12月31日主日礼拝メッセージ  「共にいる善」

 

2023年もまもなく終わりを迎え、新しい年が始まろうとしています。みなさんにとってこの2023年はどのような年だったでしょうか。ここ数年間続いたコロナウイルスは未だ警戒が必要なものの、以前に比べればそこまでの圧迫感なく過ごせるようになったかもしれません。少しずつではありますがコロナ以前の生活が戻ってきたような、そんな年だったかもしれません。

 

 ですが、その一方で世界の戦火はますます拡大してしまった年でもありました。ロシア、ウクライナ間の戦争が未だ続く中で新たにイスラエル、ハマス(パレスチナ)間の戦争が新たに起こってしまいました。昨年、ロシア、ウクライナ戦争が始まった時、私たちは大きな衝撃を受けたことでしょう。この21世紀においてなお、このような侵略戦争が起こり得るものなのか、と。

 

 そしてさらに今年には強大な戦力を有するイスラエルがパレスチナの民をも容赦無く巻き込んだ戦争を始めた時、私たちは人の罪が引き起こす恐ろしい惨状を改めて見せつけられたような思いになったのではないでしょうか。聖書は人が人である限り、その罪から自力で逃れることはできないことを私たちに教えています。それは現代を生きる私たちであっても同様です。人の本質は聖書の時代から今まで何一つ変わっていないからです。

 

 先週、私たちはクリスマスを迎え、イエス・キリストの降誕の出来事を共に喜び祝いました。イエスは聖書が語っているとおり、「平和の君」であり、インマヌエルである方です。イエスは私たちと共にいることを示されるためにこの世界にきてくださいました。それは「神が共にいる」ということがどれほど私たちにとって大切で、また必要不可欠なことであるかを示すことでもありました。

 

 今日はそんな「神が共にいる」ことの大切さを示す聖書箇所から2023年最後の御言葉を受け取っていきたいと思います。2023年の後半から祈祷会ではサムエル記上を読み進めてきました。サムエル記は最後の士師であるサムエルの誕生から始まり、イスラエル王国の初代の王となるサウルと二代目の王となるダビデの物語が展開されていく書物になっています。

 

 その中でも今日の18章はサウルとダビデとの間の確執が決定的になってしまったときの出来事を描いています。サウルはイスラエルの初代の王であり、優秀な人物ではあったのですが、その心は神から離れた人物でもありました。彼は神に頼り、神との関係を大切にするよりかは、自分自身や目に見える力を頼りとするような人物、つまり心のベクトルが神ではなく、自分自身に向いているような人でした。

 

 対してダビデは神との関係を何よりも大切にする人物でした。そういう意味でダビデの心のベクトルはサウルとは真逆だったと言えるでしょう。そのような対照的な二人ではありましたが、彼らが出会った当初はサウルはダビデを重用し、二人の関係は良好な状態にありました。ですが、ダビデが活躍すればするほど、サウルはダビデを妬むようになり、やがて彼に殺意まで抱くようになってしまいます。

 

また、聖書はサウルが度々悪霊に悩まされていたことを語っています。そして、その悪霊の出どころは神であったことをも伝えています。これは非常に誤解を招きやすい表現だと思いますが、ある意味で聖書が語らんとする本質を言い表している箇所でもあると思います。ではそれはどういう意味なのか…。大前提として聖書は神を善き存在として語っているのはみなさんご承知の通りだと思います。ではその善き存在である神に対して対立概念として悪と呼ばれる確固たる存在があるのか、という疑問は歴史の中で度々議論されてきたことでした。

 

ですが聖書はそのような存在を語ることはありません。確かに今日の箇所で語られている「悪霊」や、あるいは「悪魔」といった言葉は聖書に登場しますが、それは善なる神の対立存在として登場するのではなく、いずれも神の支配下にあるものとして登場しています。ではなぜそのような言葉が聖書で語られているのかと言えば、それらは神との関係がないところの状況を表すものとして登場しているからです。

 

 つまりこれらのことが何を語っているのかというと、「悪」という確固たる存在があるのではなくて、「善」が欠落した状態、言い換えれば「善」なる神との関係がない状態を表現するものとして聖書は「悪」という言葉を用いているということです。そのことを踏まえて今日の箇所を読むのであれば、10節にある「神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取りつかれた状態に陥れた」という箇所はサウルと神との関係がこの時点ですでに希薄になっていた、あるいは切れかけていたということを表す表現だということです。

 

