5月21日主日礼拝メッセージ  「新しい一致へ」

 

本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は創世記11:1-9です。きっとみなさん何度もお読みになったことのある箇所ではないだろうかと思います。聖書を読んだことがない人でも一度はその名前を耳にしたことがあるであろう「バベルの塔」の箇所です。今日はこの御言葉を皆さんと共に考えていきたいと思います。

 

 まず一節にはこうあります。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」。よく言語と文化は、表裏一体だと言われます。それらは互いに影響し合い人の営みを形成していきます。私たちの生きる現代で使われている言語の数は、正確には幾つ存在するのかわかっていません。しかし、数え切れないほどの多くの言語が存在し、それらの言語とともに多様な文化が存在していることは確かなことだと思います。

 

 聖書の語る原初の世界、そこでは一つの言語、一つの文化の中で人々は生きていました。それはある意味で平和な世界であったかもしれません。同じ一つの言語を使い、同じ文化の中で生きていれば、自然に同じ慣習や風習を共有し、同じような考え方が形成されていくのではないでしょうか。そこには、意見の違いは見られず、争いもなく、ある意味での一致があったのかもしれません。ですが、そのような一致は、他者との関わりを拒絶し、自分達だけで凝り固まっていくような「高慢という一致」だったのではないでしょうか。

 

3-4節にはこうあります。「彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう』と言った。」人々は天まで届く塔のある町の建設を企てます。建設する理由は、「有名になる」こと。そして、「全地に散らされないようにする」ことです。これら二つの理由から思い起こされるのは、もはや神と対話することを拒絶し、自分たちの殻に閉じこもっていく、そんな人々の姿ではないでしょうか。

 

—「自分たちにはもはや神など必要ない。私たちは一つの言葉を話し、意見は統一され、それに異を唱える者はいない。なぜなら、私たちは正しいからだ。さあ、絶対的な正しさを持つ私たちが、神以上に名をなそうではないか。そして、私たちが全地に散る必要などない。なぜなら正しさは常に一つだからである。」—そのような、人の高ぶりが象徴されている箇所ではないでしょうか。

 

自らの正しさを主張し、それを絶対化していく時、人は神との対話、また他者との対話すら拒絶し、他者との関わり合いのない世界に閉じこもろうとします。そしてまた、人は他者との関わり合いのない世界を作るために、その他者を攻撃して来ました。教会は神学の多様性によって多くの衝突が歴史の中で繰り返されて来ました。キリスト教以外の宗教に対してはもちろんのこと、同じキリスト教であっても凄惨で暴力的な弾圧や迫害が行われて来ました。教会が異なる考え方を持つ他者を拒絶し、攻撃することによって、自らの正しさを絶対化してきた歴史は否定できない事実なのです。

 

 また5-7節にはこうあります。「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう』」。ここで主は、人々が建てた塔を見られています。それは、れんがとアスファルトで塗り固められ、天へ向かって着々と建設が進んでいる状態だったかもしれません。それは言い換えれば、絶対化されていく自らの正しさを積み上げていく、人々の高慢な心、そのように言えるのではないでしょうか。

 

神は、このような人々の心を見られて、どのように思われたのでしょうか。他者との対話を拒絶した世界、神との対話を拒絶した世界に閉じこもった人々を見て、本当に心を痛められたのではないでしょうか。神が何より望んでいたのは、人間との親しい人格的な交わりでした。人が幾度となく神に背いて、罪を犯しても、神はその度に人を赦され、また新たな歩みへと送り出してくださっていました。しかし、今や人間は自らの罪を天に届かんばかりに積み上げてしまいました。

 

 神は心を痛めながらも一つの決断を下します。それは人々が話している言葉を混乱させるということでした。ここで注目したいのは、神は人々が建てた塔を直接どうにかしているわけではないというところです。神は人々の言葉を混乱させることで、塔の建設を中止させるという非常に回りくどい方法をとられています。それはなぜなのでしょうか?なぜ人々の高慢になった心を直接崩してしまわないのでしょうか?

