1月30日主日礼拝メッセージ  「独りという病」

 

皮膚病患者の願い(40)

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はマルコによる福音書1:40-45です。イエスが重い皮膚病を患っている人を癒す場面です。イエスはその地上での歩みの中で、様々な人の、様々な病を癒やされました。特に今日の箇所で出てくる重い皮膚病は当時人々から最も忌むべきものとされていました。当然、それを患った人も共同体から強制的に遠ざけられて、人に近づくことは許されず、もし誰かが自分に近づこうとしたならば、「自分は汚れている!」と叫ばなければなりませんでした。

 

 そんな肉体的にも精神的にも苦痛を伴う病を患った人がイエスに近づいてきた、とあります。彼にとっては本当に勇気のいる行動だったであろうと思います。先程述べたように、重い皮膚病の人は人に近づくことすら許されませんでした。多くの人々から嫌われ、避けられ、無視されてきたことでしょう。おそらく、イエスに近づいていく途中で弟子たちに止められたり、群衆から石を投げつけられたかもしれません。

 

 それほどまでに当時のこの病の扱いはひどいものでした。しかし、彼はそんな数々の妨害にあっても、決してイエスに近づくことを止めませんでした。彼の病は生まれつきのものだったかは定かではありませんが、病を患ってからこれほど人に近づいて行ったことはないほどに、彼はイエスに近づいていきました。今の彼にとってはもはやイエスに近づくことこそがすべてでした。

 

 なぜなら、彼にはもう他に希望がなかったからです。社会から嫌われ、避けられ、無視されている彼にとっては、他に頼れるものがなく、ただイエスのみが希望だったのでしょう。そのことは彼の言葉にも現れていると思います。「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。彼はイエスに最後の望みを抱いていました。しかし、それは彼の信仰から来る確信と言うよりも、「もうこの方しかいない!」というような「賭け」に似たような印象も受けます。

 

  彼の「御心ならば」という言葉は、少し乱暴に言い換えると「治せるものなら治してみろ!」というようなニュアンスとしての解釈もできます。これまでの人生、嫌われ、避けられ、無視されてきた彼にしてみれば、このように投げやりな態度になってしまうのも無理からぬことかもしれません。それほどまでに彼のこれまでの人生は痛みと苦しみに満ちたものだったのだと思います。

 

 

神の意志(41-42)

 そんな彼をイエスは深く憐れまれました。この「深く憐れむ」という言葉は言語のギリシャ語では「スプランクニゾーマイ」という言葉で、「内臓」などを意味する言葉に由来する言葉です。当時「内臓」は感情を司る器官であるとみなされていたことから、はらわたが引きちぎれるほどの「憐れみや愛」といった意味として転化していったという経緯がある言葉です。そしてこの言葉は聖書中ではイエスを主語としてのみ用いられている言葉なのです。

 

 つまり、この言葉は、神の深い憐れみを直接表す言葉だと言うことです。イエスはたとえ相手が敬虔な信仰者でなかったとしても、その全てを理解してくださり、深い憐れみをかけてくださる方です。この重い皮膚病を患った人は投げやりになって、最後の賭けとしてイエスに近づいていったかもしれません。しかし、イエスはそれを阻むことはしませんでした。他の弟子たちや群衆はそれを阻もうとしたかもしれませんが、イエスはそれを受け入れ、ご自分から近づいて来てくださいました。

 

 そして彼に手を差し伸べ、彼に触れてくださいました。それは彼がこれまで感じたことのなかったぬくもりや優しさだったことでしょう。これまでの人生、多くの人々から嫌われ、避けられ、無視されてきた彼には、この神との出会いこそが救いそのものだったことでしょう。そして、イエスは彼にこう語りかけます。「よろしい。清くなれ」この言葉は別の訳では次のように訳されています。「わたしはもちろん望む。清くされよ」。

 

 彼は長い間1人でした。社会から切り離されてからも、1人でこの病の癒しを願っていたことでしょう。しかし、この病は1人で立ち向かうには厳しすぎる病です。肉体的にも精神的にも苦しい人生だったことでしょう。彼には共に病の癒しを願ってくれる友が必要でした。先程の「御心ならば」という言葉は、少し乱暴に言い換えると「治せるものなら治してみろ!」という解釈もできると申しましたが、その真意は「病の癒しを一緒に願ってください」というものでもあったのだろうと思います。

 

 そんな彼の本当の思いにイエスは「わたしはもちろん望む。」という言葉で答えられたのだろうと思います。彼の「治せるものなら治してみろ!」という「賭け」はイエスによって受け入れられました。確かに彼はイエスに対して「信頼」と呼べるほどの想いはなかったかもしれません。彼にとっては他にもう頼るものがないゆえの最後の「賭け」だったかもしれません。しかし、イエスはそのような投げやりな想いでご自身に近づくものでさえ、そのはらわたが千切れるような憐れみでもって受け止めてくださる方です。イエスはご自身に近づいて来る人を妨げることはされません。むしろ、その人の痛みや苦しみを理解してくださり、その人の「賭け」にさえ応えてくださる方なのです。

