1月28日主日礼拝メッセージ  「明日へと生かす水」

 

今、世界で起こっている戦争、ロシア・ウクライナ、そしてイスラエル・パレスチナ戦争の原因はなんでしょうか。急にこんなことを問われても大抵の人は答えに窮してしまうことだと思います。なぜならそこには複雑に絡み合った様々な要因があって、そうであるからこそ簡単に解決できないものになった結果、戦争という不可逆的な惨禍をもたらすものにまで発展していってしまったのでしょうから。

 

 ですが私たちはその原因は分からなかったとしても、戦争が起こる構造は知っていると思います。なぜならそれは戦争だけに当てはまるものではなくてこの世界で起きるあらゆる対立において言えることだからです。それは一体どのようなものなのでしょうか。答えは至って単純です。戦争を含む対立が起こる構造、それは「立場の異なる二者間という関係性」です。

 

 言われてみれば当たり前に思えるかもしれませんが、私たち人類はこの構造によって争い続けてきたことは否定できない事実でしょう。そしてそのような関係性は聖書中でも数多く登場しています。聖書は神と人との関係性を描いているのと同時に、人同士の関係性についても語っています。時にそれは生々しいまでに当時の民族間の関係性による対立構造を描き出しています。

 

 今日の聖書箇所ではサマリアの女が登場します。このサマリアという単語は聖書を読んでいてたびたび目にする言葉だと思います。サマリアは南北王国時代の北イスラエル王国の首都でしたが、アッシリアによって陥落させられた都の名前でした。アッシリアによって元々の住民の一部は捕囚の民とされて強制移住させられ、代わりにサマリアにはアッシリアからの移民が移り住んできました。

 

 そしてこのとき移住して来たアッシリア人と残留イスラエル人との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれる人々です。新約の時代、このサマリア人はユダヤ人と対立関係にありますが、そのような関係になった理由は様々な要因があると言われています。ですが、中でもその最大の理由はサマリア人がゲリジム山に独自の神殿を建てたことが決定的な亀裂を生んだのではないかと言われています。

 

 サマリア人とユダヤ人、この二者はその源流を同じとしながらもあることがきっかけとなり立場や考え方の相違が生じた結果、対立してしまったという歴史的な経緯があるわけです。このことは現在起こっていうる民族間の対立とも非常によく似通っていると思います。ともかくこのような対立構造があったという前提で今日の箇所を読んでいきたいと思います。

 

 冒頭にはこうあります。「サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。すると、サマリアの女は、『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」聖書ではユダヤ人の方が特にサマリア人を避けていたという描写が多数あります。

 

 ここでもそのように語られ、サマリアの女からするとユダヤ人であるイエスの方からサマリア人に頼み事をするなどありえないと思われていたことが伺えると思います。ですが当時このあり得ないと思われていたことが、これから始まっていく神の出来事を指し示すメタファーとして語られているのです。それはイエスによって齎される隔を超えた神の業です。

 

 それは「既存の関係の刷新」とも言い換えることができると思います。神と人との関係が新しくされるということはもちろん、それだけではなく、人同士の関係もまたイエスの到来によって新しくされていくことがここで示されています。対立関係にある二者間が神の働きによってその関係が変えられていくということをこの物語は語っているのです。

 

 それは人と人との間のしがらみをはるかに超えて起こされていく神の出来事です。ユダヤ人とサマリア人の間には確かに簡単には解決できない遺恨があったかもしれません。そしてそれは長い時の中でも解決できず、もはや関係の修復は諦めかけられていたものだったかもしれません。ここに登場するサマリアの女もその状況を当然のことだと考え、受け入れてしまっていたのだと思います。たとえそれがサマリア人の側が自分自身が理不尽を被るものだったとしても、自分にはどうすることもできないことだと諦めていたでしょう。

 

 ですがそんな人の諦観を打ち砕いて神はご自分の業をなされる方であることを私たちは既に知らされています。そしてそのことを一対一の関係で向き合われることでこの諦めている女性に伝えようとされています。神と人との個人的な関係の中でイエスはこの女に語られます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」

 

