2月19日主日礼拝メッセージ  「期待への招き」

 

本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合って行きたいと願う聖書箇所はルカによる福音書9:10-17です。この箇所は五千人への給食の箇所で四つの福音書すべてに同じ内容の記事があることでもよく知られた箇所です。このような同じ内容の並行記事がある箇所は同じ内容であってもその詳細は少しずつ違って書かれています。そのことで私たちが受ける印象も変わってくるものです。

 

 それぞれの福音書記者がその記事を通して私たちに伝えようとしたことがそれぞれ異なっているからです。だから私たちは並行箇所だからといって他の福音書での解釈と同じ解釈を当てはめることはできません。それぞれの記事に込められた思いを探しながら注意深く受け取っていく必要があります。そうして行った時初めて神がそれぞれの福音書記者を通して語ろうとされた御言葉が見えてくることでしょう。

 

 そのことを踏まえて今日の箇所を読んでいきたいと思います。まず10節にはこうあります。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」ここで「使徒」という言葉が登場しています。これは「遣わされた者」と言う意味があり、弟子という言葉よりもより何らかの使命を帯びている者というニュアンスが強い言葉です。

 

 この箇所の少し前の箇所を見るとイエスの12人の弟子たちが各地へ派遣されていたことがわかります。彼らはその働きを終えて、イエスの下に帰ってきたところから今日の箇所は始まっているということになります。働きを終えて帰ってきた彼らを休ませるためでしょうかイエスは彼らを連れてベトサイダという街へと退かれています。ですが、イエスの周りにはいつも群衆がついていたのでしょう、彼らはイエス一行を追いかけています。

 

 イエスは群衆を迎え入れ、これまで通り神の国を宣教し、また癒しが必要な者には癒しをお与えになっていました。弟子たちに取ってみれば派遣された先から帰ってきてようやく一息つけると思ったところでしたでしょうから、大変な思いをしたかもしれません。なんとかイエスと共に群衆の世話をこなし気がついた時には日も傾きかけていたのでしょうか。

 

 彼らはイエスにこう提案しています。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」 ここでの「人里離れた所」と言われているのは別の訳では「荒涼とした所」となっています。つまり彼らはすぐに食べ物や宿が手配できる街の近くにいたわけではなく、荒野のような食べ物どころか水すらも手に入れるのに困難な場所にいたということでしょう。

 

 だとすればこの弟子たちのイエスへの提案は至極真っ当な者であり、むしろ群衆を気遣っての提案のように受け取れるでしょう。人間には食べ物は必要不可欠ですし、ゆっくりと休める場所もまた必要不可欠なものです。そのようなものを現状、弟子達には用意できないことは弟子たち自身たち自身がよくわかっていましたし、提案を受けたイエスご自身もわかっておられたのではないかと思います。

 

 ですがイエスが彼らにかけられた言葉は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」という一言でした。これには弟子たちも戸惑ったことでしょう。イエスにこう答えています。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」 弟子たちがこのときもっていたのはパン5つと2匹の魚だったとあります。

 

 ところでこの5つのパンと2匹の魚を皆さんは少ないと感じるでしょうか。それとも多いと感じるでしょうか。それらを1人で食べようとするならば多いと感じるでしょうし、何千人に分けようと思えば途方もなく少なく感じることでしょう。事実、弟子たちも大勢の群衆を前にしてあまりにも少ないと思ったわけです。イエスの「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」という言葉に従おうとするならば、弟子たちのいう通りどこかに食料を買いに行かなければならないわけですから。

 

 このイエスと弟子たちとの一連のやり取りを見ていて何か違和感を感じないでしょうか?私はこのイエスと弟子たちとの会話は実は噛み合っていないのではないかと思うのです。ここでの弟子たちの視点は徹底して現実的です。彼らはこの場において群衆を解散させることがいち早く群衆を休ませ、食事を得られる方法であることを計算し、それをイエスに提案しており、またもしイエスの言う通りに自分達が食事を与えようとするならば買いに行かなければならないといっているところからもそのことは明らかでしょう。

 

