7月23日主日礼拝メッセージ  「恵みへの交渉」

 

みなさんは何かの交渉をしたことがあるでしょうか。おそらく誰しも一度くらいはその経験があるのではないでしょうか。例えば子供の頃親に欲しいものを買ってもらうように交渉したり、ビジネスの場面で取引先との交渉だったり、あるいはゲームの中で交渉したりと思っているよりも私たちの身の回りには交渉する機会があたりするものかもしれません。

 

 私たちが交渉するときというのはどのようなときでしょうか。それは私たちが何かを「求めている」ときだと思います。そして交渉には必ず相手が存在しています。つまり私たちが交渉するときというのは、交渉相手が私たちが求めるものを提供してくれる見込みがあるときに行われるものだと思います。そのことは言い換えれば、交渉相手に一定の信頼がなければ成立しないものだとも言えるでしょう。

 

 聖書の中にも交渉の場面というのは意外にも多く出てきます。アブラハムはロトを救うためソドムとゴモラを滅ぼそうとする神と交渉しましたし、モーセも偶像を拝むイスラエルの民を滅ぼすことを思いとどまるよう交渉しました。そしてルカによる福音書のイエスの譬えに不正な管理人の話が出てきますが、あの管理人がしたことも変則的ですが交渉と言えるでしょう。

 

 このように聖書の中には多くの交渉の場面が描かれています。しかし、私たちが「交渉」という言葉を聞くとき、あまりポジティブな印象を持たれない方もいらっしゃるのではないでしょうか。その理由はおそらく聖書が語る神の恵みや救いは私たちの行動に関係なく一方的に与えられるものという真理と交渉によって獲得するというイメージが相反するもののように思えてしまうからではないでしょうか。

 

 ですが、先ほどの通りアブラハムもモーセも譬え話の管理人も交渉の末に救いや恵みを与えられています。このことを私たちはどう受け止めるべきなのでしょうか。神の救いや恵みは一方的に与えられるという真理と矛盾するのではないでしょうか。今日は聖書が語る交渉とはどのような意味なのかを考えていきたいと思います。今日の聖書箇所でも交渉を行う人物が登場しています。

 

 それはラハブという女性です。今日の箇所はこれからカナン地方に入ろうとするイスラエルがエリコという町を攻める際に送り出された二人の斥候とラハブとのやり取りで展開して行きます。普通であればエリコに住むラハブにとってイスラエルは自分達を襲いにきた敵であるわけですが、どういうわけかラハブは敵であるはずのイスラエルの斥候を匿っています。

 

 ところでラハブの職業は遊女であったことが記されています。また当然ながらラハブは女性として描かれています。聖書時代の価値観において女性で、しかも遊女という職業の人物が名前まで記されて聖書の物語に登場しているのはそのこと自体に何らかの意図を込められて描かれているということを示しています。つまり、彼女は持たざる者、虐げられた者の象徴としてこの物語に登場しているということです。

 

 権力も経済力も腕力もない彼女に残されているものわずかなものでした。しかし、彼女は自分に与えられていたそのわずかなものを目一杯用いようとしています。彼女はなぜそこまでしたのでしょうか。そしてなぜ本来敵であるはずのイスラエルの斥候を匿ったのでしょうか。そのことの答えは全て彼女自身の告白の中にあります。9-11にはこうあります。

 

 「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。 あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」

 当然ながらラハブはイスラエル民族ではありません。にもかかわらず彼女はイスラエルの神を知り、そしてその主権を認める発言をしています。聖書にはたびたびこのような異邦人にも関わらずイスラエルの神の主権を認める人々が出てきます。ラハブもその内の一人ではありますが、彼女の場合は女性、遊女、そして異邦人と聖書時代の価値観的に虐げられ、蔑まれ、拒絶されてきた人々の象徴として描かれている分より一層印象的に映ります。

 

 そして彼女はここで二人の斥候に対して交渉を持ちかけています。12-13「わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。 父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」

 

 これは一見斥候に対しての交渉に思えますが、その内容的に考えてイスラエルの神に交渉を持ちかけているのと同義だと思います。なぜなら彼女が要求している「誠意」とは神がイスラエルの民に与えられた恵みと同じ言葉であり、また命を死から救うことができるのは神以外におられないことを彼女自身が知らされていたからです。ゆえに彼女はここで大胆にも神に対して恵みと救いを要求する交渉を持ちかけているのです。

