7月25日主日礼拝メッセージ  「和解の広がり」

 

・キリストの死の本質(14-15)

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は2コリント5:14-21です。ここではパウロがコリント教会の人々にキリストの死の意味について語り直しています。それは、パウロがコリント教会の人たちにキリストの死とはいったいどんなものであったのか、そして、そのキリストの死は自分たちにどんな関係があるのかを思い起こさせるためだったと考えられます。

 

 そのことは、コリント教会が多くの問題を抱えていたことと関係していることでしょう。パウロはそれについてコリントの信徒への手紙1にて、さまざまな助言を与えていますが、残念ながらそれでも問題は解決に向かわなかったようです。だから、パウロは改めてコリント教会の人々に手紙を送りました。一通目の手紙では、具体的な事柄に関する助言が多かったのですが、この二通目の手紙では信仰の本質的な部分への言及が目立ちます。

 

 そのことは、コリント教会の人々が多くの問題にさらされる中で信仰の原点とも呼べるべき大切なことをもういちどパウロが語り直すためだったのだと考えられます。だからこそ、パウロは私たちの信仰において最も大切な要素の一つである「キリストの死」について語り始めます。「わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。」 

 

 パウロはキリストの死は全ての人のためであったことを語ります。ユダヤ人、異邦人の区別なくこの世界に生きる全ての人にキリストの死の影響は及んでいることを語っています。それは言い換えれば、全ての人に救いは開かれているということを意味しています。パウロは異邦人への伝道を自分自身に託された使命として深く受け止めていました。その使命にパウロをはじめ、多くの人々が応答していったからこそ、福音は世界中に伝えられ、現代の私たちにまで届いています。そしてそのことは、聖書全体が語る福音の方向性とも合致していると思います。

 

 「だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(マタイ28:19)」「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:47)」など、多くの聖書箇所で福音の解放性というものが語られています。だからこそ、福音は宣べ伝えられなければなりません。自分が受け取って終わりではないのです。一人ひとりが神から託された使命に応答していくことを神は期待され、また、そのことを成していくための助けをも備えていてくださる方です。

 

 人間的に見れば、パウロは確かに大きなことをしたかもしれません。ですが、それはなにも私たち全員がパウロのようなことをしなければならないということではありませんし、パウロのような伝道の形だけが全てではありません。私たち一人ひとりに託された神からの使命はみな違っているはずです。私たちは一人ひとり、その神との関係の中で自分の使命を受け取り、そこに一歩ずつ応答していく時、神は確かな助けと導きを備えていてくださるでしょう。

 

 だから私たちは「自分なんて…」とか「自分にはどうせ…」と自己卑下する必要はありません。私たちには、私たち一人ひとりだけの神から期待されている使命がそれぞれあるからです。そこに大きいも小さいもありません。私たちはそれぞれに託された使命への忠実さを期待されているからです。私たちは教会として、個人として自分に託された使命、働きを神との関係の中で祈り求めつつ受け取り、その働きに忠実に応答していきたいと願います。

 

 パウロは次にキリストの死の意味、目的について語ります。「その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。 」ここで言われている「自分自身のために生きる」とはどんな生き方でしょうか?それは、私たちの内にある罪に任せたまま生きる生き方、すなわち神と他者への不理解性に任せて生きる生き方だと思います。

 

 対して、「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きること」すなわち「キリストのために生きる生き方」とはどんなものでしょうか?それは、自分自身のために生きる生き方とは逆の生き方、つまり、神と他者への理解へと開かれた生き方でしょう。私たちは誰しも自分自身の中に罪を抱えて生きています。その罪とは私たちが人間である以上、一個の個体である以上拭いきれない性質、すなわち他者への不理解性です。私たちは自分以外の誰かになることはできないがゆえに、神のことも他者のことも完全に理解することはできないのです。

 

 

・偏見と自己への関心からの解放(16-17)

 そう考えると、私たちは他者に対する偏見や差別などの不理解性を帯びている存在であるといえますし、現実の事柄として歴史上、偏見や差別が絶えたことはありません。パウロは人間がそんな罪を抱えた存在であるからこそ、「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」と語ります。「肉に従って」とは私たちの罪の性質のままに知ろうとしないということです。 

 

