4月30日主日礼拝メッセージ  「愛と約束のゆえに」

私たちは聖書を読んでいていろいろなことに気付かされることが度々あると思います。そして時にその気づきは引っかかりとなって私たちの心に疑問を抱かせたりもするものです。特に旧約聖書にはそのようなことが多くあったりするかもしれません。旧約聖書はその全体を通して「イスラエル」という一つの民族がフューチャーされて描かれているように思えます。確かにイスラエル民族と神との関わりは聖書のテーマのひとつだと思います。

 

それゆえに私たちは聖書を読んでいるときにイスラエルという民族を特別視してしまうことがあったりするかもしれません。「イスラエルはなぜ神から選ばれたのか?」「選ばれるだけの何らかの理由が彼らにあったのではないか?」という聖書を読んだ人なら誰でも一度は考える疑問があると思います。今日の箇所はそのような私たちの疑問に答えてくれている箇所と言ってもいいかもしれません。本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合っていきたいと願う聖書箇所は申命記7:6-11です。

 

この箇所はエジプトを脱出したイスラエルの民にモーセが神の言葉を語っている箇所です。神によってエジプトから導き出されたイスラエルの民たちはカナンという約束の地に入ることになりますが、その前に神はモーセを通して民に語りかけ、十戒をはじめとした律法やこれからも過酷な道を歩むことになる民への励ましなど様々なことを語られました。それは彼らが自分たちはどのような民族であるのかというアイデンティティを確立させるためでもあったのかもしれません。長い間エジプトで虐げられてきた彼らにはそのような「自分たちは何者であるのか」という定義が必要でした。

 

神がモーセを通してイスラエルの民に語られたその定義は「神が選ばれた民」というものでした。6節にはこうあります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」「聖なる民」というのは「区別された民」と言い換えることができます。神ご自身がイスラエルの民を他の民とは区別して選び出され、しかも「宝の民」とされる…このようなことを聞いてしまうと私たちがますます先ほどの疑問が湧き上がってきてしまうのではないでしょうか。

 

 すなわち「イスラエルはなぜ神から選ばれたのか?」「選ばれるだけの何らかの理由が彼らにあったのではないか?」という疑問です。私たちは「誰かが選ばれる」あるいは「何かが選ばれる」といった時にどうしても選ばれた側の方にその理由を求めがちなのではないでしょうか?この世的な論理ではそれは当たり前に行われていることですし、むしろ普通のことでしょう。「成績がいいから選ばれた」「仕事ができるから選ばれた」というのは世の中で当然の如く行われていることだと思います。

 

 ですがこと神の選びに関して言えばそのようなこの世的な論理からは完全に切り離されています。そのことを示しているのが7-8節の言葉です。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」

 

 ここにははっきりと神がイスラエルを選ばれた理由が語られています。それはイスラエル側の理由ではありません。むしろイスラエルにはこの世的な論理ならば選ばれることはなかったでしょう。「イスラエルはどの民よりも貧弱であった」とありますから、彼らの側には何も選ばれるだけの優れている部分はなかったわけです。ではなぜイスラエルは選ばれたのでしょうか…それは選ばれる理由がイスラエル側にあったのではなく、選ぶ神の側にこそあったわけです。

 

 「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」…神はイスラエルを選ばれたのはただ神の愛のゆえであることを聖書ははっきりと語っています。また、イスラエルの先祖、すなわちアブラハムに約束されたことを守られるために神はイスラエルをご自分の民とされて、エジプトからも救い出されたことが宣言されています。これらのことからわかるのは「イスラエルが神に選ばれた」というよりかは「神がイスラエルを選ばれた」という方が正しい表現であるというように思います。

 

 この二つの表現は同じように思えますが、その主体が異なっています。全ての理由は神の側にあります。ただ神の愛のゆえに、そしてご自分が交わされた契約を守り続けるために神はこの世的な論理では決して選ばれ得ないであろうイスラエルを選ばれました。聖書はこのような神の誠実さこそを伝えるために何度も神の選びを強調しているのだと思います。決してイスラエルが神に選ばれた特別な民であることを伝えているわけではないのです。

