5月30日主日礼拝メッセージ 「人生の土台」

 

※信徒宣教のため、未掲載

5月23日ペンテコステ礼拝メッセージ 「理解への創造」

 

・人の「罪」とは?

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は詩篇51:1-19です。この詩篇51篇では一人の人の罪の悔い改めが告白されています。この詩の作者は2節にあるようにダビデだとされてきましたが、正直なところダビデ本人なのかはわかりません。むしろこの詩はダビデの人生の中のある場面に重ね合わせて詠まれたものと捉えておいた方がいいかもしれません。

 

 そのある場面とはダビデが自分の部下の妻であるバト・シェバと不倫関係になり、そのことを隠蔽するためにバト・シェバの夫である部下を激戦地へと送り、故意に戦死させた時のことです。その後、預言者ナタンを通して神から罪を指摘されたダビデは悔い改め、神に赦しを求めました。この詩の作者はその時のダビデの心情に重ねてこの詩を詠んでいます。もちろんダビデの状況と全く同じだったとは考えにくいですが、この作者もダビデと同じく大きな罪を犯し、それを悔いているときの心情を詩にしたのでしょう。

 

 ですから、私たちもダビデの心情に自分自身を重ね合わせて、あるいはこの詩の作者自身に重ね合わせてこの詩から御言葉を受け取っていきたいと願います。まず、5-6にはこうあります。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。 

 

 ここでは、「わたし」と「あなた」という一対一の関係において罪が告白されています。ダビデは確かに神に対して自分自身の罪を告白しました。ダビデが犯した罪は不倫という罪であり、またそのことを覆い隠すための殺人という罪でした。そのことを考えると、ダビデが罪を告白し、悔い改めるべきはバト・シェバとその夫に対してであり、神に対してではないように思えます。

 

 しかし、「罪」というものの本質を考えていくと、神に対する「罪」と人に対する「罪」というものが全くの無関係ではないことが見えてくると思います。「罪」の本質とは「神に対する、そして他者に対する無理解」です。そのことで他者との関係が壊れていきます。神は人間に、ご自分との正しい関係の中で生きるように人間に期待され、また人間同士の関係も神が望まれる正しい関係を築いていくように願われていました。

 

 ですが、人間はその「他者への無理解という罪」を抱えているが故に神との正しい関係を歪め、他者を傷つけてしまいます。そう考えると、人間同士の正しい関係を壊すことは、神の期待から外れることであり、同時に神との関係を壊すことでもあります。であればむしろ、神に対する「罪」と人に対する「罪」は無関係どころか、密接に関係しているものと言えます。

 

 また、この詩の作者はダビデが犯したような一回的な特定の罪に対しての悔い改めを詠んでいるのではありません。3-4にはこうあります。「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。」ここでは「背き」「咎」「罪」という言葉が出てきています。この様々な罪の表現からも、作者が特定の罪だけのことを告白しているのではなく、人が犯すあらゆる「罪」について語っていることがわかります。

 

 だからこそ、この詩は私たち自身にも深く関わる問題を取り扱っているということです。私たち一人ひとりの中に確かに存在する「他者への無理解という罪」それは私たち人間が本来的に持っているものであることをも作者は語っています。7節にはこうあります。「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。 

 

 

・逃れられない罪

 この詩の作者は、人間は生まれた時から咎に塗れ、罪の中にあるものだと言います。ここで多くの人は引っかかるかもしれません。自分には罪はない、まして生まれて時からの罪などあろうはずもない、と。しかし、聖書の語る罪の本質は、私たちが一般的にイメージする「罪」とは少し違います。私たちが一般的に「罪」というとき、それは何か法を犯すことなど、行為として実際に表れてくるものだけをイメージするかもしれません。

 

