3月27日主日礼拝メッセージ  「出会いを覚え続ける」

 

再びの出会い—啓示の経験—(2)

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はマルコによる福音書9:2-10です。イエスが三人の弟子たちを連れて山に登られる場面です。この箇所はもともと有名な箇所ですが、語られている内容の不可思議さから特に印象に残っている方も多いのではないでしょうか?確かにこの箇所で語られていることを字面通りに受け取るのは、現代に生きる私たちからしてみれば現実離れしすぎていてなかなか難しいと思うかもしれません。

 

 しかし、この箇所が語ろうとしている本質は、現代の私たちもまた確かに経験したことに関係しているものだと思います。だからこそ、私たちはこの箇所が語りかけていることを丁寧に受け取っていくことが必要です。この箇所を「なんとなく不思議な物語」で終わらせるのではなくて、今を生きる私たちに、自分自身に引き寄せて読んでいくことが大切です。なぜなら、それこそが「御言葉を聞く」ということであり、聖書を読むことの意味だからです。

 

 さて、イエスはこの場面で三人の弟子だけを連れて高い山に登られました。この三人の弟子たちとは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネであり、イエスが最初に弟子として招かれた四人のうちの三人です。またこの三人は聖書の中でも登場頻度が高く、特にペトロはイエスの一番弟子だからか、いくつもの印象的なエピソードが聖書中に収められています。また、ヤコブとヨハネもペトロほどではありませんが、12人の弟子の中でもその名前が登場することの多い二人です。

 

 そう考えると、イエスがこの三人だけを連れて山に登られたのは、この三人が特別に選ばれた人物たちだからだと思うかもしれません。確かにそういったことは少なからずあったのだと思いますが、しかし、この三人がここで選ばれた理由は、特別この三人の信仰が厚いからとか、能力が高いからといった理由ではないように思えます。というのも、神の選びというものはいつも一方的な神の自由な意志によるのであって、そこに対象の能力は関係ないからです。旧約聖書ではアブラハムをはじめ、多くの人物が神に見出され、選ばれたものとしての歩みを歩んで行きましたが、しかし、そのすべては神の自由な選びによるものでした。

 

 なぜなら、中には私たち人間の視点で言えば、とても相応しくないと思えるような人物でさえ、神は時に選ばれ、ご自分の働きのために用いられるからです。その例で言えばパウロがわかりやすいでしょうか。彼はイエスを信じる者を迫害する急先鋒でしたが、神との出会いによってその生き方を180度変えられて、それまでの生き方とは真逆の福音を宣べ伝える者として用いられていきました。

 

 このように、神の選びというものはいつも自由な神の意志によってなされていくものだということがわかると思います。だからこそ、この場面の三人の弟子たちをイエスが選ばれたことも、彼らが特別だったわけではなく、神が何らかの意図でこの三人だけを選ばれたということになるでしょう。では、その理由とは何なのでしょうか?その理由を考えること自体、ナンセンスなことはこれまで確認してきたことで明らかですが、しかし、神は何らかの意図をもって選びをなされるということだけは確かなことだと思います。

 

 イエスはこの時、この三人と共に山に登られることで、何かを彼らに示されたかったのではないでしょうか?聖書では高い山というのは、神が臨在される場所とされています。モーセもシナイ山で神から十戒を授かりましたし、預言者エリヤもカルメル山という山で神を呼びました。つまり、聖書で山が登場した時には「神との出会い」の時を表しているということです。

 

 だとすれば、イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネと共に山に登られたのは、彼らを神と出会わせるためだったと考えることができるでしょう。しかし、ではなぜこの三人だけだったのでしょうか?神との出会いであれば12弟子全員を連れて行かれても良かったのではないでしょうか?なぜそうされなかったのかというのもまた私たちには計り知れないことですが、「神との出会い」というものが人それぞれにその時もあり方も違っているように、この場面ではこの三人にとっての神との出会いだったということなのだと思います。

