10月30日主日礼拝メッセージ  「神の自由な憐れみ」

 

イスラエルは特別なのか?

 今日みなさんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はローマの信徒への手紙9:6-16です。この箇所では主にイスラエルの選びについて語られています。イスラエルは聖書において切っても切り離せない重要な民族であることは間違いないでしょう。特に旧約聖書は神がいかにイスラエル民族を導いて来られたかを私たちに伝えているからです。

 

 旧約聖書を読んでいると神がいかにイスラエル民族を愛され、憐れまれてきたかということが伝わってくるでしょう。なぜならイスラエル民族は絶えず神に従順というわけではなくて、その時々で偶像礼拝やその他様々な罪を重ねて神に背いてきたからです。

そのことをもまた聖書は包み隠さず伝えているわけですが、そのことを考えるとイスラエルという存在が特別扱いされているようにも思えてくるのではないでしょうか。

 

 事実パウロも次のように語っています。3-5「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」

 

 パウロは神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束はイスラエルの民のものである、とここではっきりと語っています。そしてイエスもまたイスラエルから出たことを語っていることからパウロはここでイスラエルの特別性を語ろうとしているように思えてくるでしょう。しかし、この後を読み進めていくと、ここでパウロが真に語ろうとしていることとは、どうやらそのことではないということが見えてくると思います。

 

 6-8「ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、 また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。』すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」 

 

 前の箇所でのパウロの発言はイスラエルという民族性を特別視していたように思えましたが、ここではむしろそんな民族性、血のつながりによる特別視を否定しています。パウロはこのように語ることで私たちの関心をイスラエルの特別性から神の約束へと向けさせようとしています。パウロは創世記の出来事を引用しながら、神の約束とはどのようなものであったかを振り返っています。

 

神の選びとは?

 そもそも神の約束ははじめからイスラエルという民族に与えられたものではありませんでした。そうではなくて、アブラハムという個人を神が選んでその個人に与えられた約束が形となったものがイスラエル民族であるわけです。創世記において神が彼に語られた約束は「あなたの子孫を星のように増やし、神が導く土地を与える」というものでした。

 

 この言葉の通り、神がアブラハムに約束されたことが実現した形がイスラエル民族であるわけです。ならばそのアブラハムこそが特別だったのではないかと思えるかもしれません。ですが、創世記を読んでいればわかるように彼は特別優れているわけでもなく、他とは違った何かがあったわけでもありません。彼が神によって見出されたことは確かなことだと思いますが、その理由は彼自身の何かにあるわけではなかったわけです。

 

 ではなぜアブラハムだったのか、という疑問が私たちにはどうしても湧いてくるとおもます。しかし、その理由はただ一つここでパウロも語っていることだけなのです。それはただ「神の自由な選び」少し言葉を帰るならば「神の主権における選び」によるものなのです。神がアブラハムを選ばれたのは、彼の側に選ばれるだけの理由があったわけではないのです。そうではなくて、それは神の主権における神の側の出来事なのです。

 

 パウロはさらにアブラハムの孫であるエサウとヤコブの出来事も引用して語ります。10-13「それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。』」

 

 ここでパウロが語っている通り、エサウとヤコブには生まれる前から神の選びがあったことを私たちも聖書を通して知らされています。当然ながら生まれる前ですからエサウやヤコブたち本人の側に何か選ばれるだけの理由があったわけではありませんでした。ここでもやはり神の主権による選びというものが強調されています。神はどこまでも自由な方であり、その主権において全てをご自分のご計画にそって導かれる方だからです。

 

 しかし、私たちはこの神の自由や神の主権と言ったものに対してどこか違和感を抱いてしまうということもあるのではないでしょうか。なぜなら神に選ばれなかった側のことをどうしても考えてしまうからです。アブラハムにはイサクの生まれる前にすでに長男であるイシュマエルという子供がいました、そしてエサウもまた長男であったにも関わらず、神から選ばれなかったわけです。

 

 しかもその選びには私たちの側から見出すことのできる理由はありません。先ほども言ったように神の選びにはその選びの対象の側に理由はないからです。そこにこそ私たちは違和感や疑問を持つわけなのですが、そんな私たちの心中を察するようにパウロはこう付け加えています。「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。」

