12月25日クリスマス礼拝メッセージ  「つづく約束」

 

すべての人間の救い

 みなさん、クリスマスおめでとうございます。私たちはアドベントの時を終えて、今日イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスの時を迎えました。キャンドルの5本目にイエス・キリストを象徴する火が灯りました。長い待降の時を終えてようやく訪れたこのクリスマスをみなさんと共に大いに喜び、そして祝い合いたいと思います。暗闇の中にあってなお光り輝く希望の光が私たちに届けられたのですから。

 

 聖書はこの希望の出来事であるクリスマスを様々な言葉で私たちに伝えています。先ほどお読みいただいた聖書箇所ではそれを次のように語っています。11節「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」ここではクリスマスの出来事が非常にシンプルに語られています。クリスマスはまさしく私たちにとっての「救い」の出来事そのものです。

 

 クリスマスの出来事があったからこそ、私たち人間は今もなお生かされ、神との関係を続けることが赦されているのですから。そして、そのことは同時に完全なる「神の恵み」の現れでもありました。私たち人間は神の救いを自力で勝ち取ったわけでも、あるいは神の救いにふさわしかったわけでもありませんでした。「恵み」とはただ神が私たちに一方的に与えてくださった恩寵です。

 

 そしてクリスマスに私たちに与えられた恵みとは神ご自身が人の形をとられて、この世界に来てくださったことであり、そのことは私たち人間への神の愛が受肉した出来事でした。私たちはそんな神の最大の恵みであるクリスマスを思い起こし続けることで、感謝と喜びを忘れず希望をもって歩み続けていくことができるのです。

 

 そしてこの救いは「すべての人々」に開かれているものでもあると聖書は語ります。神の愛の射程は人類全体に届くほど広く、すべての人々を招いているのです。私たち教会はその救いをすでに受け取ったものたちが神によって集められ、神の救いを伝え続けるよう召された者たちの共同体です。神は私たち一人ひとりを救いを伝える使者として召し出され、それらを束ねて教会を建てあげられました。

 

 私たちが教会に集められている意味はまさしくそこにこそあるわけです。私たち教会は神のすべての人々に開かれた救いを伝える使命を託されています。そのことはクリスマスに与えられた神の救いそのものであるイエスによって私たちに伝えられていることでもあります。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」という言葉に私たち教会は応答しつづけているのです。

 

 

恵みによって教え導かれる

 イエス・キリストはこの世界に私たちと同じ人の形をとられて来てくださいました。そして、当時の人々に神の愛を語られ、同時にそんな神の愛に応答するようにと多くの教えを語られました。そのことは現代に生きる私たちにも聖書を通して語られていることでもあります。そのことについて12節では「その恵みは、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え」ている、と語られています。

 

 まず思慮深くとはどのようなものでしょうか。これは私たち人間の思いのみで軽率な判断をしないということを語っているのだと思います。私たちは生きている中でさまざまな判断に迫られます。私たちはその時その時の思いに流されて軽率に物事を判断してしまうことがあるでしょう。しかし、そのようにして判断した物事はあまり良い結果を生まないことも私たちは多かれ少なかれ経験したことがあるのではないでしょうか。

 

 ではどのようにしてそれらのことを判断すればよいのか、ということになりますが、その指針となるものが次の「正しさ」ということにつながっているのです。「正しさ」とはその言葉だけ抜き取ってしまえばなんとも曖昧な言葉のようにも聞こえてしまうでしょう。この世界では多くの「正しさ」が叫ばれ、そのどれもが一見、本当に正しいようにも思えることもありますし、反対に正しくないようにも思えることもあるからです。

 

 ですが聖書が語る「正しさ」とはそれらこの世界で言われているものとは全く異なっています。聖書の語る「正しさ」とは神の正しさ、「神の義」を指しています。つまり、私たち人間が所有できるようなものではなく、ただ神のみがもたれている「正しさ」だということです。しかし、そうであるならば、私たち人間が「神の義」をもって物事を判断していくことはできないということになってしまうのではないでしょうか。

 

 「神の義」は私たち人間がもち得ないがゆえに、私たちは「正しく」ありつづけることはできないということになってしまわないでしょうか。ですが、それらの矛盾に対して聖書は私たちが「信心深く生活する」ことでその矛盾を乗り越えることができるのだと語っているのです。では「信心深く生活する」とはどのようなことでしょうか。この言葉をより正確に言い換えるならば「神に信頼しつつ生きる」ということになるのだと思います。