 

 

小屋を建てる—記念として覚え続ける—(3-6)

 さて、そんなイエスに連れられた三人が山に登り終えると、彼らの目の前では不思議な光景が広がり始めます。2節後半から4節にその光景が語られています。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」 ここでは唐突に物語が展開していきます。

 

 イエスの服が輝きだし、そしてエリヤとモーセという旧約時代の人物が現れ、しかもイエスと語り合うという信じ難い光景をペトロたち三人は目撃することになりました。私たちはもちろんですが、直接目撃した彼らの驚きと衝撃は大層大きなものだったでしょう。6節にはペトロは、どう言えばよいのか分からず、他の弟子たちも非常に恐れていた、とあります。 

 

 このことからも、彼らの目の前で起こった出来事は普通でないことがわかります。では、この出来事には一体どんな意味があったのでしょうか?それを解釈するためにはイエスの輝きの意味と、エリヤとモーセの登場から考えていかなければならないでしょう。先程、聖書で山が登場した時には「神との出会い」の時を表していると言いましたが、それはこの場面もまた同様のことなのだと思います。

 

 だとすれば、イエスの輝きは神の臨在を表しているものでしょう。また、モーセとエリヤの登場は彼らもまた「山」で神との出会いを経験したことに関係しているのだと思います。そしてイエスがモーセとエリヤと語り合われたことには、神が人と同じところにまでへりくだり、人間と親しい関係を築かれるということが示されているのだと思います。

 

 これらのことから、一見不思議な光景にしか思えないこの箇所はこのように解釈できるのではないでしょうか?神は人それぞれに神との出会いの時を備えてくださっており、その時私たちは神が確かにおられるという確信と、そしてその神は私たちと同じところにまで降ってきてくださり、私たちと共に歩んでくださる方なのだということを同時に示されるのではないでしょうか。

 

 ペテロ、ヤコブ、ヨハネもまた同じように受け取ったのではないかと思います。しかし、神との出会いというものは言葉で表現し難いものであることもまた事実でしょう。彼らもまた「どう言えばいいのかわからなかった」とあります。ですが、彼らはそんな中でも「小屋を建てる」ことをイエスに提案しています。「小屋を建てる」というのも文字通りに受け取るよりも象徴的な行為として解釈した方がよいでしょう。

 

 つまり、「小屋を建てる」とは、神との出会いの出来事を記念して覚え続けるということを示しているのだと思われます。そういう意味で言えば私たちもまた「小屋を立て」続けていると言えます。毎月の主の晩餐式も、毎週の主日礼拝も、そして日々祈ることも、神との出会いを思い起こし続けることであり、同時に新たな神との出会いの時でもあります。そのことで私たちは神へと目を注ぎ続けていくことができるのです。

 

 

「これに聞け」—イエスに聞き続ける—(7-10)

 しかし、そのことには何より必要不可欠なものがあることをまた聖書は語っています。7節にはこうあります。「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」「これに聞け」とある通り、私たちは聖書に、御言葉にイエスに聞き続けなければならないこともまた聖書から示されています。そのことで私たちは新たな神との出会いへと導かれ、神と出会い直すことができるでしょう。神はいつでも私たちを新たな出会いの場である山へと招かれて、そして親しい関係を結ばれたいと願っておられますから。

3月20日主日礼拝メッセージ  「想起の祈り」

 

本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所は詩編31:1-25です。詩編は様々な祈りが集められた書物ですが、この詩編31編は窮地からの救いを求める個人の祈りとして語られています。このような窮地の中にある人の切なる祈りは他の詩編でも多く見られるものですが、この31編はイエスが十字架上で祈られた最後の祈りにおいて引用された「主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。」という箇所でも有名です。

 