 

 そのことはまた新約聖書において私たち一人ひとりが選ばれていることへもつながってくることだと思います。旧約聖書において語られているイスラエルの歩みは私たち人間の歩みそのものだと思います。イスラエルは何度となく神を忘れ、神に背き続けてきました。しかし、その度に神はイスラエルを立ち返らせて、必要な助けや導きを与えてこられました。

 

 この神とイスラエルとの関係は、神と私たちとの関係と同様なのではないでしょうか。私たちが何度も神を忘れ、神に背き続けても、神はその度に私たちを引き戻してくださりその帰りを喜んでくださる方です。神がそのような私たちを選んでくださったのはイスラエルと同様に何か選ばれるだけの理由が私たちの側にあったからではありません。

 

 全ては神の側の理由ゆえであり、その理由は神の私たちに対する「愛」と「約束」ゆえなのです。そしてその神の「愛」と「約束」はイエス・キリストにいて完全に表されたことを私たちはすでに聖書から受け取っています。ヨハネ福音書はこう語っています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

 ここには神がイエスを送られたほどに私たちを「愛」してくださっていること。そして私たちを救い出し、永遠の命という希望を与えてくださるという「約束」が示されています。私たち人間はこのような神の限りない「愛」とそして希望という「約束」を受け取っているのです。イスラエルの民がかつて自分たちをエジプトから救い出してくださった出来事を思い起こし続けたように、私たちもまた私たちを「死」から救い出してくださったイエス・キリストの十字架と復活の出来事を思い起こし続けることが求められています。

 

 そのように私たちが神に応答していく時に私たちは私たちの信仰の軸とするべきことを知らされていくのだと思います。今日の箇所の9節にはこうあります。「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。」神はイスラエルにされたこととおなじように、私たちに対してどこまでも誠実な方です。そのような信頼すべき神が私たちと関係を結んでくださっていることに感謝したいと思います。

 

神はその「愛」と「約束」を今もなお与え続けてくださっていますから。

 

4月23日主日礼拝メッセージ  「復活へと今を生きる」

 

変えられる私たち

本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合っていきたいと願う聖書箇所はコリントの信徒への手紙一15:50-58です。このコリントの信徒への手紙15章はパウロが「復活」について詳しく語っている箇所です。今日私たちが読んでいるコリントの信徒への手紙は、コリント教会で起こっていた様々な問題に対してパウロが助言や戒めを語っていくという形で展開されています。

 

 そのことはそれだけ多くの問題がコリント教会で起こっていたことを意味するものでありましたが、パウロはそれら一つひとつの問題に対して丁寧に対応していることが手紙の文面からも読み取れるものになっています。それらの問題の一つに「復活」に関することがあったわけですが、一体復活の何が問題になっていたのでしょうか。

 

 15:12には次のようにあります。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 」このパウロの言葉が示しているように、コリント教会の中には「死者の復活」ということを否定している人々がいて、そのことが教会の中で混乱を引き起こしていたということなのでしょう。

 

 そのことへの助言や勧告としてパウロはこの15章で語っているわけですが、かなりの分量を割いてこの問題に言及しています。そしてそれらのまとめとして今日の50節以下の言葉があるわけです。まず50-51にはこうあります。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。」

 

 パウロはここで「復活」とは根本的に「変えられること」であることを語っています。私たち人間は限界のあるの朽ちゆく体を持った存在ですが、そんな私たち人間を神は一瞬して変えられることをパウロは語ります。このことが示すのは「復活」とは私たち人間の想像や理解できる範疇をはるかに超えた神の業であるということだと思います。

 

 「復活」は私たち人間が努力したり、研鑽を積むことで到達したり獲得したりするものとは根本的に異なることを示しています。同時に私たちが復活の体に造り変えられた時初めて神の国を受け継ぐものにされるということは、終末において神が私たちに約束されていることが成し遂げられることをも意味しています。

