9月25日主日礼拝メッセージ  「できるかぎりのことを」

 

出る杭は…

 みなさんは「出る杭は打たれる」という言葉をご存知だと思います。才覚をあらわす者は妬まれ、妨げられることの例えであったり、あるいは出過ぎたふるまいをすると憎まれることを表す諺ですけれども、私たちが生きるこの日本ではこの傾向が特に強いと言われています。日本では他の人と違ったことをしたり、目立ったことをするとそれが良いと思われることであったとしても批判されることが往々にしてあると思います。

 

 そのことを一度経験してしまうとおそらくその人はもう一度そのことをしようという気にはならなくなってしまうでしょう。根本のところでは良いことであっても、少しばかり他と違ったり、目立っていたからという理由だけで批判されたら、たとえその人の精一杯の行動として良いことをしたとしてももう二度としたくはないと思ってしまうことでしょう。

 

 みなさんももしかしたら「出る杭として打たれてしまった」経験があったりするのではないでしょうか?そんな時私たちは戸惑い、自信を失ってしまうでしょう。さらにはそのことが自分自身の決意に後押しされたものであったならばなおさらでしょう。聖書の時代でもどうやらそれと同じような状況はあったようです。

 

 先ほどお読みいただいた聖書箇所ではイエス一行がベタニアという村で食事をしているところから始まります。3節にはこうあります。「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 

 

 これを聞いて私たちはどう思うでしょうか?現代日本に生きる私たちからすればいきなり来た人に食事中に油を頭に注ぎかけられる状況を想像すると、とんでもなく特異な状況に思えると思いますが、そんな私たちの現代的な価値観を抜きにしても彼女のこの行為は特別目立ったものだったことと思います。その場にいた弟子たちも呆気にとられたかもしれません。

 

 しかし、そんな弟子たちの反応は次第に驚きから怒りへと変わっていったのでしょうか、4-5節にはこうあります。「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。』そして、彼女を厳しくとがめた。 」弟子たちは出る杭を打ちにかかりました。

 

 

無駄遣いか?精一杯の応答か?

 彼女の行為はさぞ目立ったものだったのでしょう。だからこそ弟子たちは彼女の行為をもっともらしい理屈をつけてまで厳しく咎めたのだと思います。彼女が持ってきたのは「純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺」だったとあります。そしてそれは弟子たちの「300デナリオン(これは当時の労働者の300日分の賃金)以上で売れる」という言葉から、彼女の行った行為が並大抵のものではないことがわかります。

 

 確かに弟子たちの言うことにも一理はあるかもしれません。この香油を売れば多くのお金が手に入り、そのお金を多くの貧しい人々に施すということもできたかもしれません。しかし、そもそもこの香油は彼女のものだったのです。彼女がどのような経緯でこれほど高価な香油を手に入れたのかはわかりませんが、彼女にしてみれば彼女自身のものである香油の使い道にまで弟子たちに指図される謂れはないでしょう。

 

 つまり、弟子たちは彼女の行為を批判したいがためにもっともらしい理屈をつけて批判したということなのでしょう。弟子たちからみれば彼女の行為は「無駄遣い」のように映ったのだと思います。しかし、この行為は決して無駄遣いなどではなく、むしろ彼女の決意、言い換えれば信仰に基づいた「良いこと」をしようとしたということが、イエスが語っておられる言葉から読み取れるのではないでしょうか?

 

 イエスはこう語られています。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。 この人はできるかぎりのことをした。」イエスはこの女性のしたことを「良いこと」とされた上で、この行為がこの女性にとっての「できるかぎりのこと」、つまり精一杯の応答であったと言われているのです。

 

 弟子たちとイエスとでは彼女の行為への評価が全く違っています。それは弟子たちが彼女の行為の外側だけを見ていたのに対して、イエスだけは彼女の行為の内側、すなわち彼女の行為の本質を見ておられたからではないかと思います。ではイエスが見られた彼女の行為の本質とは何でしょうか?それは彼女が自分の最も大切なものを砕いてまでイエスに応答したことなのだと思います。

 

 彼女は香油の入った壺を持ってきた時、「それを壊した」とあります。つまり彼女の行為はもう後戻りはしないという決意の表れであり、中途半端な想いでこのことをしたのではないということが伝わってくるものなのではないでしょうか。壺を壊さずに残しておけば、途中で止めることもできたでしょう。しかし、壺を割ってしまったらもう後戻りはできないのです。