 イエスがこの女性に頼んだことは単なる水、さらに言えばこの女性が汲みに来た井戸の水を飲ませてくれることでした。ですが、そのことはあくまで神がこれからなさろうとされている隔を超える業のメタファーであって、この女性がイエスの存在を知ったときむしろこの女性の方が水を与えられる側であることをイエスは語ります。しかも与えられるのは「生きた水」であることが語られています。

 

 このイエスの言葉に女性は返答します。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。女性はあくまでイエスの語る水は「井戸の水」であると受け止めています。

 

 この時点でイエスと女性との間で食い違いが起きているのがわかるでしょうか。女性が語る水は溜まった「井戸の水」、すなわち「生きた水」ではない固定された水のことを指しています。これもメタファーであり、そのことは当時の固定化された状況や慣習、あるいは律法のことを表しています。対してイエスが語る「生きた水」はそのような固定化された水ではない生き生きと流れ出る水であり、固定化されたものを超えて人に命を与える水、すなわち御言葉のことを表しているのです。

 

 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。この御言葉自体が今までこの御言葉を聞いて来た人々の諦観を打ち破り、立ち上がる力と進んでいく勇気を与えて来たことでしょう。そしてそれはまた現代に生きる私たちにも届けられている御言葉でもあります。

 

 現在の世界は未だ終結の見えない戦争をはじめ、多くの課題や問題を抱えています。私たちはそのことに対して時に諦め、現状を受け入れてしまう思いになってしまうことがあるかもしれません。しかし、そんな私たちの思いをも超えて働かれる神がおられることをまた私たちは知っています。御言葉は私たちの心に希望と今日よりもより良い明日を与えてくれるからです。

 

 

 だから私たちはこう神に祈るのです。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」祈ります。

1月21日主日礼拝メッセージ  「『新しさ』の証人」

 

2024年が始まって3週間が経ちました。新しい年の始まりというものはみなさんにどのような思いを抱かせるものでしょうか。残念ながら2024年はその始まりから痛ましい出来事の連続となってしまいましたが、通常年の移り変わりは私たちに何か新しいことが始まることを予感させるものなのではないでしょうか。私たちは新しいことの始まりを期待し、それを求めています。ですがそれは時に私たちの思いがけない時や形でやってきたりするものです。

 

 今日の聖書箇所ではまさにそのような新しいことの始まりについて語っています。このカナでの婚礼の記事はヨハネによる福音書独自のもので、そしてその内容は非常に不可思議なものになっています。ですがそれら一つひとつの謎めいた内容をつなぎ合わせていくと、そこには一つのはっきりとした神のメッセージが見えてくるのです。それはイエスと出会った人々がもれなく経験するこれまでにない「新しさ」です。

 

 今日はその神がもたらす「新しさ」についてご一緒に御言葉から聴いていきたいと思います。舞台はガリラヤのカナ、そこでの婚礼にイエスやイエスの弟子たち、そしてイエスの母マリアが招かれていました。「婚礼」という出来事もまた何か新しさを予感させるものではないでしょうか。そしてそれは同時に祝福と喜びの出来事でもあります。ですがそんな喜びの出来事の中に一つのトラブルがあったことを聖書は告げています。

 

 3節にはこうあります。「ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った」。ぶどう酒は当時の婚礼をはじめとした祝宴には必要不可欠なものでした。当時の婚礼は七日の間続き、その間盛大に行われていたそうです。それだけ長く続けていたら途中でぶどう酒が切れてしまうのも無理はないことと思えるかもしれませんが、当時の価値基準で考えるならば、祝宴の途中で酒が切れてしまうことは主催者である花婿にも出席者にも無礼に当たる事態だったわけです。

 

 文脈から察するにマリアはおそらくこの婚礼の世話役のようなことをしていたのでしょうが、ここでマリアはなぜかイエスにこのことを報告しています。ヨハネ福音書にはイエスがお生まれになった時の一連の出来事についてマタイやルカ福音書のように記事があるわけではありませんが、その後の彼女の言葉から推測するに、イエスの神性についてすでに知っている前提でマリアはイエスにぶどう酒のことを頼んだのでしょう。