 ですが、聖書の語る罪というものは、その行為の奥にあるもの、つまり、「なぜ人はその行為に至ってしまったのか」という原因にまで踏み込んで言及しているんですね。そしてその原因こそが、「神や他者への無理解」なのだと思います。イザヤ書44章にはこうあります。「彼らは悟ることもなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず/心もふさがれていて、目覚めることはない。」また、イエスご自身もイザヤ書を引用してこれと同じことを語られていたりもします。

 

 また、この詩篇の作者が生まれた時からあるものとして「罪」を解釈していることからも、聖書の語る「罪」というものが単なる行為としての罪にとどまっていないことがわかると思います。そう考えていくと、聖書の語る「罪」とは、「行為として現れる罪の根本的な原因」すなわち「神や他者への無理解」であり、そしてそれは私たち人間が誰しも持っているものだということが見えてくるのだと思います。

 

 この詩篇の作者が単なる一つの行為としての罪を告白しているわけではないのは、先程言いましたが、それはこの作者自身が、行為としての罪を引き起こす自分自身の中の罪の根本原因を神に告白し、そしてそのことを神に取り扱っていただかなければ、自分ではどうすることもできないと自覚していたからこそでしょう。だからこそ、作者は神によって自分自身の罪が拭われることをこそ願っています。

 

 8-11節「あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。」

 

 この詩篇の作者は人間である以上、自分自身ではどうすることもできない「罪」があることを認め、そしてその罪を、言い換えれば自分自身の心を神に取り扱っていただけるように願っています。それほどまでに私たち人間という存在と「罪」というものが切り離し難いものであることを語っているとも言えるでしょう。しかし、考えてみれば、そのことは至極当たり前のような気もしてきます。

 

 というのも、これも当たり前のことですが私たち人間は一人ひとり異なっています。誰一人として同じ人はいません。そんなお互いに異なる人間同士が共に生きようとすれば、意見の衝突や、思いのすれ違いなどは当然起こってきます。それらは私たちがお互いに異なるから起こってくることです。人は誰かと同じになることはできないからです。だから、人が他者のことを理解できないのはある意味当然のことであり、一人ひとりが一人の人間という個人である以上、自分自身ではどうすることもできないものです。

 

 しかし、私たちがその「罪」に任せたまま、お互いに無理解を押し付けあったままで行き着く先は、互いに傷つき傷つけ合う争いの世界でしょう。だからこそ、神は私たちに互いが理解し合う道へと、互いの関係を回復させていく道へと招いておられるんですね。そしてその神からの招きに私たちが応答していく時に、私たちの心は神によって再創造されていきます。

 

 「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。」この作者の祈りは、神の霊、すなわち聖霊を求める願いです。聖霊は私たちの心を神を証しし、神に対する理解を開かせる存在です。

 

 それは言い換えれば、私たちの罪である「他者への無理解」を「他者への理解」へと造り替えていく存在です。私たちが心から自分の罪を悔い改めていくとき、神は私たちに出会ってくださり、そして聖霊によって私たちの心を神へとそして、他者へとむけ直させてくれることでしょう。

 

 神は私たち一人ひとりに聖霊を送ってくださり、今も私たちの中で働かれ、私たちを新たに造り替え続けてくださっていますから。

5月16日礼拝メッセージ 「心の目を開いて…」

 

・心の目を開くイエス

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はルカによる福音書24:44-53です。復活されたイエスが弟子たちに現れた後、天へと帰られるルカによる福音書のクライマックスの場面です。イエスは天に帰られる前、弟子たちにこのように言われました。44節「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』」 

 

 イエスが言われている「モーセの律法と預言者の書と詩編」とは、現代でいうところの旧約聖書のことです。もちろん、この時点では新約聖書はありませんから、旧約聖書イコール聖書の全てだったわけです。つまり、イエスは「聖書に書かれている事柄は必ず実現する」と言っていることになります。それは言い換えれば、聖書に書かれている事柄は現実と切り離されたものではないということを示しているのだと思うんですね。

 