 

 最後まで自分の持っている精一杯のものを注ぎ尽くすしかないのです。ここまでの決意を秘めたことが弟子たちが批判するようにただの「無駄遣い」であったはずがありません。イエスはこの女性の決意を見られていたのだと思います。自分の大切なものを捧げる精一杯の応答をイエスは「良いこと」と受け取ってくださったのだと思うんですね。

 

神は覚えておられる

 この女性のした応答は世間的に見たら非常に目立つものでした。なんといっても弟子たちが見ている前でイエスに油を注ぐということだったわけですから、私たちもまた神に対して日々応答をしているわけですが、その中にはこの女性のように目立ったこともあるかもしれませんが、その逆にほとんど目立たない、むしろ誰の目にも止められていないような応答というのもあったりすることでしょう。

 

 そんな時私たちは「出る杭は打たれる」とは違った意味で傷ついたり、自信を失ってしまったりすることがあるのではないでしょうか?自分の応答は神に受け入れられているのだろうかと不安になってしまう時があったりするのではないでしょうか?しかし、そんな時私たちはイエスの次の言葉に大きな励ましを受け取ることでしょう。「この人はできるかぎりのことをした。…はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 

 

 イエスはこの女性が目立ったことをしたから、それを覚えられたのではありません。そうではなくてこの女性が決意を持って精一杯の応答をしたから、それを「良いこと」とされ、そしてそれを覚えてくださったのです。だから私たちの応答がたとえ誰の目にも止まらないものだったとしても、それが私たちの精一杯の応答であるのならば、神は確かにそのことを覚え受け入れてくださるでしょう。

 

 神はいつでも私たちの心を見ておられ、その私たちの心からの応答を喜んでくださいますから。

9月18日主日礼拝メッセージ  「愛のほかにない」

 

「テーマ」の大切さ

 みなさんはなにかの創作物を鑑賞する時にそこに込められているテーマを意識しながら見ることはあるでしょうか?テーマというのは日本語で言えば主題であり、その作品の全体的統一感を形作っているものだと言えます。テーマというのは言い換えればその作品を通して作り手側が「一番伝えたいこと」ですから、ここがしっかり設定されていないと、その作品の受け取り手に一番伝えたい重要なことがうまく伝わらないわけです。

 

 あるいは受け取り手の方がその作品のテーマをある程度意識していないと作者がその作品全体を通して伝えたかったメーセージをうまく受け取れないと言ったこともあるでしょう。いずれにせよ、テーマとはそれほどまでに何かを伝えたり、受けとったりするために重要なものであるということがわかると思います。作り手から受け取り手の間でこのテーマがしっかりと伝達された時、その作品を通して作り手が最も伝えたかったことが見えてくるのだと思います。

 

 聖書の中でもこの「テーマ」のことが取り上げられている部分がります。先ほどお読みいただいた聖書の箇所ではある律法学者がイエスにこのように訪ねています。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」ここで言われている掟とはもちろん律法のことであるわけですが、律法を専門とする律法学者が律法のことについて質問しているのはおかしなことだと思うかもしれません。

 

 ここ以外の箇所でも律法学者が律法についてイエスに質問をしている場面はありますが、そのほとんどがイエスを陥れるための悪意ある質問であって、純粋な質問ではありませんでした。しかし、この箇所においてはイエスの答えを聞いた後の律法学者の反応やその後のイエスの言葉などから、少なくとも彼が悪意を持ってイエスに質問した訳ではないことがわかります。

 

 この質問に悪意がなかったとすれば、なぜこの律法学者は自身が律法の専門家であるにもかかわらずイエスに質問したのでしょうか?色々解釈があると思いますが、一番素直に考えるならば彼は本当に律法で一番重要なもの、言い換えれば律法の「テーマ」がわからなかったのではないでしょうか?というのも律法には膨大な数の決まり事があり、全て合わせると600以上にもなっていたからです。

 

 それらすべてを貫く「テーマ」を見つけ出すのはいかに律法を専門としている律法学者であっても簡単なことではなかったのだと思います。だからこそ彼は数々の質問に見事に答えるイエスに律法のテーマとは何であるのか?という非常に本質的な質問をぶつけたのだと思うんですね。イエスならばこの質問の答えをくれるかもしれないと彼は思っていたでしょう。

 

 

律法を貫くもの

 そんな質問に対してイエスは二段階に分けて答えられています。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 