 

 先ほども申し上げた通り、ラハブには権力も経済力も腕力もこの世で力と呼ばれているものは何一つありませんでした。しかし、彼女には誠実さがありました。その誠実さとは神を知らされて、その神と真剣に向き合い、そして神からの恵みと救いを求め続けるというあり方です。その誠実さをもって彼女は神に交渉を持ちかけました。

 

 ここで冒頭の問いに戻りたいと思います。覚えてらっしゃるでしょうか。このラハブのように神の恵みや救いを交渉によって獲得しようとすることは聖書が語る神の恵みや救いは私たちの行動に関係なく一方的に与えられるものという真理と相反するのではないか?という問いです。この問いに私たちはどのように答えるでしょうか。私はこの二つのことは矛盾することではないと思います。それどころか神はラハブのようなあり方を私たちに求めておられるのだとさえ思います。

 

 なぜなら神は私たち人間との関係を何より喜ばれる方であり、また私たちの求めや祈りを誠実に受け止めてくださる方だからです。ルカによる福音書の18章に次のようなイエスの譬えがあります。お読みします。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」

 

 この喩えは恵みや救いを真剣に求め続けることの重要性を説いています。そしてそのためには私たちの持てる全てを用いて、またくどいと思われるほどに、やっかいだと思わせるほどでも神はそれを受け止めてくださることが語られています。確かに恵みや救いは神が私たちに一方的に与えてくださるものです。しかし、求めるための交渉は否定されてはいません。

 

 

 なぜなら交渉とは、交渉相手が私たちが求めるものを提供してくれる見込みがあるときに行われるものであり、交渉相手への信頼がなければ成立しないものだからです。神との交渉とは神と真剣に向き合っているからこそできるものであり、神はむしろその場所へと私たちを招いておられます。私たちもラハブのように大胆に恵みを求める交渉という神との対話に挑んでいきたいと願います。

7月16日主日礼拝メッセージ  「静かにささやく声に」

 

みなさんはおそらく誰しも一度くらいは孤独感を感じたことがあったりするものだと思います。それは物理的に一人でいる時にはもちろんですが、周りに人はいるけれども孤独を感じるような精神的な孤独感というものもあると思います。私たち人間にとって最も辛いものの一つにはこの孤独があると思います。それは人は他者と関わり合うことを前提として神に創造されていることと無関係ではないでしょう。

 

 人が他者との関わりの中で最も求めるものはとはなんでしょうか。それは自分のことをわかってくれる理解者の存在なのではないでしょうか。そうであるからこそ物理的に人に囲まれていたとしても孤独を感じることがあるのだと思います。自分のそばに自分のことをわかってくれる理解者がいなければ人は孤独を感じるのです。今日の箇所に登場する人物もまたそんな孤独の中にいました。

 

 その人物は預言者エリヤという人です。彼は「バアル」という異教の神を崇める預言者と対決したことで有名な人ですが、今日の箇所はちょうどその対決が終わった直後の場面から始まっています。アハブは当時の北イスラエルの王ですが、彼はその妻であるイゼベルの影響もあり主なる神を捨てて、「バアル」を信仰してしまっていました。それに対してエリヤはバアルの預言者たちとの対決を申し出ます。

 

 そのような次第でアハブが集めたバアルの預言者たちとエリヤとの対決が行われることになったわけですが、結果としてはエリヤの勝利に終わりました。しかし、そのことが原因でエリヤはアハブの妻であるイゼベルに命を狙われることになってしまったわけです。そのことを知ったエリヤは恐れ、逃げだしてしまいます。堂々とアハブの前に出て、預言者との対決を申し出たエリヤとは一転しています。

 

 このことはエリヤの弱さを示しているのだと思います。いえ、エリヤ一人だけのものではなく私たち人間の弱さと言った方がよいでしょう。私たちは思い返さなければならないでしょう。アハブの前で堂々と対決を申し出た時のエリヤは別にエリヤ自身が強かったわけではないということを。彼は神に遣わされて、神から託された働きをなす者ではありましたが、彼自身は一人の弱さを抱えた人間なのですから。

 

 神から託された働きをなした結果、自分自身の命が狙われるとなったことでエリヤが恐れ、逃げ出したとしてもそれは一人の人間のごく自然な反応なのではないでしょうか。エリヤはすこしでも遠くへと逃げたかったのかもしれません。彼は一人荒れ野に入り、自分の体力が続く限り逃げて行きました。そしてついに体力が尽きたのか、一本のえにしだの木の下に座りこうつぶやきます。