 

 

「着る」ということ

 「復活」とは現在の私たちが根本的に神によって変えられ、作り変えられること。そうだとすると必然的に一つの疑問が浮かびあがってきます。それは私たちの現在の体は無意味なものなのではないか?という疑問です。終末において私たちが復活させられ、今とは全く異なる状態に造り変えられるのならば、今現在私たちが纏っている肉体は何の意味を持つのでしょうか。

 

 実はこれと同じような疑問は初代教会の頃にすでにあったものでした。特に今パウロが語りかけているコリント教会の一部の人々は自分たちの現在に対して価値を見出していませんでした。彼らの言い分としては「自分たちはすでに霊において救われたのだから、この肉体においては何をしてもかまわないのだ」というもので、そのような放縦主義的な風潮がコリント教会において広まりつつあったものだと思われます。

 

 そのような状況の教会に対してパウロは先に語った「復活」の神秘を誤解させないために次のようにも語りました。53節「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 」ここでの「着る」あるいはそれと同じ「身にまとう」という表現はパウロ独特のもので別の手紙の中にも用いられています。ローマの信徒への手紙13:14には次のようにあります。「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。 

 

 「着る」や「身にまとう」ことは私たちが普段から毎日行なっていることですからイメージもしやすいと思います。私たちは服を着ますが、服を着たからといって中の体が不要になるはずはありませんし、無くなるわけでもありません。パウロはこの例えを通して、コリント教会の誤った復活理解を正そうとしているのだと思います。

 

 私たちは終末において復活させられるものではありますが、そのことが現在の肉体を無価値にしたり否定したりするものではありません。それどころか復活とは「肉体として人間が存在することの肯定」でもあります。なぜならば神はイエスをその肉体と共に復活させたのであり、そしてそのイエスの復活の体は復活以前に負われた傷が残されたままでもあったからです。

 

 つまり、私たちの現在の体や生活は終末において無かったことにされるわけではありません。朽ちゆく私たちの現在の体が朽ちないものを着るというパウロのこの比喩は、私たちの現在はどのようにかして終末における復活に取り入れられることを示しているのだと思います。そうであるからこそ、聖書は私たちの目を現在に向けさせ、その中で神に応答していく歩みへと招いているのだと思います。

 

 

復活は今を生きる私たちへの肯定

 パウロはこの章の締めくくりに次のように語っています。58節「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」コリント教会の中には多くの問題がありました。それゆえにその一つひとつの問題に揺らがされてしまう人も多かったのだと思います。

 

 事実そのような状況だったからこそ、コリント教会の指導者たちはパウロに助言を求めて、それに応える形でパウロはこのコリントの信徒への手紙を書いたのでしょうから。そのような手紙の締めくくりの言葉としてパウロは「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」と勧めています。動かされないように立つべき場所…それはコリント教会の人々にとっても現代に生きる私たちにとっても同様の場所です。イエス・キリストを土台としてそこに立ち続けることが、「復活」へとつながっているということなのでしょう。

 

 そして私たちがイエス・キリストという土台に立ち続けるときに私たちは自然と「主の業に励む」ことへと招かれていくのだと思います。私たちはそのようにして神によって造り変えられ、終末における「復活」に向かって導かれていくのでしょう。そのような歩みの中で私たちは多くの苦労を抱えることもあるかもしれません。初代教会の人々やこの手紙を書いたパウロ本人も多くの苦労をした人でした。

 

 しかし彼らはその苦労の中であっても多くの恵みを受け取ったことを実感していたのだと思います。パウロはこう語ります。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」主に結ばれている…このことが彼らにとっての、そして私たちにとっての最大の恵みであり、同時に苦労の中であっても前に進ませる力そのものです。

 

 私たちは「復活」という希望を見つめながら、この今を懸命に生きていくことへと招かれているのですから。

4月16日主日礼拝メッセージ  「心燃やされ続けて」

 