 キリストはそんな私たちの罪である他者への不理解性と共に死んでくださいました。だからこそ、私たちは私たちが抱える罪の性質に任せた生き方ではなく、キリストご自身が示されたような神と他者への理解に開かれた生き方へと一歩歩み出すことができるのです。私たちがキリストと共に死んだのならば、私たちは偏見や自己への執着といった罪から解放されています。それはすなわち、理解と他者への関心に方向付けられたものとして新しく創造されているということです。

 

 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」「キリストと結ばれる人」とは、神から自らの罪を示され、その罪を悔い改めて、神の招きに自らの意思を持って応答した人のことです。私たち教会はそのことを信仰告白とバプテスマという形式で表現していますが、バプテスマはまさにキリストと共に死ぬ、つまり、私たちの罪と共に死んでくださったキリストと共に私たちも一度死ぬことを表していることを考えると、ここで語られている「新しく創造される」ということと繋がりが見えてくるのではないでしょうか。

 

 私たちはキリストと共に死ぬことで、キリストと結ばれるものとなり、私たちが持つ罪の性質から解放されたもの、すなわち新しく創造されたものとされていきます。そうして私たちの歩みは、私たちを縛り続けていた罪、他者への不理解性から、キリストが自ら示してくださったような互いを理解し合う歩みへと向けなおされていきます。

 

 

・和解させる神(18-21)

 互いを理解し合う歩み…そのことはパウロの語る和解と繋がっていると思います。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」私たちの不理解という罪により神との関係は断絶しかかっていましたが、キリストの十字架の死によって私たちの不理解という罪は贖われ、代わりに神への理解への道、他者への理解への道、すなわち和解への道が開かれました。

 

 私たちは神によって関係の和解へと導かれました。しかし、そのことは神が誰かを用いられて福音、和解の言葉を伝えられたからこそ、私たちはその神からの招きに応答することができたのではないでしょうか。そう考えると、「和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」というパウロの言葉を私たち自身の事柄として受け止めていくことができるでしょう。

 

 神から発せられた和解の言葉は、私たち人間を通して世界中へと広がっていきます。一人ひとりの働きは決して大きなものではないかもしれません。しかし、神は私たち一人ひとりに私にしかできない働きを託されておられます。そして、一人ひとりの働きが大きなものではないが故に、神は教会という共同体を形作られ、一人ひとりの働きを組み合わせられることで、和解のために奉仕することを期待されているのでしょう。

 

 私たちはパウロの語る神から託された「和解のために奉仕する任務」をどのように受け止めているでしょうか?パウロはコリントの信徒への手紙1で私たちが託されている働きについてこのように述べています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」

 

 教会には様々な人がいます。そして、その様々な人それぞれに様々な働きが神から託されています。それら一つひとつは小さく、一見バラバラのようにも思えますが、神はそれら全てを「和解のための働き」として、強め、整えてくださっています。だからこそ、私たちはその神に信頼し、託された働きに勇気をもって応答してことができるのです。

 

 伝道とは「和解のための働き」です。そして、「和解のための働き」はさらに言えば「互いを理解し合う歩み」でもあります。私たちの現実は依然として差別や偏見などの不理解に満ちているかもしれません。ですが、私たちは神がキリストの死によって、そんな私たちの罪を贖ってくださったという和解の知らせ、福音を受け取っています。私たちはその福音に目を向けさせられる時、私たちの限界である不理解という罪を超えて、互いを理解し合う歩みである和解へと一歩踏み出していくことができるでしょう。

 

 神がもたらす和解の広がりは、私たちの、わたしの、あなたの一歩の応答から始まっていくはずです。神は私たち一人ひとりを信頼され、理解し合う歩みへと招いておられますから。

7月18日主日礼拝メッセージ  「神の助けはすぐ傍に」

 

・それぞれの平安 (9-13)

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は創世記21:9-21です。アブラハムとその妻サラとの間に神から約束されていた子供イサクが生まれた後のお話です。これまでの創世記の話を少し振り返ると、アブラハムには神から自分とサラとの間に子供が生まれ、その子が自分の後を継ぐという約束をかねてより語られていました。しかし、約束を受け取ってから何年、何十年とたっても一向に子供を授かることはありませんでした。

 