 

「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」 と。このエリヤのこの言葉から彼の様々な心情が読み取れます。彼自身、預言者の働きに大きな責任を感じていたこと、その責任を果たしきれない自分自身への落胆と憤り、そして自分の思いを誰にも理解してもらえないという孤独感。そのような様々な思いがエリヤの心中で渦巻いていたのだと思います。

 

このようなエリヤの姿はどこか私たちの姿と重なってくることがあるかもしれません。私たちも弱さを抱えた一人の人間である以上、外側は気丈で強く振る舞っていたとしても内心、弱っているということもあるでしょう。そしてそのことを誰にもわかってもらえない時、私たちもまたエリヤのような孤独感を感じることがあったりするのではないでしょうか。

 

 エリヤがその下に座ったという「えにしだの木」も彼の孤独感を表しているのだと思います。新共同訳では「一本のえにしだの木」としか訳されていませんが、別の訳では「一本だけぽつんと立つえにしだの木」となっていて、エリヤの孤独を表したような訳出がなされています。荒れ野でただ一人のエリヤはまさに肉体的にも精神的にもぼろぼろの状態になっていました。

 

 そのような満身創痍のエリヤのもとに神は身使いを遣わせ食事を与えて養われています。そしてこう言葉をかけられています。「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」。エリヤは心身ともに疲れ果てていました。そのようなエリヤに神がまずなさったことが食事を与えられることでした。「食事」は私たちが生きていく上で必要不可欠なものです。つまり、食事を与えることはその人を命へと方向づけることと同じです。

 

 エリヤは神にこう叫んでいました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」と。しかし、神はそんなエリヤを命へと方向づけられ、続く旅路を進んでいくための力を与えられています。「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」。エリヤと同じく、私たちの人生という旅路には時に耐え難いと思えるときがあるものだと思います。

 

 そんな時私たちはエリヤと同じく、そこから逃げ出したくなってしまう時があるかもしれません。神は逃げ出したエリヤを咎めてはいません。ただエリヤに語りかけ、立ち上がるために必要な糧を備えてくださり、そしてエリヤの歩みを見守ってくださっています。エリヤはこの後、神の山ホレブへと向かっています。そこはかつてモーセが神と向き合った場所でした。

 

 9節に「エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。」とあります。エリヤは未だ孤独を抱えています。洞穴に閉じこもり、塞ぎ込んでいるエリヤの姿がそこにはあります。そんなエリヤに神は再び語りかけられます。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」 その神の問いかけにエリヤは自分の思いの内を吐き出すように語り出します。

 

 「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」 ここにはエリヤの様々な思いの丈が詰まっています。そしてこのことをこれまで誰にも打ち明けられずにいたのでしょう。

 

 エリヤの孤独はそこにありました。「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」そんな彼の思いを神は受け止められ、彼を洞穴の外へと導かれます。洞穴の外へと一歩を踏み出したエリヤが見たものは神が通り過ぎていかれる姿でした。そして風や地震や火が起こるのを立て続けに目にします。エリヤはそれらの中に必死に神を探しますが見つけることができません。エリヤにとって、いえ私たち人間にとって風や地震や火といったものは言わば自分から非常に遠いものだと思います。そして私たちはそのようなものの中に、すなわち自分とは関わりのないものとしての神を探してしまったりすることがあったりするのではないでしょうか。

 

 しかし、エリヤはそのような「自分とは関わりのない神」は見出すことができませんでした。聖書は告げます。「火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」 ささやく声が聞こえる距離とはどのくらいでしょうか。それは本当にそばにいなければ聞こえないと思います。エリヤは全く見当違いの場所に神を探していました。エリヤは気が付きます。神は風の中でも、地震の中でも、火の中でもなく、他ならない自分自身のそばにこそおられたことを。

 

 エリヤはこのとき自分は孤独ではないことを知らされました。どんな時も自分に寄り添い、養い、力を与え、そして自分を理解してくださる神がそばにいることを知らされました。そのことはまた私たち一人ひとりにも神が望んでくださっていることを私たちに語っています。私たちが孤独を感じ疲れ果てて、歩けなくなった時、私たちの耳元には、私たちのことを誰よりも理解してくださっている神の御言葉がきっと聞こえてくるでしょう。