エルサレムからエマオへ

本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合っていきたいと願う聖書箇所はルカによる福音書24:13-35です。この箇所は有名なエマオの途上の物語で、読んだ時の印象がドラマチックなことから復活物語の中でも印象に残りやすい箇所なのではないでしょうか。またこのエマオの途上の物語はルカ福音書でしか語られていません。それはルカが復活物語に中にわざわざこの記事を入れてまで伝えたかった何かがあるということでもあります。

 

 そのことを探しながら今日はこの箇所から御言葉を受け取っていきたいと思います。初めにこの物語の背景から確認したいと思います。13-14節にはこうあります。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。 」まず「ちょうどこの日」とありますが「この日」とはいつのことでしょうか?

 

 それはこの箇所の直前の箇所が女性たちがイエスの墓を訪ねた箇所であることから、その日と同一だと思われます、つまり、13節の「ちょうどこの日」はイエスが復活したその日のことを指しています。そのような大切な日に、しかしこの2人の弟子たちはエルサレムから離れてエマオという場所へと向かっていたことをルカは語るのです。なぜ彼らはエマオに向かっていたのでしょうか?

 

 聖書にはエマオという具体的な地名が記されていますが、このエマオがどこにあるのか、あるいはあったのかは現在でもはっきりしたことはわかっていません。それゆえにこの「エマオ」というところがどのようなところであるのかも当然ながらわかっていないわけです。ですがここではそのことは大した問題ではないようにも思えます。なぜならばルカは「エマオ」という場所へ向かうことの意味よりも、「エルサレム」から離れていくことに大きな意味を持たせているからです。

 

 「エルサレム」という場所が持つ意味は多すぎてとてもここでその全てを確認することはできませんけれども、ことこの箇所に関連したことにおいてははっきりしています。それは「イエスが十字架につけられた場所」という「エルサレム」という場所が持つ意味の中でも最重要と言っていい意味です。つまりルカは「エルサレム」という「イエスが十字架につけられた場所」から離れていく弟子たちを描きたかったのだと思います。

 

 

失意の2

 弟子たちにとってイエスの十字架の出来事は絶望の出来事でした。イエスの死はまさに自分たちの希望が打ち砕かれた瞬間だったと思います。そのように思っていたからこそ、この2人の弟子たちはエルサレムという彼らにとって絶望を象徴する場所から離れたかったのではないでしょうか。彼らにとっては行き先が重要なのではなく、絶望や死を思い起こさせる場所から逃避したかったというのが、彼らがエルサレムからエマオに向かった理由なのだと思います。

 

そんな彼らはある出来事について話し合いながら歩いていたとあります。ある出来事とは当然イエスの十字架の出来事なわけですが、彼らにとって思い出したくもないはずのあの出来事を話し合っていたということは彼らの中でまだイエスの十字架の意味が見出せていなかったということだと思います。また彼らはこの時すでにイエスの遺体が墓からなくなっていたことも聞いていたようですから、そのことをも含めて話し合っていたのでしょう。

 

 そんな弟子たちにイエスご自身が近づかれ一緒に歩き始めたことを聖書は語ります。この描写は非常にあっさりとしていますが、その理由は当の2人がイエスだとは気づかなかったことに関係しているかもしれません。まるで道すがら偶然出会った旅人のようにイエスは彼らに声をかけられます。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と。

 

 そのように声をかけられた2人は「暗い顔をして立ち止まった」とあります。思わず足を止めてしまうほど彼らの心は深く沈んでいたということが伝わってきます。彼らのうちの1人であるクレオパという人物がことの次第を説明し始めました。それも自分たちのイエスへの想いや、墓からイエスの遺体がなくなっていたことまで説明しています。

 

彼らには話している相手がイエスだとはわかっていないわけですから、赤の他人に自分たちが体験したことも含めて話していることになります。彼らにしてみれば自分たちがイエスの弟子やあるいはイエスに近しいものだということを露見させたくなかったと思います。もし露見すればイエスと同様に自分たちも捕らえられてしまう恐れもあったわけですから。