 十字架上という究極の窮地ともいえる苦難の中にあってもイエスはこの祈りを祈られました。それは、彼の限りない神への信頼の表現であり、信仰そのものでした。この詩編の作者もまた窮地における神への信頼を語っていますが、しかし、その信頼、信仰はやはりイエスのものとは違っています。なぜなら、この詩編の作者もまた私たちと同じ人間であり、限界を持った弱く脆い存在だからです。

 

 そういう意味で考えれば、この詩編の祈りは私たちにより深く関係するものとして受け止めることができるのではないでしょうか?相変わらずこの31編もいくつかの他の箇所と同様にダビデの詩とされていますが、歴史上のダビデ本人がこの詩を作ったのかどうかはさほど問題ではありません。重要なのはこの祈りの詩から私たちは何を御言葉として聞き取るのか?だと思います。

 

 そしてその御言葉を聞き取るには、この祈りを他者のものとしてではなく、自分自身のものとして受け取っていく必要があります。私たちは人生の中で様々な苦難の時、痛みの時を否応なく経験すると思います。それらに全く同じ経験はなく、それぞれ違っていますが、しかし、それが自分自身にとっての窮地の時であったことは間違い無いと思います。そのような時を思い起こしながら、私たちは今日のこの箇所を読んでいきたいと思います。

 

 2-6節「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。 あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。 あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。」

 

 この詩篇の祈りはまさに切羽詰まった窮地の中にある者の叫びとして始まっています。このことから、作者がいかに危機的な状況にあるかが窺えます。私たちはそんな状況であれば、誰でもいいから助けて欲しいという思いもあるかもしれません。なんとかこの状況から脱するために藁にもすがりたいという思いは多かれ少なかれ誰でもあったりするものでしょう。

 

 しかし、この作者の祈りはただ一点だけに、神のみに集中しています。このことは詩編全体の、いえ聖書全体のテーマといっても過言ではありません。私たちは窮地に置かれた時、あらゆる手段でそこから逃れようとするでしょう。それ自体は自然なことですし、やむを得ないことだと思います。しかし、聖書はそんな状況に助けを与えてくださるのは、ただ神のみであることを語ります。

 

 私たちに訪れる窮地の中に真の救いをもたらすのは神であることを作者はこの詩を通して語っています。神にのみ助けを求め、その救いを確信しています。そして、神の慈しみを喜び、賛美までしています。しかし、一方でその窮地は依然として作者から去ってはいません。作者は今も窮地の只中に置かれています。現実的な彼の置かれた状況は少しも好転してはいないように思えます。

 

 10節からの言葉を見ると、好転するどころか悪化しているような印象さえ受けます。この詩編の作者はなぜますます悪化していくような窮地の中にあってもなお神に祈り、その助けと救いを求め続けるのでしょうか?この作者の祈りは祈りが聞かれることを確信して疑わないかのようなものに聞こえます。それは彼が限りなく信仰深く、強い心をもっていたから、そうできたのでしょうか?

 

 もしそうだとすれば、「信仰」とはその人の心の強さということになり、その人の努力次第で増減するものになってしまいます。つまり、その人自身の「信じる心を信じている」ということになってしまいます。しかし、聖書は「信仰」とはそのようなものではないということをここでもまた語っています。15節「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/『あなたこそわたしの神』と申します。 」この言葉に表れている通り、この作者が信じているのは自分自身の心ではなく、ただ神ご自身であることを告白しています。

 

 聖書が語る信仰とは言い換えればここで言われている通り「神への信頼」です。しかし、それだけではその信頼というのも、その人自身の「信じる心を信じ、頼っている」ということになるのではないか?という疑問も残り続けると思います。その疑問の答えを探すためには、この詩編の作者が神にどのように祈っているかを見ていくことが必要だと思われます。なぜなら、そこにこそ「自分自身の信じる心を信じる」ことと、「神に信頼する」ということの違いが明確に表れているからです。

 