 もちろんそれは神がサウルを見放したというわけではなく、サウルの方が神との関係を拒んだことによるものなのですが、その状態を「悪霊がサウルに降り、ものに取りつかれた状態」と表現しているわけです。サウルは度々このような状態になっていたそうですが、ダビデの奏でる竪琴の音色を聴くと、不思議と心が落ち着いていったそうです。

 

 それはダビデに奏でる竪琴を通して神がサウルに語りかけていたからかもしれません。彼の切れかけていた神との関係をなんとか修復しようと神が働き続けておられたからサウルはダビデの竪琴を聴いている間だけは心の平安を得ることができていたのでしょう。しかし、ついにそのことをも拒絶するほど、彼の心は頑なになってしまっていました。

 

 その結果、サウルのダビデに対する妬みは暴走を始めてしまいました。サウルは自分のために竪琴を奏でるダビデに襲い掛かり、槍で突き刺そうとしたこと、とあります。結局はダビデはそれをかわしはしましたが、サウルは二度も彼を刺そうとした、とあることからダビデに対しての明確な殺意が芽生えた瞬間だったのでしょう。

 

 このことをきっかけにサウルのダビデに対する扱いは急激に酷いものになっていきます。12-13節には次のようにあります。「主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れ、ダビデを遠ざけ、千人隊の長に任命した。ダビデは兵士の先頭に立って出陣し、また帰還した」。サウルは完全に神との関係を断つようになり、それに伴いダビデをも遠ざけるようになります。

 

 そして、彼を次々に戦地に送り込むことで、彼を戦死させようと目論むようにまでなっていまいます。この時のサウルの心は完全に「善」が欠落し、「悪」と呼ばれる状態になってしまっていました。対してダビデには「主が共におられた」ことが語られています。ダビデは主が共におられたことでサウルの策略から守られ、いかなる戦場でも勝利を収めることができました。

 

 「神が共にいる」そのことを聖書は一貫して語り続けています。それはそのことがいかに私たち人間にとって大切なことであり、また限りない神の恵みの出来事であるのかを示し続けてもいます。私たちは今年もまたクリスマスを迎えました。それはまさに人となって「インマヌエル」を表してくださった神を覚え続けるための記念の出来事です。

 

 

 来る2024年の歩みも、神が共いて私たちを導いてくださることを信じて進んで参りましょう。祈ります。

12月24日クリスマスイブキャンドルサービスメッセージ  「心の余地」

 

今年もクリスマスがやってきました。クリスマスというものに皆さんはどのようなイメージを持たれているでしょうか。クリスマスになると街は鮮やかなイルミネーションで彩られ、クリスマス特有の明るい音楽が響き、行き交う人たちどこか明るい表情で、大切な人へのプレゼントを携えていたりと、寒い季節ながらもとても明るく、華やかなイメージを思い浮かべる方も少なくないことでしょう。

 

 ですが、世界で最初のクリスマスはそのような明るさや華やかさとは真逆のものだったということを聖書は私たちに伝えています。世界で最初のクリスマス、その始まりは今から約2000年前のイスラエルにおいて、とても意外な場面から始まっていました。先ほど読んだ聖書の初めには次のようにあります。「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。」当時のイスラエルはローマ帝国の統治下にありました。そのため、ローマは統治国であるイスラエルの人口調査をしていたわけです。

 

 人口調査は現在でも当たり前に行われていることではありますが、その目的とは一体何のためだったのでしょうか。人口調査をした結果わかることは様々ありますが、やはり当時のローマの目的としてはイスラエルがどれほどの力を持っていて、それをどの程度の力で支配できるのかを調べたいという意図が一番の理由だったと思います。その意図を突き詰めていくとつまり、根底にあったのは他者を管理したい、他者を思い通りにしたいという人間の欲望であったわけです。

 

 この他者を思い通りにしたいという欲望は決して人の集合体としての国だけにあることではなくて、私たち一人ひとりの中にも確かに存在するものでしょう。聖書はそのような人間の欲望を「罪」という言葉で定義しています。これは目に見える犯罪などの罪のことをさしているのではなくて、人の心の奥底にある他者を理解しないという性質のことを指しています。だから聖書の語る「罪」は人間であれば誰にでも当てはまるものなのです。

 

 私たちが具体的に目にする「罪」とは、全てこの心の奥底にある「罪」が原因となって表に現れ出たものです。今現在も世界で起こっている戦争はまさにその際たるものだと思います。しかし、そこまで大きな規模ではなくとも、私たちは日常的に「罪」を犯し続けています。なぜなら、人間は不完全な存在であり、また個人という枠で区切られた存在である以上、自分とは異なる他者の存在を完全に理解することはできないからです。