 その間、アブラハムの妻であるサラは、自分の女奴隷であったハガルによってアブラハムとの間に子供を得ようとします。結果、ハガルはイシュマエルという男の子を生みますが、そのことでサラとハガルとの関係は悪くなり、またイシュマエル自身も後に生まれるイサクの代わりにはなれませんでした。神が約束されたのはあくまでアブラハムとサラとの間の子であり、ハガルの子ではなかったからです。

 

 そこからさらに年月が経ち、とうとうアブラハムとサラとの間に待望されていた「約束の子」イサクが生まれました。このことはアブラハムとサラにとって本当に待ち侘びた嬉しい出来事でした。特にサラにとってはイサクが生まれたことで、これまで子供ができなかった苦しみから解放されたことでしょう。

 

 しかし、一方でイシュマエルを産んだハガルの立場は徐々に弱くなっていったのだと思います。イサクはアブラハムとサラとの間に生まれた「約束の子」であり、一方でイシュマエルは長男ではあるが、「約束の子」ではない。そのことはハガル自身も知っていたことでしょう。これまで、サラに子供が生まれなかったことで一定の立場を保ってこられたのかもしれません。しかし今や、イサクが生まれ、イシュマエルは厄介者扱いされるかもしれない、そんな不安や恐れがハガルの内にはあったのかもしれません。

 

 そんな彼女の不安は残念ながら現実のものとなってしまいました。9-10にこうあります。『サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」 』ここだけ見ると、あまりにも些細な理由でサラがハガルを追い出したがっているかのように見えますが、実はこの時すでにサラとハガルとの関係は最悪の状態になっていたのだと考えられます。

 

 というのも、サラがハガルにつらくあたったのはこれが初めてではないからです。創世記16:5-6では、サラは一度事実上彼女を追い出しています。読んでみたいと思います。『サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました。主がわたしとあなたとの間を裁かれますように。」 

 

 この時、神は居場所をなくし、逃げざるを得なかったハガルをアブラハムの元に返しますが、その後も二人の関係は改善しなかったのだと思われます。この出来事からイサクが生まれる時までかなりの時間があったはずですが、長い時を経てもなお二人の間の関係は残念ながら修復に向かうことはなかったのでしょう。だとすれば、創世記21章でのサラの発言は、ハガルとの深い確執があってのことだと考えると、サラから出てきてもおかしくはない発言のようにも思います。

 

 このことでアブラハムは非常に悩んだとあります。それもそうでしょう。イシュマエルもアブラハムの子供であり、ハガルはその母親なのですから。悩み苦しむアブラハムに神はこう語られました。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」 

 

 この神の言葉を聞いてどんな印象を持たれるでしょうか?私は最初は正直、サラの肩を持つかのような神のこの言葉に少し違和感を感じました。この状況で最も立場が弱いのはハガルです。今まではイシュマエルがアブラハムの唯一の子供だったので、その母親であるハガルはなんとかその立場を維持することができていました。しかし、今やサラにイサクが生まれ、二人の立場の差は圧倒的にサラの方が強いものになっていました。そんな強い立場のサラの言うことをそのまま聞き入れるようにアブラハムに語ったのにはいったいどのような意味があったのか?

 

 そのことを考えている内に、実はこのことは、神があえて二人の距離を離すことで、それぞれが平安に生きる道へと導いた出来事なのではないかとも思えてきたんですね。それは二人がこれ以上憎しみ合うことを防ぎ、それぞれの道を歩むことができるようにとの神の配慮だったのかもしれません。長い時を経てもどうしても関係が改善しなかったハガルとサラ、そんな二人がそれぞれの新たな道を歩んでいけるように神はここであえて二人の距離を離し、これ以上傷つけあうことのないようにされたのかもしれません。

 

 

・泣き声を聞かれる神(14-21)

 サラに追い出されたハガルは、アブラハムからパンと水を持たされイシュマエルと共に荒れ野へと立ち去ります。ハガルはさぞ心細かったことでしょう。行くあてなく荒れ野を彷徨ったことで、持っていたパンも水も尽きてしまいました。パンや水、すなわち自分がそれまで頼りにしていたものがなくなったハガルはとうとうそれ以上一歩も動けなくなってしまいました。肉体的にも精神的にも限界の中、ハガルは息子イシュマエルを木の下に寝かせ、自身は矢の届くほどの距離、つまり、子供の顔が見えなくなるまで離れたとあります。