 

 やはりパウロの時代であってもこのような神の選びを不義、または不公平と感じる人々がいたのでしょう。だからこそパウロはここでそんな人々に対して一言付け加えているわけです。そしてそこにこそパウロがこの箇所において最も伝えたかったことなのだと思うんですね。彼はこう語ります。「神はモーセに、/『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」

 

 パウロがここまで神の選びということを強調して語ってきたのには理由があります。それは神の選びというものがすべて神の憐れみにおいてなされてることだということです。パウロが語るように神は決して私たちに不義を、不公平な選びをされているわけではありません。そうではなくて神の選びというものは神の愛における決断だということです。

 

 私たちはそのことをすでにイエスの十字架において知らされているでしょう。神は私たち人間と共にありつづけるという決断をされました。私たちがその罪のゆえに本来神の憐れみを受けるに値しない存在であるにも関わらず、神はその愛において私たちを選んでくだったのです。神の選びとはそのような神の限りない愛に裏付けされた神の決断なのです。

 

 私たちはそんな神の愛の選びの中に招かれ、入れられています。イエスの十字架において神の選びはイスラエルという枠を超えてすべての人類へと広がっていったからです。そして私たちはその神の愛に応答するよう招かれてもいます。そのような神の愛における決断に感謝しつつ、教会として、個人として応答していくことができるよう願います。

10月23日主日礼拝メッセージ  「決意される神」

 

神は「変わらない方」?

 今日みなさんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は創世記9:8-17です。この箇所は「ノアの方舟」でよく知られた話で聖書を読んだことがないという人でも聞いたことがあるというくらい有名なところです。しかし、同時にこの「ノアの方舟」の話は神が洪水によって被造物を滅ぼそうとした、というなかなかにショッキングな印象もつきまとうものでもあると思います。

 

 最終的に方舟に乗せられたノアの家族とあらゆる被造物のつがいだけが生き残るという形でこの話は終わりを迎えますが、この話を通して聖書が語らんとしているところはそのような表面的な結果だけを伝えようとしている部分ではないことは明らかです。なぜなら、聖書はいつでも私たちに神がどのように関わっているのかを伝えようとしている書物だからです。

 

 だから私たちはそのことをこそ聖書から聴いていく必要があります。そしてそのことをこの箇所において聴いていくためにはこの物語全体を見ていく必要があります。今日はこの「ノアの方舟」の物語というものが私たちに一体何を語りかけているのかをご一緒に受け取っていきたいと思います。

 

 まずこの物語の発端となったのが6:5-6に記されています。お読みします。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」ことの発端は人の悪、人の罪が増したことによるものでした。そして神は「地上に人を造ったことを後悔」されています。私たち人間にとってはなかなか厳しい言葉です。しかし、逆に言えばそれほどまでに人の罪は深いものであるということなのでしょう。

 

 神は言われます。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」 後悔されたがゆえに神はご自分が創造されたものを壊そうとされています。私たちには受け入れ難いことですが、神は悪を悪のままに、罪を罪のままに放置はされておかれない方であることも私たちは聖書から知らされています。

 

 ゆえにこの神の決断も無慈悲な神の裁きではなく、痛みを伴う神の決断だったことが想像できるのではないでしょうか。神は「心を痛められた」と聖書は語ります。その神の苦悩がどれほどのものであったかは私たちには到底推し量ることができませんが、何の躊躇いもなく、迷いもなくこの決断をしたわけではないということだけは確かなことだと思います。

 

 よく神は変わらない方だと言われます。永遠不変の神の存在を漠然と信じている人もいるかもしれません。しかし、この箇所の神の姿を見るとそのような印象は受けません。確かに神は、一度は被造物を造られたことを後悔されたのかもしれません。もし神が永遠不変の方であれば、その決定は覆ることはなく、被造物は完全に滅ぼされていたでしょう。しかし、神はそのご自分の下した決定に心を痛められているのです。

 

