4月25日礼拝メッセージ 「違いを活かす霊の一致」

 

・秩序ある聖霊の働き

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はコリントの信徒への手紙 一12:3-13です。この手紙の著者パウロが一人ひとりに与えられている賜物について語っている箇所です。パウロがこの手紙を書いたコリント教会では、様々な問題を抱えていました。その一つが一部の人たちの熱狂主義的傾向でした。パウロはここでそんな超常的な宗教現象に熱狂する人たちに対して忠告として語っています。

 

 まず3節ではこのように言われています。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。 」コリント教会の熱狂主義的な人たちは「霊」つまり「聖霊」の働きを強調しました。「聖霊」の働きは確かに重要なものとして扱われ、聖書にも多くの記述があります。イエスご自身も私たち人間に「真理を悟らせるもの」としての聖霊を弟子たちに語っておられたりしています。

 

 しかし、聖霊は目で見て確認することはできません。だからこそ私たちは聖霊の働きとそれ以外のものを混同してしまいがちです。コリント教会の一部の人たちはまさにそんな状態にありました。聖霊の働きを強調するあまりに、なんでもかんでも聖霊の働きとして受け止め、聖霊が自分たちの内に働いているという感覚に陶酔していました。つまり、彼らは聖霊の働きを通して神を示され、神を賛美していたのではなく、ただ自分たちの高揚した雰囲のために聖霊を利用していたとも言えると思います。

 

 そんな彼らに対してパウロは聖霊の働きは自分勝手に解釈することはできないことを語っていきます。まずパウロは「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わない」と語っています。聖霊の働きは人々の内にイエスを証しし、その心をイエスへと導くものであって遠ざけるものではないということを語っています。同時にこうも語ります。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」私たち人間は自分の力や知識で「イエスは主である」と「認識」したから告白するのではありません。神が私たち一人ひとりに出会ってくださり、聖霊が私たちの内にイエスを証してくれるからこそ、私たちは「イエスは主である」という告白に導かれることになります。

 

 パウロは自分たちの心の高揚のために、なんでもかんでも聖霊の働きとしていた人々、言い換えれば聖霊の名を利用していた人々に対して、聖霊の働きの方向性を示すことでその無秩序さを戒めています。そしてこのパウロの忠告は、現代に生きる私たちにもまた語りかけられていることです。私たちも時にコリント教会の一部の人々のように、なんでもかんでも聖霊の働き、あるいは神の導きとして無批判に受け止めてしまうとことがあるかもしれません。

 

 意識的にせよ無意識的にせよ、私たちは時にそのように聖霊の働き、神の導きというものをよく吟味せずに自分勝手に受け止めていることがあったりするのだと思います。しかし、パウロが語るように聖霊の働きや神の導きは無秩序なものではありません。そこには私たちを「イエスは主である」という告白へと導く確かな軸があります。私たちはそのことを受け止めつつ、聖霊の働きや神の導きというものを祈りつつ聖書に聞きながらよく吟味した上で受け取っていかなければならないでしょう。

 

 今も私たちに働いている聖霊の働きは私たちが目で見て確認することはできませんし、ある出来事がそうであると断定することは私たちにはできません。しかし、一方でそれは聖霊の働きではないと否定し切ることもできません。だからこそ、コリントの一部の人々のようにあれもこれも聖霊の働きであると言い出し始める可能性は、私たちにも大いにあり得ることなのだと思います。

 

 しかし、私たちにはそのことを聞いていく指針としての聖書が与えられています。聖書に深く聞いていくことで、私たちはパウロの語る聖霊の働きの方向性を示され、自分勝手な解釈を戒められることで、本当の聖霊の働きとそうでないものを見分けていくことができるのだと思います。神は無秩序ではなく秩序をもって私たちに働きかけてくださる方なのです。

 

 

・聖霊によって分け与えられる賜物

 パウロは秩序ある聖霊の働きについて語った上で、次に神がそれぞれに与えている賜物について語ります。賜物とはその人に与えられた個性のことです。コリント教会ではこの賜物についても問題が起こっていました。その問題とは、ある賜物を持ち上げ、それを持たないと思われる人を蔑む風潮が教会内であったことでした。

 