 

 マリアはその場にいた召使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っています。これは明らかにイエスに対する信頼がなければ出てこない言葉でしょう。この状況であってもイエスならばなんとかしてくれるだろうとこの時点でマリアは思っていたということです。ですがそんなマリアに対してイエスの反応は一見かなり違和感があるものになっています。

 

 「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。このマリアに対するイエスの返答は現代の一般的な価値基準で考えてもかなり逸脱したものになるでしょう。母であるマリアに対するこのまるで他人かのようなイエスの返答は一体何を意味しているのでしょうか。この言葉の意味を解く鍵はまさに冒頭で紹介した神の「新しさ」にあります。

 

 このイエスの言葉は既存の家族関係という枠組みをはるかに超えて、これから新しい関係が始まることを示唆しているものだと思われます。つまり、神と一人ひとりの人間が親しい関係を結ぶ全く新しい関係性による共同体が誕生することをイエスのこの言葉は示しているということです。ゆえにこの言葉の真の意味はマリアに対するよそよそしさを表すものではなく、これから始まる神の新しい出来事について語っているということです。

 

 そうであるからこそ、この言葉の後のマリアの反応も変わらずイエスを信頼するものになっているのでしょう。マリアは「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召使いたちに言っています。これはイエスに全面的に信頼をしているマリアの様子が伺える言葉だと思います。母マリアと子イエスという既存の家族関係を超えて新しい神の家族関係が始まりつつあることをマリアは予感していたのかもしれません。

 

 そんなマリアの信頼に応えるように、イエスは六つの水がめに水を満たすよう召使いたちに命じられます。実はこの水がめにもそこに込められた意味があります。この水がめは「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」だったとあります。ユダヤ人は律法に従って水がめの水で体を清めていたわけです。つまり、この水がめはユダヤ人に与えられた律法を象徴しているわけです。

 

 ですが、その数は六つだったことも同時に語られています。「6」という数字は聖書にいて完全を表す「7」から1を引いた数であり不完全を意味する数字です。そのような意味が込められている水がめでしたがイエスはそれを用いて出来事を起こそうとされています。イエスによって満たされた水がめの水はいつのまにかぶどう酒へと変わっていました。

 

 このことはつまり不完全であった律法がイエスによって完全なものとなることを指し示しているものなのです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」とイエスご自身が言われている通り、イエスが来られたことによって律法をも新しくされていったということをこの出来事は示しているわけです。

 

 今までの他者との関係、そして人生の軸となるべき律法が新しく更新されたことをこのカナの婚礼の出来事は語っています。ヨハネによる福音書の著者はこの記事を通して神がもたらす新しさを読者に語らんとしていますが、それに加えてその新しさの源がどこからであるのかということをも大きな関心事にしています。それはこのぶどう酒がどこから来たのかを知るものが召使いたちだけであったということをわざわざ記していることから読み取れる意図でしょう。

 

 ヨハネ福音書はぶどう酒、言い換えれば喜びの出来事に必要不可欠なものであり、神の恵みでもあるそれがイエスから来たものであることを召使いたち、つまりイエスの言葉を聴き、それに従ったものにだけ知らされた真実であることを語っています。そしてそのことはまた聖書を通して今の私たちにも知らされていることでもあります。水がぶどう酒になったように、言は肉となったことを聖書は私たちに語っています。

 

 そしてその言はまさに神が起こされる新しいことを成されるためにこの世界に来てくださいました。私たちが生きる今のこの世界では行き詰まりや閉塞感を感じることがあるかもしれません。ですがそんな世界の中でも神は確かに働いておられて、「新しさ」をもたらしてくださる方であることを私たちは知らされています。イエスの言葉を聴き、それに従っていったあの召使いたちのように、私たちもまた神の新しさの証人として神から召し出されているのですから。

1月14日主日礼拝メッセージ  「招きの先に」

 