 

 しかしその危険を押してもなお、彼らが誰とも知らぬ人に事情を話した理由は、やはり自分たちの中でイエスの十字架の意味やイエスの遺体がなくなっていたことの意味を受け止めきれていなかったからではないでしょうか。そしてその意味を問い続けていたからこそ彼らは互いに論じ合い、ことに次第を他者に説明することで自分たちの体験していることの意味を整理しようとしたのだと思います。

 

 

聖書を説明するイエス

 ですがイエスは彼らの話を聞いて言われます。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」イエスはご自分の受難の出来事をあらかじめ弟子たちに告げられていましたし、またなによりそれらのことは聖書にすでに示されていることをイエスは彼らに語られました。

 

 そしてさらにそれらのことを彼らに聖書全体を通して2人に説明されました。2人は確かにイエスについて、そしてイエスの受難についての意味を探し求めていました。しかし、それらのことは彼ら自身の力では見出すことはできませんでした。イエスご自身がご自分を開示されない限り、彼らにそのことの真の意味を受け取ることはできないのです。

 

 また彼らはイエスと共に食卓に着いた時、あの主の晩餐と同様のことを体験しています。そしてイエスから裂かれたパンを手渡された時初めて彼らの目が開け、イエスだとわかったとあります。イエスは御言葉を語られると共に、主の晩餐という記念の礼典を彼らに体験させることで彼らの心の目を開かせたのでしょう。

 

これらのことはまた私たちも同様ではないでしょうか。私たちは御言葉を求めて聖書を読みますが、しかしそのことだけでは私たちは御言葉を受け取ることはできません。神ご自身が聖書を通してご自分を開示し、私たちに語りかけてくださるからこそ、私たちは聖書の言葉を神の御言葉として受け止めることができるのです。また私たちは主の晩餐という礼典を通して、イエスの十字架という神の救いの出来事の意味を思い起こし続けることができます。

 

 そしてそのように御言葉を受け取り、主の晩餐という礼典を体験することで私たちの信仰の火は燃やされていきます。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」彼らが体験した出来事は教会の時を生きる私たちもまた体験している出来事です。私たちの信仰は決して失意に終わることなく、神の希望を示され続ける物語です。

 

 神は何度でも聖書を通してご自身を示してくださり、また主の晩餐を通して救いの希望を現してくださいますから。

4月9日イースター礼拝メッセージ  「御言葉の復活」

 

絶望の墓へ

 みなさん、イースターおめでとうございます。本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合っていきたいと願う聖書箇所はルカによる福音書23:56b-24:12です。この箇所はまさに復活の朝、女性たちがイエスの墓に向かうところから始まっています。今日の箇所の始まりはこうあります。「婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」

 

 この女性たちはイエスの旅に同行しており、イエスが宣教を始められた土地であるガリラヤからずっと従ってきた人たちでした。またイエスの12弟子たちがイエスが捕われ、十字架につけられるのを知って逃げてしまった後も、この女性たちはイエスの十字架の出来事を最後まで見届けました。それゆえにこの女性たちの悲しみや痛みは誰よりも大きかったかもしれません。

 

 今までずっと従ってきたイエスが目の前で十字架に架けられ、誰からも理解されることなく無惨に殺される様を見届けた彼女たちは、その光景を見ていることしかできない自分たちの無力さにただ打ちひしがれていたことでしょう。ガリラヤから旅立ち福音を語り、多くの人を癒されてきたイエス、その中には無論彼女たち自身も含まれていたことでしょう。

 

 彼女たちにとってイエスの語る言葉一つひとつが救いであり、希望そのものだったでしょう。そうであるからこそイエスの死は彼女たちにとって絶望そのものとなりました。彼女たちはイエスの遺体が墓に納められるのを見届け、安息日を過ごしたとありますが、彼女たちにとってその安息日はとても安息できるようなものではなかったことだと思います。

 