 先ほど、コリント教会では聖霊を強調する人々がいたというお話をしましたが、コリント教会では「異言」という種類の賜物が、数ある賜物の中でも特に強調され持ち上げられていました。「異言」とは霊的な高揚状態にある人が本人ですら理解できていない言葉で話し出す現象のことで、聖書中にもときおり言及されています。コリント教会ではこの「異言」を語る賜物が1番の賜物であるとされており、他の賜物と区別されていました。

 

 つまり、彼らは賜物の種類によって優劣をつけていたということです。そしてそんな賜物の優劣は、それを持っている人と持っていない人の間の格差を生み出し、信徒間での階級のようなものを生み出していってしまったのだと思います。パウロはそんな状態のコリント教会に対して、すべての賜物は同じ一つの神から与えられることを語ります。同様にそれぞれに与えられた働きや務めについても賜物同様に様々な種類のそれらが様々な人たちに託されているけれども、それらの源は全て同じ一つの神であることを語っています。

 

 パウロがこのようなことを語らなければならなかった背景はコリント教会の状況の深刻さを表しているとも言えます。彼らはキリストにおいて一致に向かわせる聖霊の働きを見ていくのではなく、むしろ聖霊の働きをお互いを差別することのために利用してしまっていました。しかし、それは何もコリント教会に限ったことではないのだと思います。私たち人間はついそれぞれの違いに目を向け、そして、その違いをマイナス面として捉えてしまう存在です。

 

 そのことで、自分と他者を比べ、時に他者を貶めることで自分に優位な地位を築き上げようとします。この世界のあらゆる差別はこのような私たち人間が持つ本質的な性質から生まれてくる問題だと言えます。だからこそ、ここでパウロを通して語られている御言葉は私たち一人ひとりに対して語られています。

 

パウロは一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためであると語ります。パウロは神が一人ひとりに異なる賜物、務め、働きを与えられたのは、全体の益のために神が定める秩序に従って分け与えられたものであると語っています。それは神がなそうとされている働きの一部として、私たちにもそれぞれ託された賜物、務め、働きがあるということです。

 

 そうであるからこそ、その一つひとつの異なる賜物に対して私たちが優劣をつけることなどできないでしょう。私たちに与えられているすべての賜物は、同じ一つの神から与えられ、それぞれが必要なものであるからこそそれぞれ異なる賜物や務めや働きが託されているのだと思います。逆に言えば、私たちに与えられているものが全て同じであったのなら、神の多様な働きに支障が出てくるということでないでしょうか?

 

 そうであれば、ある特定の賜物が与えられた人が特別であるということはできないでしょう。私たちは一人ひとり異なる賜物、務め、働きがありますが、神はその一つひとつを秩序を持って組み合わせられてご自分の働きをなされるのだと思います。私たちに与えられた賜物はそれが与えられた人のものではなく、全体のもの、つまり神のものです。神はそれぞれの違いを尊ばれ、そしてその違いを活かして教会を建てあげてくださるのだと思います。私たちは互いの違いをマイナスに捉えるのではなく、むしろ互いの弱い部分を補い合うために神が置かれたものとして、互いに助け合っていきたいと願います。

 

 

・一つとなるためのバプテスマ

 パウロはこのようにお互いの違いを尊重しつつも、しかしそれぞれが無秩序にバラバラなものなのではなく、一つの体につなげられているものであることを語ります。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」

 

 私たちはそれぞれが異なる個性をもった人間です。お互い異なる部分を持つが故にそのことで他者を差別し、分裂してしまう互いの違いを理解しきれない弱く不完全な存在です。しかし、神はそんなバラバラな私たち、分裂してしまう私たち、他者と理解し合えない私たちをイエス・キリストによって一つとしてくださいます。それは強いものが弱いものを飲み込むことでも、数の多い方に少ないものが吸収されるという私たちの世界で繰り返されている服従の論理ではありません。

 

 それは、それぞれの違いが神の秩序によって尊重され活かされつつ、キリストの体として一つとされる霊による一致です。私たちが今生きる世界では多くの差別や争い、互いの違いを尊重できないが故の悲劇が繰り返されています。ですが、私たちにはそんな私たち人間が持つ互いの不理解を乗り越える神の国の希望が示されています。そして私たち教会はその霊による一致へ向けて、そこに集められた一人ひとりに賜物や務めや働きが託されています。私たち教会はそのことを受け止めつつ、神の国の希望を見据えつつ、その働きへの招きに応答していきたいと思います。神は私たちの違いを活かし合う一致へと向かわせてくださいますから。