 

 私たち人間は不完全であるがゆえに確かに神の正しさを獲得するということはできないでしょう。しかし、私たち人間にはその神の義を聖書という神の言葉によって示され、そしてそれを求め続けるようにと招かれ続けています。私たちには神の義を獲得することはできませんが、神の義を求め続け、そしてそこへと向かい続けることはできるはずです。

 

 なぜならば、そのような生き方こそが聖書が語る「信仰」というものの本質であり、神を信頼して生きることにほかならないからです。私たちは聖書が語りかける御言葉からそのような生き方を教えられ、導かれています。聖書の語る「救い」とは神との信頼関係の回復であるからこそ、私たちはすでに救われています。ですが一方で救いの完成は未だ来てはいません。

 

 

待ち望みつつ生きる

 救いはイエス・キリストが再び来られることによって完成するからです。聖書はこう語ります。13節「また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。 」私たちはイエス・キリストの再臨こそを究極の希望として見つめつつ、そのことを約束された神に信頼して今を生きています。ゆえに私たちの「信仰」は待ち望みつつ生きることでもあります。

 

 私たちはこのクリスマスまでのアドベントの時を「待ち望みつつ」歩んできました。クリスマスはおよそ2000年前この世界に私たちと同じ人の形をもって来られたイエスの降誕を喜び祝う時です。イエス・キリストの降誕によって私たち人間と神との関係は回復され、今も神の恵みの中で私たちは生きることができているのですから。

 

 ですがクリスマスにはもう一つ大切な意味があるのです。それはイエス・キリストの再臨を先取りして祝い喜び合うことにあります。なぜならば私たちはかつて救い主が与えられるという約束を受け取った人々と同じように、イエス・キリストの再臨という約束を受け取っているからです。私たちはその神の約束に信頼するからこそ、それがまだ見ぬ出来事であっても信じることができるのです。

 

 私たちは今日クリスマスを迎えました。それは神の約束が成就した時であり、同時にまだ見ぬ神の約束が与えられた時でもあります。私たちはそれらのことを大いに喜び祝おうではありませんか。神は私たちをまだ見ぬ約束の成就へと導いてくださっていますから。

12月24日クリスマスイブキャンドルサービスメッセージ  「人となる意味」

 

分かり合えない私たち

 みなさん、クリスマスおめでとうございます。私たちはこのクリスマスをアドベントというクリスマスを待ち望むための時を経て毎年迎えています。それはクリスマスという出来事が指し示す意味が私たちにとってそれを待ち焦がれるほどに大きな意味を持つがゆえにほかなりません。今日このクリスマスイブの時、私たちは私たちにとって大きな意味を持つクリスマスのその意味をご一緒に今一度思い起こしてみたいと思います。

 

 毎年クリスマスを迎えると、私たちは同時にもうすぐ一年が終わることにも気付かされるでしょう。2022年はみなさんにとってどのような年だったでしょうか?きっとみなさんそれぞれに様々なことが思い起こされると思いますが、なにより私たちにとってこの年大きな衝撃を受けたのは、ロシアによるウクライナ侵攻、およびそれに伴う戦争だったのではないでしょうか。

 

 2022年が始まってまもなくして始まったこの戦争はいまだに終結の道が見えていません。私たち人間はその歴史の中で幾度となく悲惨な戦争を経験してきたはずです。そしてその度にもうこのような戦争は決してすまいと、固く誓い、そのことを後の世代にも語り継いでもいます。しかし、にもかかわらず現実は戦争やそのほかお数多くの争いに溢れています。

 

 私たち人間はなぜこれほどまでに争うことをやめられないのでしょうか?何度も同じことを繰り返しておきながら、一向にに学ばないのでしょうか?「争い」は戦争という大規模なものだけではありません。私たち人間個人の間でも小さな「争い」は数えきれないほどあるでしょう。そして表面に出てこないものまで含めるのならば、「争い」とは無関係な人間などいないでしょう。

 