 

 そのことは、長い間1人だった彼にとって、どれほどの救いとなったでしょうか。人は共に苦しみ、共に悲しみ、そして共に願ってくれる人がいるだけで全く違うものです。彼の「病」はそんな共に願ってくださる方との出会いによって癒やされました。彼は「賭け」に勝ちました。しかし、その勝利はイエスの神に対する献身によってもたらされたものです。彼は確かに「賭け」という一歩を踏み出したかもしれませんが、それを受け止め、神へと取り成してくださったイエスの深い憐れみこそが癒しをもたらしたのです。

 

 

共同体への回帰(43-44)

 そしてイエスは彼にこう言います。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」イエスは彼にこのように命じますが、これは重い皮膚病を患った人が清めを受ける際に定められた律法での内容です。つまりこの行為は、当時重い皮膚病を患って共同体から切り離された人が、再び共同体へと帰っていくための手続きだったと言えます。

 

 イエスが彼にこのことを誰も話さないように命じたことと、律法に則った手続きをするようにと彼に命じたことは、彼が無事に共同体に戻っていくことを妨げないためのイエスの配慮だったのだろうと思います。イエスにとっては彼の病が癒やされて終わりという問題ではありませんでした。むしろ、彼の「病」は共同体へと戻ってこそ完全に癒やされるものと考えておられたのだろうと思います。

 

 だからこそ、イエスは彼にあらぬ噂が立たぬよう、口止めをし、すぐに立ち去らせて彼が癒やされたことを人々に証明させることで、彼にとっての本当の「癒し」を与えようとされたのだと思います。イエスにとって「真の病」とは重い皮膚病そのものではありませんでした。そのことで1人になってしまうことこそが彼にとっての「真の病」だったのです。

 

 そう考えれば、この「真の病」は現代にも広く残り続けている病だと言えるでしょう。そしてそれは必ずしも身体的な病気を伴ったものだけではないと思います。人はあらゆる理由で1人になりますし、なってしまいますし、させられますし、またさせもします。そのことこそがイエスが深く憐れまれる「病」の正体です。

 

 イエスはそんな容易に1人になってしまう、私たち人間を救うためにこの世界に来てくださいました。そしてそのことは神と人、人と人との関係の回復の出来事でもあります。1人になる人がいないように、神は深い憐れみと愛をもって私たちと共に歩んでくださり、その関係の中へと招いてくださいます。私たちの最初のその応答がたとえ「賭け」であったとしても、神はそのことをも受け止め、豊かな関係の中へと繋げてくださいますから。

1月23日主日礼拝メッセージ  「すべては人のために」

 

なぜ安息日に…(23-24)

本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はマルコによる福音書2:23-28です。イエスと弟子たちが、ちょうど麦畑を通った時のことです。よほどの空腹だったのでしょうか、弟子たちは麦の穂を摘んで食べ始めてしまいました。その現場を押さえることができるのを待ち構えていたかのようにファリサイ派の人々がイエスにこう尋ねます。「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」。 

 

 現代を生きる私たちの感覚では、人の麦畑から勝手に穂を摘んで食べる時点でまずいのではないか?と思うのが自然な感想だと思いますが、しかし、当時はこの行為自体は許容されていることでした。申命記23:26にはこのようにあります。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」イエスの弟子たちがした行為はむしろ律法で認められている行為だったわけです。 

 

 ではなぜ彼らは弟子たちの行為を問題視してイエスに突っかかったのでしょうか?それは、その行為をした日が「安息日」だったことが原因でした。先程と同じく申命記5:14には安息日に関してこう書かれています。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」 

 

 ファリサイ派の人々は穂を摘むことを刈り入れであると解釈していました。つまり、刈り入れは仕事であるから、安息日に仕事をしてはならないという律法に違反する事になるのに、なぜあなたは弟子たちを止めないのか?とイエスに訴えているわけです。ファリサイ派の人々とは当時のユダヤ教の派閥の一つで、特に厳格に律法を守っていることで有名な人々でした。また、彼らは自分たちだけでなく他人にも厳格に律法を守るように教えていましたから、このイエスの弟子たちの行動を見過ごすわけにはいかなかったのだと思います。

 

 しかし、ここでの彼らの言っていることはあくまで自分たちの「律法の解釈」に基づく独自のルールです。少なくとも「穂を摘むことは刈り入れに当たる」という部分は彼らの解釈によって決定されたものです。当時のファリサイ人や律法学者の中ではこのような、律法の独自の解釈が無数にありました。もちろんそれは彼らが律法と真剣に向き合っていたからこそ、生み出されて来たものだと思います。

 

 もしそうでないならば、そこまで細かく律法に関して追求し、なんとかそれを破らないためのルールなど作るはずがありませんから。しかし、そのことが行き過ぎてしまうと、本来、その律法に込められた意味を忘れてしまうのもまた人の性なのかもしれません。イエスは、彼らの問いかけに対して、律法本来の意味に立ち返ることを促すようにこう答えられています。

 

 

律法か?人間か?(25-26)

 23-26「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」イエスが引用された箇所はサムエル記上21章にあるエピソードなのですが、このエピソードを引用してイエスが彼らに伝えたかったこととは一体なんなのでしょうか?