4月18日礼拝メッセージ 「たったひとつのしるし」

 

・律法学者とファリサイ派の人々のしるしの要求

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はマタイによる福音書12:38-42です。律法学者とファリサイ人たちがイエスにしるしを要求するという場面です。まず38節にはこうあります。「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せてください』と言った。」はじめに「すると」とあるということは、この箇所は前の箇所を受けての箇所であることがわかります。つまり、ここで律法学者やファリサイ人がイエスにしるしを要求しているのは、前の箇所でイエスが語ったことへの挑戦でもあります。

 

 実はイエスと彼らの論争は12章の冒頭から始まっています。ファリサイ人たちはイエスに安息日について、また何によって悪霊を追い出しているのかについてなど、様々な論争を仕掛けていきました。それは、彼らが遵守しようとしている律法とイエスの語る教えがあまりにも食い違っていると彼らには思えたために起こったことでした。しかもイエスは各地で罪の赦しを宣言し、自分がメシアであるかのようにふるまっている…。彼らにはそれが我慢なりませんでした。

 

そこで彼らはイエスに「しるし」を要求することにしました。つまり律法学者やファリサイ人たちは、「私たちは聖書を根拠に教えているが、お前は何を根拠に自分たちと違う教えを語っているのか説明しろ!」と言っているわけですね。彼らにとってイエスがこれまで各地で行なってきたいやしの業はしるしにはなりませんでした。彼らにとってそれはメシアが行うとされていることではなかったからです。だから、彼らはイエスに「かつての預言者たちのように、メシアであるならメシアが行うであるとされているしるしを見せてみろ」ということでイエスを試そうとしたわけです。

 

 

しるしとは?

 しかし、そんな彼らの要求にイエスはこう答えます。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」イエスはまず「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と言われています。神に背くとは言い換えれば、神との関係の外で生きようとすることです。

 

 そして、しるしとは私たちが見て確認できるもの、不確かさに満足できない人間が求める保証のようなものです。つまり、しるしを求めるという行為は、まだ見ぬ神の約束に信頼できない人間が求める保証だと言えます。それは言い換えれば、神との信頼関係の中で生きているのではなく、自分自身の力の範囲内で、自分が確認できることだけを頼りにしていく生き方だと言えます。

 

 私たちも時にそのような生き方になってしまうときがあるかもしれません。私たちはつい、目に見えるものだけを頼りにして生きていこうとしがちな存在です。目に見えない神の約束に信頼するよりかは、目に見える、自分の認識の範疇の事柄を頼りに生きていこうとすることがあったりするのではないでしょうか。しかし、それは見方を変えれば希望のない生き方だと思います。自分の目に見える確かな保証が無ければ、その人は安心して生きることができないことを意味します。

 

 だからこそ、神に背く生き方というのは目に見える保証が無ければ安心することができない非常に窮屈な生き方と言えると思います。そもそも私たちの目に見えているものに確かな保証などあるのでしょうか?確かに一時はそう呼べるものもあるのかもしれません。しかし、流れゆく時間の中で永続的に私たちを保証し、希望となってくれる存在というのはないのではないでしょうか?

 

 対して神に信頼する生き方はどうでしょうか?神は確かに私たちが直接見て認識できる存在ではありません。現代の科学ではその存在を客観的に証明することはできません。そのように考えると、私たちには神のことは何もわからないではないか、と思えてくるかもしれません。そうであれば、神に信頼する生き方などできようはずもないと思えてくるかもしれません。しかし、神はたとえ私たち人間が直接目にすることができなくても、人間を神との信頼関係の中へ招く確かな言葉を届けてくださっています。それは神と一人ひとりの人間との間で起こる神との交わりの出来事の中で語りかけられている御言葉です。私たちはその御言葉によって神との関係へと招かれ、そして神に信頼する歩みへと踏み出していくことができます。

 

