2月25日主日礼拝メッセージ  心の目を開いて

 

みなさんは何かの問題に直面した時にどうするでしょうか。多くの人は問題解決に向けて努力したり、解決方法を探ったりすると思います。それらはごく自然なことであって決して悪いことではありません。むしろ、それらを全くしないというほうが不自然ですし、なりゆきに任せるままというのもどこか消極的すぎるように思います。聖書も私たちの目の前の問題から目を背けるようには語っていません。

 

 重要なのは私たちがそれらの問題をどのように見るのかということなのではないかと思います。より正確に言えば何を通して見るのか、ということでしょう。私たちはつい目の前の問題を過大に評価し、それに対して過度な恐れを抱いてしまいがちです。そうなってしまうと、どんなに考えても、どんなに解決に向けて行動しようとしてもことごとくうまくいかないといったことになってしまうことがあったりするのではないでしょうか。

 

いわゆるドツボに嵌るというやつです。そうなるとますます焦ってしまって、間違った方向への努力を続けてしまったり、上手くいかないことで自分の心も荒んできたりとひどい状態になってしまったりするものではないでしょうか。しかし、その問題をあるものを通して見る時に、それまで見えてこなかったものが見えてきて、その問題と適正に向き合えたり、あるいは思いもよらない解決策が浮かんだりすることもあるでしょう。

 

 ではその「あるもの」とはなんでしょうか?今日はそのことをご一緒に聖書から聴いていきたいと思います。まず8節にはこうあります。「アラムの王がイスラエルと戦っていたときのことである。王は家臣を集めて協議し、『これこれのところに陣を張ろう』と言った」。この時代、アラムとイスラエルは度々小競り合いのような形での争いを続けていました。

 

 このことを言い換えるとするならばアラム王はイスラエルとの争いという問題と対峙していたことになります。そして、その問題に対して彼なりに努力し、解決策を考えていたわけです。しかし、彼のそんな努力は悉く裏目に出てしまいます。彼の策は預言者エリシャによってイスラエル側に筒抜けになっていたからです。しかもそのことは一度や二度ではなかったと記されています。

 

 つまり、アラムの王が動けば動くほど事態は悪くなってしまっていたということです。そしてこのことで「アラム王の心は荒れ狂った」とあります。彼は家臣を呼びつけて情報がどこから漏れたのか探ろうとしています。家臣の一人がアラム王にこう言います。「だれも通じていません。わが主君、王よ、イスラエルには預言者エリシャがいて、あなたが寝室で話す言葉までイスラエルの王に知らせているのです。」

 

 実は情報は彼の思いもよらないところから漏れていました。いえ、情報どころかこれは彼の全てが知られていると言っているようなものですから。彼にとってはよりショックが大きいことだったでしょう。ここでは預言者エリシャがアラム王のことをすべて知らせている、となってはいますが、このことを突き詰めて考えていくならばアラム王の心は全て神に知られているということになります。

 

 彼は自分の心の内が全て神に知られているなど考えもしていなかったでしょう。だからこそ、そのことを知らされた時、彼は恐れに駆られ、預言者が、神がどこにいるのか探ろうとします。そして、預言者を捕らえようとさえしています。これは言い換えれば自分の心を見通す神を自分の手中に収めたいという彼の思いの現れでしょう。しかも彼はそのために軍馬や戦車などの大軍を差し向けています。

 

 彼は最初から最後まで問題を、物事を自分の内側でしか考えていません。言い換えれば、今、目に写るものをしか見ていないということです。そうであるからこそ彼は預言者さえ捕らえることができればこの問題が解決すると思い込んでいるわけです。しかもたった一人を捕らえるためだけに大軍を遣わしていることから彼は相当な焦りや恐れを抱いていたということが読み取れます。

 

 このアラム王の遣わした大軍は裏を返せばイスラエル側の問題になるわけです。そしてそのような問題と直面することになったエリシャの従者は狼狽えます。この時点の従者は問題と直面した時のアラム王と同じ反応でした。目の前の問題に対する適切な向き合い方が分からずに恐れと焦りを抱いています。そんな従者に対して預言者が取った行動がこれです。

 