 

 それは彼らが驚くほどシンプルなものだったのだろうと思います。つまり、律法で語られていることは絶対のものではなく、例外も大いに存在するということだったのだと思います。だとすれば、イエスは聖書自身が律法に例外があることを認めていることを彼らに示すために、このエピソードを引用したのだと思います。彼ら自身が絶対のものとしている聖書の言葉を引用することによって、彼ら自身により深く問いかけようとされたのではないでしょうか?

 

 

 イエスはこの問いかけを通して、神が人間に律法を与えた真の意味に立ち返るよう促します。そしてそれは、長い年月の中で彼らが見失ってしまったものでもありました。ファリサイ派の人々はイエスのこの問いかけを受けても、それがなんであるのかわからなかったのだと思います。だからこそ、イエスはさらにこう続けています。27-28「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」 

 

 

安息日とは本来何か?

 このイエスの言葉がそのまま全てを示しているでしょう。つまり、神が人に律法を与えたのは人間のためであるということです。人間のためであるということは、人間を助けるためであり、人間を養うためであり、そして人間が生き生きと生きるためだということです。それを踏まえた上で、もう一度先程の申命記の安息日についての箇所を読んでみます。

 

 「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」 最後の部分が特に重要で、この律法が語りたいことを示しています。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」

 

 「休むことができる」ということはつまり、この律法の本質は人間を休ませるためのものであることがわかるでしょう。人間の体を労り、気遣い、適切な休みを備えるための人間に対する神の配慮が形となったものが、本来のこの律法の本質だったわけです。しかし、残念ながら、長い時の中で人間はこの律法の本質を見失い、本来とは真逆の意味としてこの律法を解釈してしまっていました。

 

 そのことで本来、人間を労り休ませ、安らぎをもたらすものから、人間を締め付け、苦しめる重荷へと変えてしまってました。イエスはこのことをこそ彼らに示して、律法本来の意味に立ち返るように促されたのでしょう。しかし、残念ながら、ファリサイ派の人々はそのことに気づくことさえありませんでした。今後もイエスとファリサイ派の人々との間には度々論争が起こりますが、そのほとんどがこの本来の意味を見失った律法の解釈に対する問題によるものでした。

 

 ですが、この問題は決して他人事とはできない問題でしょう。なぜならば、人間はどうしてもその行為という外側の形式に囚われがちな存在であり、同時にその形式の奥にある本質を容易に見失ってしまう存在だからです。つまり、この問題は現代を生きる私たちにも関わってくることだということです。確かに私たちはファリサイ人のように、律法を厳格に守るために独自の解釈はしていないかもしれません。

 

 ですが、私たちが毎週捧げている主日礼拝や祈りや聖書を読むことや奉仕や献金や、その他ありとあらゆる信仰的行為というものは、容易に形骸化する危険を孕んでいるものです。事実、教会はその長い歴史の中で何度もこの問題に突き当たっています。だからこそ、そのことは現代に生きる私たちが繰り返しても全く不思議ではないこととして受け止める必要があるでしょう。

 

 私たちは聖書の言葉を読み、それを解釈しています。私たち人間には神の言葉を完全に受け取り、理解することが出来ない以上、聖書を解釈するということは避けられないことですし、それが人間の限界です。しかし、そうであるからこそ、私たちは今日見て来たファリサイ派の人々と同じ過ちをしてしまうこともあります。その聖書の言葉の本来の意味を見失って、形骸化したものとして受け止めてしまうこともあったりすることでしょう。

 

 しかし、そんなとき私たちの道標となってくれるのがまさに今日のイエスの言葉なのだと思います。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 」誤解を恐れず言えば、この言葉は次のように言い換えることができるでしょう。「聖書は、人のために書かれた。人が聖書のためにあるのではない」と…。 

 

 つまり、聖書の言葉は、御言葉は、私たちのための神の愛が現れたものということなのだと思います。だからこそ、その言葉に込められた神の愛を見失わないように受け取っていきたいと願います。すべては人のために、すべては私たちのために神が愛を込めて残してくださったものが聖書です。しかし、そこからどのようなことを受け取るのかは私たちに委ねられています。人を苦しめる重荷として受け取るのか、あるいは人を活かし、生き生きと生かすように導く恵みとして受け取るのか…。