 それは確かに私たちの目には見えないことかもしれません。しかし、私たちはその関係の中で目に見えるものからは決して受け取ることができない希望と安らぎを受け取ることができます。それこそが神が私たちに約束してくださっている救いであり、神の国で神と共に生きるということなのだと思います。

 

 ですが、私たち人間は弱く不完全な存在です。先程、神は一人ひとりとの交わりの中で御言葉を語られると言いましたが、時に私たちはその神の御言葉を自分に都合よく、自分勝手に受け取ってしまうこともあるかもしれません。だからこそ、神は私たちに聖書という神の御言葉が内包された唯一の「しるし」を与えてくださいました。それは神の語られる御言葉の指針を私たちに示すためのものであり、私たちが自分に勝手に御言葉を解釈していかないためのガイドラインでもあります。私たちは聖書を通してこそ真に神が私たちに語られる御言葉を受け取っていくことができます。

 

 

・唯一の「しるし」聖書

 イエスが語られた「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。 」という言葉は、聖書の他は私たちにしるしはあたえられないということを示しているのだと思うんですね。ヨナというのは旧約聖書の預言者です。律法学者やファリサイ人たちは、聖書をよく読んでいましたから、もちろんそのことをよく知っていたわけです。

 

 つまり、しるしを要求する彼らに対して、イエスはすでにしるしはあなたたちに与えられていて、そのしるしに内包されている御言葉を聞き取っていきなさいと言われているのだと思うんですね。イエスは十字架で死なれ、三日目に復活されました。しかし、当時の人々にとって、そのことは未来の出来事でしたし、結局イエスの復活を信じることもしませんでした。彼らは目に見える自分自身を保証してくれるしるしにしか関心がなかったからです。ですが、聖書はヨナの記事を通して、確かに彼らにも御言葉を語っているのだ、ということをイエスはここで語っているのだと思うんですね。

 

 この聞くべきことはすでに与えられているのにそのことに耳を傾けない律法学者やファリサイ人たちの姿は、時に私たちの姿に重なってくるのかもしれません。律法学者やファリサイ人たちも聖書はもちろん読んでいました。読んでいたどころか、彼らの中には聖書に関する専門家であるとの自負のようなものもあったことでしょう。しかし、彼らは本当の意味で聖書を読んでいませんでした。御言葉を受け取っていませんでした。

 

 では真の意味で聖書を読む、御言葉を受け取るとはどういうことなのでしょうか?それは、聖書を神が自分自身語っていることとして受け止めることです。他者を裁くためでも、自分を立派に見せるためでもありません。当時の律法学者やファリサイ人たちは残念ながらそのような傾向がありました。イエスはそのことを批判しマタイ23章ではこのように言われています。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 そのすることは、すべて人に見せるためである。」

 

 彼らは聖書を自分自身に向けられている言葉としては受け取っていませんでした。他人に向けられた言葉としてそれを語りはしても、そこに自分自身が含まれているとは考えていませんでした。聖書という唯一のしるしが語りかける御言葉は、神と自分自身の関係において受け取っていくものです。だから、イエスはこう言われるんですね。「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」

 

 イエスがここで語られていることは、すべて聖書に書かれていることです。つまり、律法学者やファリサイ人たちもよく知っていたわけです。彼らはおそらく、自分たちをニネベの人々や南の国の女王と同じだとは思っていなかったでしょう。彼らはどちらかと言えば、ヨナやソロモンに自分自身を重ねていたのだと思います。つまり、御言葉を聞く側ではなく、語る側として考えていたのでしょう。しかし、御言葉を語られるのはただ神お一人だけです。私たち人間は誰もが御言葉を聞くものであるはずです。そのことをイエスは聖書の言葉を用いて彼らに語っています。

 

 私たちは誰もがソロモンの知恵を聞くために地の果てからくる南の国の女王のように、御言葉を尋ね求めるものとして、そしてヨナの説教を聞いて悔い改めたニネベの人々のように、御言葉によって心砕かれて新たに生きるものとしての道に招かれています。私たちは聖書という私たちにすでに与えられている唯一の「しるし」を通して御言葉に出会うことができます。

 

 その御言葉は私たちの目には見えないかもしれません、しかし、その御言葉を自分自身に語られたものとして受け止めていくとき、目に見えるものからは決して受け取ることができない希望と安らぎを受け取ることができるでしょう。神は御言葉を通して私たちに確かな約束を語り続けてくださっていますから。