 そのことはこの詩編のいくつかの箇所に表れています。まず8-9節を読んでみます。「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。 わたしを敵の手に渡すことなく/わたしの足を/広い所に立たせてくださいました。」そしてもう一箇所20-21節「御恵みはいかに豊かなことでしょう。あなたを畏れる人のためにそれを蓄え/人の子らの目の前で/あなたに身を寄せる人に、お与えになります。 御もとに彼らをかくまって/人間の謀から守ってくださいます。仮庵の中に隠し/争いを挑む舌を免れさせてくださいます。」 

 

 この二箇所を改めて読んでみて皆さんはどのような印象を受けるでしょうか?まるですでに窮地から救い出された後の感謝の祈りのように聞こえたりはしないでしょうか?しかし先ほども言いましたが、この詩編の作者は未だ窮地の只中にあります。ゆえにこの祈りは救いが与えられた後の感謝の祈りではないということになります。ではなぜ作者は窮地の只中にありながら、すでに神の助けを受けたものとして祈っているのでしょうか?

 

 それは作者が祈りによって、彼が信頼する神の正しい姿を想起するためなのだと思います。つまり、この祈りは彼がこれまでの人生の中で経験してきたあらゆる窮地や苦難から救ってくださった神の姿を思い起こすための祈りだということです。そのことが彼の神への信頼を確かなものにしていくのでしょう。そのことは言い換えれば、神が私たちを助け、救ってくださるという「神の真実」「神のまこと」が、窮地の中であっても神への信頼の中で生きる私たちを創り上げていくということだと思います。

 

 このことが「自分自身の信じる心を信じる」ことと、「神に信頼する」ということの違いなのだと思います。前者は自分自身しか見ていませんが、後者は神の私たちに対する愛と真実に目が注がれています。そのことはより簡単に言えば、「私の運命は神の御手の内にある」ということを受け入れた上で、自分自身を神に委ねるということだと思います。

 

 今、私たちは、人類は大きな窮地の中にあると思います。コロナ禍、それによって引き起こされる分断、そして分断の極地とも言える戦争の脅威は世界中を覆っています。しかし、私たちはそんな窮地の中にあっても、聖書から私たちを確かに救ってくださる神の姿を知らされ、またその救いの経験を思い起こすことができます。そのときに私たちは全てを神に委ねつつ、今現在を神に信頼して歩んでいくことができるでしょう。神は私たちにいつも慈しみとまことを尽くしてくださいますから。

3月13日主日礼拝メッセージ  「祈りの力」

 

「悪」とは何か?(10-13)

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はエフェソの信徒への手紙6:10-20です。まず10-13にはこうあります。「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 

 

 このエフェソの信徒への手紙の特徴の一つとして読み手に対する様々な勧告がなされているというのがあります。この箇所の少し前を見てみると、妻と夫の関係や、子と親の関係、そして奴隷と主人の関係についてなどの人間関係に関する勧告や、さらにその前には信仰について、すなわち神との関係についての勧告がなされているのが特徴的です。それら全ての後での最後の勧告がこの箇所なわけですが、最後はそれまでのものとは違い、「悪」と呼ばれるものについての勧告で締め括られています。

 

 そのために大切なこととして著者は、神により頼むこと、そして神の武具を身に着けるよう勧めているのです。ところで「悪」とは一体どのようなものでしょうか?漠然と「悪」と言われてもいまいちピンとこないかもしれません。「悪」という抽象的かつ大きすぎる概念に明確な定義を当てはめることは土台難しいかもしれませんが、しかし、「悪」について言及されている箇所を解釈するにあたって、ある程度の定義付けは必要なことでしょう。

 

 そのことを考えるにあたって、聖書において「悪」と対極をなすものとして書かれているものから考えてみたいと思います。それは聖書中で何度も登場する言葉である「神の義」です。「神の義」が表すのは文字通り神の正しさなわけです、そして神がその正しさゆえになされたことが、イエスを私たち人間の救いのために遣わされたことであり、そのことは神と人との関係の回復の出来事でした。

 

 そのように考えると、「神の義」とは関係を回復させるもの、あるいは関係を繋いでいくものと言えるのではないでしょうか?そうであれば、「悪」とはその逆、すなわち関係を破壊するもの、あるいは関係を断絶させるものと定義できるのではないでしょうか?そしてそうであるならば、「悪」とは私たちの周りに今も確かに存在しているものとして感じられては来ないでしょうか?