 この弟子たちの視点は日常的に私たちがしている判断と共通する部分が多くあることでしょう。私たちは日々生きている中で様々な判断をし、現実的にそれが可能かどうか見極めて行動しているでしょう。もちろんそのような判断は大切なことです。もし向こう見ずに行動を続けていれば私たちの生活はままならなくなって行くことでしょう。ゆえにここでの弟子たちの判断は特別おかしなことではありませんし、むしろ真っ当なものです。

 

 それを示すかのようにイエスは彼らの提案を特別咎められてはいません。イエスは人間の生活をご自身で体験されていたわけですから、弟子たちの心中も深く理解されていたでしょう。ではなぜイエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われたのでしょうか。それは弟子たちに神が備えてくださる多くの恵みをもう一度思い起こさせるためにあえてこのように言われたのではないかと思います。

 

 今日の冒頭でお話しした通り、弟子たちはこの箇所の前イエスによって送り出され各地で宣教や癒しの業を行ってきた帰りでした。そしてその働きにおいて彼らはイエスによって「杖も袋もパンも金も持って行ってはならない」と言われて送り出されていました。つまり、彼らは先立つ物がない状態で送り出されたわけです。そんな状態で送り出された弟子たちはさぞ不安だったでしょう。

 

 しかし、彼らは不思議と守られ各地で必要なものを与えられながら自分たちに与えられた働きを無事に終えることができました。この時彼らは神が備えてくださる多くの恵みを噛み締めたことでしょう。また彼らはそれまでイエスが行われていた癒しの業も行ったとあります。つまり彼らはこの働きを通して様々な神の出来事を体験してきたと言うことです。自分達の想像を超えて多くの恵みを備えてくださっている神の助けを体験させられて帰ってきたわけです。

 

 ですがそんな弟子たちでしたが、今日の箇所では非常に現実的な計算しかできなくなってしまっています。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。」「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」彼らがここで語っていることはすべて彼らの想像の範囲内の出来事であり、現実的な計算に基づいた結論です。

 

 先ほども言いましたがそのような判断は決して悪いことではないと思います。私たちが生きて行く中でそのように今の状況を見極め慎重に慎重に判断して行くのは大切なことだと思います。ですが一方で、私たちがそのような判断に極端にかたよってしまっているのならば、そのとき私たちは神の備えてくださる恵みに期待することを忘れてしまっているとも言えるのではないでしょうか。

 

 言い換えればそれは「希望」を見失っている状態ともいえるのではないでしょうか。弟子たちは自分たちの手持ちの五つのパンと二匹の魚をみて希望を失っていました。しかし、彼らはそこで大事なことを忘れてしまっていました。それは彼らが取るに足らないと思っていたそれらのパンと魚すらも神の恵みによって与えられたものだということです。

 

 私たちもこの弟子たちと同じように神の恵みを体験しておきながら、時にその恵みの大きさを忘れてしまっているときがあるかもしれません、神へと期待を持てずに今の自分の手持ちにある範囲内で判断してしまう時があるかもしれません。しかし、神は私たちの想像をはるかに超えて出来事を起こされる方であり、また希望を示される方です。

 

 私たちはそのような神に信頼し、期待をかけて行こうではありませんか。その時私たちの目の前には弟子たちが見させられたように数えきれないほどの恵みが満ち溢れているはずですから。

2月12日主日礼拝メッセージ  「何度つまずいても」

 

迷うヨハネ

 本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合って行きたいと願う聖書箇所はルカによる福音書7:18-23です。ここではバプテスマのヨハネが再登場しています。彼はユダヤの権力者であったヘロデを糾弾したことにより、ヘロデによって捕らえられていました。ヨハネは捕らえられた後も自分の弟子たちを通じてイエスに関する情報を得ていたのでしょう。

 

 自分が救い主、メシアだと信じたイエスの言動を弟子たちによって伝え聞いていたことを聖書は語っています。そんなヨハネはここで弟子たちにイエスに対する伝言を頼んでいます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 このヨハネの言葉に皆さんはどのようなことを考えるでしょうか。ご存知の通り、ヨハネはイエスにバプテスマを授けた人物です。