 「争い」はなぜ起こるんでしょうか?そのことをより深く考えるならば、争いへと発展してしまう私たちの中にある「あるもの」から目を逸らすことはできないでしょう。それこそが私たち人間が「争い」をやめられない原因であり、同時に人間である以上拭い去ることが決してできないものでもあります。聖書はそれを「罪」として私たちに示しています。「罪」と一言で言ってもそれは抽象的にしか感じられないかもしれませんが、あえて「罪」をさらに詳しくいうのならば、私たちが持つ他者への不理解性だと言えるでしょう。

 

 私たち人間は自分とは異なる他者のことを完全には理解することはできませんし、あるいは理解しようともしない存在です。それゆえに他者とのすれ違いが起き、それが積み重なることによって「争い」へと発展してしまいます。それこそが私たち人間が「争い」をやめることができない理由でしょう。私たち人間はそのような「争い」のもととなる不理解性という「罪」を内包している存在なのです。

 

 聖書は私たちがそのような「罪」を抱えた存在でありながらも、しかしその「罪」のままに生きることを良しとはしていません。なぜならば、私たちが抱えるその「罪」をすべて引き受けられるためにこの世界にこられた方のことをこそ聖書は指し示し続けているからです。聖書はその方のことをこのように伝えています。

 

 

へりくだる神、キリスト

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」私たちが今日思いを馳せているクリスマスの出来事、それは神のヘリくだりの出来事でした。

 

 イエスは神の身分でありながら、私たちと同じ人間としてこの世界に来てくださいました。そのことは私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか?それこそがクリスマスの真の意味であり、私たちにとってクリスマスが喜びの時である理由であるはずです。イエスが人の形をとって私たちのもとに来てくださったこと、それは神の私たち人間に対する最大の理解の表現です。

 

 私たち人間は、神はもちろん自分とは異なる他者を理解できない存在であるにも関わらず、神だけはそんな私たち人間を理解してくださっているということを私たちに示されるために、イエスという一人の人として私たちのもとに来てくださいました。そのことは神が私たち人間を何より愛されているがゆえであり、私たち人間をその罪の結果から解放されるためでもありました。

 

 イエスは人の姿をとって私たちの元へと来られ、多くのことを語ってくださいました。そのことは時を超えて今聖書として私たちにも届けられています。その言葉の一つ一つによって私たちは支えられ、力づけられ、そして生きていくための導を与えられています。そしてなにより、イエスは私たち人間の罪を贖うために十字架にかかってくださいました。

 

 その死に至るまで神に従順であられたイエスによって私たちは赦され、今も生かされているのです。イエスが私たちのもとにきてくださっていなければ、私たちは今もなおその罪によって神との関係の断絶という死の定めにあったでしょう。しかし、そんな私たちを死の暗闇から救い出してくださるためにイエスは私たちのもとに来てくださったのです。

 

 

 だからこそイエス・キリストの降誕を記念するクリスマスは何よりの喜びであり、私たちにとって最大の福音、良き知らせなのです。イエスは今もなお私たちと共にいてくださり、私たちに寄り添い、私たちを理解してくださり、その歩みを導いてくだっています。その福音の出来事を今思い起こしながら、この喜びの出来事をみなさんと一緒に感謝しつつ、お祝いしたいと思います。クリスマスおめでとうございます。

12月18日アドベント第四主日礼拝メッセージ  「希望の旗印」

 

切り倒されたところから…

 今日からアドベント第四週に入りました。アドベントクランツはついに4本目の蝋燭に火が灯りました。私たちはアドベントの期間一週ごとにクリスマスが近づいて来るのを感じると共に、灯されていく火に込められた意味を思い起こします。今日灯された4本目には「愛」の意味が込められていると言われます。クリスマスはまさに神の愛そのものであるような出来事です。

 

 イエス・キリストは神の愛を完全な形として示されるために、私たち人間と同じ姿をとられてこの世界に来てくださいました。そのことは私たち人間に対する神の最大の理解の表現であるのと同時に、神ご自身がなによりも謙られたことを示すものでもありました。今私たちは神の愛の完全な形であるイエス・キリストの降誕の出来事を記念するアドベントの期間を過ごしています。

 

 今日も聖書からそのことを思い起こしつつ、神が私たちに語ろうとしておられる御言葉を聞いていきたいと願います。今日の聖書箇所はイザヤ書11:1-10です。イザヤ書はこのアドベントの期間やクリスマスに読まれることが多い聖書箇所です。それはイザヤが語る預言にイエス・キリストを指し示しているとされるものが多くあるからです。今日の箇所もその内の一つであり、1節にはこうあります。