 

 子供を手放し、目を背け、もう何にも頼れるものがないと力なく諦めたハガル…そんな彼女の耳に響いたのは自分の息子イシュマエルの泣き声でした。そして、その泣き声は神にも確かに届いていました。『神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」 

 

 自分がそれまで頼ってきたものを失い、もう何も頼れるものがないと諦めていたハガル、しかし、神だけはそんなハガルから目を逸らさず、救いの手を差し伸べてくださっていました。ハガルは子供を手放し、子供から目を背け、もう何にも頼れるものがないと力なく諦めてしまっていました。しかし、神はハガルとは逆にハガルとイシュマエルを決して離さず、目を逸らさず、自分に頼り、約束を信じて歩むように呼びかけ続けてくださっていました。「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」とは言い換えれば「わたしは、必ずあなたたちを見捨てない」ということです。

 

 「立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。」この言葉の裏には、神ご自身がハガルやイシュマエルを決して忘れることなく、その御手の中でしっかりと抱かれ、その関係の中に繋ぎ止めてくださっている、そんな意味も込められているのかもしれません。ハガルはイシュマエルを抱きかかえたとき、イシュマエルを抱いた自分自身を抱いてくださっている神の存在を感じたことでしょう。

 

今まで頼れるものがないと諦めていたハガルは、このとき、自分が意識していないときでもいつも自分を離さず、目を注ぎ続け、そして支え助けてくださっていた神の呼びかけに気づかされていったのだと思います。そんな、ハガルは神によってその目を開かれ、一つの井戸を見つけたとあります。それは、ハガルにとって自分ではそれまで気づかなかった救いの道が、神によって開かれた瞬間でした。

 

 このハガルの歩みを見ているとどこか私たちにも重なり合ってくるところがあるのではないでしょうか?私たちの歩みの様々な場面、特に苦難の状況に私たちが立たされた時、神はその時にかなった助けを備えてくださっていたと言う経験はないでしょうか?あるいはその時は気づくことができなくても、後で振り返ってみた時に私たちに対する神の様々な配慮や助けがあったことを感じる時があったりするのではないでしょうか?

 

 ハガルはサラに追い出され、アブラハムからも見捨てられ、イシュマエルと二人で荒れ野を彷徨い、パンも水も尽きた時、もう何にも頼れるものがないと絶望したことでしょう。だからこそ、イシュマエルを手放し、目を背けてしまったのでしょう。しかし、神はそんなイシュマエルの泣き声を、そしてハガルの心の叫びを確かに聞かれ、そして確かな救いの道を備えていてくださいました。

 

 ハガルが見つけた井戸は神に目を開かれなければ見つけることのできないものでした。それは言い換えれば、神との関係の中でしか見つけることのできないものなのだと思います。そして、それはハガルにとって、どんな時でも頼ることのできる神の存在そのものだったのかもしれません。

 

 私たちはハガルのように示された井戸を見つけられているでしょうか?神から出る命の水、神の御言葉を受け取っているでしょうか?新約聖書ヨハネによる福音書4章にこんな言葉があります。『イエスは答えて言われた。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」』

 

 どんな状況の中であっても私たちに命を与える神の御言葉は決して尽きることはありません。神はいつも私たちに語りかけていてくださり、私たちの応答を期待して待っていてくださいますから

7月11日主日礼拝メッセージ  「神の言葉の中を」

 

 車で道路を走っていると外灯やガードレールなんかをよく見かけますよね?外灯は、暗闇の中でも進むことができるように一定の間隔で設置され、道路を照らすことで安全に走行できるようにしてくれます。ガードレールは車がその道から逸れて、道路外に出ることを防ぐために設置されています。また、特に危険な場所にはドライバーに危険を知らせるためにある工夫がされている箇所もあったりします。

 

 例えば、急なカーブが続いて車線からはみ出さずに走行するのが難しいような箇所では、道路の表面に凹凸が施されていて、その上を車が走ると「ガガガ」という音と振動でドライバーに危険を知らせるといったところもあります。車を運転する方なら一回は経験されたことがあるのではないでしょうか。私たちはそのような危険を知らせてくれるものがあるからこそ、安全に道を進んでいくことができます。逆に言えば、それらがなければ、私たちは非常に危なっかしく道を進んで行かざるを得ないということです。