4月11日礼拝メッセージ 「約束された創造」

 

・新しい創造—キリストの死と復活—

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はイザヤ書65:17-25です。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。」この御言葉はバビロン捕囚から帰還後、荒れ果てたイスラエルを目の当たりにして熱意を失っている人々に向けられた言葉です。希望もなく未来も見えない民たちに神はイザヤを通して語りかけます。

 

 新しい天と新しい地…それは今までのことが全て神によって今までとは全く違うものに再創造されるということです。このことは希望を失ったイスラエルの民たち同様に、私たちにもまた語られているメッセージです。私たちはイエス・キリストを通してこの神の再創造のメッセージを受け取っています。なぜなら、イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事こそが神の再創造の先取りの出来事だといえるからです。

 

 イエスの十字架以前、私たち人間はその罪により、神との関係を歪め、神との正しい関係の中で生きることはできなくなっていました。それは言い換えれば、希望なく未来も見えない、そんな状態といえます。神との関係の中で生きるように創造された私たち人間は、神との関係を離れては生きていくことはできません。そして私たち自身が抱える罪を取り除くことも私たちの力では不可能であり、その先にあるのはまさに神との関係の断絶という「存在の死」だけだったわけです。

 

 しかし、神はイエス・キリストの十字架の死を通して私たちの神への不理解性という罪を贖ってくださり、そしてイエスの復活によって、私たちと神との関係は回復させられて、また再び神との正しい関係の中で生きることができるようになりました。そのことはまさにそれまでの私たちが神によって再創造された出来事だと言えます。先週お話ししたバプテスマに象徴されるように、古い私たちがイエスと共に罪に死んで、そしてまた神によって復活させられるということは、私たちが新しく生まれ変わることを意味します。私たち人間は神によって再創造され新しく生きるものとされました。

 

 イエス・キリストの十字架と復活という神の再創造の出来事は、まさに私たち人間の常識を突破する神の御業であり、また同時に神が私たち一人ひとりを深く愛しておられるがゆえの神の痛みの決断でもありました。私たちはその神の痛みの決断によって、今も生かされ、そして一人ひとりが神との関係という「永遠の命」へと招かれているのです。

 

 私たちはイエスの復活の希望によって永遠の命の中で、神との新しい関係を楽しみながら生きることができるようになりました。「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして/その民を喜び楽しむものとして、創造する。」とは、そんな神との関係を喜び楽しむものとして私たちが再創造されることを示しているのでしょう。

 

そしてそれはまた、イエスが地上での歩みにおいて何度も語られた神の国の形でもあります。イエスがこの世界に誕生した出来事は、神の国が、神の支配がまさに私たちが生きるこの世界へ突入した出来事であり、そしてイエスの十字架の死と復活は、やがて完成する神の国の先取りとしての形をこの地上にもたらすものでした。つまり、私たちはやがて完成する神の国の幻を見据えつつ、この地上に先取りとして与えられた神の国で生きることが許されているということです。

 

神が「新しい天」だけでなく、「新しい地」をも創造すると語られているところに、私たちが今生きるこの地、この世界においても確かに神は働かれているのだということを受け取ることができるのではないでしょうか。「わたしはエルサレムを喜びとし/わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。」また私たちが招かれているエルサレム、神の国では私たちが抱えるあらゆる痛み、苦しみ、嘆きは響くことはないと語られています。

 

私たちはこの地上で神からの多くの恵みや導き、そして助けを与えられています。それは私たちがなにか大きな出来事を通して神と出会う決定的な場面だけというわけではなく、日々生きている何気ない日常でも感じられるのではないでしょうか?私たちが心を神へと向けて自分の歩みを振り返ってみたときに、与えられた恵みや導きや助けの一つひとつを数えていくならば、きっと数え切れないほどの恵みや導きや助けがあったことを実感するのではないでしょうか。私たちの命はまさに神によって備えられ、神によって日々養われていることを思い返したいと思います。

 

 