私たちは今年もまた聖書を読んでいきます。そのことは教会が、そしてイエスを信じる人々がはるか昔から続けてきた営みであり、試みです。試みと言ったのは聖書はただそこに書かれている文字を機械的に読むだけではなく、そこに込められている神の意図を解釈しながら読む必要があるからです。そうすることで初めて聖書は本来の姿を私たちの前に表して、御言葉として私たちの中に浸透するようになるからです。

 

 そのように聞くと、聖書を読むこと自体ものすごく難しく思えてしまうかもしれません。事実、聖書は私たちが読むその時々によって同じ箇所であっても様々な御言葉として私たちに聞こえてくることがあるからです。みなさんもそのような経験がきっとあったりするのではないでしょうか。それは聖書と私たちとの間の干渉、言い換えれば神と私たちとの関係において御言葉が聞こえてくるからです。

 

 そのような多様な御言葉を受け取ることがはたしてできるのかと不安になる思いはわかります。ですが聖書が語る御言葉は同時にあるベクトル、一定の指針をもって語られているということも確かなことです。そのことが自分勝手ななんでもありの解釈を咎める抑止力になっているとともに、同時に私たちが御言葉を受け取っていくときの一つの道標にもなっています。

 

 今日の聖書箇所ではそのような神が私たちに語りかける際の道標となる3つの指針が示されています。今日の聖書箇所では先週の箇所に引き続きバプテスマのヨハネが登場しています。ですが、彼が登場するのは今日の箇所の序盤だけになっています。彼はイエスを指し示し続ける者であることを私たちは先週確認しました。そして今日の箇所で彼はイエスを指し示しつつ、そのイエスへと自らの弟子を向かわせています。

 

 より正確に言えば、ヨハネの言葉を聞いた彼の弟子たちが自らイエスの元へと向かっています。これは弟子たちの最初の応答と言っていいでしょう。私たちもまた神について人から語り聞かされた言葉を受けて、自ら神の元へと向かっていくことがあるでしょう。それは人に誘われて教会に来たり、聖書を自分で読んでみたり、讃美歌を歌ってみたりといろいろな形があると思いますが、ともかく私たちにとっての神との出会いの出発点ともいえる出来事のことです。

 

 ですが、その段階ではまだ個人的な神との関係を持っているわけではないでしょう。それはあくまできっかけにすぎないものであり、一人ひとりが直接的に神と対話することで初めて関係は築かれていくものだからです。そしてその関係は常に神からの語りかけによって築かれていくものなのです。38節にはこうあります。「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。」

 

 イエスは自分に従おうとついてきた弟子に対して「何を求めているのか」という問いを投げかけておられます。この問いによる呼びかけはイエスの言葉として有名で他に「何をしてほしいのか」や「あなた(がた)はわたしを何者だと言うのか」という言葉もあるように、「問い」ということが神との関係において重要な出来事になっていることが多いです。

 

 なぜイエスはこのように問いをご自分と出会った者や従ってこようとする者になされるのでしょうか。それはその人たちの自発性、言い換えれば意志を大切にされているからだと思います。その人の意志に基づいた応答を神は求めているからです。そのように応答を求められた弟子たちはここではこう答えています。「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と。

 

 「どこに泊まっておられるのですか」というのはもちろん文字通りの意味ではありません。これは言い換えれば「あなたはどこにいるのですか」という神を探し求めるための言葉だと言えるでしょう。私たちも聖書を読んでいる際に自分自身が神から問われているような感覚を受ける時があると思います。その神からの問いに私たちが応答していくことで神と私たちとの関係は繋がっていきます。

 

 神は私たちに「問う」ことで私たちの心を神へと向けさせます。神は私たちに「問い」という形で語りかけられて私たちの応答を待っておられるからです。ここではイエスの「何を求めているのか」という問いに対して弟子たちは応答したことになりますが、その弟子たちに対してイエスはさらに「来なさい、そうすれば分かる」という返答をされています。

 

 イエスが弟子たちを招く場面は他の福音書にも多く記されています。イエスは人々をご自分の元に招く方です。この「招き」も御言葉を受け取っていく際の指針の一つでしょう。神は様々な方法で私たちをお招きになります。福音書に記されている通り、イエスの弟子たち一人ひとりはそれぞれ立場も、性格も、その他様々なことが異なっていたでしょうが、イエスによってそれぞれの仕方で招かれていきました。