 「『恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い』と言って、主に祈り、『主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください』と願った」。「恐れるな」というフレーズは聖書中でよく目にするもので、皆さんも馴染みがある言葉だと思います。それだけにこれは短い言葉ではありますが、聖書が語るメッセージの根幹を表している言葉でもあります。

 

 聖書は私たちに「恐れるな」と、言い換えれば「前を向き、困難に向き合う」よう勧め、また励ましているのです。そしてそこには励ましに加えて確かな助けをも備えられているということを聖書は語り続けています。「わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」。従者の目の前に見えていたのは、確かに彼にとってどうしようもない、自分の力ではどうにもできないような困難だったかもしれません。

 

 しかし、そのような困難であっても神の確かな助けが与えられているということを聖書は語り続けています。ですがその助けというものは、私たちの目には見えなくなっている時があったりするものかもしれません。当初この従者の目にもその助けは見えてはいませんでした。その助けは私たちの肉体の目を通して見るものではないからです。

 

 預言者は従者のためにこう祈りました。「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」。これまで閉じられていたこの従者の目が開かれた瞬間でした。彼は今までは見ることのできなかった大いなる神の助けを目の当たりにしました。それは彼がこれまで目にしてきたどんなものよりも頼もしい助けだったことでしょう。彼の目は「祈り」によって開かれていきました。

 

 「祈り」は神と私たちとを繋ぐ関係を支えるものです。私たちは祈りを通して神と対話し、その中で励ましや気づきや、そして困難に立ち向かっていくための助けを受け取ることができます。私たちは祈りを通してそれを私たちの心の目で見ることができるはずです。私たちは時に今日のアラムの王のように心の目が閉ざされてしまうこともあったりするかもしれません。

 

 大きな問題や課題を前にして、恐れや焦りを感じて心乱されてしまう時があるかもしれません。しかし、そんな私たちには確かな神の助けが備えられていることを私たちは心の目で見ることができます。もし、自分自身で祈ることができないときは、誰かが自分のために祈ってくれていることを思い出してください。従者も預言者の祈りによってその目が開かれていったように、私たち一人ひとりもまた自分ではない誰かの祈りによって支えられ、心の目を開かせられることがあるはずです。

 

 

 その時私たちは共に神の大いなる助けを目の当たりにすることでしょう。祈ります。

2月18日主日礼拝メッセージ  世界を支える言葉

 

みなさんは何かの言葉によって励まされた経験はあるでしょうか?それは時に歌詞だったり、詩の中の1フレーズだったり、あるいは友人からのメッセージだったり、様々あると思います。その言葉によって私たちは力づけられて苦しい時に支えられたということは大いにあることだと思います。そしてなにより私たちクリスチャンには御言葉という最大の励ましの言葉が聖書を通して届けられてもいます。

 

 御言葉に励まされて勇気と希望を受け取ることが私たちの日々を生きるための糧になっていることでしょう。しかし、一方で時に御言葉は私たちに鋭い問いや揺さぶりをかけてくるものでもあるのではないでしょうか?今日の聖書箇所の12節にはこうあります。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」

 

 ここでは御言葉が両刃の剣に譬えられています。なぜ「両刃の剣」なのでしょうか?御言葉は確かに私たちが困難や試練を前にしている時、それらに立ち向かうための力になります。御言葉によって私たちは力づけられてそれらのことを乗り越えていくことができるからです。ですが同時に御言葉は私たちの心に切り込んでくる刃にもなります。

 

 聖書が語るようにその刃は鋭く、私たちの心を全て見通すように部位と部位を切断されてしまうほどに切り込んでくるものです。そのことは言い換えるならば、私たちの心は御言葉によって切り開かれ、そして変えられていくということを指し示しているでしょう。神は御言葉によって私たちに「問い」という刃を突きつけられることがあります。ですがこの刃は私たちを殺すものでは決してありません。

 

 そうではなくて、むしろ私たちを生かすために必要不可欠な言葉としての剣なのです。なぜなら、神の言葉は生きており、今も力を発揮し続けているからです。私たちは聖書に書かれている文字として固定化された言葉を受け取っているわけではありません。そうではなくて、私たちは聖書と私たちとの間の応答によって聞き取った言葉をこそ御言葉として聞いているわけです。

 