・泣く声、叫ぶ声は再び響くことはない

 しかし、そのことを思い起こしつつ、同時に私たちは次のこともまた目を背けるわけにはいかないでしょう。私たちが生きるこの世界には多くの泣く声や叫ぶ声もまた確かに響き続けているということを。神の国はすでにこの世界に突入していても、依然としてこの世界では多くの泣く声や叫ぶ声が響いています。多くの痛みや悲しみや苦しみがそこにはあります。それらを目の当たりにしたときに、私たちはとても神の国が始まっているとは思えなくなる時があるかもしれません。

 

 世界はいまだに戦争、飢餓、疫病、災害、差別…その他あらゆる痛みや苦しみを引き起こす事柄で満ちています。私たちはそのことから目を背けて、ただ神の示される完成された神の国へと逃避するべきなのでしょうか?「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。 そこには、もはや若死にする者も/年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ/百歳に達しない者は呪われた者とされる。彼らは家を建てて住み/ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく/彼らが植えたものを/他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり/わたしに選ばれた者らは/彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく/生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に/主に祝福された者の一族となる。」

 

やがて、全ての泣く声、叫ぶ声は響くことはなくなり、不幸にも若死する者の痛みを引き起こす災害や疫病も、その人の死を嘆く家族の声も、理不尽に虐げられ、尊厳と自由を奪われる差別も、強者の私欲のために貪り尽くされたゆえの飢餓も、そして、生まれたばかりの子ですら否応なく死の恐怖に晒されることになる戦争も…、完成された神の国では全てきれいになくなるのだからそれでいいじゃないか?さぁ、この地上での出来事などどうでもいい、私たちは脇目もふらず完成された神の国だけ見ていこうじゃないか?

そんなことを聖書は語っているのでしょうか?

 

 いいえ、聖書はそんな現実逃避を私たちに語ってはいません。むしろ、この地上で起きていることに向き合い、やがてくる完成された神の国の幻を見据えつつ、そこに向かうための今私たちができる精一杯の応答を神は求めておられるのだと思うんですね。そのことはイエス・キリストの生き方に示されていると思います。イエスの誕生は神の国の到来の始まりであり、そしてイエスご自身も神の国について多くのことを語り、教えられました。そしてイエスはこの地上での歩みにおいて弱者や病者に寄り添い、その泣く声、叫ぶ声を聞いていかれました。

 

・神の国の先取りとしての教会

 そのことを私たちはまた聖書から知らされ、そんなイエスの歩みに伴うようにと招き続けられています。そして教会はそんなイエスの歩みをこの地上に具体化させるために神によって建てられました。私たち一人ひとりはそんな教会の大切な一部分として神によって集められました。そして、神の国の先取りとしての形をこの地上に現し続けるよう召されているんですね。

 

 私たち教会は断片的にではありますが神の国を与えられています。それはイエス・キリストの十字架と復活によって、私たちが神との関係の中で生きているという事実に表わされています。私たち人間は弱く不完全な存在です。それはイエスと出会った人でも、これから出会う人でも、どんな人でもきっと同じだと思います。そんな私たちは、目の前に置かれた大きすぎる出来事、戦争、飢餓、疫病、災害、差別…それら多くの泣く声、叫ぶ声に耳を塞ぎ、目を背けたくなってしまうことがあるかもしれません。

 

 そしてそんな中で希望を見失い、進みゆく未来も見えなくなってくることがあるかもしれません。しかし、それでもなお聖書は私たちに力強く語ります。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。 」と。そこは神の完全なる支配が覆う世界、完成された神の国の形です。

 

 私たちは確かに今、神の国の中で生きています。しかし、それは完成された神の国ではありません。不完全で弱い私たち、互いに傷つけ傷つけられる他者への不理解性を抱える人間が、それでも完成された神の国の幻を見据えつつ精一杯の応答で形作られた神の国の形です。それはひどく歪で矛盾を抱えたものかもしれません。しかし、そんな私たちの精一杯の応答を神はなによりも喜んでくださるのだと思うんですね。

 

 私たちには目指すべき完成形が神によって約束されています。それは到底、私たち人間の力で完成させることはできないでしょう。しかし、その神の約束は、私たちに確かな力と導きを与え、そして私たちの歩みを完成された神の国の方向へと向けるものです。私たち自身がそれを成し遂げようとするとき、それは到底不可能な夢物語にしか思えないかもしれません。しかし、神はそんな私たちの不可能を飛び越えて御業を成し遂げられる方です。