 弟子たちはイエスと共に旅をしている時、イエスから多くのことを聞かされていました。イエスは何度も聖書を引用しながら、ご自分のことについて弟子たちに語られていましたが、弟子たちはそれをどこか現実とは無関係のこととして受け止め、理解しようとはしませんでした。そのときの弟子たちにはイエスの言葉を、そして聖書を自分に関わることとして受け止めるのではなく、自分とは無関係なこととして受け止めていたのかもしれません。

 

 だからこそ、イエスの言葉を聞いてもどこか実感が湧かなくて、その意味というものを深く受け止めることができなかったのでしょう。イエスの言葉の奥に、聖書の言葉の奥に隠された自分たちへ向けられたメッセージというものは、ただその表面だけ見ていては受け取ることができません。私たちが心を砕き、祈りつつその御言葉に向き合う時、聖書は初めて御言葉を語り出します。聖書の中に私たち自身を置く時、聖書の文字は生ける神の御言葉となって私たちに迫ってくることでしょう。聖書は固定された文字そのものなのではなく、そこに生ける神の御言葉が内包されている私たち人間に向けられたメッセージだからです。

 

 ですが、考えてみれば私たちもこの弟子たちとなんら変わるところはないのではないでしょうか。弟子たちが自分たちの力では聖書の語る御言葉を受け取ることができなかったように、私たちもまた自分たちの力では御言葉を受け止め、理解していくということはできません。なぜなら、聖書を読む、御言葉を受け取るということは私たち人間だけで完結する行為ではなく、神と私たち人間との関係において起こる「出会い」だからです。

 

 私たちの目が神へと開いていなければ、聖書は本来持っているそのメッセージ性を発揮することができません。私たちと聖書という書物だけではそこから御言葉は聞こえてこないでしょう。そこに神との関係がなければ聖書は単なる古代文献に過ぎません。ですが、私たちの目を開かせ、その心を神へと向けさせてくれるのも、またイエスご自身だと聖書は語ります。

 

 「イエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」とあります。このことからも私たち人間自身の力では聖書の語る本来のメッセージを受け取ることができないということがわかります。弟子たちはこの時初めてイエスがかつて語られていたことの意味を受け取り直したのかもしれません。これまでは、自分とは関わりないと思っていた言葉も、イエスに目を開かれたことで、その意味を受け取り直していったのかもしれません。

 

 弟子たちは復活のイエスに出会いました。それは言い換えれば、イエスと新たに出会い直したということでもあります。弟子たちがそれまで抱いていたイエスの姿は弟子たちに、自分自身に都合のいいイエスの姿でした。しかし、失望と裏切り、後悔と挫折を経験し、それでもまた出会い直してくださったイエスに新たに出会ったことで、イエスと弟子たちとの関係はよりそれまでよりもずっと深いものになっていったのではないでしょうか。

 

 私たちも弟子たちのように、イエスに対する、神に対する、聖書に対する様々な感情が湧き上がってくることがときにあると思います。失望したり、背を向けたり、後悔し挫折したりすることがあるかもしれません。そして、それは私たちにとって、つらく苦しいときかもしれません。しかし、そんな私たちに近づかれ、また出会ってくださるイエスがいます。私たちは聖書を通して今もイエスに出会うことができます。私たちが心を砕いて聖書に向き合う時、イエスは私たちの心の目を開いて、私たちと出会ってくださるでしょう。

 

 

・約束されたものを信じて待つ時

 弟子たちはイエスと出会い直したことで改めて御言葉を受け取りました。しかし、イエスが彼らに語った御言葉の中には彼らには理解するのが難しいものもあったのかもしれません。イエスは彼らにこう言われています。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」

 

 弟子たちが特に戸惑ったと思われるのは「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」という部分だと思います。なぜなら、当時のユダヤの価値観では救いはユダヤ人だけに与えられるものであり、異邦人はその対象になっていなかったからです。ですが、イエスは「罪の赦しを得させる悔い改め」すなわち救いをもたらす福音は異邦人をも含めたあらゆる国の人々に宣べ伝えられることを弟子たちに告げています。