 

 今、この世界には「悪」が蔓延しているように思えます。コロナ禍の影響は人間同士の分断を一掃表面化させ、また加速させたように思います。その中でも最たるものが、今現在起こっているプーチン政権のウクライナ侵攻だと思います。戦争は暴力で相手を屈服させることであり、そのことは関係を著しく破壊してしまいます。また戦争は互いを理解し合い、共に歩んでいく道とは対極にある行為です。

 

 相手を理解するということを早々に放棄して、暴力で全てを解決しようとする最も原始的で愚かな行為が戦争です。そうであるがゆえに戦争は聖書で示されているところの「悪」と断じても良い行為だと言えるのではないでしょうか?私たちが示されている「神の義」は破れた関係を回復させ、互いを相互理解へと導くものです。そのことと対極にある戦争は聖書が指し示す「悪」と呼ばれるものの一つなのだと思います。

 

 しかし、そのような「悪」は往々にして強大でとても対抗できるものではないように感じられるでしょう。「戦争」というものは私たち一個人の思いを飲み込んで、進行していくような、まさに聖書が語る「悪魔の策略」のように感じられるものでしょう。この手紙の著者も「悪」について、おそらく同じように感じていたのではないかと思います。彼は「悪」に対抗するということについてこう言っているからです。

 

 「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 」著者がこう語っている通り、私たちが対抗しなければならない「悪」とはとても私たちの手には負えないような、あるいは、あたかもこの世界を支配しているかのようなものとして私たちの目の前に現れるものだということです。そうであるがゆえに私たちは「悪」に屈服し、その支配に隷属するしかないのでしょうか?

 

 それは、私たち人間の力を頼みとするならば、あるいはそうかもしれません。私たち人間は「悪」に対してあまりにも無力です。人の力が「悪」に対して抗う力を持たないのは、著者が語った通りです。しかし、著者はまたそんな「悪」に対して無力な人間にこそ、神の武具が備えられていることを語ります。

 

 

神の武具を身につけて(14-18)

 著者はそんな大きすぎる「悪」に対抗する術として「神の武具」を身につけるようにと勧めます。逆に言えばこれらのものがなければ、私たち人間は「悪」に対して何ら対抗することができないことを聖書は語っています。著者が最初に語った「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」とは、神に信頼し、神が備えてくださる「武具」を身に纏って生きることを意味しているのでしょう。

 

 では、神が私たちのために備えてくださっている「武具」とはどのようなものなのでしょうか?一つずつ見ていきたいと思います。まず最初に挙げられているのは「真理」です。「真理」とは言い換えれば「神の真実」です。私たち人間にはその「神の真実」を完全に理解することはできませんが、しかし、教会には聖書を通してその「神の真実」が断片的に示されています。

 

 私たち教会はその神の真実の断片を繋ぎ合わせることで、「神の真実」を垣間見ることが許されています。そのことは言い換えれば、聖書の言葉から神の御言葉を受け取っていくことでもあります。御言葉は私たち教会を力づけ、「悪」に対抗するための活力を与えます。

 

 二つ目は「正義の胸当て」です。「正義」とは「神の義」であり、先程確認したように「悪」とは対極にあるものとして語られています。私たちは、この「神の義」のゆえに救われ、生かされています。そしてまた教会は「神の義」によって建てられ、守られています。

 

 三つ目は「平和の福音を告げる準備という履物」です。聖書が語る「平和」はただ単に表面上の争いがないだけではなく、神と人、そして人同士の関係がどこにも歪みのない綺麗な円のようになっている状態を指しています。だからこそ、平和を伝える福音を私たち教会は伝えるように神から託されています。なぜなら、神の示す平和が実現するところがまさに「神の国」であるからです。