 

 そのことは私たちに、私たち一人ひとりに託されていることなのです。願わくば、私たちは神の言葉を神の愛として受け取っていこうではありませんか!神の愛の中でこそ、私たち人間はより豊かに生き生きと生きていくことができるのですから、神はいつでも私たちをその愛の中へと招いてくださり、そして私たちとの豊かな対話を持たれることを願っておられますから。

1月16日主日礼拝メッセージ  「福音という網を」

 

福音の布告(14-15)

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はマルコによる福音書1:14-20です。イエスはヨハネからバプテスマを受けられた後、いよいよ本格的な宣教へと向かわれました。その始まりに際し、語られた言葉が15節の言葉です。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。まず、「時は満ち」とあります。この時という言葉は原文では流れゆく量としての時ではなく、決定的な瞬間としての時という意味の言葉で書かれています。

 

 つまり、「時は満ち」とは、すでに決定的なことが起きたということの宣言だと言えます。それは、ヨハネの時という神の準備の時が終わり、いよいよイエスの時が始まることを意味するのと同時に、イエスの到来こそが神の国の始まりであることを布告するものでもありました。イエスの到来はそれ自体、この世界に神の国、すなわち神の支配が既に広がっていることの証、言い換えれば「福音」でもありました。

 

 そして、イエスのこれからの宣教活動は、そのことを知らせる活動でもあったわけです。さらにイエスはその福音の告知の始まりを告げると共に、「悔い改め」への招きも同時に語られています。「悔い改め」とは心の方向転換を意味しています。それは今までの生き方を根本的に変えていくことです。その変化をイエスは呼びかけていることになりますが、しかし、人はそう簡単に自分を変えることができないことも私たちが体験している事実ではないでしょうか?

 

 人は本質的に自分自身のことを変えたくない、変えられたくないと思ってしまう存在です。なぜならば、そのほうが自分に都合が良く楽だからです。自分自身を変える、変えられるということは、今までの自分が一度崩されることを意味しています。今までの自分の価値観が転換すると言い換えてもいいかもしれません。だからこその方向転換なのです。その方向転換がどれほど難しいのかは、私たちは多かれ少なかれ人生の中で実際に体験していることだろうと思います。

 

 そんな「悔い改め」、心の方向転換は私たち人間の力では不可能なことでしょう。イエスが語られた「悔い改めて福音を信じなさい」という部分は別の聖書訳ではこのように訳されています。「回心せよ、そして福音の中で信ぜよ」。回心とは「回る心」と書きます。つまり、文字通り心の方向転換のことを指しています。そして、「福音の中で信じる」とは、悔い改めが人間の力によって達成されるものではなくて、神の告げる福音の中でこそ起こされていくということを意味しているのだと思います。

 

 福音とは神の国が始まったこと、言い換えれば神の支配がこの地上に広がっていることです。そうであれば、私たちはすでにその福音の中にいます。しかし、同時に神の国は未だ完成してはいません。私たちはこの既に来た神の国と、未だ見ぬ神の国の間を生きています。しかし、だからこそ、私たちにはそんな間を生きる者としての働きが託されています。それはちょうど、イエスが弟子たちを招かれてそれぞれに働きを託されたことと同じく、現代の教会に招かれた私たちにも託された福音のための働きです。

 

 

福音という網を打って(16-18)

 イエスは神の国の始まりを宣言された後、すぐに弟子を作られています。イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、シモンとアンデレという2人の兄弟を招かれました。その招きの言葉は印象的で深く記憶に残っている方も多いのではないでしょうか?「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。このように呼びかけられた2人はすぐに持っていた網を捨ててイエスに従ったとあります。

 

 ところで、シモンとアンデレは漁師だったとあります。漁師とは魚を獲ることが仕事である職業ですが、その漁師の仕事において「網」というものは必要不可欠である大切なもののはずです。しかし、彼らはその大切なもののはずの「網」をいとも容易く捨ててイエスに従ったというのです。このことに少し引っかかりを覚えたりはしないでしょうか?

 

 現に彼らはイエスに招かれるまで湖で網を打ち、漁師の仕事をしていたわけですから、この変わりようには驚かされことでしょう。しかし、このイエスの招きとそれに対する彼らの応答こそが、先ほどの悔い改めへの招きであり、その応答としての心の方向転換なのではないかと思うのです。つまり、この箇所では単純に彼らが自分の仕事を簡単に投げ捨てて、イエスに従っていったということが語られているのではなくて、イエスに招かれたことで、シモンとアンデレが悔い改めへと導かれ、彼らの中に心の方向転換が起こされていったということを語ろうとしているのだと思うのです。

 