 

 そしてヨハネ自身がイエスについて「わたしよりも優れた方」と語り、むしろ自分の方がイエスからバプテスマを受ける必要があると感じていたところがあることから、イエスのことを自分が待望していた来るべき方、救い主であると受け取っていたことは確かなことだと思います。ですが、その後のイエスの言動を弟子たちを通じて聞いているうちにヨハネ自身の中で迷いが生じてきたのではないかと思うのです。

 

 というのもヨハネの思い描く救い主の姿と実際のイエスの言動の間に差異があったと思われるからです。ヨハネはその苛烈な言葉で宣教はもちろん、ヘロデにしたように権力者への直接的な糾弾も厭わない人物でした。そして、そのようなことを来たるべきメシアにも期待していたのだと思います。裁きや力によって現状を変革していくメシア像、言うなれば革命家のようなメシア像をヨハネは持っていたのではないかと思うのです。

 

 ですが、彼がそのような期待を抱いたイエスはむしろその姿とは真逆の言動をしていました。病人を癒し、悪霊に憑かれた人を救い、漁師を弟子にし、敵を愛せよといったイエスの言動にヨハネは戸惑っていたのだと思います。ヨハネのメシア像はより強く民衆を力で先導するような政治的な英雄の姿だったのかもしれません。それゆえにそうした気配すら見せないイエスの姿に疑問を感じていたのではないかと思います。

 

 「今のイエスのしていることは本当に救い主のするべきことなのか?」と。ヨハネはこのことをイエス本人に尋ねずにはいられなかったのでしょう、自分の弟子を通してまで尋ねていることから彼の信じることへの真摯さが伺えるのではないでしょうか。イエスはそんなヨハネの質問に次のように答えています。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」

 

 イエスがヨハネに向けて語られたのはイエスがこれまでされてきたことそのままのことでした。多くは癒しのことですが、このことはまとめて言い換えるならば回復の出来事です。つまり、イエスは自分のしていることは神がもたらされる回復の出来事であり、またそのことを福音として告げているのだ、ということをヨハネに語ろうとしているわけです。それはこれこそが救い主がなすべき働きであることを示すヨハネへの返答に相応しいものでした。

 

 このことを聞いたヨハネの反応は聖書は語ってはいませんが、おそらくそれまでの彼自身が持っていたメシア像が大きく揺り動かされたことは間違い無いでしょう。イエス自身の口から語られたヨハネへの返答は彼の疑問に直接回答するものではありませんでした。しかし、その言葉は既存の価値観を揺るがすものであり、そのことでますます彼の中の迷いは大きくなっていったかもしれません。

 

 

つまずくことを否定しないイエス

 そのことを見越しているかのようにイエスはヨハネへの返答の最後に「 わたしにつまずかない人は幸いである。」という一言を付け加えています。このイエスの言葉を皆さんはどのように受け取っているでしょうか。「つまずく」という言葉は聖書独特の表現で「真理を得る道において妨げられる」という意味を持っています。そして聖書はイエスこそが真理であることを証してもいます。つまりイエスのこの言葉を言い換えるならば「真理であるイエスを識る道において妨げられない人は幸いである」となるでしょう。

 

 この言葉を字面通りに解釈するならば、真理を知るにあたってつまずかない方が良い、ということになるでしょうか。そしてその解釈であればヨハネのように疑問を抱かずただ盲目に信じることが推奨されているかのように感じるかもしれません。ですが、果たしてイエスは本当にそのような意味でこの言葉をヨハネに語ったのでしょうか。私は決してそうではないと思います。

 

 なぜなら、真理とは私たち人間が決して完全に識ることのできないものであり、それゆえにそれを求めてつまずかない人間などいないからです。聖書中でも多くの人々が真理を識ろうと、神を識ろうと、イエスを識ろうと求めていますが、誰一人として迷いなくそれを獲得した人はいません。皆迷いながら、悩みながら、そしてつまずきながらも祈り、求め続けてきたものそれが真理です。そのことは聖書中の人物一人ひとりの歩みから考えても明らかです。