 

 イエスは「この二つにまさる掟はほかにない 」とまで言われています。これは言い換えれば全ての律法はここに集約していると言っているのと同じだと思います。つまり、誤解を恐れず言えば神が律法を通して伝えたかった最も重要なこととはこの二つだけということです。そうであればこれ以外の律法はその全てがこの二つの掟を補助するための注釈のような役割のものということになります。

 

 この二つの掟に共通していることは何でしょうか?それは「愛しなさい」という呼びかけです。そしてその愛の方向は3方向へと向けられています。第一に神、第二に隣人、そして見落としがちですが自分を愛することをも促しているように思います。律法学者でもわからなかった律法のテーマとはこの「愛する」というたった一言にこそあったわけです。

 

 しかし、この「愛する」という律法のテーマは皮肉なことに受け取り手には全く理解されていない状況に陥ってしまっていました。イエスが生きられた時代ではファリサイ派やサドカイ派など多くの律法を専門家とする人々がいましたが、それらの人々はこの律法のテーマ、本質である「愛する」ということを人々に教えるよりも、一つひとつの律法の遵守に拘ってしまっていました。

 

 その結果、律法はその本質である「愛する」ということから遠く離れて人々の行動を制限するものになってしまっていました。イエスは度々律法学者たちと論戦をされていましたが、その原因とはこの律法のテーマの不一致にこそあったわけです。律法学者たちの誤った律法の受け取り方に対して、イエスは何度もそのことを指摘され律法の本質に立ち返るように促されていたわけです。

 

 

3方向の「愛する」

 ではイエスが示された「3方向への愛」とは具体的にどのようなものなのでしょうか?まずこの三つの方向性のうち神への愛が第一にきています。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 

 

 神を愛することへの促しが第一にきているのは、やはり私たちが神の愛によって生かされていることを思い起こさせるためでしょう。その神の愛によって生かされている私たちはその愛の応答として心、精神、思い、力という自分自身の全てを懸けて神を愛することを促されているのです。神は愛を強制されるのではなく、私たち人間の自発的な意志によって愛の応答をされることを願っておられるからです。

 

 そして第二の方向性は隣人へと向けられています。私たち人間は私ではない他者を愛するように神によって促されています。しかし、その愛することには一つの注釈が付加されています。『隣人を自分のように愛しなさい。』「隣人を愛しなさい」だけでも成立するこの掟には「自分のように」という言葉が付け加えられています。これ無しでも十分意味は通じると思いますがわざわざこの言葉が付加されているということはこの言葉が重要であったから付け加えられているということです。

 

 ゆえにここに愛の三つ目の方向性が示されているのだと思います。自分自身を愛すること、それが神が私たちに示す愛の三つ目の方向性です。私たちはこの「自分を愛すること」についてしばしば極端なイメージを抱きがちではないでしょうか?それは私たちの自己中心性による自分への甘さや自己のために他者を顧みないといったことです。

 

 確かに私たち人間はそのような自己中心性に囚われてしまうことは多かれ少なかれ誰しも当てはまることだと思います。ですがここで言われている「自己への愛」とはそういった自己中心的な愛のことを言っているわけではないのです。隣人への愛にについて「自分のように」という注釈が入っているように、この自分への愛にも注釈が入っているのだと思います。

 

 仮にそれを言葉にするならばこうなるのではないでしょうか?「自分を神があなたを愛するように愛しなさい」と。神は私たちを私たちが自己中心的な思いで愛するようには愛されてはいません。私たちが傲慢になれば戒め、しかし私たちが力を無くした時には励ましと助けを備えてくださる方です。私たちはそのような神の愛と同じように私たち自身を愛することへと招かれているのです。

 

 そのように考えると「神への愛」「隣人への愛」そして「自己への愛」たがいに関係しながら私たちを正しい愛の方向性へと導いているのだと言えます。イエスが「これらにまさる掟はほかにない。」 と言われた律法、ひいては聖書のテーマを日々思いこしつつ歩んでいきたいと願います。

9月11日主日礼拝メッセージ  「知らされる聖書」

 

的外れな質問

 みなさんは学生だった時、質問をよくする生徒だったでしょうか?それともあまりしない生徒だったでしょうか?学生でなくなってからも何か質問する機会というのはあったりするものだと思いますが、「何か質問ありますか?」と言われた時にとっさに質問を思いつくのはなかなか大変だったりするものだと思います

 

 というのも質問するためにはその前の話をしっかり聞いておく必要がありますし、さらにその内容をある程度理解しておく必要があるからです。そうでなければ、質問するための疑問も湧いてこないですし、質問できたとしても的外れなものになってしまう可能性が高いでしょう。誰でも一度くらいは授業中に的外れな質問をしたりして恥ずかしい思いをした経験があったりするのではないでしょうか?