 

 そして、四つ目は「信仰の盾」です。「信仰」は「神への信頼」です。それは、私たちを支える土台であり、あらゆる状況において必要不可欠な文字通りの「盾」です。そしてそれに加えて「救いの兜」と「霊の剣」があります。「救い」は私たちに示されている希望であり、そして神の言葉はこの世では圧倒的と思える「悪」を裁く神の力そのものです。

 

 これら全てのものが私たちには、教会には備えられています。それは私たちに与えられた「神の武具」です。しかし、この武具は人を殺すための、戦争のためにあるこの世の武具ではありません。そうではなくて、私たちにはどうすることもできないような「悪」に対抗するための神が備えてくださった賜物であり、恵みです。

 

 そしてそれらのものは教会が祈りを合わせる時にのみ使うことが許されるものだということを覚えておきたいと思います。私たちは大きすぎる「悪」に対して無力感を覚えることもあるかもしれません。しかし、私たちには祈りによって与えられる「神の武具」が備えられています。私たちが祈り続ける限り、神はその祈りに応え、私たちに確かな助けを備えてくださいますから。

3月6日主日礼拝メッセージ  「苦しみの理解者」

 

「ふさわしい」苦しみ(10)

今日からイースターまでの四十日間は受難節です。イエス・キリストが歩まれた受難の出来事を思い起こしながら過ごす期間です。今日はそのことを心に留めながらご一緒に聖書から御言葉を聞いていきたいと願います。本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はヘブライ人への手紙2:10-18です。この箇所ではイエスが受けられた苦しみについて語られています。

 

 最初に10節にはこうあります。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」まず、「苦しみを通して完全なものとされる」というのはどういう意味でしょうか?実はここにこそ、この箇所が語りかけてくる御言葉の本質があるのですが、そのことは最後に考えることにしましょう。

 

 ここではまずイエスが苦しまれることは必要不可欠であったということを語っています。そしてその結果としてイエスが完全な者にされるとあるのです。さらにその目的は「 多くの子らを栄光へと導くため」、つまりは私たち人間を救いへと導くためであったということがこの箇所で前提事項として宣言されているのです。ですが、ここで語られていることには大いに疑問も残ります。

 

 というのも、「神であるイエスが完全なものだというのはわかる。その完全なる神が私たち人間を救ってくださると言うのもわかる。しかし、その神が完全になるためになぜ神は苦しまなければならないのか?」という疑問です。私たちクリスチャンはイエスが苦しまれたというそのことをもはや当たり前のこととして受け止めてしまっていて、その特別性を忘れてしまっている時がありますが、このヘブライ人への手紙が書かれた初代教会の時代では、そのことは人々をつまづかせるに十分過ぎるものでした。

 

 つまり、初代教会の人々にとってイエスが受けられた苦しみに何の意味も見出すことができなかった、誤解を恐れず言えば「苦難のキリストが一体何の役に立つのか?」という疑問を抱いていたということです。人々のそんな疑問に対して、しかし、ヘブライ人への手紙の著者はむしろその苦しみにこそ大いなる意味があったことを語り始めます。その苦しみがなければ、私たちの救いにつながっていかないことを神はこの手紙の著者を通して私たちに語りかけているのです。

 

 では、そんなイエスが受けられた苦しみの意味とはどのようなものだったのでしょうか?そのことを考えるにはイエスがどのような方だったのかを思い起こす必要があります。イエスは私たち人間の罪を贖うためにこの地上に人として来られました。そしてその使命は神に背を向け、傲慢になってしまった人間と神との関係を回復させるためだったわけです。つまり、イエスは神と人との間に立つ者であるということです。

 