 そうであるからこそ私たちは、聖書が語る通り、神の言葉は生きていて、また力を発揮し続けていることを確信することができるのです。だから神の言葉が「両刃の剣」であることは私たちにとって何よりの福音です。神の言葉は私たちに困難に立ち向かうための力を与えるのと同時に、私たちの心を鍛え、整えられていくための神の助けであるからです。

 

 聖書はそのような御言葉の本質を語りつつ、そんな御言葉が発せられる根源について語り始めます。14節「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」。ヘブライ人への手紙の著者はイエスを「大祭司」という言葉で表現しています。

 

 旧約の時代、「祭司」は神と民との間に立ち、その関係を仲介するものとして召されていました。しかし、今やその役目はイエスに引き継がれていることを「大祭司イエス」という言葉は示しています。しかもイエスはただの「祭司」ではなく「大祭司」と呼ばれています。なぜヘブライ人への手紙の著者はイエスを「大祭司」と呼んだのでしょうか。

 

 その答えを探るには15節の言葉がキーになってくるでしょう。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。イエスが私たち人間と同じ姿をとってこの世界に来られた理由がここにあります。イエスは私たち人間のあらゆる痛みや苦しみや弱さをご自分が経験されたからこそ私たちに同情できる方として今も私たちの側におられるのです。

 

 それは言い換えれば、神が私たちへの完全なる理解を表現されるために採られた方法でもありました。パウロはフィリピの信徒への手紙にてそのことを次のように語っています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 

 イエスは私たち人間と完全に同じ者になられたからこそ、私たちの痛みや苦しみや弱さを完全に理解し共有する方として、父なる神と私たち人間を繋ぐ「大祭司」となられたのです。そしてヘブライ人への手紙の著者はそのことを既に知らされているからこそ、私たちが公に言い表している信仰を保とうと励ましています。私たちが言い表している信仰とは何か?

 

 この手紙の著者はそのことについて手紙の冒頭で語っています。1:3には次のようにあります。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。これをより簡潔に言い換えれば、イエスは真の神であり、同時にその御言葉によって私たちを含めたすべての被造物を保ち続けているということになるでしょう。

 

 そのことは冒頭の「両刃の剣」に譬えられた御言葉のことともつながってくるのではないでしょうか。私たちは御言葉によって時に励まされ、時に鋭く心に切り込まれることで一時痛みを感じることもあるかもしれませんが、そのことが後の私たちに益となることをも含めて、私たちは御言葉によって支えられています。そのことはイエスが「大祭司」として神と私たちとの間に立ち続けてくださっているからこそ実現していることでもあります。

 

 私たちのためにたてられた大祭司イエスは、二つの方向を向いておられる方です。一つは私たち人間の執り成しのために私たちの方を向き、そしてそんな私たち人間の苦しみや痛みや弱さを訴えるために、父なる神の方へ向いておられる方です。そうであるからこそ私たちにはより大胆な祈りが許されてもいますし、同時に求められてもいます。

 

 ヘブライ人への著者は私たちにこう勧めます。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と。神はなにか型に嵌ったような、あるいはどこか遠慮したような祈りを求めておられるのでしょうか。いいえ、そうではありません。この著者が勧めているように、私たちの必要の全てをその心の底から注ぎ出すような祈りをこそ神は求められているのです。

 

 そこに私たち人間の限界は関係ありません。「人にはできないが、神にはできる」と私たちが聞かされている通り、私たちのあらゆる限界や不可能を超えて働かれる神を私たちは知っているからです。確かに私たちの世界には私たちではどうにもできないと思えてしまうことが多すぎるかもしれません。それらのことを前にして私たちは打ちひしがれ、倒れ込んで、諦めてしまうこともあるかもしれません。

 

 

 しかし、そんな私たちを励まし、時に鍛えて、その心を支え続けてくださる神が、私たちの失望や挫折や諦観をも打ち砕いて今も世界を支え続けてくださっていることを私たちは知らされています。神の言葉は今も生きていて、私たちに力を与え続けてくださっていますから。祈ります。

2月11日主日礼拝メッセージ  青い鳥のように

 