 

 このことの意味を理解できない様子の弟子たちにイエスはさらにこう語ります。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 この「約束されたもの」とは聖霊のことで、聖霊は私たちの心を神への理解へと開かせる働きを担っています。

 

この後の話が書かれている使徒言行録では、聖霊を受けた弟子たちが、イエスから語られた通りにあらゆる国々の人々に福音を語る場面もあります。逆に言えば聖霊を受けて初めて理解できる御言葉もあるということです。つまり、御言葉への理解が開かれることにもそれぞれの時があるのだということを語っているのだと思います。

 

 つまり、このことは弟子たちに「待つ」ことを要求しています。そしてそれは私たちにも語られているメッセージでしょう。私たちは自らの力で御言葉を理解することはできません。そこに神の助けがなければ私たちは聖書を御言葉として受け取ることはできないからです。同時にその理解にもそれぞれ神の時があるのだと思います。私たちも聖書を読んでいてそのとき意味がわからなかった箇所も、あるとき何かのきっかけで理解が開かれるという経験はないでしょうか?

 

 私たちの理解は「待つ」ことで理解が開かれることもあるのだと思うんですね。しかし、ある意味でこの「待つ」ということほど辛いものもないかもしれません。「待つ」ということは自分の力を全て放棄することです。そしてそれは、「待つ」対象に対する信頼が必要なことだと思います。私たちは「待つ」というとき不安になります。本当に待っている対象が来るのかどうか、待っている方からすればわからないからです。

 

 ゆえに「待つ」時に要求されるのは待つ対象に対する「信頼」であり、神が約束されたものを待つというとき、それは信仰となります。だとすれば、信仰の歩みというのは、神の約束に信頼を置きつつ、その中で与えられる御言葉と対話しつつ歩んでいくことだと言えます。イエスから留まることを命じられた弟子たちは、まさにそのような体験をこれからしていくことになりました。

 

 

・祝福されながら

 しかし、イエスは弟子たちに聖霊を受けるまでエルサレムに留まるよう命じつつも、50節では「彼らをベタニアの辺りまで連れて行った」とあります。なぜイエスはわざわざ弟子たちをベタニアの辺りまで連れ出したのでしょうか?それは、弟子たちに「留まる」ということの意味を間違えないで欲しかったからではないでしょうか。私たち人間は「待つ」といったときや「留まる」といったときに、心を閉ざして頑なになってしまうときはないでしょうか。

 

 自分たちだけで固まってその他の人やその考えを受け付けなくなってしまう時があったりするのではないでしょうか。それは個人でも共同体でも同じです。教会という共同体の中でもそうなってしまうことはあるでしょう。だからこそイエスは「待つこと」「留まること」だけではなく、「出ていく」ということの大切さも最後に弟子たちに示されたのではないかと思うんですね。「待つべき時」と「出ていく時」を見極めて弟子たちがこれからの働きを成していくことができるようにイエスはあえて最後にエルサレムに留まるようにと命じつつも、エルサレムから連れ出すことをされたのではないかと思うんですね。

 

 弟子たちはイエスが天にお帰りになった後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神を褒め称えていた、とあります。弟子たちはなぜ喜んだのでしょうか?かつて、イエスが捕らえられ、自分たちの下から離れて行ってしまった時には、彼らの心は恐れと不安でいっぱいだったことでしょう。だからこそ、イエスを裏切り見捨てて逃げもしたのでしょう。ですが、イエスが離れて行ってしまったというのに彼らの心にはもう恐れや不安はなく、むしろその心は喜びで満たされていました。イエスとの関係の中で生きる喜びを、このとき初めて弟子たちは実感したのでしょう。

 