 

 「狼と小羊は共に草をはみ/獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし/わたしの聖なる山のどこにおいても/害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。 」そんな全ての関係が平和にされた世界、神の国は確かに神によって約束されています。完成された神の国の到来の約束は確かに私たちに届けられています。

 

 私たちは神のその約束に信頼しつつ、この地上で私たちに託された働きに応答していきたいと思います。神は今このときも新しい創造を続けておられますから。

4月4日礼拝メッセージ 「新しい関係いのちの中で」

 

・罪に対して死んだ私たち

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はローマの信徒への手紙6:1-11です。この手紙の著者パウロは、ここでキリストの死および復活と、私たちとの関連性について語っています。パウロは今日の箇所の前の箇所で「罪が増したところに神の恵みが満ち溢れた」ということを語っていました。パウロは、そう語ったことによっておそらく出てくるであろう読者の疑問にあらかじめ答えるように語り出します。

 

 「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」ここで提起されている疑問は、罪が増すところに恵みが溢れるのであれば、罪の中に居続けることで恵みがさらに与えられるのではないか?という疑問です。パウロは自分の語ったことで読者に誤解を与えないように、この疑問に対して答えていきます。

 

 パウロはまず罪の中に留まることを明確に否定した上で、罪に対して死んだ者がなおも罪の中で生きることはできないことを語ります。そもそも「罪」とはなんでしょうか?「罪」とは私たちが神の思いを理解しようとしないこと、そして完全に理解することができないという私たち人間が持つ性質のことです。神は私たち人間を創造され、人間が神との愛の関係の中で生きることを望んでおられましたが、私たち人間はそれを理解せず、神の招きを拒絶し、神との関係の外で生きようとするようになってしまいました。

 

 そんな「罪」によって私たち人間と神との関係は崩れ、その関係は断絶するところまでいってしまったんですね。神との関係の断絶は、私たちの本質的な死、肉体の死以上の魂の死を意味します。神との関係から切り離されれば、私たちは生きていくことができません。私たち人間は、神とのそして他者との関係の中に生きるものとして神によって創造されたからです。だから、神との関係の断絶は私たち人間にとって絶望以外の何物でもありません。

 

しかし、その私たちの罪の結果としての神との関係の断絶を全て引き受けてくださった方がいました。それがイエス・キリストです。キリストが私たちの罪をすべて引き受けられ、その罪と共に十字架で死なれたことで、私たちは神との関係から切り離されることはなくなりました。それがパウロの言う「罪が増したところに満ち溢れた神の私たち人間に対する最大の恵み」でした。

 

 キリストの十字架の死は、それまで私たちが生きていた私たちの中の「罪が支配する世界」を滅ぼす神の裁きでもありました。ゆえに、私たちはもう私たちの中にあった滅ぼされた「罪の世界」で生きることはできません。パウロが「罪に対して死んだ者が、罪の中に留まり続けることができない」と語るのは、私たちを支配していた罪の力がキリストの十字架の死という神の裁きによって滅ぼされ、神からの関係断絶という裁きを受けるべきだった私たち人間は、むしろそのことによって関係の回復という恵みへと新しく招かれているからなんですね。

 

 

・キリストと共に葬られた私たち…

 パウロは、そのことをさらに丁寧に説明するためにキリストの十字架の死と私たちとの関連性について語るうえで、バプテスマについても語っています。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるためにバプテスマを受けたことを。 」パウロは、バプテスマをイエスに結ばれるためのものとして捉え、それはまたイエスの死にも与ることであるとも語っています。

 

 イエスの死とはどんなものだったでしょうか?それは神との関係、そして人との関係からも切り離されると言う魂の死、「存在の死」でした。イエスは十字架において、私たち人間の罪である神への不理解を全てその身に集められました。そして私たちの全ての罪を引き受けられたその状態のまま死なれました。私たちが受けるバプテスマはそんなイエスと共に「罪に死ぬ」ことです。

 

 イエスと共に、イエスが死なれた私たちの罪と共に、私たちもまた一度バプテスマによって死を迎えることになります。それは、それまでの罪に支配された自分自身が神によって滅ぼされるということです。私たちの中の「罪の世界」は、私たち自身にはどうすることもできません。それほどまでに私たちの罪は拭いがたく、私たち人間を深く支配しているからです。