7月9日主日礼拝メッセージ  「赦された先へと」

 

私たちは生きている中で「やってしまったな」と思い返す時があったりするものだと思います。それはいろいろな場面で起こることだと思いますが、共通しているのは自分の過ちに気付かされた時そのように思うものだと思います。クリスチャンにとってその最大のものは初めて神と出会った時にそのことに気付かされていくわけですけれども、クリスチャンでなくてもそのように自らの過ちに気付かされる瞬間というのはもちろんあることだと思います。

 

 そのように私たち人間は自らの過ちに気付かされた時に一つの転換点を迎えるのだと思います。自らの過ちを、言い換えれば罪を受け入れて新たな一歩を歩み出すか、それとも罪を受け入れられずに、あるいは見ないふりをしてそれまで通りに過ごすかです。しかし、往々にして私たち人間はその後者を選びがちなのも否定できないことなのではないでしょうか。少なくとも私自身はそうだと思います。

 

 人間は自らの過ちや罪と真正面から向き合うことができるほど強い存在ではないと思います。あるいは自分で自分を赦すことができないということもあるでしょう。そこには罪を受け入れ、理解し、そして赦してくれる他者の存在が必要不可欠なのだと思います。そのような他者に赦されて初めて私たちは自らの罪と向き合っていけるのではないでしょうか。

 

 今日の聖書箇所でもそのように他者に罪を受け入れられ、赦されたことで自らの罪と向き合っていった人物が登場しています。今日の聖書箇所では三人の人物が登場しています。「イエス」と「ファリサイ派のシモン」、そして「罪深い女」の三人です。物語はファリサイ派のシモンがイエスを食事に招くところから始まっていきます。ファリサイ派と言えばイエスと何度も論戦を交わしていた相手として有名です。

 

 しかし一口にファリサイ派といっても多くの人がいて中にはイエスを敵視していたわけではない人がいたとしても不思議ではないでしょう。ましてやシモンはイエスを食事に招いているわけですから、彼はファリサイ派の中でもむしろイエスに好意的な人物だったのだと思います。私たち人間は時に一人の人をその人が属している何かを通して見てしまうものではないでしょうか。

 

 例えば国や人種や宗教やその他様々な共同体のカテゴリーで一人の人を見てしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、イエスは自分をやっかむファリサイ派の人間であってもその招きに応じ近づかれておられます。イエスは私たち一人ひとりを何かのカテゴリーを通してではなく、一人の独立した個として出会ってくださる方だからです。

 

 さて、イエスが食卓につかれ、食事が始まったころでしょうか、今日の箇所の三人目の人物が登場してきています。しかし、その登場はあまりにも唐突かつ突飛でもありました。37-38「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」

 

 この女性が具体的にどのような罪を犯したのかは語られていません。聖書はただ「罪深い女」としか報告していません。しかし、当時の感覚から言えばそのような罪あるとされている人がファリサイ派の人々が集う食事の席にすんなりと入れるとは考えられません。この後のシモンの言葉からもそのことは明らかでしょう。ではなぜこの女性はすんなりとこの食事の場に入ることができたのでしょうか。

 

 それは聖書には記されていませんが、イエスがこの女性を招いたと考えるのが一番しっくりくる気がします。そのように考えるとこの女性がこの場に登場することも、シモンが女性の侵入を咎めていないことも説明がつきます。イエスは当時罪人とされていた人と食事をされたことは有名ですが、この場所においてはこの女性を招いてあられたのではないでしょうか。

 

 イエスを見かけて家の入り口で止められている女性を家の中へと招き入れられたのでしょうか。しかし、招き入れられた女性は食事の席につくわけではありませんでした。彼女は「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 」とあります。

 

 これを見てシモンは思います。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。彼のこの言葉からシモンはイエスのことをあるいは預言者なのではないか、と思っていたことが窺えます。だからこそ食事の席に招いて様々なことを聞きたかったのかもしれません。しかし、ここで彼の中の預言者のイメージとイエスの姿の間にズレが生じています。

 

 シモンはファリサイ派の中ではイエスに好意的でしたが、しかしそれでも彼の中の価値観にはファリサイ派の考え方が根底にあったようです。それは「罪を避ける、遠ざける」という考え方です。それだけ聞くと素晴らしい考え方に聞こえるかもしれませんが、彼らは自分の罪だけでなく、他者の罪をも避け、遠ざけていました。つまり、罪人とされていた人々と距離をとり、できるだけ接触するのを避けていたわけです。