 確かに神は罪を罪のままにしておかれない方です。神はご自身の義をどこまでも貫かれる方であることを私たちは聖書から知らされています。それゆえに聖書には私たちにとっては厳しいと思える裁きの箇所も多くあります。そのことは認めざるを得ないことですし、同時に聖書は神のそのような姿も包み隠さず語っているということも私たちは目を逸らさずに受け止めなければならないことだと思います。

 

 ですが私たちは一方でそんな神が義を貫かれる方であることと同じくらい、いえそれ以上に知らされている神の姿があります。それは神が私たちをそしてご自分の造られた全被造物を憐れまれる方であるということです。そうであるからこそ、神は被造物を造られたことを後悔されてなお心を痛められているのでしょう。もし、神に被造物への憐れみがないならば心を痛められたりなどしないはずだからです。神はご自分の愛において変わられる方なのです。

 

 

決意によって変わる神

 そのような神の姿はご自身の義と憐れみとの間で葛藤されているようにも見えます。そのような葛藤があったからこそ、神はノアに方舟を造らせ、すべてを滅ぼし尽くすということはされなかったのだと思います。同時にこの出来事は神ご自身の中で新たな決意をされた瞬間でもあったのだと思うんですね。神は洪水の後、ノアとその息子たちにこのように語られています。

 

 9:9-11「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」 

 

 ノアに契約として語られたこの言葉は、神ご自身の新たな決意の表明でもあります。そして神がこの決意をされたのは、私たち人間を含む被造物の側に何か変化が起こったからでも、神が私たち人間の悪を特別に赦されたからでもありません。そうではなくて、神がまたここから新たな創造をされるということを意味しているのだと思います。

 

 確かに神はご自身の義のゆえに、人間に期待されることを止め、滅ぼそうとされたかもしれません。しかし、一方でご自身の被造物に対する憐れみの想いがそれを赦さなかったのだと思います。神は一つの決断を下されました。それは私たち被造物が神の想いから遠ざかった状態であり続けていたとしても、神はその私たちと共にあり、忍耐し、支え続けるのだという決断です。

 

 それは神の愛によって起こされた決意なのだと思います。神はその愛においてご自身を乗り越えて、新たなご自身へと変化することができるお方です。そこには無慈悲に罰の宣告を言い渡す神の姿はありません。代わりに、罪ある私たちにどこまでも伴い、共にありつづけてくださる神の姿です。「罪には罰」という定式は神によって打ち破られています。

 

 神はこの決意を契約という形で私たちに表してくださいました。12-16をお読みします。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」 

 

 神がその契約のしるしとされた「虹」は非常に印象的です。虹はその形から弓を表してしているものだとも言われています。そして弓は武器、すなわち「敵意」を表しているものです。ゆえに神が「虹」を契約のしるしとされたのは、もう二度と被造物に対して敵意を向けられないという神ご自身の決意を表すものなのです。

 

 そんな神の決意を私たちは聖書を通して知らされており、キリストの十字架という形で私たちに具体的な形で届けられています。私たちはこの神の愛の決意を思い起こしながら、今週も歩んでいきたいと願います。

10月16日主日礼拝メッセージ  「『しんぱい』でなく『しんらい』」

 

「心配」するとはどういうことか?

 最近はあらゆるものの物価が上がってきて皆さん買い物には非常にご苦労されているのではないでしょうか?特に衣食住に関わる生活必需品はどうしても買わざるを得ないものですから、なかなか悩みの種になっているかもしれません。私たちの日々の生活には様々な心配が絶えないものです。それは別に物に対するものだけではなくて、人への心配というものもあると思います。

 

 誰か親しい人を心配することというのは誰しもが経験するものだと思います。聖書の中でもパウロが諸教会のことを心配して手紙を出したり、あるいはそのパウロの手紙の中でテモテがフィリピの教会のことを心配している様子が描かれていたりすることから、聖書の中でも人に対する心配というのは良い意味で受け取られていますし、またそのことは私たちも同じだと思います。

 

 先ほどお読みいただいた今日の聖書箇所ではイエスが弟子たちに「思い悩むな」、言い換えれば「心配するな」と教えられていますが、聖書が人に対する心配を肯定していることから、それは人に対する心配のことではなく物に対する心配について語られているものでしょう。しかし、そうはいっても私たちは物に対しても心配せずにはいられないでしょう。ですがそんな私たちにイエスは次のように語るのです。