 そして彼らはその方向転換の先に新たな働きをイエスによって託されるようになったのだと思います。それこそが「人間をとる漁師」という働きなのだと思います。彼らは魚を獲るための網の代わりに新しい網をイエスから受け取ったのだと思います。それこそが福音という網だったのではないでしょうか。イエスがその宣教の初めに語られた「時は満ち、神の国は近づいた」。それがイエスの語った良き知らせ、福音でした。その福音こそが、まさにシモンとアンデレにとっての新たなる網、人間をとる漁師にとって必要不可欠な網だったのだと思うんですね。

 

 イエスは福音という網を彼らに与えられ、その網を打つことで多くの人々をイエスのもとに招く働きを託されました。そのシモンやアンデレに託された働きは、時を超え、教会に、私たちにも託されているものです。私たちもまた自分たちの力である「網」を捨てて福音という新たなる「網」を与えられています。私たちは今や、自分自身の力という「網」によって、その人生を支えられているわけではありません。

 

 神が私たち一人ひとりに与えてくださった新たなる網、福音によって今、私たちは生かされ、支えられています。だからこそ、私たちは自分を捉え、そして今もそれによって生かされている福音という網を打つものになるようにとの神からの招きをもまた、受け取っているんですね。私たちが神からの招きに応答して、イエスに従うということは、それまで自分を支えていると思っていた古い網を打つ生き方から、神の国の福音という新たなる網を打つものに変えられることでもあるのだということなんですね。

 

 

福音で繋がれた関係を繕って(19-20)

 また、イエスはまたもう二人の漁師にも声をかけられます。それがヤコブとヨハネでした。彼らもまた兄弟で漁師をしていました。彼らもガリラヤ湖で漁をしており、イエスが通りかかられた時、網の手入れをしているところでした。また、彼らは兄弟だけではなく、彼らの父であるゼベタイや他の雇い人たちと一緒に漁をしていました。

 

イエスはヤコブとヨハネにもペテロとアンデレと同じ言葉をお掛けになりお招きになったのでしょうか。彼らもまたすぐにイエスに従っていきました。ところで、イエスがヤコブとヨハネに声をかけられた時に、彼らは網の手入れをしていた、とあります。先ほどから考えている通り、彼ら漁師にとって漁をするための網はなくてはならないものであり、最も大切なものです。そんな大切なものである網を手入れする、つまりメンテナンスすることは彼ら漁師にとっても大切な仕事の一つでした。

 

 彼らはそんな漁師にとって大切な網を手入れする仕事をしているところをイエスによって「人間をとる漁師」になるよう召されました。そのことから、「人間をとる漁師」には、福音という網を打つという務めの他に、網を手入れする務めもまた託されているのだと思うんですね。そして同時に「網」の持つもう一つの意味も見えてくると思います。イエスの語った福音、それは神の国の到来の約束でした。そして、その本質は、神が私たち人間との破れた関係を回復させ、同時に人間同士の破れた関係も回復させるという、神の救いの告知でした。

 

 だとすれば、神の国の福音とは、神と人、そして人と人の関係を手入れすることだと言えるでしょう。その関係を、「破れてしまった網」を手入れしていくという務めをイエスは弟子たちに託されたのだと思うんですね。もちろん、本質的な関係の回復は、イエスの十字架によるものでした。ですが、その関係の回復をこの地上で具体的に表していくという務めをイエスは弟子たちに、私たちに託されたのだと思うんですね。

 

 神と人の破れてしまった関係の回復の知らせを告げ、同時に人間同士の破れた関係を丁寧に手入れしていくことが、人間をとる漁師にとっての「網」を手入れすることなのだろうと思うんですね。私たち教会は、イエスによって招かれた者の集まりです。イエスが一人ひとりに声をかけてくださって、集められた者の集まりです。私たちがそのイエスの招きに応答する時、私たちは「人間をとる漁師」になるようにとのイエスからの招きもまた受け取っています。

 

 それは、福音という網を打ち、人々を招くという務めと、そして破れた関係を手入れしていくという務めです。その働きに私たち一人ひとりが主体的に応答してゆくときに、イエスの語られた福音はより豊かに広がっていくことでしょう。神は私たちの働きを期待しておられ、そして私たち一人ひとりを豊かに用いてくださいますから。

1月9日主日礼拝メッセージ  「使命の始まり」

 

イエスの現れの意味

 本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はマルコによる福音書1:1-11です。このイエスがヨハネからバプテスマを受けられるという箇所は、マルコによる福音書を含めて3つの福音書に描かれています。しかし、同じことを語っている箇所であってもそれぞれに少しづつ違いがあります。今日見ていくマルコによる福音書版は簡潔に書かれていて、特にマタイ版と比べるとその簡潔さがよりわかると思います。

 

