新約聖書ルカによる福音書の中に「放蕩息子のたとえ」というお話があります。あるところにお父さんと息子二人がいました。兄はお父さんのもとで真面目に働いていました。一方、弟の方は、お父さんからもらった財産を遊び呆けて使い果たした挙句、お父さんの下に帰ってきました。弟は自分勝手に遊び呆けた挙句、全てを失って帰ってきたのだから当然もう息子としては扱ってはもらえないだろうと思っていました。「しもべとして雇ってください」とお父さんに言うんですね。

 

 ところが、息子をみたお父さんはしもべにするどころか、出て行った息子が戻ってきたことに大喜びして、弟がしてきたことなんか一切関係なしに息子として迎え入れます。それをみたお兄さんはお父さんにいうんですね。「そんなの不公平だ。真面目に働いてきた自分と遊び呆けていた弟が同じ身分とはおかしいじゃないか」ってお父さんに抗議するんです。このお兄さんの気持ち、よく分かりますよね。お兄さんのしてきたことと、弟のしてきたことを比べれば、誰だって不公平に感じると思います。行為のレベルで見れば、お兄さんと弟の差は歴然です。

 

 でも、お父さんは行為のレベルでは息子たちを見ないんですね。行為のレベルではなく、存在のレベルで息子たちを認めて、そして愛しています。弟のしてきたことはお父さんにとっては関係ないんですね。お父さんにとっては、お兄さんは真面目に働いているから息子なのではありません。弟も放蕩をしたから息子じゃないわけでもありません。この二人はお父さんの息子として生まれてきたから、お父さんはこの二人を息子として愛しているんですね。
 
 このように、私たち一人一人も神様から行為のレベルではなく、存在のレベルで承認されています。自分のしていることに価値を見出せなくなって、自分の存在を否定してしまいそうになるとき、ぜひこの箇所を開いてみてください。あなたの「存在」を心から喜んでくれる神様の声がきっと聞こえてくるでしょう。
 
ルカによる福音書15章11節〜32節