 自分自身がまさに絶望という墓に閉じ込められたかのような、そのような想いで一日を過ごしたのではないでしょうか。そんな彼女たちは翌朝早くにイエスの墓へと向かいました。彼女たちにとってイエスの遺体を見るということはもう一度絶望を味わうことと同じことでした。しかし、それでも彼女たちを突き動かしたのはただイエスにもう一度会いたいという想いだったのだと思います。

 

 今自分たちができる最良のことをするために、彼女たちは用意した香料を手にイエスの墓へと歩み始めます。ところが、墓に到着し中に入るとそこにあるはずのイエスの遺体が見当たりません。彼女たちにできることはイエスの遺体に香料を塗って丁重に葬ることだけでした。それゆえにその唯一のことすらできなくなってしまった彼女たちは途方に暮れてしまったのだと思います。

 

 

御言葉の復活

 そんな途方に暮れる彼女たちの目の前に2人の天使が現れたことを聖書は語ります。突然の天使の出現に恐れる彼女たちでしたが、しかし天使はそんな動揺する彼女たちに対して次のように語りました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 

 女性たちはイエスが葬られているはずのその場所を必死になって探していたことでしょう。墓とは死者が葬られる場所ですから当然とも言えます。しかし、そんな彼女たちにとっての当然を神は越えられることを天使は語るのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」この言葉からわかるのは、イエスは死者の中にはいない、ということです。そこではなくて別のところにいることを天使は彼女たちに告げています。

 

 つまり天使たちは彼女たちに「探すべき場所が違う」ということを伝えたかったのだと思います。そうであるからこそ、天使たちは死者の中にイエスを探す彼女たちに語りかけたわけですから。そうであればイエスはいったいどこにいるのか、どこを探すべきなのかという疑問が彼女たちに、そして私たちにも湧き起こってくることでしょう。死者の中にいないのならば、必然的に生きている者の中にイエスはいることになります。生きている者、つまり彼女たちの中にイエスは復活して生きていることを彼女たちは天使の言葉によって知らされたのでないでしょうか。

 

 8節にはこうあります。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」天使の言葉は彼女たちの中で忘れ去られていたイエスの言葉を思い出させるものでした。そのことは言い換えれば、彼女たちにとってかつて聞いてきたイエスの言葉が復活することであり、御言葉の復活はイエスの復活そのもののように感じられたのではないでしょうか。

 

 天使が彼女たちに語った通り、彼女たちがイエスを探すべきは墓という死者の中ではありませんでした。そうではなくて、今まさに生きている彼女たち自身の中にこそイエスはおられるということを彼女たちは受け取ったのではないかと思うのです。

 

 

復活の連鎖

 そうであるからこそ彼女たちは希望に溢れて走り出します。絶望の墓に向かう時の重い足取りとは違い、イエスの復活という希望で満たされた彼女たちの足取りは軽く、喜びに溢れていたことでしょう。彼女たちは自分たちが聞いたイエスの復活という福音をすぐに弟子たちに知らせました。ところが、弟子たちは女性たちの話をたわ言のように思った、と聖書は語っています。

 

 確かに「復活」という事柄はそれほど容易く信じられるものではないでしょう。そのことは私たちもまた同じではないでしょうか。そして聖書を読む多くの人たちがこん「復活」につまずくのも否定できない事実でしょう。私たちは「復活」という事柄を科学実験のように目で見ることはできないからです。私たちは人間は何かを信じるために、目で見ることに頼らざるを得ない弱い存在なのです。

 

 だからこの弟子たちの反応は至極自然な反応とも言えます。私が弟子たちと同じ立場だったならば、おそらく同じ反応をしていただろうなとも思います。しかし、一方で湧き上がってくる一つの疑問がります。それは女性たちもイエスの復活の姿を見てはいないにも関わらず。天使の語った言葉を信じ、受け入れていることです。弟子たちは女性たちから聞いたから信じなくて、女性たちは天使から聞いたから信じたのでしょうか?