 さらにマルコ版はイエスの登場がこのバプテスマと同時に描かれているのが特徴的です。マタイとルカは幼少期のイエスを描いているので、その後にバプテスマの記事が続いていますが、マルコだけはイエスの出現とバプテスマを同時のこととして描いています。聖書の記者はそれぞれの関心事、言い換えればその記者が最も伝えたいことに沿ってそれぞれの記事を書いています。だから、マタイにはマタイの、ルカにはルカの、そしてマルコにはマルコの伝えたいことがあり、そのことを強調して書いているということです。

 

 そうであるからこそ、同じ箇所を書いているにもかかわらず、それぞれの箇所が私たちに語りかけてくるものは少しづつ違っています。もちろん、共通して語られていることも多くありますが、その中にはそれぞれの記事を通して著者が最も伝えたいことが織り込まれていると言えます。それは言い換えれば、神がそれぞれの著者を通して多くのことを私たちに伝えられようとしているとも言えるのだと思います。

 

 そして今日の箇所で言うならば、マルコが最も伝えたかったことは「イエスの出現とはどのようなことだったのか?」なのだと思います。マルコによる福音書は福音書の中では最も短いものであり、各記事が非常に簡潔に物語を伝えています。マルコのバプテスマの記事の箇所もわずか3節で終わっていますが、しかしそれゆえにこそ著者が伝えたかったメッセージがそこに凝縮されているとも言えると思います。

 

 マルコはこの福音書を「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という書き出しで始めています。それはイエスが語られた福音とは何なのかということに集中してこの福音書を書いていくという意思表示でもあるのだと思います。だからこそ、マルコによる福音書は簡潔にイエスとその福音を伝えようとしている福音書なのだと思います。

 

 そのことを踏まえて、マルコによる福音書がイエスの出現とバプテスマを同時のこととして描いていることを考えてみると、「イエスの出現とはどのようなことだったのか?」ということを著者がまず始めに書いたのであろうことが見えてくると思います。なぜなら、イエスが受けられたバプテスマこそがイエスが福音をこれから語られるに際して、まず始めにされたことであり、そしてそこにこそイエスが出現された、言い換えれば、この地上に来られた意味があるからです。

 

 9節にはこうあります。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」最初に「そのころ」とあります。これは具体的には8節以下の出来事のころを指しています。つまり、バプテスマのヨハネが人々に罪の告白と悔い改めを語り、人々にバプテスマを授けていた頃のことを指しています。イエスの出現はそのことを前提としているということです。

 

 また、4節にはこうあります。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 」ヨハネはこのように人々が自らの罪に向き合い、そしてそのことを悔い改めていくためにバプテスマを授けていました。それは言い換えれば、一人ひとりの生き方の方向転換を促していったことでもあります。今まで自分勝手に生きてきた生き方を振り返らせて、自らの心を神へと向け直していくことを促していったということです。

 

 ヨハネはそのような働きをしていくことで、『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』という聖書の御言葉に応答していきました。それゆえにこそ、彼は自分の後に来られる方こそが、人類の罪を贖う救い主であることを確信していたのだと思います。ヨハネはその方の先触れであって、そのことを彼自身も自覚していました。マルコはそのようにヨハネを描くことで、「イエスの出現とはどのようなことだったのか?」の前提を示しています。

 

 つまり、マルコはヨハネの後に来られる方こそが、ヨハネが人々に告白させた罪を贖い、その心を悔い改めさせる真の権威ある者であることを前もって提示していると言うことです。マルコはヨハネについて必要な情報を語った後、すぐにイエスの登場へと繋げることで私たちの視線を一気にイエスへと集中させようとしています。9節以降で、ヨハネに一言も語らせていないのは、イエスのみに読者の関心を向かわせるためでしょう。ここにも、マルコの関心が「イエスの出現とはどのようなことだったのか?」ということに集中しているのがわかると思います。

 

 

天からの使命、イエスの使命の始まり

 イエスはガリラヤのナザレから来られたことをマルコはまず伝えていますが、ガリラヤはエルサレムから見たら辺境の地であり、異邦人のガリラヤとも呼ばれ、そこに住む人々は差別の対象となっていました。エルサレムの人々から見れば、ガリラヤ出身の者から救い主が出るなどと言うことは考えてもいないようなことでした。

 

 しかし、マルコはここではっきりとイエスはガリラヤのナザレから来られたことを語っています。このことは、イエスが人々の思いも寄らないところから現れたことを語っているのだと思います。神のなされる業はいつも私たち人間の予想を遥かに超えたところでなされることを、この箇所はまた語っています。イエスが他の人々と同じようにヨハネからバプテスマを受けられていることもまた、私たちにとっては驚きの出来事でしょう。

 

 ここまで見るならば、イエスは何の権威も持たない人間の1人であるようにしか見えません。むしろ、ガリラヤという蔑まれていた地から来たと言うことで、他の人々よりも低く見られていたことでしょう。しかし、このことはどこまでも低みへと降っていかれたイエスの姿勢を表している部分でもあります。イエスは何も持たないものとして、誰よりも小さくされた者としてヨハネからバプテスマを受けられました。