 

新しい約束の中を歩くものとして応答し続ける

 だからこそイエスがつまずかない方が良いという意味で「 わたしにつまずかない人は幸いである。」と語ったとは考えられません。ではイエスがこの言葉に込めた本当の意味は何なのでしょうか。それこそがヨハネへの真の返答でもあり、同時に私たちへのメッセージもあると思います。イエスがこの言葉に込めた真の意味は「人間は何度もつまずくものだが、真理を求め続ける限り幸いである」ということなのだと思います。

 

 イエスは別の箇所でこのように言われています。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」このイエスの言葉は非常に有名な箇所ですが、実はこれら「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」には、それぞれ「求め続けなさい」「探し続けなさい」「門を叩き続けなさい」という継続の意味が込められています。

 

 つまりイエスは真理を探し求めるということはただ一度きりのことで終わるものではなく、何度でも探し求め続けることであることをこそ語ろうとされたのでしょう。何度も探し求めるということは当然その過程においてつまずくことも何度もあることでしょう。しかし、そのことをもイエスはご存知であり、なおかつそのことが受け入れられているとするならば、私たちはこのことになにより励まされるのでは無いでしょうか。

 

 今日の箇所でのヨハネの姿はまた私たちの姿でもあるでしょう。私たちも迷い、悩みながらも日々を生き、そしてその中で聖書から真理を求め続けています。その中で私たちは何度もつまずき、何度も転び、何度も倒れるかもしれませんが、しかしその度に何度も倒れる私たちに差し伸べられた手に気付かされることがきっとあるでしょう。私たちが差し伸べられたその手を握り返す時、神は私たちを再び立ち上がらせてくださり、私たちの旅路を導き続けてくださいますから。

2月5日主日礼拝メッセージ  「恐れを超えた先に」

 

本日みなさんとご一緒に御言葉を分かち合って行きたいと願う聖書箇所はルカによる福音書8:26-39です。この場面でイエス一行はガリラヤ湖を超えてゲラサ人の地方に来たことが語られています。このゲラサの地方はガリラヤ湖の反対側に位置した異邦人の土地でした。また経済的には栄えていたとも言われています。イエスはそのような他のユダヤ人たちが近づこうともしないような場所へと弟子たちを伴って赴かれました。

 

 ゲラサ地方に足を踏み入れたイエス一行は一人の男に出会います。聖書はこの男のことを次のように伝えています。「イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。…この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。  

 

 悪霊につかれた人がどのような状態だったのかはよくわかりませんが、少なくとも何かしらの理由で社会から弾き出されていた人というのは間違いないことだと思います。この男の場合は「この町の者」とあるので、元々はゲラサ人の町で他の人々と一緒に暮らしていたことが想像できます。しかし、何らかの理由で彼は町から追い出され、拘束され、監視されるまでになってしまっていました。

 

 人は自分の仲間であっても何らかの理由があれば簡単に弾き出してしまう存在です。自分達と異なるという理由だけで区別し、拘束し、監視するというのは現代でも同様でしょう。そしてこの男は「荒れ野へと駆り立てられていた」とあります。「荒れ野」とはイスラエルが荒れ野で40年彷徨ったように聖書の中では「苦難」を意味する言葉です。

 

 社会から弾き出され一人孤独に暮らす彼の生活は苦しみしかなかったであろうことが容易に想像できます。助けてくれる者もなく理解してくれる人もいなかったことでしょう。この男にはたくさんの悪霊がついていたことを聖書は語ります。聖書において「悪霊」がついている人は何人か登場しますが、「悪霊」というものの実態はよくわかりません。しかし、悪霊がついている人が登場した時に共通しているのは周りの人々がその人を避けているということです。

 

 人々はできるだけ悪霊がついた人と関わらないように、遠ざけているのです。しかし、それはもしかしたら悪霊がついたから関わらないようにしているのではなくて、その人と関わらないようにしたことによって悪霊がついたのではないかとも思うのです。つまり、聖書の語る「悪霊」とはつかれた人自身に原因があるのではなくて、むしろその人の周りの環境や人々の悪意によって生み出されていくものではないかということです。