 

 日常的な人と人との関係の中で私たちはこのような他者への不理解という罪を犯し続けているのです。そしてそのことが広範囲に拡大していった結果、今もなお世界で起こり続けている貧困や差別や暴力に発展してしまうのだと思います。それらは同時に人としての尊厳を奪われることでもあります。そしてイエスの誕生もまたそのような人間の罪の広がる世界の中で起こった出来事であったことを聖書は語っているのです。

 

 イエスの両親であるヨセフとマリアは人の罪の象徴として語られている人口調査のためにマリアが身重であるにもかかわらずベツレヘムという街まで移動しなければなりませんでした。そしてそのベツレヘムでの出来事が最もよくイエスの誕生がどのような意味を持っていたのかを表しているものだと思います。今日の聖書の最後の部分には次のようにあります。

 

 「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」身重であったマリアは結局、旅先で出産することになってしまいました。今でもそのようなことはあったりするかもしれませんが、当時は病院などもなく今よりもはるかに環境は整ってはいなかったですから非常に困難なものであったことは想像に難くありません。

 

 ただでさえ当時の出産が困難であるにもかかわらず、それに追い討ちをかけるようにヨセフとマリアの周囲の人々の反応も冷たいものでした。聖書はヨセフとマリアのための客間がなかったことを語っています。それでしかたなくおよそ人が寝泊まりするところではない、ましてや出産する場所としてはとても考えられないような家畜小屋でイエスはお生まれになりました。

 

 聖書は「彼らのいる余地がなかった」と語っています。ですが果たして本当にそうだったのでしょうか。誰か一人でも彼らの状況を聞いて「もうすぐお子さんが生まれるのですか。ならこの部屋を使ってください。必要なものも用意しましょう。」と言ってくれる人はいなかったのでしょうか。おそらくは誰もいなかったからこそそのようになったのでしょう。

 

 本当に「余地」がなかったのは実際の場所のことではなくて、ヨセフやマリアの周りにいた人々の心の「余地」の方でした。イエスはそのような「余地」がないところでお生まれになったのです。それはまさにイエスご自身が人々の心の「余地」となるためにお生まれになったことをも示しています。神と人、そして人と人との間にいつでもイエスはいてくださり、その関係を繋ぎ続けてくださる存在としてイエスは私たちのそばにおられます。

 

 クリスマスはそんな心の余地を失った私たちのためにイエスご自身がその余地となってくださった出来事でした。そのことは言い換えれば私たち人間の罪を引き受けられることでもあります。だからこそクリスマスは私たちにとって喜びの出来事であり、救いの出来事です。世界がどんなに寒くて、暗くても、クリスマスはその中に暖かさと光を差し込ませます。

 

 

 私たちの救い主、イエス・キリストの誕生を共に喜び祝いましょう!イエスは私たち一人ひとりの心に今日お生まれになったのですから。クリスマスおめでとうございます!祈ります。

12月24日クリスマス礼拝メッセージ  「神のシンフォニー」

 

私たちはいよいよクリスマスを迎えます。週を追うごとに灯ってきたキャンドルも今日は全てのキャンドルに火が灯されました。私たちはクリスマスという出来事をどのように受け止めているでしょうか。それはもちろん様々な意味が込められていてとても一言では表せないものだとも思うのですが、あえて一言で言い表すのならばイザヤが預言し、そして天使がヨセフに語った言葉である「インマヌエル(神我らと共にいまし)」なのだと思います。

 

 このメッセージは聖書全体を貫く大テーマであり、旧約の時代から現在に至るまでの神が私たち人間に接する際のスタンスでもあります。聖書を読んでいると神が様々な形で人間と関係を持っておられるのがわかると思います。それらから伝わってくるのは神は私たち人間から遠く離れて存在し、私たちの意志や行動を制御するような方なのではなくて、私たちとごく近い距離で親しい関係を結びながら、私たちを支え、導く方であるということです。

 

 そしてその関係のあり方が決定的に変化したことを聖書はまた語っているのです。今日の聖書箇所の初めにはこのようにあります。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」

 

 神の私たち人間に対する関係のあり方はイエス・キリストによって決定的な変化を迎えました。それまで預言者を通してでしか語られていなかった神の言葉はイエスという神の言そのものである存在によって私たちにより近く、より直接的に語られていくことになりました。それは同時にインマヌエルという預言が人々の目に見える形で示されたしるしでもありました。

 