 

 「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。」非常にバッサリと私たちの物に対する心配は切り捨てられています。私たちはこれを聞いてどのように思うでしょうか?とても心配しないなどということはできないと思うでしょうか?ある意味それは正常な反応かもしれません。私たちはどうしたって生活のために物が必要なのですから。

 

 しかし、イエスがここで「心配するな」と語られるその真の意味は私たちの心配の意味とは少し違うものかもしれません。イエスがここで語ろうとしておられるのは、単純に物のことで心配するなという表面的なことではありません。そうではなくて、心配というものの奥には、すべての物を備え、与えてくださる神への信頼への欠如と神の国に対する関心の欠如が実は隠れているということを言われているのです。

 

 そう考えるとなおさら厳しい言葉のように感じますが、イエスがこの言葉を通して一番伝えられたかったことは、物に夢中になるのではなく、第一にそれらすべての物を与えてくださる神にまず目を注ぎなさいという促しなのだと思います。私たちに与えられているすべての物は神によって備えられた物だからです。しかし、私たちはたやすくそのことを忘れてしまう存在でもあります。

 

 そんな時、私たちは私たちを生かしているのは神の恵みではなく、物を獲得している自分自身の力であると勘違いしてしまうことでしょう。そのような勘違いは往々にしてその人の生活が順調な時に起こりやすいものでしょう。しかし、一転してその生活が順調でなくなったらどうなるでしょうか?素直に自分の力が足りないから物を得られなくなったのだ、となるでしょうか?

 

 そうなるかもしれませんが、自分の力を過信している人ほどそうはならないものだと思います。人は自分に都合が悪くなると途端に自分ではない何かのせいにしたくなるものです。自分の調子のいい時は自分のおかげで、調子が悪くなると途端に誰かのせいというのは、人間の身勝手さそのものでしょう。そしてそうなってくると当然ながら心配してしまうのも人間です。自分の力ではどうにもならなくなった段になると私たち人間は心配してしまうんですね。

 

 

神の心配り

 しかし、イエスはそんな私たちの心配というのは本来無用のものであることを語られます。神はご自分が創造された被造物全てに心を配られているということを鳥や花の姿を指し示すことで私たちに教えられています。神は被造物すべての必要に応えて、その必要を満たし、絶えず心を配られている方だということを私たちは鳥や花といった人間以外の被造物から知ることができますし、また聖書の様々な部分からも受け取ることができます。

 

 これらのことから示されるのは「心配」というものは私たち人間がするものではなく、神がされるものだということです。私たちは私たち自身のことについて「心配」する必要はないのです。なぜならば、私たちのことをどんな時でも「心配」してくださる神がおられるからです。では私たちに促されているのはどのようなことなのでしょうか?イエスはこう言われています。

 

 「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。 

 

 イエスは鳥や花でさえ神によって養われているのだから、あなたたち人間が神に養われないなどということはあり得ないことを語ります。私たち人間は神に応答するものとして創造されたという意味で、他の被造物とは異なっています。そのような私たちだからこそ、神は特別に私たち人間に心を配ってくださるのです。私たちはそんな神の心配りにどのように応答していけばよいのでしょうか。

 

 それは私たちのことを絶えず心配してくださる神への信頼によって応答することができるのだと思います。イエスはこう語られます。29-31節「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。 

 

 

神への信頼によって「自由」になる

 私たちがすべきなのは心配ではなく、神への信頼です。私たちは神の私たちに対する心配りに信頼によって応答することへと招かれているのです。私たちの必要はすべてが神によって覚えられ、必要な物が満たされるよう備えられているということは、私たちにとって福音であり、同時に「心配」という心の重荷から解放されることでもあるでしょう。

 

 私たち人間は日々あらゆるものについて全く「心配」してしないというのは無理なことかもしれません。しかし、その「心配」が深まると「悩み」になり、その悩みは私たちの心を縛っていきます。そうなってしまった私たちの心はもはや神には向かずにその目の前悩みに囚われてしまうことでしょう。