 

 私たちの人生はよく旅路に例えられたりします。それは、道を進んでいくということでもあります。私たちの人生の道のりに外灯やガードレールはあるでしょうか。あるいは、危険を知らせてくれる存在はあるでしょうか。

 

 

・私たちの人生のガードレールである御言葉(105)

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は詩篇119:105-112です。まず、105にはこうあります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。 」この箇所は有名な箇所なのでみなさんもなじみ深い箇所なのではないでしょうか。この箇所は、今年度の教会学校の主題聖句にもなっていて、御言葉を深く掘り下げていく上で大切なテーマを私たちに語っている箇所でもあります。

 

 というのも、この箇所では御言葉が「光」「灯火」として語られていますが、それは私たちの人生は暗闇の中を進んでいるのだということを表現しているのだと思います。暗闇の中を進んでいくためには「光」「灯火」が必要不可欠です。無理矢理進もうと思えば、それらがなくても進めなくはないと思いますが、その歩みは相当危なっかしいものとなるでしょう。

 

 「一寸先は闇」という言葉がありますが、私たちは未来のことは知りようがないし、それどころか現在のこと、自分の足元のことでさえも覚束ずに歩んでいることが時にあったりするのではないでしょうか。暗闇の中をなんとか数歩は進むことができたとしても、目指すべき目的地もわからずに進み続けるのは限界があるでしょう。あるいは暗闇の中を無理に進んでいった結果、私たちにとって大変危険な道に迷い込んでしまうこともあったりするかもしれません。

 

 私たちの人生という道は綺麗に舗装され、安全が確保された道路ではありません。暗闇の中、一歩先がどうなっているかもわからない、脇に逸れる道たくさんあって、どの道を進んでいけばいいのかもわからないような、そんな道のりです。そのような中を私たちはどのように進んでいけば良いでしょうか。自分自身の力で進んでいくことができるでしょうか。この詩篇の作者は自分の力では険しい人生の道のりを進んでいくことはできないと感じていたのだと思います。

 

 だからこそ、作者は神の御言葉を自分の人生の道行を照らす「光」として、常に足元を照らし出してくれる「灯火」として詠っているのだと思います。それは常に御言葉に聞きながら自分の人生を歩んでいくということです。言い換えれば、御言葉を自分の人生の軸として生きていくということです。そして、そう考えていくと、御言葉は私たちの人生の道のりを照らし出す光であると同時に、神が私たち人間に歩んでほしいと願う道から私たち人間が逸れないためのガードレールのような存在だとも言えます。

 

 御言葉は私たちの歩む道を照らし出し、時に私たちに強く訴えかけることで私たちがその道から逸れないよう導いてくれる存在です。私たちはそんな私たちの歩みを照らし出す光である御言葉を聖書から示されています。そして御言葉は、私たちが道から逸れそうな時ほど、私たちに強く響いてくるものでもあります。それは、神が私たちになんとかその道から逸れずに歩んでいってほしいと願うからこその神の叫びだからです。

 

 

・裁きを求める祈り(106-108)

 神の御言葉に聞きながら歩む歩みというのは、言い換えれば神との関係の中で生きることでもあります。「わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります」この詩篇の作者は神との関係の中で生きることをこのように表現しています。御言葉に聞きながら歩む歩みというものは決して無秩序な生き方ではありません。そこには私たちの人生を導く確かな「軸」が存在します。だからこそ、私たちはその「軸」である御言葉に立ち返ることで、また神との関係に戻っていくことができるからです。

 

 しかし、だからといって御言葉に聞く歩みというものは「何かに」縛られた生き方ということでもありません。私たちは神の御言葉に「縛られている」わけではありません。なぜなら、神の御言葉とは神の私たちに対する戒めではなくて、神の私たちに対する期待であり、願いだからです。神は私たちの自由意志を奪い、強制的に従わせたり、抑圧されることは決してありません。

 

むしろ、神は私たちに自らの意思を持ってその期待と願いに応答することを待っておられます。「わたしの口が進んでささげる祈りを/主よ、どうか受け入れ/あなたの裁きを教えてください。」この詩篇の祈りにも現れているように、神への応答の一つである祈りは自らの自由意志で進んでなされるものであることがわかります。捧げることとは本来、私たちの自由意志をもってなされる神への応答だからです。