 弟子たちの心の目はイエスによって開かれていました。そのことは言い換えれば、イエスに信頼する歩みへ招かれることでもあると思います。私たちも弟子たちと同じように、イエスによって心の目を開かれ、イエスに信頼する歩みへと招かれています。私たちが神との関係において聖書に向き合う時、イエスは私たちの心の目を開いて、御言葉への理解を開いてくださいます。イエスはいつも聖書を通して、その時々にふさわしい御言葉を私たちに語りかけてくださいますから。

5月9日礼拝メッセージ 「自由へ招く祭司」

 

・祭司と律法

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はヘブライ人への手紙7:11-25です。ここでは祭司と律法の関連について語られています。まず11節ではこのように言われています。「ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、――というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから――いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう。」

 

 ここで言われている「完全な状態」とは、神との関係が完全に回復された状態のことです。旧約時代、人はその罪によりそのままでは神との関係を保つことができませんでした。そこで神は祭司、つまり神と人々とを仲介する役職の人々を立てられました。この祭司が神に定められた様々な務めを果たしていくことで、人は神との関係を保つことができるとされていました。

 

 そしてこの祭司職というのはイスラエル民族の中でもアロンの家系、すなわちレビ族にしか許されていない役職でした。代々レビの家系が祭司の務めを引き継ぎ、イスラエルの他の部族はその仲介によって神に近づくことができるものとされていたんですね。しかし、このヘブライ人への手紙では、別の祭司が立てられる必要性について語っています。つまり、アロンと同じような祭司では「完全な状態」、「神との関係が完全に回復された状態」には達し得ないことを語っているんですね。

 

 それはつまり人の力では罪を完全に取り去ることはできないということを意味しています。人間の祭司の業では罪を一時的に覆い隠すことはできても、完全に取り去ることはできないからです。そしてそのことはまた律法にも関連してくる問題でした。律法とは本来、神との正しい関係を保つための指針として人間に与えられたものでしたが、それはいつしか律法の実行によって救いを得られる、つまり完全な状態に達することができるものとして扱われていきました。新約聖書の律法学者やファリサイ人たちはまさにそんなふうに律法を捉えていたわけです。

 

 しかし、人間の祭司によっても律法の実行によっても人間は救いに達することはできません。このことはパウロも言っていることですが、ヘブライ人への手紙の著者もまたそのことをここで語っています。人間の力では完全なる神との関係の回復は不可能だということが示されています。

 

 そうであれば、神と私たちとの関係の回復はもはや不可能とおもえてくるかもしれません。しかし、神はこの不可能を突破するために神と私たち人間とを繋ぐ仲介者、イエス・キリストという祭司を立てられました。イエスはここでメルキゼデクという存在に重ねられています。このメルキゼデクは創世記に登場する人物であり、このヘブライ人への手紙7章の冒頭にも言及されています。

 

 7章の1-3を読んでみたいと思います。「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。 アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。」

 

 メルキゼデクという人物については謎が多いですが、ともかくこのヘブライ人への手紙の著者がメルキゼデクとイエスとを重ねて言わんとしていることは、あれほど親しい関係にあったアブラハムと神であっても、なおその仲介に入られる方がいるということ、そしてアブラハムを祝福し、その応答としてアブラハムから捧げ物を受け取る方であり、また、義と平和に満ちた「永遠の祭司」がイエスであるということでしょう。

 

 人間の祭司の務めや律法の実行によっては神との関係を完全に回復させることはできませんでした。なぜなら、私たちが抱える罪は私たち自身で贖うということはできないからです。しかし、今やイエスが神と私たちとを繋ぐ完全なる祭司として立ってくださいました。私たちはイエスの十字架の死によって罪を贖われ、そしてイエスの復活によって、永遠の命への希望へと招かれています。

 

 

・戒めでない自由への招き

 ところで、先ほど祭司と律法は関連していると言いました。つまり、新しい祭司が立てられることは新しい律法が建てられることでもあります。そのことについて、ヘブライ人へ手紙の著者も言及しています。「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。」

 