 

 だからこそイエスはそんな悩みに繋がる心配は神に任せるよう私たちに語りかけておられるのでしょう。私たちが求めるべきは目の前の必要ではなく、神が指し示してくださる「神の国」であることを私たちは知らされています。私たちが神の国を与えてくださる神に信頼し続ける限り、神は私たちのすべての必要を与えてくださいます。

 

 神は私たちを絶えず心配してくださり、必要なすべての物を満たしてくださいますから。

10月9日主日礼拝メッセージ  「キリストの力によって」

 

苦しみの中に

 先日、西九州地方連合の霊交会がありました。毎年様々なテーマを掲げて開催されている霊交会ですが、今年は「ポストコロナの教会像」というテーマでキリスト新聞社の松谷さんという方をお招きしてその時を持ちました。これからの教会が具体的にどのように進んでいくべきなのか、そのことは一部の教派、教会だけではなくもはや全キリスト教会の差し迫った課題です。

 

 私たち教会は今ひとつの大きなターニングポイントに立たされています。そのことはコロナ禍によってもたらされたものではなくて、コロナ禍によって露わにされたものだと思います。コロナ以前から山積されていた教会の課題が、コロナ禍によって否応なく目の前に引き出され、向き合わざるを得なくなったというのが適切な表現かもしれません。

 

 とにもかくにも私たちはそれらの課題からもう逃げることはできないのです。しかし、それらの課題の解決はどれもなかなかに困難なものであることもまた事実です。もしそれらの課題が簡単なものであればすでに解決しているでしょうから。私たちは今新たな時代の教会の姿を模索するという産みの苦しみを味わっているとも言えます。

 

 私たち人間は苦しみなどできるだけ避けたいと思うものです。しかし、残念ながら現実には次々に苦しみが迫ってくることもあるでしょう。現代の教会が置かれた状況というのはまさにそのようなものかもしれません。しかし、それは何も私たち現代の教会に限ったことではありません。初代教会の時代も現代とは種類が異なるにせよ悩まされている課題があり、それによって苦しめられているという状況があったようです。

 

 先ほどお読みいただいた聖書箇所は次のように始まっています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」この手紙の宛先であるコロサイの教会では教会内で一定の勢力を持っていた分派が存在していました。そのことで教会内は混乱し、分裂の危機の状況にあったわけです。

 

 コロサイの教会がそのような状況下にあったことは手紙の著者であるパウロにとって悲しく、そして苦しいことだったでしょう。しかし、そんな状況にも関わらずパウロは「あなたがたのために苦しむことを喜」んでいると語るのです。パウロは御言葉を伝えていくことこそが自分に与えられた務めであることを受け止めていました。そしてその務めには多くの苦しみや困難がつきまとうということもまた受け止めていたのだと思います。

 

 パウロはその苦しみを味わうことこそが、御言葉を伝えていくという務めを自身が果たしていることの証明のように考えていたのかもしれません。そうでもなければ苦しみを喜ぶなどということはとてもできないものだと思います。パウロにとってキリストのために経験する苦しみは喜びであり、同時に誇りだったのでしょう。そんなパウロは今教会が置かれている状況に対して逃げることなく向き合い、またそうするようにと教会の人々に勧めてもいます。

 

 

御言葉に帰る

 パウロは彼らにこのように語っています。25-27節「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました。世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。 この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。 

 

 ここでパウロは自らが語る御言葉のことを「秘められた計画」と呼んでいます。この表現は当時教会を混乱させていた分派が用いていた言葉だと言われています。その言葉をあえてパウロが用いた理由については色々解釈できると思いますが、その一つには私たちにはキリストという明らかにされた希望があるということを強調したかったということがあるのだと思います。

 

 当時の分派が語っていた「秘められた計画」とは秘密の儀式や呪文によって徐々に開示されていき、それらを個々人が悟っていくことで救いに近づいていくといったものだったようです。しかし、パウロはそれらの誤った考え方を否定し、真の「秘められた計画」はキリストそのものであると宣言し、さらにそれは人の手によって明らかにされるものではなく、神によって明らかにされるものであると語ります。