 神はイエスという私たち人間と同じ姿をとってこの世界に現れてくださいました。そのことは神の側から私たち人間に限りなく歩み寄ってくださった出来事であり、また私たち人間が抱える弱さや脆さや不完全さを神ご自身が経験された出来事でもあります。ですがそれでもなおイエスはまぎれもない神そのものであったことを聖書は証言しています。

 

 3節にはこうあります。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」イエスは「神の本質の完全な現れ」、別の訳では「神の実体の刻印」であると聖書は語っています。

 

 イエスは人としてお生まれになり、多くの人々と関係を築かれました。中でもご自分の弟子たちに多くの言葉を語られたことは福音書に多くの記事がある通りです。イエスが語り、弟子たちがそれを聴く。語り手には聴き手が必要です。神は天地創造の際、人間を創り出す際にこう言われました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」と。

 

 神はご自分の語りかけを聴き、それに応える存在として人間を創造されました。言葉なき動物ではなく、また意志のない人形でもなく、自ら神の言葉を受け取り、それに進んで応答する者として神は人間を創られたのです。神が聴き手を求めたように、イエスもまた聴き手である弟子たちを求められました。そして私たちもまた聖書を通してイエスの呼びかけに触れて、それに応えるようにと招かれてもいます。

 

 しかし、同時に私たちはまたこのようにも考えてしまうのではないでしょうか。果たして神は今もなお私たちに何かを語っておられるのか、と。昨今の悲惨で破壊的な出来事の連続は私たちの心にそのように思わせるには十分な衝撃をもたらしているかもしれません。神はこのような現実の只中で何を語り、何を示そうとしておられるのか、わからなくなる時もあるかもしれません。

 

 ですがそれでも神は私たち人間に語り続けていることを聖書は語り続けています。なぜなら神は「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられ」るからです。神は天地創造の際、ご自分の一つひとつの言葉よって万物を存在へと呼び出しました。それは何も存在できない形なく虚しいところから神との関係に引き出され、確かな存在として「よし」とされた出来事でした。

 

 そうであるからこそ万物は今もなお神の言葉によってその存在を支えられ続けているのです。そして神はそれらあらゆる被造物を通しても私たちに語りかけることがあるのです。人の罪が引き起こした悲惨な戦争から私たちは一体何を受け取るでしょうか、また昨今の感染症の拡大や異常気象、自然災害の甚大な被害から私たちは何を感じるでしょうか、あるいはそれらのことに対してどこか無感覚に慣れてしまっている私たち自身がいるかもしれないということに気づいているでしょうか。

 

 神は沈黙しているわけではなく、この世界で起きる出来事、被造物を通して常に私たちにメッセージを語っているのです。私たちがそのことに気づいて、そこから神が語られた言葉を受け取り応答することができるかどうかは、私たちに求められていることなのです。かつて神が預言者を通して語り、イスラエルが応答していったように、かつてイエスが弟子たちに語り、彼らが立ち上がっていったように、今を生きる私たちは被造物全てを通して語られていく神の言葉を受け取り、そこから示されたことに応答していくよう招かれています。

 

 かつて神がこの世界に送られた御子イエス・キリストは神の言として私たち人間と同じ姿をもって来られました。それは神が私たち人間との破れた関係を回復させる決定的な出来事のためでした。それは神が私たち人間をそして被造物を何よりも愛されていることの証明であり、同時に神の人間に対する理解の究極的な表現でもありました。イエスの降誕はご自分の全てを懸けて「インマヌエル(神我らと共にいまし)」を示された神の私たち人間に対する愛のメッセージでした。

 

 私たちがそのことを思い起こし続けるためにクリスマスは今年も来ます。神が語り、私たちが聴き、応答する、そしてまた神が新しいことを語り、私たちが聴く。それは神と人、そしてその他全ての被造物が互いに響き合うような関係性です。そこからから生み出されていく言葉や出来事の一つひとつがこの暗闇に覆われたような世界に光を与え、そして神の平和をもたらす響きとなっていくことでしょう。

 

 

 「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくてもその響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。」クリスマスおめでとうございます!