 

 このように質問するということもそんなに簡単なことではないことがわかります。よく「気軽に質問してくださいね」と言われてもなかなか質問が出てこないことがあるのはこのためだと思います。聖書の中でも誰かが質問をする場面というのは多く出てきます。特にイエスへの質問の場面というのはかなり多く、いくつもの質問がイエスに投げかけられています。

 

 先ほどお読みいただいた聖書の箇所でもサドカイ派と呼ばれる人々がイエスに質問をしています。その質問をもう一度読んでみます。19-23節「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 

 

 この質問の意味は現代に生きる私たちにはよくわからないものだと思います。ですので少しこの質問について詳しくみていきたいと思います。まずこの質問をしたのはサドカイ派と呼ばれる人たちでした。彼らは聖書にもある通り、「復活」を信じていませんでした。さらには彼らは当時の聖書、今でいう旧約聖書のモーセ五書と呼ばれる部分だけを受け入れており、他の聖書の部分を認めていませんでした。

 

 そしてそんな彼らがしている質問は「レビラート婚」という当時の風習に関するものでした。この「レビラート婚」というのは彼らの質問にある通り、先に夫を亡くした女性が夫の兄弟と結婚するという当時の慣習です。結婚というものが、その家の後継者を残すことが最優先の価値観だった中で、子を残せずに亡くなった兄弟の代わりに子を作るというのがこの慣習が生まれた理由だと思います。現代の価値観では考えられないような慣習ですが、当時のユダヤ圏ではこのことが一般的な慣習として浸透していました。

 

 彼らはこのレビラート婚を引き合いに出し、七人兄弟全員と結婚した女性は復活した時に誰の妻になるのか?という質問をイエスに投げかけています。もちろん、先ほど言ったようにサドカイ派の人々は復活を否定していましたから、これは純粋な質問ではなく、イエスを試すための質問だったことは明白でしょう。彼らはファリサイ派の巧妙な質問でさえも見事に答えるイエスを見て、イエスでも答えられないような質問をぶつければこの機に復活を信じている人々より優位に立てると思ったのかもしれません。

 

 

「聖書を知る」とは?

 そんな下心が見え隠れする質問を受けたイエスは彼らにまずこう応えています。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。 」イエスは彼らの質問を思い違い、言い換えれば的外れなものであると指摘した上で、あなたたちは聖書も神の力も知らないのだと言います。しかし、まがいなりにも彼らはユダヤ教の名のある一派であり、聖書を知ることにかけてはそれなりの自負があり、また民衆からもそのように思われていたはずです。

 

 ではなぜイエスはそのようなサドカイ派に対して「聖書も神の力も知らない」と言われたのでしょうか?その最大の理由は彼らが聖書を字面通りに受け取ってしまっていることがあるのではないかと思います。彼らは「復活」というものを自分たちは信じていないにせよ死者がそのまま生き返るのだと考えていたのだと思います。そう考えていたからこそ先ほどのような質問をイエスにしたのでしょうから。

 

 しかし、イエスは「復活」というものが彼らが考えているような字面通りのものではないことを語られています。「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。」

 

 サドカイ派の人々は「復活」というものを自分たちの理解の範疇に収まるものとして考え、それゆえにそれを否定していました。しかし、イエスはそんな彼らに「復活」というものは「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言われています。イエスのこの解答も私たちにはいまいちピンとこないと思いますが、要するにここでイエスが言われたいことは「復活」をはじめとする神の力というものは、私たち人間の想像をはるかに超えるものなのだということなのだと思います。

 

 私たちもまた聖書から日々色々なことを受け取っていると思います。しかし、私たちも時にサドカイ派の人々のように聖書を字面通りに解釈して的外れなものとして聖書を受け取っている時があったりするのかもしれません。もしそうであるならば、このイエスの言葉は私たちに向けられているものでもあります。私たちはサドカイ派の人々と同じく聖書も知らず、神の力もしらない者だということになります。

 