 

 そのことをこそ教会は受け継ぎ、そして伝えていくべきものであることをパウロはコロサイの教会の人々に伝えようとしています。そのことは、教会は常に御言葉に聞き続けるべきであり、同時に教会に与えられた課題とは御言葉からしか答えは得られないというメッセージでもあるのだと思います。パウロは教会の原点とはどこにあるのか?そしてその原点から何を聞いていくべきなのかをコロサイの教会の人々に問いかけているのです。

 

 

キリストの力によって闘う

 このように初代教会の時代から教会には様々な問題や課題が常にありました。時にはそのことで危機的な状況に陥ったり、教会ないでの分裂などもあったことでしょう。しかし、そのような状況にある教会だからこそ、教会の原点であるキリストへと、御言葉へと立ち返るべきであるというメッセージを私たちは今日の箇所から受け取るのではないでしょうか?

 

 パウロは混乱するコロサイ教会の人々に対してパウロ自身がどのような思いでいるのかを次のように語っています。28-29節「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」

 

 パウロは御言葉を宣べ伝えるという困難で苦しみの多い働きを続けることができるのは、ひとえにキリストの力によって自分自身が強められているがゆえに闘うことができるのだと語ります。「闘う」という表現がされているのは、それほどまでに彼を襲う困難や課題が大きなものだったことを表しているのかもしれません。パウロはキリストに強められて、御言葉に押し出されることで困難な道をも歩んでいくことができたのだと思います。

 

 現代の私たちの教会の状況も初代教会とは違った意味で困難な状況です。人は減り続け、今まで通りのやり方が通用しなくなってきています。そのような中で私たち教会の共通の課題とはなんでしょうか?それは「変化」をしていくことだと思います。いえ、どんな時代であっても教会は「変化」し続けていくことで目の前の課題や困難と闘ってきたのだと思います。

 

 パウロはコリントの信徒への手紙でこのように語っています。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」私たちの目には外側としての教会は衰えていくように見えるかもしれません。しかし、そこに集められている私たちの内にキリストの力が働いている限り、私たちは御言葉によって日々新たにされていきます。

 

 私たち教会はその神の力に信頼し、神によって変えられることを恐れずに教会としての働きに応答していきたいと願います。

10月2日主日礼拝メッセージ  「どのような意味が?」

 

「意味」を思い起こす

 みなさんは人生の中で次のような経験を一度くらいはされたことがあるんではないでしょうか?私の家はクリスチャンホームではなかったので子供の頃親に連れられて毎年元旦には初詣に行っていました。ですが、なぜ毎年神社に行ってお守りを買ったり、絵馬を書いたりするのかいまいちよくわかっていなかったわけです。毎年親に連れられるままなんとなく行って、なんとなく毎年同じことをしていたわけなんですね。

 

 初詣に限らず日本には様々な慣習がありますが、子供でなくてもそれら一つひとつの意味をしっかりとわきまえた上で行っている人の方が全体的にみればもしかしたら少ないかもしれません。しかし、慣習というものはそれが慣習となっていく上で必ずそうなっていくだけの大切な「意味」があったはずです。その行為を通して記念しつづけるべきものがあったからこそ、それは具体的な行為としての慣習になっていったはずだからです。

 

 しかし、長い時の中で人はいつしかその慣習に込められた意味を忘れて、ただその外側だけの行為だけを続けてしまいがちです。形骸化した慣習は、本来その中に込められていた大切な意味から離れて、まったく異なる意味のものとなってしまうことも多々あります。聖書の中でも「律法」がまさにそのように形骸化してしまっていました。そのような状況の中でイエスは律法の本来の意味を見失った形骸化を厳しく批判し、律法に込められた本来の意味を思い起こし、そこに立ち返るようにと促されました。

 

 私たち現代の教会ももちろん、このような形骸化の危険性を常に意識していなければならないでしょう。毎週の主日礼拝や毎月の主の晩餐式、そして毎年のクリスマスやイースターなど教会には大切にしている様々なことがありますが、それら全てには思い起こすべき大切な意味が込められているのです。そういう意味で言えば私たち教会の一つひとつの行為は慣習ではなく記念の出来事なわけですが、その記念の出来事もその中の意味を失ってしまえばやはり形骸化してしまうことに変わりはないでしょう。