 

私は、それは神が人間を心から愛しているがゆえに、人間に自らの過ちを自分自身で省みてほしかったからだと思うのです。このまま人間を放っておけば、人は自分で自分を止められなくなってしまう。そうなる前に、彼ら自身に気づいて欲しい。神と対話し、そして他者と対話することの大切さを。異なる意見に耳を傾けることを。そのように神は思われたのではないでしょうか。

 

 そして8-9節にはこうあります。「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」言葉をバラバラにされた人々は、塔の建設を中止したと書かれています。確かに何か建造物を建てて行くときに、それを建設する人たちの間で意思疎通が取れなかったら、とてもそれを建設していくのは無理でしょう。

 

彼らは「バベルの塔」という自分たちの絶対的な正しさを積み上げていました。しかし、神によって言葉を乱されたことによって、自分とは異なる言語を使う「他者」と対話することを余儀無くされていきました。今まで同じ言葉を話し、意見や考え方がまとまっていたと思っていた人々は、異なる言語、異なる意見、異なる考え方と出会っていきました。そして、自分たちが立て上げていた絶対的な正しさが「他者」によって揺さぶられ、崩されていったのではないでしょうか。

 

バベルの塔を建設していた人々は、言葉を乱され、その後全地に散らされて行きます。ここで、彼らがこの「バベルの塔」を建設しようと考えた理由を振り返りたいと思うのです。彼らが「バベルの塔」を建設した理由は、「有名になる」こと。そして、「全地に散らされないようにする」ことでした。それは、言い換えれば自らの考え方を絶対化し、他者との対話を拒絶していくことでした。しかし、その彼らの企ては、神による強烈な「否」を持って砕かれて行きました。

 

一見するとこの「バベルの塔」の物語は、神の「否」によって終わり、人々は混乱させられ、全地に放り出されるという、神が人を突き放すかのような形で終わっているかのように思えます。しかし、果たしてそうなのでしょうか?神が「否」とされたのはいったいなんだったのでしょうか?

 

先ほども申し上げましたけれども、神は直接、彼らが建てた塔を崩してはいません。それは、人々が自分たちだけの殻に閉じこもり、神と、そして他者との対話を拒絶して行くことを深く悲しまれた神が、他者の声に耳を傾けることの大切さを人々に示すためだったのだと思います。そして、人々が自ら他者との対話に開かれて行くものとされて行くために、まだ見ぬ全地へと押し出されたのだと思います。それは、神が私たち人間を心から愛しているがゆえに、神と、そして人間同士の交わりを何より喜ばれるという神のメッセージだったのではないでしょうか。

 

そして、そのことを思うとき、私たち自身にも問いかけられている気がするのです。私たちは自らの中で「バベルの塔」を建てているということはないでしょうか?時に私たちは自らの考えを絶対化し、異なる他者との対話を閉ざし、他者のことを知ろうとも、聞こうともしないということがあるかもしれません。そしてそれはともすると、自覚がないままにそうなってしまっているということもあるかもしれません。

 

私たちが他者との対話を閉ざしていく一番の理由というのはなんなのでしょうか?それは、「自分のことを相手が理解しくれるはずがない。同じように、相手のことを自分が理解できるわけがない。そうであれば、対話など無意味ではないか。」というような、どこか諦めに似た想いなのではないでしょうか。

 

しかし、私たち人間がお互いに「理解し続けていく対話」を続けていくとき、他者を閉ざした自分だけの一致ではなく、他者との対話の中から生まれてくる「新しい一致」が見えてくるのではないでしょうか。

 

神は誰より私たち一人一人と「対話」してくださり、そして私たちのことを深く「理解」してくださっている。このことを思い起こすとき、私たちも、私たちの持つ「誤解」や「不理解」という限界を超えて、「新しい一致」へと向かっていく一歩を踏み出していけるのだと思うのです。なぜなら神は私たちの心にいつも降ってきてくださるのですから。

5月14日主日礼拝メッセージ  「神にある自由」

 

本日皆さんと御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はダニエル書6:10-23です。ダニエル書の前半部分はバビロン捕囚の民の1人であった少年ダニエルが異国であるバビロニアにて王に徴用されながら様々な出来事を乗り越えていくという概要になっています。当然ながらダニエルの歩みには様々な困難が立ち塞がっていました。

 