みなさんは「青い鳥」という童話劇をご存知でしょうか?日本では「幸せの青い鳥」という呼ばれ方でも有名な作品だと思います。物語のあらすじとしては幸せの青い鳥を探しに、旅に出る兄弟の不思議な冒険物語であり、兄弟は様々な不思議な国を巡って青い鳥を見つけようしますが、一向に見つけることができませんでした。結局青い鳥を捕まえることができずに兄弟は家に帰って来ます。

 

 すると、元々家にいた白い鳥が何故か青い鳥に変わっていました。この物語が伝えたいのは「幸せは身近にある、近すぎて気がつかない幸せもある」というメッセージなのだと思います。そのようなことは私たちの日常でも思い返してみると多くあったりするかもしれません。しかし、この物語が示すように私たちが何かによってそのことに気付かされない限り、意外と見過ごしてしまうのもまたこの物語のとおりなのではないでしょうか。今日の聖書の箇所でもこの物語のように「近すぎて気づかない幸せ」のようなメッセージが込められているように思います。

 

 今日の箇所では五千人に食べ物を与えるという聖書の中でも特に有名な奇蹟が記されています。ですが、私たちはその奇跡をその外側の表面的な部分だけで受け取るべきではありません。なぜならそれでは神が聖書を通して私たちに語りたかったことを受け取ることはできないからです。ではどのように聖書の奇跡を受け止めるべきなのかというと、その奇跡の本質的な意味を考えて、その意味が私たちにどのような影響を与えるのかということを受け取ることが重要です。

 

 もしそうしないなら、聖書の奇跡は私たちに何の関わりもないものになってしまいます。そのことを踏まえた上で今日の箇所から御言葉を受け取っていきたいと思います。イエス一行はガリラヤ湖を渡り、とある山上まで来ていました。しかし、そこにはイエスを追って大勢の群衆もついて来ていました。彼らはイエスが病人たちにされたしるしを見てイエスについて来た、とあります。つまり彼らはイエスに何かしらのことを求めてここまで来ていたわけです。

 

 そんな彼らの姿を見られたイエスが弟子の一人であったフィリポに問いかけます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と。このイエスの問いもその本質の意味を探ることが大切です。イエスはご自分について来た群衆を見てこの問いを出されたわけですが、彼らが求めていたものは必ずしもパンではなかったわけです。

 

 加えて6節にはこの問いはフィリポを試みるためのものであったことが記されてもいます。つまり、この問いの意味は「群衆が求めているものはどこにあるのか」ということをフィリポに問うているものということになります。このイエスの問いに対してフィリポが出した答えがこれです。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」

 

 フィリポは真面目にイエスの問いに答えています。しかし彼はイエスの問いの真意に気づいていません。ただ彼のこの答えは、この群衆の求めに応えるためには自分達の手持ちでは到底足りないということを訴えるものでもあると思いますから、フィリポは群衆の求めているものはここにはないということを答えたとも言えると思います。そんな二人のやり取りの後、今度は同じく弟子の一人であるアンデレがやって来てイエスに言います。

 

 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」アンデレは大勢の群衆の中から一人の少年を連れて来ました。少年は五つのパンと二匹の魚を持ってはいましたが、アンデレはそれらを何の役にも立たないものとして切り捨てています。つまり、彼は本質的にはフィリポと同じく「ここには群衆の求めているものはない」という考えであったわけです。

 

 またこの箇所においてアンデレに「何の役にも立たない」と言われているのは何もわずかなパンと魚だけを指しているわけではありません。新共同訳でこの箇所には「五千人に食べ物を与える」と見出しがついていますが、正確にはそれは間違いだと思います。なぜなら10節にも「男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった」とあるように、当時人数として数えられるのは成人男性だけであったからです。このように女性や子供は人数に数えられていなかったわけです。

 

 人数に数えられないということは労働力としてあてにできない存在と見做されていたという意味もあります。つまり、この少年自体もここで「何の役にも立たない」ものの象徴として描かれているわけです。「何の役にも立たない少年が持つ、わずかなパンと魚が一体何になるのか…」。アンデレを始め他の弟子たちもおそらく同じ考えだったことでしょう。

 

 しかし、ただイエスだけはおそらく弟子たちに嘲笑されて下を向いていたであろうこの少年にこう言われたのではないでしょうか。「気にすることはない。ただあなたが持っているものを差し出しなさい」と。少年はこう言われてどう思ったでしょうか。最初は怖かったかもしれません。躊躇ったかもしれません。弟子たちに笑われて、自分自身でも何の役にも立たないと思ってしまったかもしれません。