 確かに私たちは聖書や神の力を完全に知り尽くすということはできないですし、それが出来ると思ってしまうことは傲慢でもあるでしょう。ですが同時に私たちはそのことを全く知らされていない訳でもないということもまた確かな事実だと思います。私たちは聖書から御言葉を受け取り、そのことで神の力を知らされていきます。それすらないのだとしたら、それこそ私たちは全く神のことを知ることができないからです。

 

 「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。」というイエスの言葉は神のことを知るために聖書に立ち返るよう促しているものなのだと思います。そして最後にイエスはこう言われています。「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」 

 

 アブラハム、イサク、ヤコブは旧約時代の族長たちで聖書の字面通りに読めば確かに死んだ人たちです。しかし、イエスは神とは生きているものたちの神であると言われています。字面通りに解釈するならばここには明らかな矛盾があります。ですがイエスがこのように言われているということはアブラハム、イサク、ヤコブは今もなお生き続けており、そして神はそんな彼らの神であり続けているということになります。

 

 このイエスの言葉には、私たちが聖書をそして神を知っていくための一つの指針があるように思えます。つまり、神は私たち人間の想像をはるかに超えた出来事を起こされる方であり、私たちがその人生の中でその神の出来事を体験していくことによって知らされていくということなのだと思います。アブラハムたちは神との関係の中を生きた人たちでした。その関係においてこそ彼らは今も生き続けています。

 

 私たちもまたそんな神との関係へと招かれ、そしてその関係の中を生きています。その中でこそ私たちは聖書を知らされ、そして神の力を知らされていくのでしょう。神は私たちにいつも語りかけてくださり、その中でご自分を示し続けて下さっていますから。

9月4日主日礼拝メッセージ  「アンチに語り続ける神」

 

アンチがいるということは?

 皆さんは「アンチ」という言葉ご存じでしょうか?この「アンチ」は昔から一般的に使われている用語なので、意味もなんとなく知っていると言う方も多いのではないでしょうか?しかし、最近ではインターネット上を中心に本来の意味からさらに一歩進んだ使い方が主流になってきています。この「アンチ」と言う言葉は英語の「Antipathy」に由来する言葉です。

 

 「反感」や「対抗」といった意味から、「アンチエイジング」や「アンチウイルス」のように言葉の前につけることで反感や対抗の意味を加えています。しかし、この何かの前につけて使っていた「アンチ」という言葉はインターネット上でいつしかそれ単体で使われ始めるようになりました。SNSを中心にネット上で使われる「アンチ」は、特定の個人や企業、団体や製品をターゲットにして攻撃することや、嫌悪している企業や団体に対して悪意あるコメントを書き込んで執拗に叩く行為を指すようになりました。

 

 ゆえにSNSなどインターネット上で「アンチ」と使われている言葉は「反論者」や「攻撃者」「執拗に叩く人」などのように、特定の人や団体、あるいは物に対して気に入らない気持ちを表しているという意味になります。この「アンチ」という存在はあらゆるものに対して発生しえるのですが、傾向としては特別有名な人や売れている製品、目立った団体などに対して発生することが多いようです。

 

 ユーチューバーなどの間では「アンチが発生したということは有名になった証」などと言われていたりするようです。当然といえば当然ですが多くの人の目に触れ、耳に入ることがなければ「アンチ」など発生しようがないでしょう。また、「アンチ」とは一種の反応ですから、アンチを呼び起こすだけの何かがその人や物になければ、「アンチ」という反応を呼び起こすことなくスルーされてしまうでしょう。

 

 なぜいきなり「アンチ」の話をし始めたのかと思われている方も多くいらっしゃると思いますが、その理由は私たち教会は、この「アンチ」と切っても切り離せない関係にあるからです。ご存知の通りキリスト教は歴史の中で度々厳しい迫害に遭ってきました。それは聖書の時代である初代教会の時代でも同様だったわけです。最もその頃はまだ「キリスト教」ではなく、ユダヤ教の一派、あえて言えばユダヤ教イエス派だったわけですが、そのことも相まって一部のユダヤ人たちはこの新興の一派の「アンチ」となっていったわけです。

 

 

アンチとフォロワー

 先ほどお読みいただいた聖書の箇所でもこの「アンチ」が生まれていったことが記されています。44-45節にはこうあります。「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。 」「ほとんど町中の人が」とあることからかなりの人々がパウロたちの話を聞きにきたであろうことがわかります。