12月17日アドベント第三主日礼拝メッセージ  「贖いへ導く言葉」

 

アドベントの第三週になりました。私たちはこのアドベントの期間、イエス・キリストの降誕の出来事を思い起こしながら日々を過ごしています。そしてそのアドベントという待降の期間を終えた後、クリスマスを毎年祝っているわけです。私たちにとってイエスの誕生はそれほど大きな出来事であり、それが私たちの信仰の根幹を支えていることを意味しています。

 

 ではその意味とはどのようなものでしょうか。イエスがこの世界に来られたことについてヨハネによる福音書は次のように語っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 

 神は世、言い換えれば私たち被造物を愛され、そしてその被造物を救うためにイエスを遣わされたことが語られています。そしてこのことが私たちの信仰の根幹を支えているメッセージです。神は私たち被造物を贖うためにイエスというご自身を十字架に引き渡すことで救いをなされました。神がそのような回りくどい方法をとられたのは神が罪を放置することができないという義と、それでもなお私たち罪ある人間を救いたいという憐れみを合わせ持つ方だからです。

 

 そのような意味で十字架は神の義と憐れみが文字通り交差する場所です。ゆえに私たちは十字架という神の痛みの上に成り立っている救いの中核であるイエスの降誕の出来事を思い起こし続けるとともに、それを喜び祝うのです。神の救い、贖いという概念は旧約の時代から存在し、祈り求められてきました。今日の聖書箇所の詩篇19篇でも神の救い、贖いを求める詩人の祈りが詠われています。

 

 まず8-10には次のようにあります。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。」この8-10節は36行の対句になっていて全てが主の律法について言い表している部分になっています。

 

 この6つの句の主語は全て「主の律法」を表しており、対して述語は全て「律法の性質」を表しています。このような対句法は聖書の中で度々見られはしますが、一つの言葉についてこれほどの言い換えがなされているのはそう多くはないとも思います。それは「主の律法」というものがどれほど大切な意味を持つ存在であるかを私たちに示してもいます。

 

 律法というと皆さんに真っ先に何を思い浮かべるでしょうか。おそらく、出エジプトで登場する十戒だったり、レビ記などに書かれている非常に事細かいことまで書かれている文章のことだったりするのではないでしょうか。あるいは、新約聖書に登場する律法学者たちが強いる行為の厳守という形での律法が思い浮かぶかもしれません。

 

 ですが、律法が私たちに伝えようとしているもの、すなわち律法の本質はそのような枝葉末節にあるわけではありません。律法の本質は神が私たち人間にこのように生きてほしいという願いそのものであり、同時に神とのよい関係を保っていくために神が与えられた恵みでもあります。各律法の文字そのものは律法の本質を具体的に表すためのものなので、決して無意味なものではありませんが、それに執着した結果、本質を見失ってしまったのもまた私たち人間の姿であるわけです。

 

 この詩篇の作者はそのような律法をあらゆる角度から見つめていくことでその本質を表そうとしています。まず「律法は完全で、魂を生き返らせる」と詠われています。ここからはよりわかりやすいように、律法を「神の言葉」と置き換えて考えていきたいと思います。現代に生きる私たちにとっての神の律法は聖書から受け取る神の言葉そのものです。

 

 神の言葉によって私たちの魂は養われ、失っていた力が取り戻されます。クリスチャンならば誰しも御言葉によって励まされた経験があると思います。今日読んでいる詩篇の中にも傷つき、倒れそうになっている人々の祈りがありますが、御言葉を求めている詩が非常に多いことに気付かされるでしょう。それは彼らが御言葉を真の助けや支えとして受け止めていたことを私たちに伝えています。

 

 そして「神の言葉は真実で、無知な人に知恵を与える」とあります。神の言葉は私たちがこの世界で受け取る情報とは一線を画しています。この世界に溢れる情報の中には多くの偽りの情報がありますが、私たちは神との関係の中で聖書を読んでいくことで、偽りない真実の神の言葉を受け取ることができます。そしてその言葉は知恵となって私たちを助ける力になっていきます。

 

 「神の言葉はまっすぐで、心に喜びを与える」。そんな真実の神の言葉を受け取った時、私たちは喜びを覚えることでしょう。それは神以外からでは決して受け取ることができないものであり、この世のどんなものでも替えの効かない恵みだからです。また「神の言葉は、私たちの目に光を与え」ます。私たちの心の目は様々な理由で閉ざされていることがあります。

 

 そのような閉ざされた目に光を与え、明らかに観えるようにさせてくれるのも御言葉の持つ力の一つだと思います。そのような時に受け取る御言葉は私たちにとって、神への畏れを抱かせ、また時に裁かれるようなものであることもあるかもしれませんが、そのことがあるからこそ私たちは変えられて神が示す正しい道へと戻って、歩みを続けることができます。

 

 そのような律法、言い換えれば御言葉だからこそ、この詩篇の作者はこう詠います。「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」と。御言葉とは私たち人間にとって真の正しさを導く神の道標です。だからこそ多くの詩篇の作者たちは御言葉を祈り求める詩を多く残したのでしょう。人間は弱く不完全な存在であるからこそ、神の言葉を指標として生きる道へと招かれているのです。