 

 でもこの少年はそれでも最後は勇気を振り絞って自分の持つものをイエスへと差し出しました。イエスはその少年が持っていたパンと魚を喜んで受け取られたことでしょう。少年の手を離れたわずかなパンと魚はイエスによって溢れるほどに増やされて、人々が満足してなお有り余るほどの恵みとして与えられていきました。そしてイエスは弟子たちにこう命じられます。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と。

 

 弟子たちは一人ひとり手に籠をもって余ったパンを拾い集めました。そしてそれらの籠がいっぱいになった時、弟子たちは気付かされたのです。どこにパンを買いに行く必要もなかったことに、恵みという幸せは既に自分自身の中に与えられていたことに。そしてその一人ひとりに与えられた恵みは自分の外に出すことで何十倍、何百倍、何千倍も増やされていくということに。

 

 私たちもまたこの弟子たちと同じような体験をするときがあったりするのではないでしょうか。自分自身に与えられている幸せ、恵みというものは青い鳥のように近すぎて気づかないときがあったりするかもしれません。あるいは、自分自身では取るに足らない、何の役にも立たないものに思えてしまうかもしれません。しかし、私たちがあるときその恵みを見つけて、それを神へと差し出していく時、こんなにも多くの恵みに囲まれていたということに気付かされていくことでしょう。

 

 

 もし私たちがどうしても恵みを見つけられない時は、「青い鳥」の話のように最初の場所に、私たちそれぞれの信仰の原点に戻ってみるのもいいかもしれません。そこではいつでも必ず神が私たちを迎えてくださり、恵みはいつでもあなたのすぐそばにあることを気づかせてくださいますから。祈ります。

2月4日主日礼拝メッセージ  起き上がり、前へ

 

みなさんは自分の人生が大きく変わったなと思えるターニングポイントのようなものがあったりするでしょうか。もちろん長い人生を歩んでいればそのようなターニングポイントは誰しもあるものでしょう。しかもそれは一つだけでなくいくつもあったりする場合もあることでしょう。私たちはそこにおいて経験する出来事によって自分の人生の方向が変えられていくような感覚を受けたりするものではないでしょうか。

 

 クリスチャンにとって最大のターニングポイントはやはり神との出会いだと思いますが、そのことも何も一度限りのものではなく実は何度も経験するものだったりするのではないでしょうか。私たちはその人生の時々に神と出会わされていくことで少しづつ自分とは何者なのか、そして神とはどのような方であるのかということを知らされていくのではないかと思います。

 

 今日の聖書箇所でもそんな神と出会わされた一人の人の歩みが変えられていく姿が描き出されています。今日の聖書箇所では病を負った一人の人が登場します。この人は38年の間、病で苦しんでいたことが語られています。38年というのは私たちの現代の感覚で考えても相当に長い時間だと思います。この人はそれだけ長い間何らかの病で苦しんでいたと考えるのも一つの解釈として成立するものだと思います。

 

 しかし、聖書において数字が登場する時にはそこに何らかの裏の意味が込められていることが多いです。この38という数字は聖書においてもあまり馴染みがない数字でピンとはこないかもしれません。ですが申命記2:14には、この38という数字が出て来ます。お読みします。「カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで、三十八年かかった。その間に、主が彼らに誓われたとおり、前の世代の戦闘員は陣営に一人もいなくなった。」

 

 このカデシュ・バルネアという場所での出来事は出エジプトにおいても今日の聖書箇所においても重要なキーとなるものなのでここで少し説明したいと思います。神によって導かれ、モーセに先導されて出エジプトを果たしたイスラエルの民は約束の地であるカナンの手前であるカデシュ・パルネアという場所まで辿り着きました。彼らはカナンに入る前に斥候を遣わしてカナンの地を偵察することにしました。

 

 偵察の結果、斥候に出た内の大多数がその地の先住民の屈強さを理由にカナンの地に入ることに反対しました。しかし、神はモーセを通してこうも言われていました。「うろたえてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た。」

 