 「肉の掟の律法」とは先程の律法学者やファリサイ人たちの考えていたような、その実行によって自らを救おうとする彼らの律法の捉え方のことです。しかし、そのような人間の律法の実行という行為によっては人は救いに、完全な状態には達し得ないということを著者は繰り返し語っています。18-19節では「以前の掟が、その弱く無益なために廃止されたのは、律法が何一つ完全なものにしなかったから」とあります。

 

 本来、律法は神が人間との正しい関係を保つための指針として、人間に与えられたものでした。だからその本質は人間を縛り付ける戒めではなくて、こうあって欲しいという神の私たちに対する「期待」だったとも言えます。そしてその期待に人間が自らの意思で応答してきてくれることを願っておられたのだと思います。

 

 しかし、いつしか人間はそれを神の期待ではなく、神の戒めとして受け取ってしまうようになってしまったのではないでしょうか?そして「こうであらねばならない」「そうしてはならない」と自分に制限をかける戒めとして受け取っていってしまったのだと思うんですね。その結果、律法は人間のあらゆる行動を制限するものとして定着してしまいました。

 

 イエスご自身も律法について律法学者やファリサイ人と何度も議論をされ、「神の期待」という本質が抜け落ちた形式的な律法主義を批判されています。しかし、思い返してみれば、このことは何も当時の律法学者やファリサイ人たちに限った話ではないと思うんですね。現代の教会で生きる私たちも時にこのイエスが批判された形式的な律法主義に陥ってしまうことがあったりするのではないでしょうか?

 

 「クリスチャンであるならこうあらねばならない」あるいは「教会とはこうあらねばならない」という考えをしてしまうときはないでしょうか?そうであるならば、私たちは律法を律法学者やファリサイ人と同じように受け取っていることになっているのだと思うんですね。私たちはときに「神の戒め」と呼ばれるものを守るということに囚われて、「神の期待」に耳を傾けることを放棄してしまっていることがあるかもしれません。

 

 そんな時私たちの行動はもちろん、心も何かに囚われているような感覚になってしまっているのだと思うんですね。「こうであらねばならない」「そうあってはならない」そのようなことばかりに囚われて、自由な意思によって行動するのではなく、恐れによって無理矢理行動しているような感覚というのは多かれ少なかれ誰しも味わったことがあることでしょう。ですがそれは「神の戒め」と呼ばれるものに私たちが縛られているわけではないと思うんですね。

 

 言うなればそれは私たち自身が私たち自身を縛っている状態、自分で自分が思い込んでいる掟で自分を縛り付けている状態なのだと思います。なぜなら神は私たちに期待はかけられても、それによって私たちを縛り付けるような方ではないからです。しかし、私たち人間はつい「神の期待」というものを「神の掟」へと変換して受け取ってしまう不理解を抱えた存在です。そのために私たちはときに神の期待から全く外れたことをしてしまう時もあるでしょう。

 

 ですが、そんな自分自身を縛り付けてしまう私たちをイエスは解放してくださったんですね。「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。」朽ちることのない命の力とはどのようなものでしょうか?それは、私たちを縛り付ける私たち自身が勝手に創り出している肉の掟から、私たちを解放してくれる自由への招きです。そしてその招きは同時にイエスによる神との関係への招きでもあります。

 

 私たちはイエス・キリストによって解放され、あらゆる束縛から自由にされています。それはイエスが永遠の祭司として私たちを常に執りなしてくださり、神との関係へと結びつけてくださっているからこそ私たちに与えられているものでもあります。「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」

 

 神と私たちの間にいるのは、人間の祭司でも、神父でも、牧師でも、ありません。ただイエス・キリストという永遠の祭司だけが、私たちを執りなしてくださり、私たちを自由なる神との関係へと招いてくださいます。そしてその神との関係へと加えられることこそが完全なる救いなのだと思います。

 

 人間は関係の中で生き続ける存在です。それは神との関係であり、また人間同士のあらゆる関係…夫婦、親子、親戚、友人、知り合いといったあらゆる関係の中で人は生き、そしてその関係を求め続ける存在です。しかし、私たち人間はその他者への不理解性のゆえに互いに傷つけ合い、その関係を歪め、あるいは壊してしまう弱さを抱えています。