 

 詩篇の作者はさらに詠います。「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。」聖書で語られている「罪」とは目に見えるものだけを指しているのではありません。この詩にある通り、知らずに犯した過ちや、隠された罪を私たちは自覚せぬままに日々を過ごしているからです。

 

 それらの過ちや罪は私たちが自覚できていないのですから、私たちにはどうすることもできません。だからこそそこには神の赦しが必要不可欠なのです。そういう意味で聖書は「罪」を神との関係の破れであるということを示してもいます。神がイエス・キリストを通してなされた救いとはそのような私たち人間の罪をも含めた神との関係の修復の出来事です。

 

 

 「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」このアドベントの時、私たちは私たちに与えられた救い主、イエス・キリストの降誕の出来事の意味をあらためて受け止め直し、今もなお神との親しい関係が繋げられていることに感謝しつつ日々を過ごしてまいりましょう。祈ります。

12月10日アドベント第二主日礼拝メッセージ  「わたしが支える者を」

 

聖書の中には多くの神に召し出された人々が登場します。彼らは皆それぞれ状況も立場も年齢もあらゆるものが異なってはいますが、それぞれが神との関係の中で召しに応えていったことだけは共通しています。彼らはそれぞれが生きた時代の中で神がその人に託された働きをなしていきましたが、神がなぜその人を選んだのかということに関してどうしても私たちは考えられずにはいられないと思います。

 

 私たちはつい神から召し出された人には何か優秀な才か特別な理由があったに違いないと考えてしまいがちです。それはある意味で私たちの生きるこの世界を支配している原理でもあるからです。私たちはそのことを基準として考えることに慣れすぎています。優秀な成績だからある学校の推薦がもらえる、特別な能力を持っているからある職業に就くことができる、と。

 

 ですが、こと神が示す召しというものはそれらとは全く異なるものであることを聖書は証言しています。今日の箇所の1節にはこうあります。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」この箇所の「わたし」というのは無論、神のことを指しています。そしてこの短い箇所に「わたし」という言葉が四度も繰り替えされています。

 

 このことは何を意味しているのでしょうか。「わたしの僕」、「わたしが支える」、「わたしが選ぶ」、「わたしの霊」という神を主語としたこれらの表現は一つのメッセージを示しているものではないでしょうか。それは、神の選びは全てが神側に理由があることであって選ばれた対象にその理由は一切ないという、謂わば神の原理です。このことを私たちは最初受け入れ難いかもしれません。

 

 なぜなら先ほど申し上げた通り、私たちはあまりにこの世界を支配しているあの原理に慣れすぎていて、神の示す原理に強烈な違和感を抱くからです。ですがそんな私たちの常識をはるかに超えて働かれるのが神であることをもまた私たちは聖書の多くの箇所から示されてもいるはずです。そして、その神の僕の姿がまさしくここに示されている通りのものであったことも私たちは思い起こすことができるでしょう。

 

 アブラハムやモーセ、またその他の数多の預言者たちは自分の力でその働きを成していったのでしょうか。いいえ、そうではなく神の力によって支えられたからこそその召命を受け止め、託された働きを成していくことができたのです。「わたしの僕、わたしが支える者」とはまさしくそのことを明らかに示す言葉だと言えます。

 

 さらに神はご自分が選んだものを喜ばれるとあります。これらのことに共通しているのは僕側の資質についての言及は何もないということです。神が支え、神が選び、神が喜ばれるものこそが僕の姿であり、神の働きを託された者なのです。そしてその働きとは「裁きを導き出す」ことであると語られています。これはどのような意味でしょうか。

 

 「裁き」という言葉はその言葉の響きが持つ印象が強烈であるがゆえによく誤解されがちな言葉だと思います。聖書では神の裁きは決してマイナスの意味の言葉としては扱われていません。むしろ神のなされる裁きは神の愛の一部であって、神の愛と対立するものとしては描き出されていません。「裁く」という言葉の本質的な意味は「物事の是非を判断する」ということです。

 

 そしてそれは本来神にしかできないことです。私たち人間も「裁き」という行為を行うときはありますが、それは人間という不完全な存在に限界づけられた裁きでしかありません。だからこそ神の完全な裁きは私たちにとって救いになります。神の裁きとはすなわち「物事が正しくされていく」ということだからです。そのような裁き、言い換えれば「公正」を神は僕を用いて導かれていくということが示されています。

 