 

しかし、私たち自身の罪は、ただイエスの十字架によって死を迎えます。私たちの中にあった「罪の世界」はイエスの十字架の死によって滅ぼされました。バプテスマはそんなイエスの死を追体験することでもあります。そのことで私たちはイエスの死を自分自身の出来事であると深く受け止め、もう自分自身が罪に支配されていないということを知らされることになります。私たちはもはや罪の奴隷ではないのです。

 

 私たちはそうしてイエスの死を自分自身の出来事であると受け止めていくことで神によって変えられていきます。「神への不理解という罪」に支配されていた私たちが滅ぼされ、私たちは逆に「神への理解へと開かれ」ていきます。それは言い換えれば、神が私たち人間に望まれた、神との愛の関係の中で生きることへの理解が開かれていくと言うことです。

 

 

・キリストと共に復活させられた私たち

 そのことは、神がイエスに起こされたもう一つの出来事によって示されているように思います。神はイエスを死のままに、関係を切り離したままにはしておかれませんでした。イエスは確かに私たち人間の罪を背負われて十字架で死を受けられました。それは神がまことを尽くされる方故であり、私たちの罪をそのままにはしておかれない方だからです。

 

 罪を罪のまま見過ごすことのない神はその罪を裁かれることを決断されます。しかし、私たち人間がその裁きを受ければ、私たちは生きていることができません。神との関係の断絶は存在の死を意味するからです。そこで神はご自分の一人子であるイエスに私たちの罪を背負わせ、罪をイエスに集めたうえで、十字架上で裁かれました。

 

それは言い換えれば、神ご自身が私たちの痛みを引き受けられたと言うことです。イエスは十字架で絶望の叫びを上げられました。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」イエスはこのとき確かに神との関係の断絶を経験されました。私たち人間が受けるべきであった裁きを、私たちの代わりに引き受けてくださったんですね。

 

しかし、神はイエスを死のままに、関係を断絶されたままにはしておかれませんでした。神はイエスを関係の断絶という究極の死から引き上げられました。それが復活です。「死者の中から復活したキリストはもはや死ぬことがない。」とあるように、復活は永遠の命を表します。つまり、復活とは関係の回復の出来事であり、そして復活による永遠の命とは、回復された神との関係が終わりなく続いていくことを意味しているんですね。

 

このように、バプテスマは二つの意味を持っています。一つは私たちがキリストの死に与ること。そしてもう一つの意味がキリストの復活に与ることです。イエスは私たち人間の罪を背負って死んでくださいました。私たちは水の中に沈むバプテスマによって、イエスと共に罪に死ぬのです。「罪に対して」「神への不理解という罪に向かって」生きていた私たちはキリストと共に一度死を迎えます。

 

バプテスマは「水に沈める」と言う意味です。それは罪を洗い流すことではありません。私たちの罪が洗い流されて綺麗な私たちになることではありません。そうではなくて、自分自身の罪に向き合い、その罪と共に死んでくださったイエスと一体となることです。つまり、バプテスマによって私たちは罪に塗れたまま一度死ぬのです。

 

 ですが、イエスの十字架の死がそのままで終わらなかったのと同じように、私たちが受けるバプテスマもそれで終わりではありません。イエスが神との関係の断絶という死から、神によって引き上げられ復活させられたのと同じように、私たちが受けるバプテスマもまた死という水に沈んだままでは終わることはありません。私たちは死という水から引き上げられることで、復活されたキリストと一体とされます。

 

 神はイエスを決して死という絶望のままでは終わらせませんでした。そのことと同じように私たちもまた死という絶望のままで終わらせられることはありません。私たちは絶望という死から神によって引き上げられた、そして神との新しい関係の中で生きるように招かれています。

 

 これからなされるバプテスマは、そんな神からの招きに応答した一人の兄弟の最初の一歩でもあります。神は全ての人にご自分との新しい関係の中で生きるように招いておられ、そしてその最初の一歩を踏み出すことを心から望んでおられます。神は私たち一人ひとりを心から愛しておられ、神との新しい関係である永遠の命という恵みを確かに備えてくださっていますから。