 

 ですが、そんな私たちの歪み、壊れてしまった関係は回復へと向けられています。イエスは私たち人間のあらゆる関係の間に立ってくださり、いつも執り成しの祈りをしてくださっていますから。

5月2日礼拝メッセージ 「まだ知らない神に出会う」

 

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は創世記28:10-22です。イサクの息子ヤコブが長らく住んでいた親元を離れて、ある場所に来た時のお話です。この時ヤコブは兄エサウから逃げている最中でした。兄エサウの祝福を奪い取ったヤコブは兄の怒りから逃れるため、逃亡を余儀なくされていました。それはヤコブにとって初めて経験する人生の危機といえる出来事でした。

 

それまでヤコブは父イサクと母リベカのもとで不自由ない暮らしを送っていたことでしょう。それまでは父イサクと母リベカの信仰のもとで育ってきたヤコブは父や母を通して神を知らされることはあっても、自分自身が神と出会うという経験はなかったのかもしれません。そんな中でヤコブはもしかしたら自分の中に神を感じられずにいたのかもしれません。

 

そんなヤコブはこの人生に訪れる初めての危機にあって、神と出会う体験をします。その場所にあった石を枕に眠りについたヤコブは不安と恐れを抱きながら眠りについたことでしょう。ヤコブという人は父イサクと母リベカの信仰の下で過ごす中で直接的に神と出会うという経験は今まであまりなかったのかもしれません。自分の人生の只中に生ける神が働かれているのだ、自分自身が生きているこの世界に確かに神は関わっておられるのだ、という経験はこれまでのヤコブの人生の中でほとんどなかったのかもしれません。

 

 だからこそヤコブは、自分の力を、自分の知恵を頼りにしてこれまで生きてきたのでしょう。兄エサウから祝福を奪い取ったという出来事にも、彼が祝福を神から受け取ると考えていたのではなく、他者を押しのけて奪い取るものと考えていたからかもしれません。ヤコブは自分自身の中に神がおられるという実感を感じられずにいました。そのことが彼を自分自身にのみ頼らせていったのでしょう。

 

 しかし、そのヤコブの自分自身にのみ頼る性質が兄エサウとの関係の破壊を引き起こしてしまいました。そのことで、ヤコブは今まで過ごしてきたよく知った自分の家を離れ、自分の知らない世界へと出ていかざるを得なくなりました。しかも、もう助けてくれる家族は自分の周りにはいません。ヤコブはこれからたった一人で生きていかざるを得ない状況に追いやられました。

 

ヤコブはこれまでも自分自身の力で生きてきたと思っていたでしょう。しかし、そこには父イサクや母リベカの助けがあってのことであり、しかも、自分の生まれ育った家から出ることなく、自分の見知った場所での話です。このときのヤコブはきっと大きな恐れと不安の中にいたことでしょう。兄エサウから命を狙われ、自分の知らない土地で誰も頼ることのできなくなったヤコブは、はじめて自分自身の無力感を感じたことでしょう。

 

 

・ヤコブの見た夢 —天と地をつなぐはしご—

 ヤコブは自分の知らない土地で大きな恐れと不安を感じながら眠りにつきます。精神的にも肉体的にもボロボロだったことでしょう。なにげなくその場所にあった石を枕に横たわりました。するとヤコブは一つの不思議な光景を夢で見ます。彼はその夢の中で天と地をつなぐ梯子を、そしてその梯子を御使たちが登り降りしているのを見ました。この光景を見てヤコブはどんなこと思ったのでしょうか?