 

 だからこそ、私たち教会は一つひとつの行為の意味するものを丁寧に思い起こしながら行っていく必要があるのです。今日は聖書がそのことについてどのように語っているかを出エジプト記の過越しの記事から受け取っていきたいと思います。

 

 

「過越し」の意味

 先ほどお読みいただいた聖書箇所はエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民たちが神によって導き出される際に、神が民たちに守るよう定めたことについて書かれています。神によってイスラエル解放のために立てられた指導者モーセは、エジプトを出発する前にイスラエルの長老たちを集めて次のような指示を与えました。それが21-23 です。もう一度お読みします。

 

 「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。 そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。」 

 

 神はイスラエルの民をエジプトから救い出される際にエジプト人の初子を家畜に至るまで全て撃たれるということをされています。現代の私たちからすれば「なぜ神はそんな残酷なことをなさるのか?」という当然の疑問が湧いてくるでしょうが、ここではその疑問は一度内に収めていただいて、イスラエルの民の立場からこの出来事を捉えてみましょう。

 

 イスラエルの民はエジプトの地で数百年に渡り厳しい労働を強いられ、苦難に喘いでいました。そんな彼らにとっては自分達の力でエジプトを脱出することもできず、頼れるのはただ自分達の先祖の神である主しかいなかったわけです。そんな彼らの叫びを聞かれた神はモーセという指導者を立てられ、エジプトに災いをもたらすという方法でエジプト人が自らイスラエル人をエジプトから去らせるよう促されました。

 

 エジプトにもたらされた10の災いのうち最後の災いが先ほどの「初子の死」だったわけですが、先ほどの聖書箇所にもあった通り「過越」とは「主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。」というところから来ているわけです。要するにこの主の出来事というのはイスラエル民族にとって神が自分達を救い出してくれた出来事そのものということなんですね。

 

 だからこそモーセはこの神の救いの出来事を忘れないために、思い起こし続けるために長老たちにこの「過越の儀式」を続けていくようにと命じています。それはその「過越の儀式」の行為そのものが特別なのではなくて、そこに込められた意味、つまり「神が私たちのために救いをもたらしてくださった」ということを思い起こし続けるために、言い換えれば記念し続けるための形式として大切なものであるわけです。

 

 そのことは聖書自身が語っていることでもあります。26-27にはこうあります。「また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、 こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」過越に限らず儀式の行為というものは一見すると意味不明なものですから、その意味は誰かから教えてもらうしかありません。

 

 当然ながら子供は最初はその意味をわからないわけです。そのままの状態で世代交代していけばその本来の意味は失われていってしまうことでしょう。だからこそ聖書はその行為に込められた大切な意味を失わないために、行為と共にその意味を引き継いでいくようにと語っているのだと思います。人間は覚え続けるべき大切な意味を、それを象徴する行為を通して思い起こすことができる存在だからです。

 

 

私たちにとっての意味

 そのような意味で言えば私たちもまた覚え続けるべき大切な意味があることを思い起こすことでしょう。私たちにとっての「過越」、それはイエス・キリストの十字架の出来事です。私たちはその意味を主の晩餐式という行為を通して思い起こし続けています。主の晩餐式はその行為そのものだけを見たら、パンを食べ、葡萄ジュースを飲むだけのものです。しかし、そこにはその行為を引き継ぎ続けるべき大切な意味があり、それを思い起こすためのものなのです。

 

 私たちがもしそのことを忘れて、その行為だけを淡々とこなしていくようになったのならば、もはやその行為は主の晩餐式とは呼べないものになってしまうことでしょう。私たちは今日もこれから主の晩餐式に与ろうとしています。私たちにとっての「過越」であるイエス・キリストの十字架の出来事の意味を思い起こしながら、またそこに溢れている神の恵みを受け取りながら、ご一緒に主の晩餐に与りたいと思います。

 

 神は私たち一人ひとりに語りかけてくださり、その救いの中へと招き続けてくださっていますから。