 

 いいえ、そんな単純なことではないと思います。では弟子たちと女性たちで何が違っていたのでしょうか?それはたった一つのシンプルなことです。女性たちは「イエエスの言葉を思い出した」のです。女性たちは天使の言葉を信じたのではなくて、天使の言葉をきっかけとしてイエスの言葉を思い出し、そしてそれを信じたのです。イエスの言葉を思い出すことは私たちの心に御言葉が復活することであり、それは同時にイエスの復活そのものでもあるはずです。

 

 私たちは自分自身の目で復活のイエスを見てはいませんし、見ることもできません。復活のイエスの肉体に触れてもいませんし、触れることもできません。それは私たちも歩んでいる歴史の一点で起こった奇跡だからです。しかし、私たちはイエスの言葉を思い出したあの女性たちと同じ体験を今、この時、しています。自分自身の中で忘れかけていた御言葉がある時復活することを体験しています。

 

 

 そしてそれは私たちがイエスの復活を今も体験していることを意味しています。御言葉の復活はイエスの復活そのものだからです。そしてそのことは私たちが何度でも体験する奇跡でもあります。イースターは私たちの身近なところでいつも起こっています。私たちが御言葉を思い出す時、私たちは復活のイエスといつも出会っているのですから。イースターおめでとうございます。

4月2日主日礼拝メッセージ  「あなたは今日すでに」

 

「人々」がつける十字架

 本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合っていきたいと願う聖書箇所はルカによる福音書23:32-43です。イエスは律法学者や祭司長たちからの妬みを買い、彼らに陥れられる形で逮捕されてしまいました。裁判でもイエスの無実は認められることはなく、当時のローマの最高刑である十字架につけられることになりました。今日の箇所はついにその十字架にイエスがつけられる場面です。

 

 32-33にはこうあります。「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」十字架の出来事はキリスト教信仰においてその根底となる出来事であり、そこには私たちが受け取るべき様々な意味が込められています。しかし、この箇所でもそうであるように文字として書かれてあるのをみるとあまりにもあっさりしているような印象を受けたりするかもしれません。

 

 特に「人々はイエスを十字架につけた。」という一文はあまりにも簡潔に書かれていて、と十字架という重要な出来事であるにもかかわらずあっさりと記されています。ですがそのように思えるこの一文こそがまさに「十字架の本質」を示すのにこれ以上ないほどの役割を果たしているのかもしれません。そのことを考えていく上でまずこの一文の主語を確認したいと思います。

 

 私たちの読んでいる新共同訳ではこの一文の主語は「人々」となっています。実はこの箇所は言語のギリシャ語では「人々」とはなっていません。少し難しい話をしますとギリシャ語は主語を省略できる言語なので、省略されている場合は動詞の変化によって主語を見分けることになります。この文の場合は動詞が三人称複数の変化だったので主語が補われる形で「人々」と訳されたのだと思われます。ですが実際のところはローマの兵士たちがイエスを十字架にかけたとだと思います。イエスはローマの法によって裁かれることになったわけですから刑の執行はローマの兵士がするはずだからです。

 

 ですがにもかかわらずここでは兵士とは訳されていませんし、原文もまた兵士を主語とはしていません。十字架という重要な場面において、その十字架にイエスを直接かけた者を記さずにわざわざ不特定多数の「人々」としたのには違和感が残ります。しかし、そこにこそルカがこの一文に込めた意図が隠されているような気がします。

 

つまりルカがあえてここの主語を特定のものにしなかったのは、イエスの十字架とは特定の誰かがつけたものではなく、私たち人間一人ひとりがつけたのだということを示すためだったのではないかと思います。実際イエスはイエスを糾弾する一人ひとりの人間の意志によって有罪とされ、十字架にかけられていきました。

 

 そうであるならばその「人々」の中には当然今を生きる私たちも含まれています。なぜなら私たちも時に、イエスを、神を罵り、自分たちの罪の責任を押し付けてしまうような存在だからです。そしてそれはあまりにも簡単に、あっさりと、時には押し付けていることにも気づかないことが私たちにはあるのではないでしょうか。そのような意味がこの「人々はイエスを十字架につけた。」というあっさりとした短い一文に込められているのではないでしょうか。