 

 彼らにとってそのことが正しいことであり、自分たちにとっての「義」だったわけです。そして彼らの預言者のイメージとはそのように罪人を避け、遠ざける人だったのでしょう。ゆえにシモンは先ほどのように思ったのでしょう。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と。

 

 すると、そんなシモンの心中を見抜かれたイエスが喩え話を用いて彼に語っています。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。このイエスの喩えは非常にわかりやすいと思います。

 

 このイエスの問いかけにおそらくシモンと同じ答えを私たちもするでしょう。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」 と。イエスはこの喩えを通してシモンに、そして私たちに「罪を受け入れ、赦すという義」を示されています。シモンや、そして私たちが考えてしまいがちな「罪を避ける、遠ざける」ということとは真逆の義がそこにはあります。

 

 イエスはシモンに、そして私たちに語られます。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 シモンの家に招かれたイエスをもてなしたのは罪深いとされていた女性でした。それは女性のイエスへの愛から出たものであり、同時にその愛は罪赦された者としての神の愛に対する応答でした。

 

 この女性のように私たち人間は自らの罪を受け入れ、赦されていくことで、初めてそれまでとは違う新しい一歩を踏み出していくことができるのでしょう。イエスは最後にこの女性にこう言葉をかけられています。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。女性はこの後、どこへ向かったのでしょうか?「安心して行きなさい」このイエスの言葉に導かれて彼女は「罪赦された者たちの共同体」へと向かったのではないでしょうか。

 

 それはまた私たち教会が示されている姿です。私たち一人ひとりは罪赦されたものとして教会へと集められたものたちです。それは神に私たちの罪が受け入れられ、赦されていることを私たちに思い起こさせてくれます。私たちはその神の限りない愛に感謝しつつ、また応答を持って表していきたいと願います。神は私たちの罪を受け入れてくださる方であり、そしてその応答を何より喜んでくださる方ですから。

7月2日主日礼拝メッセージ  「神に押し出されて」

 

世の中には「常識」と呼ばれるものがあります。この常識という言葉を辞書で調べてみると次のようにありました。「ある社会のある時期において、一般の人々がとくに反省することなく当然のこととして共通に認めている意見や判断のことであり、その社会の歴史の中から自然に形成されるもの」。私たちは通常この常識に基づいて生活しているはずです。人は一人では生きていけないわけですから、一定の常識というものはこの社会で人と折り合いをつけて生活していく上でなくてはならないものだと思います。

 

 しかし、一方で「常識」というものは時にやっかいな枷になることがあります。しばしば私たちはこの「常識」を過大に評価し、時に絶対化してしまう「固定観念」とてしまう時があるのではないでしょうか。「常識」とは本来人が生きていくための最も基本的な取り決めであり、そこには本質的で大切な意味があったはずです。ですが私たちが常識を絶対化していく時にその意味よりもその外側の取り決めだけが継続されていくときがあったりするものではないでしょうか。

 

 今日の聖書箇所ではそんな常識を覆される経験をした人物が登場しています。その人物はイエスの一番弟子であったペトロです。彼はこのとき方々を巡り歩いて福音を伝える旅に出ていました。そして今日の箇所ではエルサレムに一度帰ってきています。先週のエチオピアの宦官の話もそうですがこの時代、福音はもはやイスラエルの枠を越え出て様々な人々へと広がりつつありました。

 

 そのような噂は当然エルサレムにも届いており、ユダヤ人たちは戸惑い、ざわついていたことでしょう。彼らはペトロを見つけるなり彼にこう言い放ちます。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」。割礼という儀式を受けることは当時のユダヤ人にとって「常識」のことでした。同時にその割礼を受けていない人々と食事を避けることも常識だったわけです。

 

 つまり端的に言えば彼らはペトロに「常識的にあなたの行動はありえない」と非難しているわけです。彼らにとっての常識は現代日本で生きる私たちにとっての常識ではありませんからあまりピンとは来ないかもしれません。さきほど確認したように「常識」とはその社会や歴史の中でそれぞれ形成されるものだからです。しかし、当時のユダヤ人にとっては先の事柄は紛れもなく「常識」の範疇でした。

 