 そしてイザヤは次にその僕が公正を導き出す方法について言及しています。2-3節にはこうあります。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。」神がご自分の僕を通して公正をもたらそうとするやり方は、この世界で頻繁に見られる暴力や露骨な権力によるやり方とは明らかに異なっています。

 

 僕は叫ばず、呼ばわらず、声を響かせない、とあります。これはどのような意味なのでしょうか。一見するとこれは僕がその口をつぐみ、何も語らないかのように思えるかもしれませんが、そのような意味ではないと思います。これは人間的な力に頼るのではなく、神に信頼しているがゆえの僕の忍耐強さの表現であるのだと思います。神の裁きは人の裁きとは明らかな対比をなしているからです。

 

 「傷ついた葦」と「暗くなってゆく灯心」は当時のイスラエルの侵害されてきた領土や失われていく自由を指しているものと思われます。まさに暗闇に堕ちていくような状況の中であっても折れることなく立ち続け、また容赦ない現実の中で埋もれて消えてしまいそうな灯心、言い換えれば神の言葉を守っていくことが僕の働きとして示されています。

 

 そしてこれは同時にイスラエルの神への信頼が薄れ、信仰が失われかけている状況をも指し示しているでしょう。そんな状況の中での僕の働きというのは非常に厳しいものがあります。他ならぬイザヤ自身も召命の際、神から託された働きはイスラエルを頑なにする預言を語ることを命じられていました。彼も何度もその働きに挫折しかけ、倒れかけたことだと思います。

 

 ですが、そのような状況にあっても僕は決して折れることはないことを聖書は語っています。なぜなら僕は神によって支えられ、神の霊を置かれているからです。4節にはこうあります。「暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」神はご自分が召された僕を決して見捨てることなく、傷つき果てることがないように支え続けてくださいます。

 

 そのことはまた私たちにとっての希望の言葉でもあるでしょう。私たち一人ひとりも神によって召し出された僕の一人であるからです。一人ひとり役割は異なるかもしれませんが、それぞれに神から託された働きがあり、そのことをもって神を証ししていくようにと招かれているはずです。そしてその召しは私たちの側に理由があるものではありません。神が私たちを選び、私たちがその選びに応答するのです。

 

 現代のこの世界はイザヤが働きをなしていた状況に似ているかもしれません。大きな争いが絶えず、暴力や権力の暴走が横行し、人心は乱れ、人々から希望が失われ、神への信頼も薄らいでいる世界…そのような世界の中で私たちに託されている働きもまたイザヤと同じような厳しいものなのかもしれません。

 

 

 ですが、私たちを選び、その応答を喜んで、そしてどのような時でも私たちを支え、その霊をもって私たちの働きを導いてくださる神が確かにおられることを私たちはまた聖書から受け取っています。御言葉を語り続け、そして神を指し示し続ける働きをこれからも共になしてまいりましょう。神はいつでも私たちと共にいてくださり、私たちの働きを祝福してくださる方ですから。祈ります。

12月3日アドベント第一主日礼拝メッセージ  「心に灯るともし火」

 

今週からアドベントに入り、今日は1本目のキャンドルに火が灯りました。このアドベントはラテン語の「到来」や「来臨」を意味する単語である「Adventus(アドベントゥス)」が語源とされており、クリスマスという日を持ち臨むという意味が込められています。皆さんはこの「待つ」ということにどんな印象を持っているでしょうか。日常生活でも「待つ」ということはあると思いますが、それらは楽しく「待つ」ことばかりではないと思います。

 

 誰かを待っている時、その到着があまりに遅い場合など、私たちは本当に来るのだろうかという不安な思いになってきてしまうこともあったりするのではないでしょうか。「待つ」ということは待っている対象が今にも来るという期待感と同時に、もしかしたらその対象が来ないのではないか、という不安感も同時に想起させうるものなのではないでしょうか。

 

 私たちもまさに今そのような期待と不安が交差するアドベントの期間を過ごしているわけですが、イエス・キリストの降誕を記念する日を待つことは同時にイエスの再臨を思い起こし、それを待ち望むこととつながってきます。私たちの教会では毎月第一主日礼拝に行なわれる主の晩餐式の中で「マラナタ」を歌っています。その意味はアラム語で「主よ、来てください」という意味です。

 

 私たちは主は必ず来られるという約束を受け取ってはいるものの、それがいつであるのかということについては知らされてはいません。私たちが人を待つ時、「いつ行くかはわからないけど、そこで待っていて」と言われたらどうでしょうか?きっとものすごく不安になると思います。私たちは言うなればそのような状態でイエスを待っていることになるわけですが、その不安感は初代教会の時代でも同じでした。