 

 思うにヤコブはという人は、これまで地、つまり自分の生きるこの地上のことしか考えてこなかった人なのではないかと思うんですね。だからこそ、自分自身にのみ頼って、自分の力や知恵で生きてきたのだと思います。イサクやリベカから神のことを聞かされても、いまいち実感が湧かなくて半信半疑な思いが強かったのでしょう。ヤコブにとって地のことが全てであり、神がこの地上の出来事に関わられているという実感がなかったのだと思うんですね。

 

 ですが、ヤコブが見させられたのは、彼がすべてだと思っていた地と彼にとって半信半疑だった天とが確かにつながっているという光景でした。つまりヤコブはこの地上に、自分の人生に確かに関わられている神がいるのだということをこの時初めて経験したのではないかと思うんですね。それはヤコブにとっての初めての神との出会いでした。もちろん、それまでもイサクやリベカから神のことを聞いていたことでしょう。しかし、それはヤコブという一人の人と神との個人的な出会いではありませんでした。ヤコブは人生の危機にあって、大きな恐れや不安を感じる中で初めて神と出会いました。

 

 私たちと神との出会いも、もしかしたらそのような時に起こってくることがあるかもしれません。それまでの私たち自身が崩される時、それは私たちのそれまで持っていた考えや思いが砕かれる時です。そんな時私たちは不安や恐れや無力感を感じることがあることでしょう。時にそれまでの自分が全否定されたような感覚に陥る時もあるかもしれません。

 

 しかし、神はそんな状況の私たちにこそ出会ってくださいます。神はヤコブに語りかけます。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。 あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

 

 神はヤコブに希望の約束を語られました。それは、ヤコブの人生に確かに神が伴ってくださるという約束です。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」ヤコブはこの神の伴いと守りをこれまで感じられずにいました。半信半疑な思いのまま、神と向き合うことよりも、自分自身に頼って生きてきました。しかし、人生の危機にあってそんな生き方が通用しなくなった時、砕かれたヤコブに神は出会ってくださいました。

 

 

・ヤコブの応答 —この場所に主が…—

 ヤコブは初めて神と出会い、神の言葉を受けとったことで、初めて共にいてくださる神の存在を感じたのではないでしょうか?父イサクの元にいたときには自分の中で神を感じられずにいたヤコブ、しかし、人生の危機な中にあって初めて自分と共にいてくださる神を感じた、ヤコブはこの時、まさにまだ知らない神に出会ったのではないでしょうか?だからヤコブはこう言うんですね、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 

 

そしてヤコブは自分が枕にしていた石を記念碑として立てて、その場所をベテル(神の家)と名付けました。ところで、枕とはどんな存在でしょうか?私たち人間はまっすぐ立った状態のまま横になるのが一番よい寝る時の姿勢だとされています。しかし、枕がないと頭が下がってしまってそのよい状態を維持できないんですね。そのことを考えると、枕は私たちが寝ている時、つまり意識がないときも常に私たちをまっすぐ立たせ、支えつづけてくれている存在だと言えます。ヤコブが石の枕を立てたのは、私は枕のような神に、つまり、「自分が神を意識していなかった時も常にまっすぐ立たせ、また支え続けてくれていた神に出会ったのだ」という意味も込められていたのかもしれません。

 

ヤコブはこれまで自分を支え共にいてくださっていた神を知りませんでした。しかし、自分のまだ知らない場所に飛び出していったことで、自分に常に伴い、自分を支え、導き続けてくださっていた神に出会い直したんですね。

 

私は神学部での歩みの中で、まだ知らない神に出会うという経験を何度もさせられました。それは自分の中の信仰が一度崩されて、しかしまた神によって立て上げられていくという経験でした。そしてそれは何も神学校でなければ起きないことではないと思うんですね。人生の歩みの所々で神は私たちと出会ってくださるでしょう。

 

 私たちが人生の危機にあったとき、いつも支え続けてくださっている神の存在をより深く感じることがあるでしょう。それは新しく神と出会い直すことであり、神との関係がより深まっていく出来事でもあります。私たちが御言葉に向き合う時、神は必ず私たちに新しく出会ってくださいますから。