 

 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち 」エッサイというのは人の名前であり、イスラエル王国の二代目の王であるダビデの父にあたる人物です。新約聖書のマタイによる福音書やルカによる福音書にはイエスの系図が記されていますけれども、そこにはエッサイやダビデの名前もイエスに至るまでの中に記されています。

 

 ユダヤ人は系図をとても大切にしていた民族ですから、エッサイの株から出たダビデに連なるものとしてイエスがお生まれになったということはとても重要なことだったのだと思います。しかし、このイザヤ書11章の預言にはそんな系図以上に、ここに語られている人物をイエスたらしめるものが語られていると思うのです。まず「エッサイの株」という言葉に注目したいと思います。

 

 「株」というのは木が切り倒された後の根元の部分を指しています。つまり、エッサイから出たダビデが象徴するイスラエル王国が滅ぼされた後のことを示していると言えます。一度は切り倒され、滅ぼされてしまったイスラエル、しかし神はそんなイスラエルをそのままにはしておかれませんでした。イザヤの預言はイスラエルの回復を預言するのと同時に、さらにその先にある救い主の誕生をも指し示しています。

 

 その姿が2-5節に記されています。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。 弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。」

 

 ここに示されているのは私たちが新約聖書から受け取っているイエス・キリストの姿でしょう。イエスはその宣教を始められる際、ヨハネからバプテスマを受けられました。その時のことをマタイによる福音書は次のように伝えています。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。 

 

 そしてイエスの地上での歩みは弱い者や虐げられている者の側に立ち、その死に至るまで正義と真実を貫き通されたものでした。そのようなイエスの姿にこそ、私たちはダビデの家系に連なる者ということ以上にここに預言されている救い主の姿にイエス・キリストを重ねることでしょう。私たちはこのイエスにこそ希望を抱き、地上の王にはなし得ない真の平和を見ているのですから。

 

 

神の国の「かたち」

 そしてその真の平和の形は「神の国」として私たちに語られているのです。6-8「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。」私たち

はここに示されていることに大きな驚きと懐疑を抱いてしまうのではないでしょうか。

 

 それほどまでにここに示されている神の国の「かたち」は私たち人間の想像を遥かに超えるものであり、それゆえに私たちはそんな神の国を信じることが困難に思えるでしょう。私たちの生きているこの世界では起こり得ないことが神の国ではあたりまえのこととして示されているからです。狼は子羊を、豹は小山羊を捕食し、獅子と牛は共に平和に草を食らうことはないでしょう。

 

 自然界ではこれらのことは食物連鎖の形として止むを得ないことでもあるでしょうが、しかし私たち人間は動物のように止むを得ない事情がないにも関わらず、人間同士で傷つけ合い、殺し合っています。極め付けは私たちは自分自身を滅ぼし尽くしてしまうほどの兵器まで持ってしまっているという恐ろしい現実があります。そのような現実を前にして私たちはここで示される神の国の「かたち」など到底信じることができないと思ってしまうかもしれません。

 

 ですが、このことを語り、そしてその神の国をもたらしてくださるのは、私たちに確かな約束を語り続けてくださっている神ご自身なのです。神はイスラエルの民との歴史を通して様々な約束を語られ、そしてその約束に基づく大いなる恵みを彼らに与えてこられたことは私たちも聖書から知らされていることです。そのような神が今もなおその約束を信じて歩むよう私たちに語りつづけてくださっています。

 

 「人間にはできないことも、神にはできる」とイエスは言われました。神の国は神ご自身によってのみ建てあげられる理想郷であり、私たちに与えられている究極の希望です。「わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」そのような世界が私たちには指し示され、その方向へと歩み続けるようにと招かれています。私たちに人間には神に国は実現することはできませんが、しかし指し示された希望の方向へ向かい続けることはできるはずです。

 

 私たち一人ひとりが歩み出せる歩幅はわずかかもしれませんけれども、しかしそれでも神は私たちのそのわずかな一歩を祝福してくださり、その歩みに伴ってくださるはずです。私たちはその歩みに伴ってくださる方を知っています。遠い昔、人々に神の国という福音を語り、人々の希望となられた方を。そしてその方はまた再びこられることを私たちは聖書から知らされてもいます。

 