 

 神はこの私たちの自由意志による応答を何より喜ばれ、また求めておられます。それは、神が私たち人間と親しい関係を結ばれたいと願われているからであり、神が私たちに抱かれている期待や願いに私たちが自発的に応えていくことで得られる平安や喜びの中で生きてほしいという神の祈りでもあるからです。

 

 そのことは「あなたの裁きを教えてください。」というこの詩篇の作者の祈りにも見て取れます。「裁き」と聞いて私たちはどんなイメージを持つでしょうか?何か過ちを犯したときに罰を受けるといったイメージでしょうか?特に「神の裁き」というとより一層厳しいイメージを持たれるかもしれません。そんな、厳しい裁きをこの詩篇の作者はなぜ進んで求めているのでしょうか?そんなに厳しいだけのものならば、できるだけ避けたいと思うのが普通ではないでしょうか?

 

 しかし、神がなされる裁きは私たちが漠然とイメージしているようなただ厳しいだけのものではなくて、私たちがその人生を歩んでいく上で道から逸れないようにしてくれるガードレールのようなものなのだと思います。私たちも聖書から御言葉に聞いていく中で、時に耳の痛い厳しい御言葉に出会うことがあることでしょう。そんなとき私たちはその御言葉を自分に向けられた裁きのように感じてしまう時があるかもしれません。

 

 ですが、一方でその御言葉を受け取ったからこそ、自らの歩みを省みることができたということがあったりするのではないかと思います。そのまま進んでいたらどうなっていたかわからない、道から逸れていたかもしれない、そんな時、私たちに危機を知らせ、また道から逸れないよう導いてくれるのも「裁き」という形で示される御言葉の一側面なのだと思います。

 

 

・危機の中でこそ、御言葉を(109-110)

 私たちはそのように自分の危機の中にあってより強く語りかけてくる御言葉を受け取ることがあります。この詩篇の作者もそのことを強く感じていたのではないかと思います。「わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。」この言葉はわかりやすく言い換えれば、「自分が危機の中にある時もあなたの御言葉を忘れません」ということです。

 

 人生の危機にあって最も必要なのが御言葉であることを作者は語っています。なぜなら、神の御言葉こそが私たちの人生のガードレールであり、私たちに人生の軸を与えてくれるものだということを、この作者は自らの歩みの中で実感していったことだからではないかと思います。行先も見えない暗闇の中で道を明るく照らし出し、そして時に道から逸れてしまいそうな時には、厳しい言葉でその危機を示してくれる…そのような御言葉だからこそ人生の危機にあっても信頼できる人生の軸であることを、心からの告白としてこの詩篇の作者は詠っているのだと思うんですね。

 

 

・神に応答する人生(111-112)

 これまででこの詩篇の作者は「裁き」「律法」「命令」など、多くの異なる言葉を使って御言葉の側面を表現してきました。これらの言葉は私たちのイメージで言えばどこか窮屈で厳しいだけのものに思えてしまうかもしれません。ですが、この作者に最後にこう詠います。111節「あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。」ここでいう「定め」も神の御言葉を言い換えたものです。そして、「嗣業」とは最も高価な資産のことを意味します。

 

 つまり、作者の結論は、「裁き」「律法」「命令」そして「定め」などの側面を持つ御言葉は、私たちの人生で最も大切なことを語ってくれているということです。私たちの人生の道のりを照らし出し、私たちが道から逸れそうになるのを防ぎ、私たちが危機にあるときに強く私たちに語りかけ、その歩みを導いてくれる、そんな存在が神の御言葉なのです。

 

 

 私たちに与えられいている聖書には、私たちの人生のあらゆる場面でその歩みを導いてくれる神の御言葉が詰まっています。だからこそ、私たちはこの聖書から常に御言葉を聞きつつ、そしてその御言葉に応答しながら、神の言葉の中を歩んでいきたいと願います。神は私たちの歩みにいつも伴ってくださり、その行く道を明るく照らし出してくださいますから。

7月4日主日礼拝メッセージ  「祈りという対話」

 

・振り返る祈り(12-15)