 

 それはパウロたちの語る福音が多くの人々の反応を引き起こしたからこそだと思います。ですがそんな人々がいる一方で一部のユダヤ人たちはねたみを抱き、ののしってきたとあります。この人たちがこれから「アンチ」になっていくわけですが、先ほどのアンチが生まれてくる要素でいえば、パウロたちのユダヤ教イエス派が有名になってきたということでしょうか。もちろんパウロたちはさまざまな場所で多くの人々に語り続けたというのはありますけれども、やはりそれ以上にパウロたちの語る福音が人々の心の反応を引き起こさせるようなものだったことが大きいのではないかと思います。

 

 「アンチ」というと私たちはやはりマイナスのイメージを持ってしまうと思います。自分と異なる意見や主張を持った人々を避けてしまいたいと思ってしまうこともあると思います。しかし、何かの「アンチ」になるということは少なからずそのことに対して関心をもっているということでもあります。関心をもっているからこそ反感や対抗という反応を引き起こしている訳ですから。その人の心に何か訴えかけるものがあったからこそ「アンチ」にもなり得るのだと思うんですね。

 

 そのことを最もよく証明しているのがパウロ自身なのではないでしょうか?彼は元々はユダヤ教イエス派の「アンチ」でした。それもただの「アンチ」ではなくて、イエスを信じる人々を迫害し、殺してしまうような強烈な「アンチ」でした。しかし、彼は後にイエスに出会いその福音を受け取ったことで「アンチ」からイエスに従うもの、現代風に言い換えるならばイエスの「フォロワー」になっていったわけです。

 

 パウロは自分自身がこのような「アンチ」を経て「フォロワー」になったからこそたとえ自分の語る福音によって「アンチ」が生まれてしまったとしても、挫けることなく語り続けることができたのではないでしょうか?そしてそれはまた彼が福音の持つ人の心に訴えかける力を信じていたからでもあると思います。

 

 

アンチにも語り続ける神

 パウロは自分自身を異邦人伝道のために召されたものであると自覚していました。しかし、だからといってユダヤ人に語らなかったかというと決してそのようなことはなく、彼が訪れた行く先々で初めに語るのはまずはユダヤ人からだったと言われています。なぜパウロはわざわざ語れば十中八九反感を買うであろうことがわかっていたユダヤ人に語り続けたのでしょうか?

 

 それはやはり先ほどの彼自身の体験に基づくものが大きかったであろうことと、同時に神は「アンチ」にこそ語りかけられる方であるということを知らされたゆえではないでしょうか?パウロはローマの信徒への手紙でこう語っています。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。(ローマ11:14)」これだけ読むと不思議な言葉です。

 

 これだけではなぜ「ねたみ」を起こさせることが救いに繋がるのかわからないと思います。しかし、「ねたみ」を起こすこと、言い換えれば「アンチ」になることは関心を持つことでもあります。そしてこの関心を持つということはその事柄に対して向き合うことでもあると思います。つまり、神や福音にねたみを待つことは、神や福音に向き合い始める第一歩ということなのでしょう。

 

 そもそも私たち人間は深い部分では誰しも神に対して「アンチ」なわけです。神に背き、神との関係を歪めてしまったのが私たち人間であるからです。そう言う意味で私たちは誰しもが神の「アンチ」なわけです。ですがそんなご自分の「アンチ」であっても辛抱強く関わりを持ってくださり、そして根気強く語り続けてくださるのが、神なのです。

 

 そのことを知らされる時、私たち教会は大きな励ましを受け取るのではないでしょうか?現代の日本では初代教会が受けたような暴力的な迫害は確かにないかもしれません。しかし、代わりに教会は人々の関心の外側に立ってしまっているように思えます。「アンチ」になる以前の関心を向けられてもいない状態になってしまっているのです。

 

 確かにこの社会の中で福音を語っていくことは難しいことであるかもしれません。無視されたり、反対されたり、攻撃されるのは誰しも嫌なことだと思います。しかし、私たちもまた最初はそうであったこと、そしてそんな「アンチ」である私たちにこそ神は語り続けてくださったことを思い起こす時、私たちは自らが変えられた福音を確信し、自らもまた語り続けていくための力と勇気を受け取ることでしょう。

 

 私たちが福音を語る時、神は私たちに伴ってくださり、豊かな励ましと導きを備えてくださいますから。