 今、私たちが過ごしているアドベントはそんなイエス・キリストの再臨を待ち望むことを思い起こす期間でもあります。私たちが今生きている世界は苦しみや痛みや悲しみで満ち溢れています。そのことに私たちは心揺さぶられてしまうことも多いでしょう。ですが私たちにはそのような中であっても燦然と輝く希望が確かに与えられているのです。

 

 クリスマスはその光り輝く希望に世界中が目を注ぐ時です。私たちはすべての民の旗印として立てられたイエス・キリストの降誕を待ち望みつつ、その喜びを味わいまた語り続けて参りましょう。

12月11日アドベント第三主日礼拝メッセージ  「喜び祝え!」

 

喜びの知らせ

 今日からアドベント第三週に入りました。アドベントクランツの3本目の蝋燭に火が灯りました。私たちはアドベントの期間一週ごとにクリスマスが近づいて来るのを感じると共に、灯されていく火に込められた意味を思い起こします。今日灯された3本目には「喜び」の意味が込められていると言われています。私たちにとってクリスマスの出来事は何よりの喜びです。

 

 クリスマスは神の救いが私たちにもたらされた出来事だからです。今日はその救いがもたらされた喜びを思い起こしながら、聖書から溢れ出す喜びをまた受け取っていきたいと思います。先ほどお読みいただいた聖書箇所は次のように始まっています。14-15「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。主はお前に対する裁きを退け/お前の敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。お前はもはや、災いを恐れることはない。」

 

 「シオン」というのはイスラエルの民を指す言葉ですから、ここではイスラエル全体に対して喜びが告げられていることになります。「シオン」、「イスラエル」「娘エルサレム」と異なる三つの呼び方でありながらも同じ意味の言葉が用いられて喜びが告げられているということは、イスラエルにもたらされた喜びがいかに大きいものであるのかということを指し示しているでしょう。

 

 神がゼファニヤを通して語られた言葉は神がイスラエルをその滅びから救い出されるというものでした。イスラエルは神に対する度重なる背きのゆえにバビロン捕囚という裁きを受けることになってしまいました。ですが神はイスラエルをそのままにはして置かれませんでした。裁きを退けられ、イスラエルを再びご自分の元へと招いてくださったことが預言の言葉に示されているでしょう。

 

 イスラエルの民は長いバビロン捕囚の中で神との関係の断絶を経験していたことだと思います。自分が住んでいた土地から離され、自分達の信仰の基盤が揺らがされたことによって、彼らは今まで神と共に歩んできたという歩みから離されてしまいました。そんな彼らを神は再びご自分との関係に立ち返るよう招かれているのです。

 

 しかも「イスラエルの王なる主はお前の中におられる。」と言われていることから、神の側からイスラエルに近づいてくださっていることが受け取れると思います。このことこそが神がイスラエルの民に賜った救いそのものであり、同時にイスラエルの民にとって長い裁きが終わり、喜びの出来事が訪れた知らせであったことでしょう。

 

 

神はただ中に

 このイスラエルの民に対する救いの告知は、クリスマスの出来事の告知に似ています。「イスラエルの王なる主はお前の中におられる。」と言われている通り、神はイエスを私たちのただ中に遣わしてくださいました。私たちと同じ人の形をとって、私たちと同じ目線まで降ってきてくださいました。そのことはまさに私たちのただ中に神がおられるということであり、神が私たちと共にいてくださるということを証明された出来事でした。

 

 神が私たち人間に与えってくださった「救い」とはまさにこの「神が私たちと共にいてくださる」ということにつきます。より詳しく言い換えるならば「神が私たちと親しい関係を築いてくださった」ということです。イスラエルの民たちが度重なる神への背きのゆえにバビロン捕囚という裁きの経験をしました。しかし、そのことは何もイスラエルの民だけに限った話ではないはずです。

 

 私たちはイスラエルの民の経験を他人事としてではなく、自分の事柄として受け止めなければなりません。なぜならば、私たち人間はその誰しもが不理解性という「罪」を抱えた存在であり、その罪によって神の思いを理解できずに神から離れてしまう存在だからです。ゆえに私たちとイスラエルの民たちの姿は本質的には同じものです。

 

 私たちは何度も神に背き、その関係が断ち切られてもまったくおかしくないものだったわけです。しかし、そんな私たちであるにも関わらず神はイスラエルの民になさったことと同じように裁きを退け、私たちとの関係をまた再び固く繋ぎ直してくださいました。そのことがイエスがこの世界に来てくださった意味なのです。クリスマスは「神との関係の回復」という神の救いがもたらされた出来事なんですね。