 イスラエルの民たちはそれまでの出エジプトの旅路でいくつもの神の助けや導きを経験してきたはずでしたが、そのことを経験してもなお神を信頼し委ねることができませんでした。そのことでこの神に信頼しなかった出エジプトをした内の第一世代と呼ばれる人々はこのあと38年もの間、荒野を彷徨うこととなり、結果として約束の地に入ることはできませんでした。

 

 つまりこの聖書においてこの「38」という数字には「神に背を向ける」という意味が込められているというわけです。そのことを考えると今日の箇所で登場する38年の間病で苦しんでいる人とは、言い換えれば「神に背を向け続けた結果、苦しんでいる人」と考えることができるのではないでしょうか。身体的な病というよりもこのような神との正しい関係が保てずに苦しんでいる人なのではないかと思います。

 

 そのような考えた上でこの後のイエスとこの人との会話を見ていくと少し印象が変わってくるものだと思います。6節にはこうあります。「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」。まずこの人は横たわっていたとあります。病気なのだから横たわるのは自然なのではないかと思うかもしれませんが、イエスはまずこの人が横たわっているのを見てから、長い間病気であることを知ったという順で書かれているところに注目したいと思います。

 

 「長い間病気のゆえに横たわっている人を見た」ではないのです。つまり「横たわる」ということも何らかのメタファーとしてここで用いられている可能性が高いです。では「横たわる」とは何を意味しているのでしょうか。それはさらにこの後のイエスとこの人の会話を見ていくと見えてくると思います。イエスはこの人に「良くなりたいか」と問いを投げかけられています。

 

 イエスが人々に問いを投げかけられている場面は聖書中多く見られるものなので、特に珍しくはありませんが、ここでは「良くなりたいか」他の訳では「健やかになりたいか」と言われています。つまりこの人の思い、意志を確認しているわけですね。これに対してのこの人の答えが7節です。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」

 

 この人のイエスに対する返答は一見噛み合っていないように思えます。「良くなりたいか」というイエスの問いに対しての答えとしては「良くなりたいです」と応えるのが最も自然でしょうから。あるいは「良くなりたくない」という返答もあるかもしれませんが、いずれにせよイエスの問いに対してストレートには答えてないように思えると思います。

 

 ただこの人の答えていることは意味的には筋通っています。そもそもこのベトザタの池の周りに病気の人が多くいたのには理由があります。それは「ベトザタの池には時々降りて来た御使が池の水を動かすことがあり、その後に初めて池の水に触れたものは病が癒やされる」という言い伝えが広まっていたからです。そのことを踏まえれば、この人の言っていることがわかるのではないでしょうか。

 

 少し意訳が入るかもしれませんが、つまりこの人は「良くなりたいとは思っているけれども、誰も自分を助けてくれないからそうなれないのだ」と言っていることになります。イエスは「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」とその人に言われます。このイエスの言葉もあえて意訳するのならば「人に頼らずに自分自身で立ち上がり、自分の荷を背負って歩き出しなさい」となると思います。

 

 これは何も自己責任論をイエスは語っていると言っているものではありません。そうではなくてイエスはここでこの人にしかできないことを求めておられるからこのような意味としてこの人に語っておられると思うんですね。それは神とこの人との関係は、この人自身の応答によってしか良くされていかないから、健やかにされていかないからだと思います。

 

 そうであるからこそイエスはこの人に「良くなりたいか」と聞かれたのでしょうし、また「起き上がりなさい」とこの人自身に立ち上がらせたのだと思います。つまり、ここでの「横たわる」とは「神に背を向けること」の象徴として、対して「起き上がる」とは「神に向き合う」ことの象徴として用いられているのだと思います。そのように考えると、一見不可解な14節のイエスの言葉も受け入れやすいものとして聞こえてくるのでないでしょうか。

 

 「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この言葉は次のように言い換えることができるでしょう。「あなたは神と向き合ったのだ。もう、神に背を向けてはいけない。さもないと、また元に戻ってしまうから」と。そしてこの言葉は私たちにもまた語りかけられているものでもあります。

 

 

 神は私たち一人ひとりとの親しい関係を求めておられる方です。そしてそれは私たち一人ひとりにしか応答できないものでもあります。人任せにはできないのです。私たちは「横たわって」いるとき、今も神は私たちをこう言って関係へと招かれています。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と。祈ります。