 そのような「常識」から外れた行動をしたペトロへの非難は当時の価値観で言えば妥当なものであったかもしれません。ペトロもそれはわかっていたのでしょう。彼らに丁寧に説明を始めました。ペトロはまず自分が体験した幻のことを説明しています。それによれば彼は大きな布に入った獣や鳥などを屠って食べるようにと神から促されています。しかし彼はそれを三度も拒んだということがまず前半部分で語られています。

 

 このことは一体何を意味しているんでしょうか。実はこのことも当時の「常識」に関係することなのです。当時の常識では律法で禁じられているとされるものは食べられないことになっていました。これを「食物規定」と呼びます。ペトロが「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません。」と言っていることから彼の前に吊り下げられたものはこの食物規定に触れるものだったのでしょう。

 

 しかし、そんなペトロに諭すように神はこう語られています。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と。ですがこのときのペトロは頑なで「常識」に囚われてしまっていました。結局三度も拒んでいます。この時点で彼は気づいていませんが、この出来事はペトロの「常識」を覆す神の語りかけだったのでしょう。

 

 そのような出来事の後、ペトロはある人々の訪問を受けます。その人々はある人の使いでペトロを訪ねてきたと言います。訪ねてきた人々は異邦人でしたが、ペトロはまたも霊によって促しを受けます。「ためらわないで一緒に行きなさい」と。ペトロはなにか強烈に背中を強く押されている感覚を受けていたことでしょう。先ほどの幻に続き、今度は異邦人の人々についていくこと、それらはそれまでのペトロの「常識」からは考えられないことでした。

 

 ペトロはこれらの出来事を体験することで、何か今までにない新しい方向へと神が導こうとされていることを感じたのだと思います。霊の促しに従って異邦人である彼らに福音を語るため出発します。そしてペトロが彼らに語り出した時ペトロは自分もかつて体験した出来事が異邦人である彼らにも起こったことを語っています。それはイエスの昇天後、自分達だけで閉じこもってたその場所に聖霊が降り、自分たちを外の世界へと押し出していったあの出来事と同じものでした。

 

 ペトロは最後にこう語っています。「そのとき、わたしは、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは聖霊によって洗礼を受ける』と言っておられた主の言葉を思い出しました。こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」

 

 ペトロはかつてイエスから聞かされていたことの意味がわからずにいました。ですが意味がわからないながらもその言葉は彼の心に残り続け、その意味が示される時を待っていたのでしょう。そしてこの出来事をきっかけとして彼はイエスの言葉の真の意味を受け取ることができました。このようなことは私たちもまた経験するものではないでしょうか。

 

 私たちも聖書を読む時、その意味がわからないことがきっとあるでしょう。しかし、それらの言葉は意味がわからないながらも私たちの心残り続けて、ある時、ある出来事をきっかけにその意味を体感として受け取るといったことがあると思うのです。神はあらゆる出来事を用いて私たちに御言葉を語られる方だからです。

 

 ペトロはこの一連の出来事を通して神が自分たちユダヤ民族だけでなく、異邦人までをも救おうとされていることを知らされました。そのことはユダヤ民族の「常識」をはるかに超えることでした。神はそのことを様々な出来事を通して彼に示し、そしてペトロはそれらのことから神が今自分に期待されていることを受け取って、応答していきました。

 

 ペトロの最後の言葉はまた次のように言い換えることができるでしょう。「神が今までとは異なる新たな方向へと私たちを促されるのをどうして止められるのか?」今日の聖書箇所が私たちに語らんとすることはこのことに尽きると思います。神の示される道はいつも新しく、期待に溢れた道です。しかし、その道は私たち人間からすれば時に常識外れで突拍子もなく思えてしまうかもしれません。

 

 聖書に登場する多くの人々、彼らもまたこのような促しを受けてきました。アブラムも、モーセも、ダビデも、パウロも、そしてペトロもそうでした。皆それぞれ戸惑い、恐れながらも、神が示される新たな方向へと信頼をもって応答していきました。使徒言行録の物語は今もなお続いています。今を生きる私たちもまた聖書の登場人物が受け取った新たな道への一歩を示されているはずです。

 

 

 その示された方向を私たちは互いに確認しつつ、勇気とそして喜びをもって踏み出して行こうではありませんか!神はその新たな歩みを祝福してくださり、豊かな恵みをもその旅路に備えてくださる方ですから、祈ります。