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は歴代誌下6:12-21です。この箇所では、イスラエル王国の王ダビデの後を継いだソロモンが主の神殿を完成させた時の祈りが記されています。神殿というと私たちにはあまりピンと来ないかもしれません。現代でも新しく教会が建てられると記念の礼拝や記念の祈りがなされたりしますが、そんな状況をイメージして貰えば良いと思います。

 

 そこで祈られる祈りは、全ての事柄が神によって守られて完成に至ったことを感謝するためであり、同時にこれまでの神の導きを思い起こし、神の約束の確かさを再確認することでもあります。ソロモンは、神殿完成の祈りを捧げる際、「全会衆の前で跪いて祈った。」とあります。つまり、ここでは王であるソロモンも一人の会衆として祈っていると言うことです。それは、主の神殿の建設がソロモンという一人の王によってなされたものではなく、神によって導かれた働きに、イスラエルの民の一人ひとりが応答していったということの表現でもあると思います。

 

 だからこそソロモンはここではイスラエルの王としてではなく、イスラエルという民の代表として祈っているのでしょう。ここにおいては、王も民も身分の区別なく、一人の人間として神に祈りを捧げています。それは、神の前では身分の上下なく等しく同じ人間として扱われるということです。それはまた私たちバプテスト教会が大切にしてきたことと繋がっています。

 

 私たちバプテスト教会では、牧師と信徒の間に上下関係はありません。あくまで牧師も信徒のひとりであり、そこに身分の格差はありません。それぞれが担う働きの差、職分の差こそあれど、一人ひとりが神の前に等しく扱われるということは、私たちバプテスト教会がその成立から一貫して大切にしてきた信仰の軸です。しかし、そのことは裏を返せば、一人ひとりが神と向き合い、その関係の中で応答し続ける生き方をすることでもあります。つまり、神と私たち一人ひとりとの間に誰か別の存在が入るわけではないということです。

 

 だから、バプテスト教会では「個人の自覚的主体性」が最も重要なことなのです。他の誰かが自分の代わりに神に応答してくれるわけではないのです。他の誰でもなく、私たち一人ひとりが、私が、あなたが自分で神と向き合い、その関係を深めていく、それがバプテスト教会が大切にしている信仰の姿勢です。

 

 ソロモンの祈りの姿勢にはそのような「一人ひとりが神と確かに繋がっているのだ」という信仰を垣間見ることができるのではないかと思います。主の神殿の建設は本当に大変な働きだったと思います。当然ソロモン一人ではなし得なかったことでしょう。イスラエルの民が一つとなって、その働きに応答していったからこそ神殿は完成しました。もちろん、そこに働きの違いはあったでしょう。ソロモンとソロモン以外の人の間には異なる種類の働きが託されたのは確かなことだと思います。

 

 ですが、イスラエルの民一人ひとりが神から託された働きを受け取り、そこに自覚的に主体性をもって応答していったからこそ神殿建設という一大事業は完成を見ることができたのではないかと思うんですね。ソロモンはそのことをこのように祈っています。「イスラエルの神、主よ、天にも地にもあなたに並ぶ神はありません。心を尽くして御前を歩むあなたの僕たちに対して契約を守り、慈しみを注がれる神よ、 あなたはその僕、わたしの父ダビデになさった約束を守り、御口をもって約束なさったことを、今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。 

 

 「心を尽くして御前を歩むあなたの僕たち」とは、託された働きに自覚的主体性をもって精一杯応答していくイスラエルの民の姿なのではないかと思います。そんなイスラエルの民の心からの応答は、神との親しい関係を建てあげていったことでしょう。私たちもまたイスラエルの民と同じように、神からの様々な招きや語りかけに応答していくことでその信仰が深められていくことを実感することがあることでしょう。なぜなら、「信仰」とは神への信頼であり、その「信頼」は、神と私たちとの関係がより太く確かなものとされていくということだからです。

 

 ソロモンはその祈りにおいて、神との「信頼」がより深められたことを告白しています。約束を確かに果たしてくださる神への信頼をソロモン、またイスラエルの民たちは託された働きに自らの意思をもって応答していくことを通して、より深く実感していったことでしょう。

 