 ダニエルの境遇と似た人物として創世記に登場するヨセフが挙げられるでしょう。彼もまた兄たちの妬みを買いエジプトに売られ、その地にて徐々に頭角を示し、最終的にはエジプトの宰相になった人物です。ヨセフもエジプトにおいて様々な困難に見舞われましたが、それらをなんとか乗り越えていった人物でした。ヨセフはエジプトで孤独でした。周りに自分の見知った人もいなく、困難の中でも相談できる人もいませんでした。

 

 しかし、ヨセフの側にはいつも神が伴っておられその時々必要な助けを備え、またある目的のために神がヨセフを用いられたことを彼は後になってこう告白しています。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。 …神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。」

 

 ヨセフはなぜ自分がこのような困難に見舞われているのか、その意味がずっとわからなかったと思います。しかし、エジプトの地で何十年かぶりに兄たちと再開したとき初めて自分の困難の意味を受け取ることができたのだと思います。ヨセフのこの言葉は彼自身の信仰告白です。神は時に長い時間をかけて私たちに出来事の意味を示し、そのことで私たちを信仰の告白へと導かれるのだと思います。

 

 さて、ダニエルもまたヨセフと同じように困難の中にありました。このとき彼は王の側近とも言える3人の大臣のうちの1人になっていましたが、他の大臣やその他国の権力者たちから妬みを買い陥れられようとしていました。しかし、ダニエルの仕事ぶりには陥れられるだけの材料がないと見た彼らは一計を案じます。ダニエルが毎日神に祈っていることを咎めるような法を王に作らせて、その法に違反した罪をダニエルに背負わせようとしたわけです。

 

 彼らは実に狡猾なやり方でダニエルを陥れようとしたわけですが、当のダニエル本人は彼らのこの企てを知っていたようです。11節にはこうあります。「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。 

 

 ダニエルは明らかに自分を陥れるために作られた法の存在を承知で、しかもその法は王が署名したものであることも知った上でその法を破っています。しかもダニエルは「開かれた窓際で祈った」とありますから法に違反する瞬間を目撃されるのを承知の上で堂々と祈っていたということになります。このようなダニエルの姿と対照的な人物がいます。

 

 それがこの法を発布した張本人であるダレイオス王です。彼はダニエルを非常に重用し、ダニエルに王国全体を治めさせようとまで考えていました。しかし、そんなダニエルを陥れるための法とは知らないまま署名し、法を発布してしまった彼はダニエルがその法に違反し、窮地に陥ったことを知った段になってあわててダニエルを救おうと試行錯誤し始めました。

 

 ですが、彼は役人にこう言われてしまいます。「王様、ご存じのとおり、メディアとペルシアの法律によれば、王による勅令や禁令は一切変更してはならないことになっております。」 彼は王といえども完全に自由な存在ではなかったということです。彼は彼自身が署名した法によって縛られていました。王は自分で自分を不自由な存在にしていたのです。

 

 そのような王の姿に対してダニエルはどうだったでしょうか?ダニエルは自分で自分を不自由にすることなく、またあからさまに他者を陥れるためだけに作られた法からも自由に振る舞っていました。彼は真の自由というものがどこから来るのかを知っていました。それはただ唯一神のみから来ることをダニエルは確信していたからこそ堂々と神に対して祈りを捧げていたのだと思います。

 

 しかし、このダレイオス王とダニエルのあり方の対比には私たちにあることを思い起こさせるのではないでしょうか。すなわち、私たちはダニエルのように神のもとに自由に振る舞いたいと願いつつも、しかし現実の様々な場面でダレイオス王のようになってしまっていることが度々あるのではないかということです。この2人のあり方の対比はこうありたいと願いつつもそうはなれない私たちの心の葛藤を表してもいるでしょう。

 

 私たちは生きている中でどこか窮屈に感じることがあったりするのではないでしょうか。そう感じるのは様々な原因があると思いますが、その原因を辿っていくと往々にして「こうしなければならない」や「こうでなくてはならない」といった「すべき論」のようなものに行き着くのではないでしょうか。ダレイオス王もきっと同じような思いになっていたのではないでしょうか。

 