 

 しかもその神からの救いは私たち人間側に「救いに値するだけの理由」があったわけでは決してありません。ただ一方的な神からの恵みであったわけです。そのこともここで語られているイスラエルの民も、私たちでも同様です。だからこそ神からの最大の恵みである「救い」を大いに喜ぶよう告げられているのです。私たちはこの神からの無条件の救いをただ感謝して、受け取り、そして大いに喜ぶことへと招かれています。

 

 

主は喜ばれる

 そしてその「喜び」への招きは私たちだけに向けられているものではありません。17節後半にはこうあります。「主はお前のゆえに喜び楽しみ/愛によってお前を新たにし/お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」 私たちだけでなく神ご自身も喜ばれることが語られています。救いを受けた私たちが喜ぶのは自然なことですが、なぜ救いを与えてくださった側の神が喜ばれるのか私たちには不思議に思われるかもしれません。

 

 そのことは、神が私たち人間との関係の回復を私たち以上に望んでおられる方であるからこそなのだと思います。聖書には神のこのような私たち人間に対する神の愛が示されている箇所が数多くあります。ルカによる福音書には「放蕩息子のたとえ」という記事があります。そこでは放蕩の限りを尽くし戻ってきた息子であったにも関わらず、父は息子が戻ってきたことを何よりも喜び、祝宴を開いて喜びました。

 

 また同じくマタイによる福音書には「迷い出た羊のたとえ」というものがあります。そこでは100匹の羊を飼っていた羊飼いは、群れから迷い出たたった1匹の羊のための探しに出かけました。これらの例えでいうのならば私たち人間は放蕩の限りを尽くした息子であり、また群れか迷い出た羊そのものですが、そのような私たちを神は必死に探し出してくださり、そしてその帰りを何よりも喜んでくださる方なのです。

 

 また神はその愛によって私たちを新たに変えてくださる方でもあります。聖書の中には神との歩みを経験した様々な人物が登場しますが、その誰しもが神との関わりに中でその生き方やその心を大きく変えられていきました。それは一朝一夕でなったのではなく、彼らが神との関係の中で少しづく変えられていったものだと思います。

 

 私たちもまた神との関係に招かれ、その中で新たに造り変えられるという経験をすることでしょう。そんな経験を私たちがするとき、私たちは同時に神の愛を確かに受け取っているということを思い起こすことでしょう。神が私たちを探し求め、そしてその帰りを何よりも喜んでくださったことを…。

 

 このクリスマスを待ち望むアドベントの時、私たちは神によって「喜ぶ」ことへと招かれています。私たちはこの神からの招きに応答して大いに喜び合おうではありませんか!私たちがクリスマスを喜び祝う時、神もまたそこにおられ、私たちと共に喜んでくださっていますから。

12月4日アドベント第二主日礼拝メッセージ  「魂の糧」

 

持たざる者への招き

 アドベント第二週に入りました。私たちはイエス・キリストの降誕を記念する日を待ち望みながらこの期間を過ごしています。毎週徐々に灯っていくキャンドルの灯りを見つめながら、私たちは神が私たちに賜った恵みの一つひとつを思い起こします。そうしていくことで私たちはクリスマスという出来事の意味をあらためて受け止め直し、この出来事が自分自身の事柄であったことを再確認することができるはずです。

 

 聖書を通して語られる神の御言葉は他の誰でもなく、他ならぬ私たち一人ひとりにこそ語りかけられているものだからです。そのような思いで今日も聖書から御言葉を聴いていきたいと思います。今日の聖書箇所はイザヤ書55:1-11です。まず1節にはこうあります。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」

 

 最初から戸惑ってしまうようなことが書かれています。渇きや空腹を覚えた者に対する招きの言葉ではありますが、ここでは「価を払うことなく求めよ」という言葉と共に語られています。私たちが何かを得ようとする時、それに対する対価を支払うのは当然という価値観があると思います。人間は「貨幣制度」が登場する以前から物々交換をしていましたから、この価値観は人間が持ちうる本能的なものなのかもしれません。

 