 

 それは私たち人間に対する神の連帯の表現であり、同時に全ての人々が悔い改めることで神の国へと招かれているという福音を告げるイエスの宣教でもあったのだと思います。だからこそ、マルコはここまでのイエスを徹底して人間として描いており、私たちと変わらぬ、何の権威も持たないような存在として描いているのだと思います。

 

 しかし、10節からその様子はガラリと変化しています。『水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 』イエスがバプテスマを受けられたあとのことをマルコは「天が裂けてが鳩のように降って来た」と表現しています。

 

 これは、明らかにイエスのバプテスマはこれまで他の人々に授けていたものとは異なることを語っているのだと思います。聖書において、「天」とは神そのものを表しています。だとすれば天が裂けることとは、神がそこに介入し働いておられることと解釈できるでしょう。そして、そのことを示すかのように天からイエスへと霊が降っていますが、そのことはイエスがこれからなされるご自身の使命を受け取られたことなのだと思います。

 

 マルコはイエスが人として私たち人間の元に来てくださったこと、またイエスを低みに降った者として語り、徹底してイエスに人間的に付与された権威がなかったことを語っています。それは、イエスはただ神の権威のみによってこれからの歩みをなされることを強調したいがためなのでしょう。イエスの宣教は神によって委託され、神によって保証され、そして神によって権威づけられたものであることをマルコは語っています。

 

 イエスの出現とは、まさに神が人間を救うための御業の始まりであり、イエスのバプテスマとはその使命への任命としての出来事だったと言えます。マルコが最初に語った「神の子イエス・キリストの福音の初め。 」とはこのことを指していると言えます。私たちはこの福音によって生かされて、希望を与えられ続けています。神が決定的な出来事をなしてくださるという希望が今も私たちに与えられています。

 

 それはイエスがこの世界に来られた時に始まりを告げ、そしてやがて完成する神の国へと繋がっています。この確かな希望を見つめつつ、この新しい2022年の歩みを共に歩み出して参りましょう。

1月2日主日礼拝メッセージ  「イエスはどこに?」

 

祭りの後

 みなさん、あけましておめでとうございます。2022年の新しい歩みが始まりました。この新しい年の歩みもそれぞれが御言葉に聞きつつ、神の招きに応答しながら歩んでいくことができるように祈ります。もう昨年のことになってしまいましたが、私たちはつい1週間前にクリスマス礼拝を捧げました。私たちクリスチャンにとっては一年の終わりの前にクリスマス礼拝を捧げ、そして新しい年を迎えることがある種の慣習になっています。

 

 もちろんだからこそ、クリスマスの意味を思い起こしつつ礼拝を捧げることは大切です。クリスマスの本質を受け止めつつ、その喜びや感謝を形式として表していくことで、私たち教会はそのことを共有しつつ、忘れることなく思い続けることができるからです。しかし、クリスマスというのは教会で最も忙しくなるときでもあり、しかも12月ですから、世間的な忙しさとも重なって、教会では「クリスマス。苦しみます」といったことが冗談で言われていたりもします。

 

 ですがだからこそ、その忙しさが終わった後にはどこか心がホッとするというか、胸を撫で下ろす心地になったりするものだと思います。それは、言い換えれば入念に準備していたお祭りが無事に終わって、安心した心地に似ているかもしれません。今日の聖書箇所のマリアやヨセフもきっとそのような心地だったのではないないでしょうか?本日皆さんと御言葉を聞いていきたいと願っている聖書箇所はルカによる福音書2:41-52です。彼らはこのとき「過越祭」というお祭りを終えてエルサレムからの帰途に着いていました。

 

 因みに「過越祭」とはユダヤのお祭りの一つで、神が出エジプトの際、全てのエジプト人の初子を撃ったとき、イスラエル人の家を「通り過ぎた」ということを思い起こし、神への感謝と、イスラエル民族にとっての救いの出来事である出エジプトを記念するためのお祭りです。これは後にキリスト教会では「主の晩餐」に引き継がれていきますが、救いの出来事と神への感謝を思い起こすという意味では、私たちが先日迎えたクリスマスも重なってくるものがあると思います。そう考えれば、この時のマリアやヨセフと、クリスマスを終えた私たちの心境も重なってくると思います。

 

 大事なお祭りを終えた後のマリアたちの帰りの道は、それまでの緊張感から解放されて、安堵と高揚感に包まれたものだったのではないでしょうか?しかし、それ故でしょうか?なんとマリアたちは自分たちの子供であるイエスを見失ってしまいます。しかも、そのことに気づかずに1日分の道のりを進んでしまった、とありますから。マリアたちは大層慌てふためいたものだと思います。

 