 「ダニエルを救うために法を変えたいが、『法を変更してはならない』という法を守るべきだろう」と。ですがよくよく考えれば本当にそれは守るべきものだったのか疑問です。というのもこの法は大臣たちがダニエルを陥れるために作らせたものであって、一部の人間の非常に私的な欲望から生まれた法であるわけです。そのことはダレイオス王もダニエルが窮地に追いやられた段階で気づいたことでしょう。

 

 そのような法とも呼び難いものを、たとえ『法を変更してはならない』という法があったとしても律儀に守るべきだったのでしょうか。人間の法や慣例というものはそれが間違っているときや無意味になったときいつでも変えることができるものなのではないでしょうか。ましてや彼は王ですからそのような法を変える決断を現実的に試みることができる立場にいたわけですから。

 

 彼が自分で定めた法を変えることができないとしてしまったのは、自分自身の思い込みであった部分も大きかったのだと思います。彼は変えることができました。自分自身を縛る鎖を断ち切って自由になることができました。しかし、そうはできませんでした。対してダニエルとは神が与える自由を信じていました。そして自由を与える神がご自身をその愛と憐れみにおいて変えることができる方であることも知らされていたでしょう。

 

 神はご自身が定めた裁きでさえその愛と憐れみによって変えることができる自由さを持ったお方です。そんな神を知らされていたからこそダニエルは神のもとにある自由を信じぬくことができたのでしょう。彼が獅子の洞窟から出てきた後の言葉はまさに彼の信仰告白そのものだと思います。神の持つ自由さは私たちをもまた自由にします。そのことを信じて私たちは変わること、変えることを恐れることなく歩んでいきたいと願います。

5月7日主日礼拝メッセージ  「わたしが示す地に」

 

2023年度の歩みが始まってから1ヶ月が過ぎました。今年度からは世間的にもまた教会としても前年度までとは違った動きが出てくるものと思われます。というのもこの数年間私たちに多大な影響を与え続けてきたコロナが落ち着きを見せ始め、様々なことが緩和されつつあるからです。私たち教会も無論、多くの影響をコロナによって受けてきました。

 

 コロナの感染が激しかった頃にはリモートでの礼拝や祈祷会の休止など私たちが今まで体験してこなかったことを否応なしに体験させられたこともあったと思います。私たちはこれからコロナ以前の教会へと戻っていくべきなのでしょうか?それともコロナを超えた先へと一歩を踏み出していくべきなのでしょうか。私たちは今岐路に立っています。

 

 そのことは私たち大村古賀島教会としてももちろんですし、私たちが加盟する地方連合やバプテスト連盟、さらに言えば日本のキリスト教会全体もそうだと思います。私たちはこれからの教会を考えていかなければなりません。しかし、そのためには多くの課題や問題と向き合っていかなければなりませんし、それは容易なことではありませんし、多くの時間がかかることでしょう。

 

 そうれあるがゆえに私たちはそのあまりの途方もなさについ安易な道を選びとりたくなってしまうかもしれません。私たちにとっての安易な道とは今抱える課題や問題から目を背け続けて、今までの在り方に固着してしまうことでしょう。そこには確かに一定の安心はあるのかもしれません。今まで通りの慣れ親しんだ場所は居心地がいいからです。

 

 しかし、それはあくまで現在の話です。これからもそのことが保証されているわけではありません。いえ、むしろ、今の現状を考えればこのままの在り方を続けても事態が好転する未来はあまり見えてきません。私たちは今そのような場所に立っているということを受け止めなければなりません。そうした時初めて神が私たちをどのような道へと導こうとされているのかが見えてくるのだと思います。

 

 今の私たちと同じように今日の聖書箇所で語られるアブラムもまた人生の大きな岐路に立たされていました。アブラムはイスラエル民族の祖として有名な人物ですが、彼はもともとイスラエル地方出身の人物ではありませんでした。彼はイスラエルから見て遥か東のメソポタミア地方のカルデアのウルという場所が故郷でした。聖書が記す古代世界では自分の生まれ故郷から一歩も外に出ずに一生を終えるということも決して珍しいことではなかったでしょう。

 