 しかし、その使命を完遂するためには神の生と人間の生、双方に深く参与する必要がありました。なぜなら、そうしなければ、神のもたらす関係の回復の出来事というのは一方的な押し付けになってしまうからです。対立する双方の間に立つ時に一方の事情だけ把握して、もう一方の事情を把握せずにする和解は真の和解とは呼べないでしょう。そのことと同じように、神は一方的に押し付けるような和解の道を選ばれませんでした。

そのために神がなされたことが、イエスを人間としてこの地上に遣わすということだったわけです。そうすることで、神は私たち人間への限りない「理解」を示してくださいました。先程の喩えで言えば双方の立場に立って、双方を近づけて、双方の事情を深く理解しようとされたということです。

 

そのことは、フィリピの信徒への手紙の2章の言葉にも表れています。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 

 この箇所で言われている通り、イエスはどこまでも神に従順であり、同時に人間への限りない理解を示された方でした。しかし、そのために必要だったことがまさに「苦しみ」だったわけです。なぜなら、イエスは人間の苦しみや痛みをご自身で受けられたからこそ、そのことを完全に理解することができるからです。

 

 

「兄弟と呼ぶことを恥としない」とは?(11)

 そのことをヘブライ人への手紙の著者は次のように書いています。「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、 『わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』と言い、 また、『わたしは神に信頼します』と言い、更にまた、『ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます』と言われます。 

 

 ここでいう「兄弟と呼ぶ」ということの意味は私たち人間と完全に一体となってくださるということです。イエスは私たち人間が抱える拒絶、痛み、苦難、そして死を自ら経験されたので、イエスの生は人間の悲惨と抑圧の全てに及び、そしてそれら全てを理解できるということです。そのことにおいてイエスは私たち人間の痛みの兄弟となってくださいました。だからこそ、イエスの苦しみは「ふさわしい」ものとされたわけです。

 

 そのことが、イエスを神と人との関係を取り継がれる大祭司とならしめたことを著者は語ります。実際、イエスはここで語られている通り、神の福音を人々に告げ知らせ、十字架に至るまで神を信頼し、そして私たち人間を救いへと導いてくださいました。しかし、その救いは上から下へと一方的に押し付けるようなものではなくて、むしろ、人間の究極の痛みや苦しみの象徴である十字架へと向かっていかれた、低みからの救いだったことを私たちは知らされています。

 

 イエスは私たちと同じ、弱く脆い体を持って、この世界に来てくださいました。それはこれまで見てきた通り、人間の抱えるあらゆる苦しみや痛みや悲惨をその身をもって経験され、それらを理解するためだったわけですが、最後にもう一つ、人が抱える究極の恐れとも言えるものについて語られています。14-15節「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」

 

 私たち人間の抱える究極の恐れ、それは「死」です。ここで言う「死」とは肉体の滅びでもあり、同時に関係の断絶によって起こる存在の忘却をも意味しています。人間は本能的に「死」を恐れます。それゆえにその恐れによって、私たち人間はその不理解性を押し付けあい、互いに傷つけあい、そのことで私たちの不理解性はさらに深くなっていきます。そしてそれこそが聖書で語られる「罪」と呼ばれるものだと思います。

 

 私たちはその罪の故に、神に背き、互いに傷つけあい、神と人、そして人と人との関係を壊し続けています。そんな私たちの力では拭いようのない罪を贖ってくださるためにイエスはこの地上に私たちと同じ姿をとって来られ、そして私たちが受けうるあらゆる苦しみを通られました。イエスの苦しみの意味とは、私たち人間とその痛みや苦しみを共有することにありました。それが冒頭の疑問の答えではないでしょうか?

 

 そうであるからこそ、イエスは私たちの救い主であり、神と人とを繋ぐ大祭司なのです。今日から始まるこの受難節の時、私たちはイエスが苦しまれた意味を今一度思い起こしつつ、また今現在痛みや苦しみの中にある人々のことを覚えつつ過ごしていきたいと思います。イエスはいつも痛みや苦しみの中にあるものと共におられますから。