 

 男はイエスに名前を尋ねられた際、「レギオン」と答えています。これは大群や軍団を意味する言葉ですが、そのことからこの男に向けられた人々の悪意は文字通り膨大であったことが想像できるでしょう。この男に向けられたたくさんの悪意がこの男を苦しめ続けていました。しかし、悪霊はイエスに豚の中に入る許しを願い、豚の中に入ると自ら進んで湖に沈んで行きました。

 

 このことは一体何を意味しているんでしょうか?ここで唐突に登場する豚の群れは豚飼いが登場していることからおそらくこのゲラサ地方の人々が飼っていた家畜だと思われます。家畜は彼らの資産であり言い換えれば彼らの経済を象徴するものであるわけです。そんな彼らの経済を象徴するものに悪霊が移っていったことから、彼らが男に向けた悪意と彼らの経済は関係しているということを聖書は示唆しているように思います。つまり自分達の家畜である豚が死んだことは彼らにとって経済的な打撃を意味するものだったわけです。

 

 豚飼いたちはこの出来事を目撃した後、そのことを他の人々にも知らせました。そしてそれを聞いた人々は悪霊がついていた男が正気に戻っているのを見て恐ろしくなったとあります。なぜ彼らは恐れたんでしょうか?本来ならば悪霊につかれていた男が正気にもどったのですから、喜ぶべきことのようにも思います。しかし、彼らの反応は喜びよりも恐れだったのです。彼らは何をそれほど恐れたのでしょうか?その答えは彼らが悪霊につかれた男への扱いから見えてくるのでは無いかと思います。

 

 彼らは男を拘束し、そして監視していました。彼らは男を恐れていたでしょうが、しかしその恐れは彼らにとってコントロール可能なものであったわけです。ですが今や彼らがコントロールできる恐れ以上の恐れを彼らは感じているのです。すなわち、彼らの、人の力ではコントロールできないもの、神の力に対する恐れを彼らは感じているのです。

 

 彼らの視点では神の力によって自分達の経済が打撃を受けたわけですから、そのことを恐れるのもわからなくはないことかもしれません。ですが、そのことよりもまず神の力によって一人の人が救われたことに目線が向かないところにこそ私たちは恐れを抱くべきでしょう。なぜならこのことは現代においても同じように続いているからです。

 

 経済最優先の社会のあり方によって苦しめられている人々は聖書の時代も、そして今も産み出され続けています。虐げる人々の悪意は悪霊となって今も虐げられる側の人々を苦しめ続けています。そして虐げる側の人々は今の体制が変化することを拒絶しようとします。そしてその変化させようとする原因を自分達から遠ざけようとするものです。聖書はそれらのことを次のように語っています。

 

 「彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。」

 

 彼らは自分達に変化をもたらす原因であるイエスを拒絶し、自分達から遠ざけようとしています。同じ自分たちの町住人であった男の回復よりも、彼らの関心事は別なところにあったわけです。すなわち、一人の人が救われたことよりも、自分達に不利益になるものを排除することにしか目が向いていなかったわけです。彼らにとってイエスがなされたことは迷惑としか感じられなかったのでしょう。

 

 一方で悪霊を追い出してもらった男はイエスが帰ろうとされるのを見て一緒に行くことを願っています。これらの対照的な反応はその両方がまた私たちの姿でもあるのではないでしょうか?つまり、自分のコントロールできる範囲を超えた場所への招きを拒んでしまう私たちの姿と、神によって救われた私たちが応答していく姿です。私たちはその両面の反応を持っているのではないでしょうか。

 

 ですが私たちが恐れを超えて一歩踏み出していく時、イエスが男に言われたように私たちにもまたこう言われるのでしょう。「神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」と。私たちはこの男と同様に神によって救われた者たちです。そのことを私たちは語り続けていく働きへと召されています。私たち教会は御言葉を語り続けるとともに、神の救いの証をしつづけていくことで、応答し続けて参りましょう。