 そうであるがゆえに私たちは「ただで受ける」ということに対して抵抗を覚えるのではないでしょうか。「ただであげる」と言われたら、何かを返さなければならない、対価を支払わなければならないと思うのが私たちの思いではないでしょうか?人同士であればむしろお互いにそのような思いで関係性を築いていくこともあるでしょう。しかし、こと神との関係にいては全く異なっているということをこの御言葉は示しているのだと思います。

 

 私たちは人と同じように神とも関係を築いていきます。ですがそこにおいては「何かを返さなければならない」という私たち人間の思い、あるいは「自分には返すものがないから」という遠慮も一切無用であることを聖書は語っています。神の恵みとはここで語られているように何らかの対価を支払って受け取るものではありません。ただ感謝してそのまま受け取るべきものなのです。

 

さらに2節にはこうあります。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。」イエスは人はパンだけで生きるのではなく、神の御言葉によって生きると言われました。その通り、私たちは確かにパンも必要としますが、だからといってそれだけで生きているわけではないでしょう。

 

 私たちはその心を満たすもの、魂の豊かさを求めて生きています。私たちはそんな必要不可欠な魂の豊かさを満たすものを対価を支払って手に入れようとすることもあったりするでしょう。ですが、聖書はそのようにして手に入れたものでは魂の豊かさは決して満たされないことを語ります。ヨハネによる福音書にイエスとサマリヤの女との会話がこのことを最もよく象徴しているでしょう。

 

 イエスは自分の心を満たすために次々に別の男と結婚していた女にこのように言われました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」神が与えてくださる水、それは御言葉そのものです。御言葉だけが私たちの心を満たし、魂の豊かさを与えてくれるものなのです。

 

 そしてそんな魂の豊かさを与えてくれる御言葉は、私たちがただ受け取るだけで良いものです。何かの対価を支払わなければならないものではないのです。「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。」私たちは神が与えてくださる御言葉にただ耳を傾ければ良いのです。そこにこそ尽きることのない命があることを聖書はその全編を通して語り続けているのですから。

 

 

尋ね求めよ、呼び求めよ、立ち帰れ

 しかし、そのようなただ受け取るだけで良い恵みを度々拒んでしまうのも私たちの姿でもあるでしょう。私たち人間は何度も間違って、道を踏み外してしまう弱く脆い存在です。この預言が語られたイスラエルの民もまさに何度も間違い、道を踏み外した末にバビロン捕囚という苦難の時を過ごすことになりました。

 

彼ら捕囚の民は実際のところは物質的にはさほど不自由はしなかったようなのですが、しかし、それまでの環境が一変しなにより自分たちの神から離れ、異教の神々に囲まれての生活を強いられるという信仰的な阻害の中に置かれていたことを考えれば、彼らの魂はまさに飢え、渇いていたことだと思います。

 

 そのようなイスラエルの民に対して、神はイザヤを通して語りかけます。6-7節「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。」一度は神から離れてしまったイスラエルの民に神はご自分に立ち返るよう招かれています。

 

 そしてその言葉はもちろん私たち一人ひとりにも語られている御言葉です。私たちが何度神から離れてしまっても、道を間違えてしまっても、その度に神は私たちに語りかけてくださる方です。尋ね求めよ、呼び求めよ、立ち帰れ、とそこには私たちの魂を満たす豊かな憐れみと恵みが備えられているのですから。私たちに負い目があってもなお神はその豊かな恵みをただで私たちに備えてくださっているのです。

 

 

むなしくは響かぬ御言葉

 そしてそんな恵みを伝える御言葉は聖書という形を通して今の私たちに届けられています。御言葉は神ご自身の口から出て私たちに届けられていますが、その御言葉が雨や雪に例えられて語られています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。  

 

 一度降り注いだ雨や雪が天へと帰らないのと同じように、神の語られた御言葉もその対象である私たちを見失うことはありませんし、取り消されて再び神の口に戻るということもないのです。雨が大地を潤し、豊かな恵みを与えるように、神の御言葉は私たち人間に魂の豊かさを与えてくださるものです。

 

 だからこそ私たちが日々受け取っている御言葉は、神の恵みそのものだと言えます。私たちが神がただで与えてくださる恵みである御言葉を素直に受け取っていく時、私たちはその御言葉によって生かされ、魂の豊かさを感じることができるでしょう。このアドベントの時、私たちと同じ人となって御言葉を語ってくださった。イエス・キリストの降誕を思い起こしつつ、歩んで参りましょう。