 私たちも一人ひとりが神から様々な招きや働きを託されています。私たちの「信仰」、神への「信頼」はそこに私たちが自らの意思をもって応答していくときに深められ、確かなものとされていきます。そして私たちはそのことを共同体としての祈りの中で確認していくことで、そのことが自分勝手で独りよがりのものではなく、神が確かに私たちになしてくださったことであることを信じていくことができるのです。

 

だからこそバプテスト教会は、個人の自覚的主体性を大切にしつつも、教会という共同体の中で信仰を確認し合うこともまた大切にしてきました。私たちバプテストの信仰は、個人の自覚的主体性を持った神への信頼を、教会という共同体の中で確認し合うからこそ、健全にその歩みを続けることができるのです。

 

 

・約束のための祈り(16-17)

 ソロモンは、その祈りの中で、これまでの神の導きと恵みを振り返りつつ、またこうも祈っています。「イスラエルの神、主よ、今後もあなたの僕、父ダビデに約束なさったことを守り続けてください。あなたはこう仰せになりました。『あなたがわたしの前を歩んだように、あなたの子孫もその道を守り、わたしの律法に従って歩むなら、わたしはイスラエルの王座につく者を絶たず、わたしの前から消し去ることはない』と。」 イスラエルの神、主よ、あなたの僕ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。 

 

 

 ソロモンはこれからのイスラエル、自分たちについて祈っています。それは神が約束してくださったことが今後も守られるようにとの祈りでした。イスラエルに、そして私たちに与えられている約束は、神がイスラエルに、そして私たちに慈しみとまことを尽くし続けてくださるということであり、それは同時に神との関係の中で私たちが生きることでもあります。

 

 しかし、私たち人間は神との関係から逸れて自分勝手に生きようとしてしまう存在です。イスラエルの民は神から「神との関係の中で生きる道標」である律法を与えられていました。それは本来、神のイスラエルの民に対する「こう生きてほしい」という願いでしたが、彼らはその道からしばしば逸れて神との関係から外れたところへと向かっていってしまいました。

 

 神は私たち人間をその関係の中で応答しながら生きるものとして創造されました。だからこそ、私たちはその関係の中に留まるとき、恵みや平安を受け取りながら生きていくことができます。しかし一方で、私たちはその与えられている神からの恵みをどこか当然のものとしていってしまうことあります。本来、恵みとは与えられるに相応しくないものに与えられるものを意味しますが、私たちはついそのことを忘れてしまうことがあったりするのではないでしょうか?

 

 ソロモンが、神が約束してくださったことが確かに実現されるようにと祈っているのは、神から与えられる恵みが当たり前のものではなく、ただ神の私たち人間に対する愛ゆえのものであることを思い起こし続けるためなのでしょう。だから、私たちも神の恵みというものを当たり前のものとして侮ることなく、しかし、大いに感謝して受け取っていきたいと願います。

 

 

・教会と祈り(18-21)

 先程、神殿がイメージしにくいのなら教会をイメージしてもらえれば良いと言いましたけれども、ソロモンの次の祈りは彼らの時代の神殿と私たちの教会が重なり合う部分だと思います。18-21「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、昼も夜もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが御名を置くと仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。」

 

 ソロモンは神殿に神が住んでいるわけではないこと、言い換えれば神殿という建物そのものが神ではないことを語っています。私たちで言えば、教会に神が住んでいるわけではなく、そして教会という建物そのものが神ではありません。教会は本来、人の集まりのことを意味していました。そうであれば、神は私たちの只中に、さらに言えば私たちの関係の中におられるのではないでしょうか。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」イエスのこの言葉は私たちが共に祈るところに神もまたおられることを私たちに語っています。

 

 またソロモンは「ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。」と祈っています。祈りとは私たちの心からの願いであり、叫びで

す。私たちの心からの願いや叫びこそが神との対話、すなわち祈りになっていきます。ソロモンが神との親しい関係の中で、その心からの願いと叫びをぶつけていきました。私たちはそのような心からの願いや叫びを素直に神にぶつけているでしょうか?

 

 私たちが教会という共同体の中で共に祈り、また私たちの心からの願いや叫びを素直に神にぶつけていくとき、神はその祈りに確かな約束をもって応えてくださるでしょう。神は今も私たちの只中におられ、昼も夜も私たちの傍に伴っていてくださいますから。