 アブラムもおそらくカナン地方に向けて出発するまでは故郷のウルを出たことはなく、そこで家族と共に生活してことと思います。またアブラムは一説によると裕福な遊牧民の家の生まれであったとされています。つまり、ウルはアブラムにとって非常に居心地の良い安心できる場所であったのだと思います。しかし、そのように居心地の良い場所で安心できる家族と共に暮らしていたアブラムに一つの転機が訪れます。

 

 アブラムの父であるテラがアブラムも含めた自分の家族を引き連れて、突如故郷であるウルを出発し、ハランという場所へと旅立ったのです!このテラの旅立ちの理由について聖書は特に記してはいません。ただテラはハランに辿り着くと、そこに留まりテラはその生涯をそこで終えたことだけが語られています。アブラムにしてみればこのテラの突然の故郷からの出発には驚かされたと思います。

 

 なぜわざわざ居心地のいい故郷での暮らしを捨てて旅立っのか?アブラムは父の思いを理解できなかったかもしれません。そのように考えるとある意味でアブラムは否応なく故郷から離されてわけもわからない場所へと連れてこられた被害者とも言えるかもしれません。ハランという見なれぬ地での生活の中でアブラムはどのようなことを考えながら過ごしていたのでしょうか。

 

 父であるテラがなくなってアブラムは自分の故郷であるウルに戻るということを考えたかもしれません。なぜならウルはアブラムにとって長い間慣れ親しんだ故郷であり、とても居心地の良い場所だったからです。父に連れられて半ば強制的にハランに来たアブラムにしてみれば故郷に戻るという選択はごく自然なものであったでしょう。

 

 しかし、そんなアブラムの心を揺らがせるような出来事がここで起こっています。12:1-4にはこうあります。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。』」

 

 ここで神はハランからウルに戻ろうとするアブラムに語りかけています。そしてその内容は「父の家を離れて、自分が示す地に行く」ように招くものでした。神は故郷に戻ろうとするアブラムをむしろさらに見知らぬ地へと招いているのです!アブラムにとってこれは父に連れられてウルを出た時以上の驚きがあったかもしれません。そしておそらくアブラムとしてはこの招きに応じてまた見知らぬ地へ行くよりかは、出来れば故郷であるウルに戻りたいという思いが強かったのではないかと思います。

 

 それほどまでに人間は自分の慣れ親しんだ場所や環境というものは居心地がいいからです。アブラムも1人の人間です。そのように思ったとしても無理からぬことだと思います。ですがアブラムは最終的に故郷に戻る選択はせず、神の言葉に招きに従ってハランを出発し、神の示す地カナンへと旅立っていきます。なぜ彼は居心地の良いウルに戻らずにどんな場所かもわからないカナンへと向かう決断をしたのでしょうか?

 

 それはアブラムが故郷ウルを慣れ親しんだ場所と思いつつも、心のどこかで将来への閉塞感を感じていたからではないでしょうか。それゆえに見知らぬ地でありながらも今抱える閉塞感を突破して新たな場所へと導こうとする神にアブラムは賭けたのだと思います。

 

 このアブラムの旅立ちの物語はどこか今の私たちと重なってくるところがあったりするのではないでしょうか。私たち教会はコロナという未曾有の経験をしました。コロナ禍という出来事は言うなれば自分たちの思いとは関わりなく強制的に今までいた場所から引き離されるようなものだったことでしょう。それは自分の故郷ウルから父によって見知らぬ地であるハランに連れてこられたアブラムの状況と似ています。

 

 そのような意味で今私たちは分岐点である「ハラン」にいるのだと思います。アブラムには二つの選択肢がありました。慣れ親しんだ居心地の良い、しかしどこか閉塞感のあるウルに戻るか、それとも見知らぬ地でありながらも新たな恵みを備えると神が約束された場所へと向かっていくのか。私たちの応答を神は待っておられます。

 

 「これからの教会はどこに向かうべきなのか?」この問いはこれまで幾度となく多くの人々が考えてきましたが未だ明確な答えは出ていません。いえ、この問いに対する明確な答えなどもともとないのでしょう。だからこそ、私たちは共に「神が今私たちに示す地」を聞きつつ、一歩一歩進んでいきたいと願います。例え選び取った道で私たちがつまずいたとしても、神は何度でも私たちと助け起こしてくださり新たな力を与えてくださいますから。