 

 そのことは私たち一人ひとりが招かれたことと重なってくるでしょう。教会にはそれこそ様々な人々が集まっています。それは一人ひとりが神によって招かれているからこそ実現されていることだと思います。私たちは場所や人や金によって集められているわけではありません。ただ一人ひとりへと呼びかけられた神の「招き」によって集められ、私たちがその招きに応答したからこそ今ここにいるのです。

 

 そんなイエスの招きによって弟子たちはイエスがどこに泊まっておられるのかと見た、ことを聖書は語っています。これはイエスと弟子たちとの距離がより近くなったと言うことを示しています。神の「問い」と「招き」を通して神と私たちとの関係はより深められていきます。このような「神の問い」と「私たちの応答」、そして「神の招き」と「私たちの応答」のサイクルは何度も繰り返されていくことで、私たちはその都度新たな御言葉を受け取っていくことができるからです。

 

 そして「問い」、「招き」に続く最後の指針は神の「迎え」です。イエスに先に出会ったアンデレは自分の兄弟であるシモンをイエスの元に連れてきたことが語られています。ここでアンデレは「神の招き」を担う者として語られていますが、このことは最初のバプテスマのヨハネと同じ働きをアンデレがしているということでもあります。神と出会うきっかけとしてのこの働きは私たちにもまた託されているものだと思います。

 

 神がアンデレを用いて招かれたシモンは直接イエスに出会うことになりますが、イエスは彼を迎えてかけられた言葉が印象的です。「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」。イエスと出会ったシモンはイエスからケファという名前で呼ばれることになりますが、これはシモンに対してある働きを任せられたと受け止めることができると思います。

 

 私たち一人ひとりもまたシモンのようにイエスの元へと招かれて、一人ひとりが神から働きを託されている者です。神は様々なことを通して私たちに、時に「問い」、時に「招き」、そしてご自分の元に来られるものを豊かに「迎え」てくださる方です。私たちはそのような神の語りかけを聖書から日々聴いていくことで、その時々に与えられた御言葉を受け取っていくことができます。

 

 

 2024年は痛ましい出来事の連続からの始まりになってしまいました。そのことで私たちは迷い、恐れ、戸惑ってしまうこともあったりするかもしれません。しかし、私たちにはどのような時も私たちを招き、迎え、そして共にいてくださる神がいます。そんな神の御言葉が全ての人々に励ましと力と支えを与えてくださることを信じて、祈り続けたいと思います。祈ります。

1月7日主日礼拝メッセージ  「神の語り部」

 

2024年の新しい歩みが始まりました。毎年、教会ではクリスマスの余韻も冷めやまないまま新年を迎えます。新しい年の始まり、それは新しい物語がまたここから始まっていくことをも意味しています。教会はクリスマスの出来事を祝って、それで終わりではなく、クリスマスに私たちに与えられたイエスの物語を語り続けていくことを託されているからです。クリスマスは神が私たち人間に限りなく近づいてきてくださったことを表す出来事でもありました。

 

 イエスは私たちと同じ人の姿をとってこの世界に来てくださいました。それは神の側からの私たち人間に対する理解の表現であり、同時に神との関係が切れかけていた私たち人間に神の手が伸ばされ続けていることを表すものでもありました。そのことを聖書は様々な形で私たちに語っているわけですが、今日、2024年最初の聖書箇所においてもそのことが示されています。

 

 最初の29節にはこうあります。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』」。このヨハネという人はイエスにバプテスマ(洗礼)を授けたことで有名な人物ですが、このヨハネによる福音書においてはそのことは記されていません。なぜイエスのバプテスマについて著者が取り扱っていないのかについては今日のところは触れませんが、その代わりに、この福音書の著者はヨハネに与えられた別の大切な役割について語っているのです。

 

 それは、自分の方に来られたイエスを見た彼の言葉に表れています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。この言葉はそこにいる全ての人の視線をイエスへと集中させる言葉であり、同時にイエスが何者であるのかを端的に言い表した言葉でもあります。つまり、ヨハネに与えられた大切な役割というのは、人々の目をイエスに向けさることにありました。