 マリアたちは親類や知人の間を必死に探し回りますが、一向にイエスは見つかりません。「一体どこにいったのだろうか?」彼女たちが感じていた安堵や高揚感は一瞬にして消え去り、その代わりに不安と恐れで心がいっぱいになったことでしょう。彼女たちはそんな不安と恐れを抱えたまま、エルサレムへと来た道を引き返します。

 

 ここでイエスは、マリアやヨセフからすっかり忘れられてしまっていました。ですが、このことは言い換えれば、祭りの後で安堵し、高揚しているマリアやヨセフと同じ状況にある私たちもまた、イエスのことを忘れてしまうことを意味しているのではないでしょうか?私たちもクリスマスという一年で最も忙しい「お祭り」を終えた安堵や一年の始まりの高揚感の中にあるかもしれません。しかし、そのような時にこそ、私たちはイエスを見失ってしまうこともあることを知らされているのではないでしょうか?

 

 そして、そのような時こそ、もと来た道を引き返していくこと、私たちで言えばクリスマスの出来事を改めて思い起こしていくときに、イエスを発見できるのではないかと思うのです。マリアたちは結局エルサレムに戻り、そこでイエスを発見しますが、逆に言えばそこまで戻らないと、イエスを見つけることができなかったということでもあります。クリスマスを終えて、具体的な忙しさから解放された今だからこそ、私たちは心静かにしてクリスマスの意味を振り返っていくことができるのかもしれません。

 

 

神殿とは?

 ですが、マリアたちはやっとの思いでエルサレムまで戻るとイエスにこう言っています。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」 マリアたちは勝手にいなくなったイエスに対して、それを責めるように叱っています。しかし、それを聞いたイエスの反応は両親の思いもよらないものでした。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 

 

 イエスは逆にマリアたちに「どうして捜したのか?」と問いかけています。マリアたちはイエスがどこにいるのかわからなかったからこそ、焦りもしたでしょうし、不安と恐れを抱えながら必死にイエスを捜しもしたのでしょう。ですがイエスはそもそもイエスご自身を捜し出す必要もないことを語っています。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

 

 イエスは自分のいるべき場所は父の家、すなわち神殿しかありえないことを告げています。実際、イエスはエルサレム神殿の境内にいたわけですから、このイエスの言葉を表面的に解釈するならば、確かにイエスの言葉通り、自分の父の家にいたという意味になるでしょう。しかし、このイエスの言葉はそのような表面的な解釈ではなくて、もっとより深いところで解釈されるべきだと思います。

 

 なぜならば、聖書から見出される御言葉はエルサレム神殿とはほぼ関わりないような現代の私たちに語りかけられているものであり、また聖書は神殿について私たちにこのようなこと語っているからです。コリントの信徒への手紙 一3:16にこのようにあります。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 」聖書は私たち自身が神の霊が住む神殿であることを語ります。そうであれば、イエスの言葉は先程とは違った意味を帯びてくるのではないでしょうか?

 

 すなわち、イエスの言葉は次のように言い換えることができるのではないでしょうか?「どうしてわたしを捜したのですか。わたしがあなたの内にいることは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 と。このように解釈する時に、聖書が私たちに語ろうとしているメッセージが見えてくることでしょう。

 

 つまり、この物語はイエスの方からどこかにいかれてしまったことを伝えているのではなくて、むしろイエスを探すマリアたち、転じて私たち人間が時にイエスを見失ってしまうことを示唆しているものだと思うのです。そして、そのことは「祭りの後」、私たち教会で言えばクリスマスのような大きな出来事の後にこそ陥りやすいものであることを語っているのではないかと思うのです。

 

 クリスマスは私たちの一年の中で最もイエスに向く時期でもありますが、しかし、その反動からか、クリスマスが終わった後はその安堵や疲れも相まって、イエスを見失ってしまうこと、あるいはイエスが遠くに感じてしまう時もまたあったりするのではないでしょうか?

 

いつもそばにいるイエス

 しかし、それは私たちが見失ったり、遠くに感じてしまっているだけで、イエスはいつも私たちと共にいてくださる方です。「わたしがあなたの内にいることは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 そんな時、イエスのこの言葉が何より私たちを励ましてくださり、またイエスと共に歩む道へと導いてくれるでしょう。「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。」

 

 イエスは自分を見失ったマリアたちと共におられ、そして仕えて暮されたことを聖書は語ります。それは言い換えれば、私たちと共におられ、そして私たちに仕えてくださるイエスが今も私たち一人ひとりの内におられるということです。私たち人間は人生という長い歩みの中で多くの迷いや恐れや不安を感じることがあることでしょう。そんな時、私たちはイエスを見失ったような、遠くに感じるようなこともあることでしょう。

 

 しかし、どんなときであってもインマヌエルである神がいつも私たちと共にいてくださり、そしてその時々の助けや導きを備えてくださいます。私たちはその神に信頼しつつ、この新しい年を歩み出していきたいと願います。イエスはいつも私たちと共に、私たちの内におられますから。