 

 

不理解を集める十字架

 そのような私たち一人ひとりがつけた十字架にかかられたイエスの言葉が印象的に響いてきます。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」イエスはご自身が十字架にかかられてなお私たち人間のために赦しを祈られています。十字架は本来私たち人間自身の罪の結果であるが故に私たち人間こそが負うべきものであったにもかかわらずイエスは人間の罪そのものを自ら負ってくださいました。

 

 イエスが代わりに負ってくださった私たち人間の罪とは私たちの他者に対する不理解や無理解に他なりません。そのことを十字架上のイエスの言葉が示しています。「自分が何をしているのか知らないのです。」イエスを十字架につけていった人々はイエスのことを理解できませんでした。また理解しようともせずイエスを十字架という痛みと苦しみとそして死の只中へと追いやりました。神であり、人であるイエスを彼らは理解することができませんでした。

 

 そのことは私たちもまた同様です。私たちは1人の人間であるが故に神のことを、そして自分とは異なる他者のことを完全に理解することはできません。そのことで私たちは他者を傷つけ、イエスにしたように本来自分自身が負うべき十字架を他者に押し付けあっています。ですが私たちが1人の人間である限りその罪は私たちには拭い去ることができません。そのようなどうしようもない罪を抱えた存在が人間なのです。

 

 しかし、イエスはそのような自分ではどうしようもない罪を抱えた私たち人間のために祈ってくだしました。またその罪をも含めて理解してくださり受け入れてくださる方こそがイエス・キリストであり、また私たちの罪を十字架に集めご自身の死をもってその罪から解放してくださいました。

 

 

あなたは今日わたしと…

 しかし、そのような神の救いである十字架の意味を理解できず、また知らされたとしても度々忘れてしまうのが私たち人間の姿でもあります。イエスと共に十字架にかけられた1人は「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 とイエスを罵っています。私たちはこの人物と同じように自分自身が窮地に陥った際、この人物と同じような思いになっている自分がいたりするのではないでしょうか。

 

 「もしあなたが神ならば、私を救ってみろ」と吐き捨てている自分がどこでいるのではないでしょうか。しかしイエスと共に十字架にかけられたもう1人の人物の言葉が私たちのそのような思いが間違いであることを教えてくれているのだと思います。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 

 イエスはご自分を救うためではなく、私たち人間を救ってくださるために十字架にかかられているということ、その救いは私たちが自力で獲得したものではなくただ一方的な神の憐れみによるものであることを私たちは忘れてしまいがちです。そして私たちに与えられている「救い」というものについても私たちが誤解してしまいがちです。イエスを罵った罪人を嗜めた方の罪人はイエスにこう願いました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」

 

 彼はイエスに「十字架から降ろしてくれ」でも「救ってくれ」でもなく、「自分を思い出してください」と願っています。イエスはそれに対して「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。「楽園」は言い換えるならば「神の国」となるでしょう、つまり「自分を思い出してほしい」と願った人はすでにイエスと共に神の国にいると語られていることになります。

 

 「思い出す」ということは関係がつながり続けることでもあります。イエスが私たちを思い出し、また私たちもイエスを思い続ける時イエスと私たちとの間に確かな関係がつながっています。そしてその関係がつながっていることこそが聖書の語る「救い」なのだと思います。だからこそイエスは思い出してもらうことを願った人に「今日すでに一緒にいる」と言われたのだと思います。

 

 イエスの両隣につけられた罪人の姿は私たち自身の姿でもあります。私たちはイエスを、神を理解できす時に罵り、神に背いてしまう存在ですが、しかし、イエスはそのような私たちにも救い御手を差し伸べ続けてくださっています。私たちがその差し伸べられた手に応答していくとき、私たちは確かな神との関係の中に入れられていきます。その時私たちはイエスからこう言われるのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。