 

 今日の聖書箇所はペトロの手紙 二 1:16-21です。最初の16節にはこうあります。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。」今から約2000年前、初代教会の時代では今よりずっと早く再臨が起こるものだと考えられていました。

 

 どのくらい早いものだと思われていたかというと、その世代の人たちが生きている間に起こるものだと考えられていたわけなんですね。それゆえにその世代の人たちが亡くなっていくにつれてイエスはいつ来られるのか?あるいは本当に来られるのか?という不安感は今の私たちよりもはるかに大きかったのだと思います。そのような中でイエスの再臨を否定する人々が出てくるわけですが、そのような人々や論調に対する反駁の手紙がこのペトロの手紙の大まかな内容であるわけです。

 

 そのことはすでに16節にも「巧みな作り話」という言葉で表されています。これは再臨否定論者たちが主の再臨を宣教する使徒たちへの非難として用いられていた言葉でしょう。つまり、使徒たちが語っていることは彼らが好き勝手に語っている都合のいい作り話であるという批判が当時からあったということです。そのような批判に対してこの手紙の著者は「わたしたちは、キリストの栄光を目撃した」という証言で反論しています。

 

 これは当時の裁判方式を意識したものだと考えられ、法律上最も確かな証拠である複数での目撃証言を主張することで反駁しようと試みているわけです。それゆえに17-18節にはイエスの神性を示す使徒たちが体験した出来事が列挙されているわけです。イエスの神性、つまりイエスが神の子であるということを立証することで、イエスが語られた再臨の約束もまた確かなものとされるからです。

 

 ペトロをはじめとするイエスの使徒たちはイエスから与えられた出来事や言葉を基盤として宣教をしていきました。そのことはこの初代教会の時代もそしていまも変わりません。ですがそれらはあくまで人間である使徒たちが見聞きしたことであるわけです。それゆえに彼らには聖書の言葉を自分勝手に解釈しているのではないかという批判が当時なされていたわけです。

 

 ですがそれは聖書そのものが可能性に開かれているが故に起こる批判だと思います。聖書は読み手の解釈を前提として限界ある人間の手によって書かれた書物です。そうであるがゆえにその解釈は読み手の数だけ存在することになります。ですが、たとえそうだとしても無秩序な自分勝手な解釈は許容されていないと思います。なぜなら聖書全体を貫いている根底のメッセージを無視して解釈することはできないからです。

 

 20-21にはこうあります。「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」聖書は限界ある人間の手で書かれたものでありながら、そこには聖霊の導きが働いて神の言葉が宿っているという、一見すると矛盾を孕んだ書物です。

 

 ですが、それが神が私たち人間に福音を伝えるために選ばれた方法であり、私たち人間との関係をなにより喜ばれる神がその関係を繋ぎ続けるためにふさわしいとされた方法なのだと思います。だから聖書を読むことは、言い換えれば神と向き合うということになります。かつて、アブラハムやモーセやイザヤやエレミヤやパウロや、そしてペトロがそうであったように神と向き合うことそのものが聖書を読むということなのです。

 

 だからこそペトロは「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」と言っているわけです。彼にとって聖書を読むことはイエスと向き合うことそのものだったからです。そのように聖書を読むことを捉えていくのならばとても自分勝手には読めなくなってくると思います。聖書は自分の思いに引き寄せて解釈するのではなくて、「神は今何を私に語ろうとしておられるのか」という思いで読まなければならないということです。

 

 そうでないとき、私たちは自分勝手な思いで聖書を解釈する誘惑に陥っていることになるのだと思います。聖書を自分の思いを代言する道具として使ってしまう過ちを犯してしまっていることになります。ですが、もし私たちが聖書を神との関係の中で読んでいくのならば、聖書は神の言葉を私たちに豊かに語ってくれるはずです。初代教会の使徒たちはそのような確信があったからこそこう語ることができました。

 

 19節「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」私たちが聖書から神の言葉を受け取る時、それは私たちの心に灯るともし火になります。それは未だイエスを待つ私たちの心に光をもたらし、またその光を輝かせ続けるための油でもあります。

 

 この世界は未だに夜明けが見えないかもしれません。世界では争いが起こり続け、ますます暗くなっていくように感じるかもしれません。しかし、そんな中にあって私たちには決して消えることのない光が与えられています。このアドベントの時、明けの明星であるイエスが来られる時まで私たちは神の言葉を心の光として歩んでいきたいと願います。