうしても目に見える形式に囚われてしまう存在だからです。ですがそのようなときこそその本来の意味を受け止め直して、今の時代や地域や文化に適したものとしていくことが大切なのではないでしょうか。

 

 イエスは言われます。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」またこうも言われています。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。イエスは何より私たち人間を大切にして下さっています。イエスはあらゆる束縛から私たちを自由にしてくださり、私たちの生き方をより生き生きとしたものへと変えてくださる方ですから。

8月6日主日礼拝メッセージ  「皮の衣を着せて」

 

 

 今日8月6日は特別な日です。特別と言っても決して嬉しい日というわけではありません。悲しく、そして痛みの記憶が残り続けるという意味での特別な日です。194586日広島に人類史上最も多く人を殺すことができる兵器が投下されました。そしてその3日後の8月9日には今私たちが住んでいる長崎にもそれが投下されました。多すぎる死者と負傷者を生み出したこの兵器はそれがもたらす悲惨さと残酷さを十二分に世界に知らしめたにも関わらず、今もなおこの世界に残り続けています。

 

 そして一歩間違えればこの兵器が再び使用されるかもしれないような戦争は今もなお世界で起こっています。なぜ人は争いを止められないのか?それは長い間人類が考え続けてなお答えを出せずにいる永遠の課題です。いえ、出せているのかもしれませんが実行出来ずにいると言った方が正しいかもしれません。ではなぜ実行できずにいるのか?その理由は私たち人間の根底にあるものに深く関係しているからだと思います。

 

 聖書の物語は私たちにそのことを語ろうとしています。神によって創造された最初の人アダム、そしてアダムとは異なるものとして、しかし互いに助け合う存在として創造されたエバ、彼らには神に命じられた一つのことがありました。それは彼らが住むエデンの園の木の内、善悪の知識の木からはその実をとって食べてはならないというものでした。

 

 彼らはそのことをしばらくは守っていたのでしょうが、しかしある時彼らは蛇の誘惑に乗ってしまいその禁じられていた実をとって食べてしまいます。この出来事が示す意味はなんでしょうか。これが示すのは単に人が神から禁じられた実を食べてしまったという表面的な行為ではありません。このことは人が神との約束を違えることによって神との関係を歪めてしまったということを示しているのです。

 

 人は神と、そして他者との正しい関係の中で生きる者として神によって創造されました。しかし、人はその神の意図された方向から逸れてしまったことがここで語られています。聖書は人が神との関係から逸れていった最初の反応を次のように描いています。6-7にはこうあります。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。 

 

 ここで「実を食べること」言い換えれば「神との関係を歪めること」は魅力的なこととして描かれています。あるいは人はわずかなことでそのような方向に傾いてしまうということを示しているのかもしれません。そしてその傾きは自分以外の他者にまで容易に広がっていってしまうものなのかもしれません。結局二人とも自分から食べてしまっています。

 

 そして実を食べた後の彼らの最初の反応が人間の本質をよく表していると言っても過言ではないかもしれません。実を食べた彼らの最初の反応は意外なものでした。それは自分が裸であることを知り、自分の体を覆い隠すものを纏いました。つまり人間が実を食べた後に抱いた最初の感情は羞恥を覚えたということです。人が神との関係を歪めた後に感じた最初の感情は私たちもよく知る感情である「恥ずかしい」と思うことだったわけです。

 

 この「羞恥」という感情、みなさんはどんなときに抱くでしょうか。いろいろな場面で抱く感情だとは思いますが、共通しているであろうことは自分が他者に見られたくないこと、知られたくないことを、見られたり知られたりしてしまったときに抱く感情なのではないでしょうか。ではなぜ人は他者に見られたくないものや知られたくないことがあるのでしょうか。

 

 無論人間誰しもそういうことの一つや二つはあるものだと思いますが、なぜなのか?ということを考えたことはあまりないかもしれません。しかし、それこそが人が争いを止めることができない理由に深く関係していることのように思えるんですね。人が他者に見られたくなかったり、知られたくなかったりすることがあるのは、突き詰めて考えればそれが他者に理解してもらえないだろうと思うからではないでしょうか。「こんな自分を知られて相手に理解されないかもしれない」という思いが恥ずかしいという感情の正体なのではないかと思います。

 

 因みに実を食べる前の彼らの様子は次のように描かれています。2:25には次のようにあります。「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」アダムとエバはお互いの裸を見られて、言い換えれば剥き出しの心を直視したことによって恥ずかしさを感じています。しかし、神との関係を歪める前までは心を直視しても恥ずかしくはなかったということが語られています。

 

 つまり、神との関係を歪める以前の人間は互いが互いを完全に理解し、受け入れ合うような関係にあったのではないでしょうか。だからこそ「恥ずかしさ」という感情とは無縁だったのだと思います。しかし、実を食べたことでその関係性を崩れ、互いを理解できず、受け入れ合えない関係になってしまった。それゆえに彼らはこの後自分の責任を他者になすりつけ合うようにまでなってしまっています。

 

 これが人間が争いを止めることができない理由なのだと思います。聖書はそのことを包み隠さず私たちに語っています。人はそれぞれが独立した個人であって、それゆえに他者を完全に理解することができない存在です。無論そうであったとしても互いに歩み寄っていくことである程度の理解はできるでしょうが、それでも「恥ずかしさ」のような「こんな自分を知られて相手に理解されないかもしれない」という思いを完全に拭い去ることはできないでしょう。

 

 そしてそのような思いは「恥ずかしさ」から「恐れ」へ、そして最終的には「拒絶」に変わっていくのではないでしょうか。その結果人は互いに争い合ってしまう。人は他者の剥き出しの心を直視することに耐えられないからです。このような人間を見られて神はどのように思われたのでしょうか。正直この結果は神が望まれたことではなかったかもしれません。

 

 人間に対して怒りとそして悲しみを覚えられたことでしょう。それゆえに厳しい裁きとも言えることが命じられてもいます。ですが、そうであるにも関わらず神は人を見捨てられてはいません。そのことを示すのが彼らに「皮の衣」を作って着せられたということなのだと思います。神は「不理解」という罪を抱えた人を否定されることはされませんでした。そのような人を許され、受け入れてくださっています。そして人がそのようなままでも生きていくことができるように、互いの剥き出しの心を直視することがないように「皮の衣」を着せて下さったのだと思います。

 

 それは「不理解」を抱えた私たちであったとしても今ある力で互いを理解し合っていくことへと招く神の願いでもあるのだと思います。私たちはそんな神の願いに応答していく歩みへと進んでいきたいと願います。平和を覚える月、そのことを日々思い起こしつつ歩んでまいりましょう。