 

 それは言い換えれば、イエス・キリストを指し示し続けるということでもあります。そしてそのことはまた私たち現代の教会が宣教という形で引き継ぎ続けているものでもあります。ヨハネの次の言葉、『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』は、今もなおイエスを待ち続けている私たちにも当てはまる言葉です。

 

 私たち教会はヨハネと同じように、イエスが来られる時までイエスを指し示し続ける働きを託されています。ですが、そんな指し示し続けるという働きもイエスが何者であるのか、そして神はどのような方であるのかを知らされずに行うことはできないでしょう。ヨハネも「わたしはこの方を知らなかった。」ということを二度も今日の箇所で口にしています。

 

 初代教会を支えた宣教者であるパウロもローマの信徒への手紙の中で次のように語っています。「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」と。当たり前のことではありますが、私たちは「知らされなければ知ることはできない」のです。

 

 この世界の知識についてならば、ある程度私たちは能動的に自分から知ることはできるかもしれません。ですが、神についての知識は神ご自身からしか明かされないことは聖書が証言している通りです。それはつまり、神ご自身から私たちに知らせようとされなければ、私たちはそのことを知ることができないということです。聖書の中に登場する様々な人々も決して自力で神を知っていったのではありませんでした。

 

 彼らは神との関わりの中で、そしてその中で経験していった出来事を通して神を知らされていきました。そのことは聖書の中の人物でも、現代に生きる私たちでも変わりません。私たちの人生の中で働かれている神の出来事を私たちは日々体験し、そしてそのことから神がどのような方であられるのかを私たちは知らされていくはずです。そのようにして私たちは神を知っていくことができます。

 

 そして同時に神が私たちに託された働きをも知らされていくのです。バプテスマのヨハネが「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」と語っているように、私たち一人ひとりにも与えられたそれぞれの働きがあります。イエスの弟子たちやパウロたち初代教会の人々もまたそのような自分の働きに招かれて、そこに応答していきました。

 

 それら働きのディティールは私たち一人ひとり異なってはいるでしょうが、根底の部分では神を指し示し続ける働きへとつながっているものです。だから私たちはそれぞれがヨハネと同じように神を指し示し続ける働きを担っていることになります。そして神を指し示し続けるということは、同時にその方が何をなされるかたであるのかを証することでもあります。

 

 ヨハネはイエスを指し示して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と語りました。イエスが私たちの罪を贖うために来られたことを語り続けることは教会に、そして私たち一人ひとりに託された働きの一つです。そしてそのことは神とヨハネとの直接的な関係の中で彼が受け取っていった真理でもありました。聖書はヨハネが証をしたことを語っています。

 

 その証によれば、ヨハネはイエスを知りませんでしたが神の霊の働きによってイエスについて知り、またその働きについて知らされたということが、その中で語られています。私たち人間は神ご自身のことやまた神の働きについて完全に知ることはできないかもしれません。ですが同時にそのことについて全くわからないわけでもありません。

 

 なぜなら神が自ら私たちに近づかれてご自身を明かしてくださっているからです。そのことで私たちは神を知り、神の出来事を証し続けていくことができます。イエスが自らヨハネに近づかれていったことと同じように、今を生きる私たちにもイエスは近づいてきてくださっています。それは聖書に代表されるあらゆる媒体を通して私たちに示されています。

 

 パウロはそのことについてこう語っています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」と。私たちを取り巻くあらゆるものを通して、神は私たちは語りかけられています。それは神の究極的な接近であり、今もなお新たな神の言葉が語り続けられていることを示すものでもあるでしょう。

 

 

 私たちはその神の自己開示と今も続く語りかけを受け取っている者として神の語り部としての役割へと召されています。今日は2024年最初の主の晩餐式をこれから執り行います。その中であらためて私たちは神がなされたイエスの十字架の出来事を思い起こしつつ、そのことを語り続ける働きへと今年も歩み出していきたいと願います。祈ります。