10月22日主日礼拝メッセージ  「真の信頼」

 

今年度の大村古賀島教会の主題聖句は毎週みなさんとご一緒に読んでいる通り創世記121-4です。この箇所では神がアブラハムに約束を与えられるとともに、まだ見ぬ場所へと彼を導こうとされる神の約束が語られています。しかし、この箇所を読むたびに私たちはこうも考えてしまうのではないでしょうか。なぜ選ばれたのがアブラハムであったのか?と。

 

 この問いに関して言えることは多くありません。ただ一つ言えるのはアブラハムの側に選ばれるだけの理由があったわけではなく、それはただ神の自由な選びによるものだということだけです。そのことはまた私たち一人ひとりを神の側が選んでくださり、その関係へと招いてくださっていることとも重なってくることです。確かなことは選ばれる側、つまり人間の側に選ばれるだけの優れた理由はないということだけです。

 

 しかし、そのようにアブラハムの側に選ばれた理由はないにもかかわらず、彼を通して語られる聖書の物語の中から受け取ることができるものは多くあります。パウロもまたアブラハムから多くのことを受け取り、そして彼の生き方が信仰者の生き方の基礎を形作ったことを認めてもいます。パウロはこのローマの信徒への手紙においてアブラハムのことを引き合いに出しながらパウロの信仰の中心的な考え方である「信仰による義」とはどのようなものであるのかを語ろうとしています。

 

 まず13-14にはこうあります。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。」ここで早速「信仰による義」という言葉が出てきますが、それと対比されるように語られているのが律法です。

 

 ここで注意したいのはパウロが使っている「律法」の意味は本来の律法の意味ではないということです。本来の「律法」とは神の人間に対する期待であり、その期待に対する人間の応答の指針というべきものでした。つまり、本来の「律法」とは神と人間との信頼関係が前提になっていたわけです。しかし、いつしかそのような「律法」は形骸化し、律法で語られているところの行為の実行によって神との信頼関係を保つことができると誤解されていってしまいました。

 

 「神を信頼しているから応答する」のではなく、「律法の行為を実行すれば神との信頼関係を保てる」という順序の逆転が長い時の中で起こっていってしまいます。パウロがここで語っているところの「律法」とはそのような「神との関係を保つための道具」となってしまっていた意味での律法を指しています。パウロはそのような律法の本来の意味が失われていた時代に、もう一度その本来の意味に立ち返るよう促そうとしています。

 

 そしてそのことを神とアブラハムとの関係を振り返りつつ語っていきます。パウロは、神がアブラハムに与えた約束は完全に神の恵み言葉であり律法の要求ではなかったことを断りつつ、その約束に対するアブラハムの応答に焦点を当てていきます。17-18にはこうあります。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」。

 

 この言葉の中で特に印象的なのは「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」という部分だと思います。そしてこのことこそがアブラハムの生き方であり、同時に神が私たち人間に求められているものでもあると思います。神からアブラハムに与えられた祝福の約束は彼にとって希望ではありましたが、簡単には信じられないものでもありました。

 

 アブラハム自身も老齢であり、また妻のサラも不妊であったことを聖書は語っているからです。「あなたに子孫を星のように与える」という神の約束を不可能と思わせるのに十分な根拠がアブラハムの側にはありました。ですがにもかかわらずアブラハムは神の約束に信頼し、歩み続けました。20-21にはこうあります。「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」

 

 ここを読むとアブラハムが一切の迷いや疑いなく信じていたようないわゆる「盲信」のような印象にも取れるかと思いますが、実際創世記のアブラハム物語を読んでいただければ分かる通り、もちろんアブラハムにも迷いや疑いはあったと思います。それは神の約束の子であるイサクが生まれる前にイシュマエルをハガルとの間にもうけたり、あるいはサラを自分の妹と偽ったことにより、結果として神の約束を妨げるようなこともしているからです。

 

 ではなぜパウロはアブラハムについて「不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく」と評したのでしょうか。この部分は別の訳をみてみると「不信仰のゆえに」や「不信仰によって」となっています。つまり、疑うことそのものよりも疑いの原因が重要であるということです。裏をかえせばアブラハムの疑いとは「信仰ゆえの疑い」であったわけです。

 

 ではそれは具体的に「不信仰ゆえの疑い」とどのように違うものなのでしょうか。「不信仰ゆえの疑い」とは読んで字の如くわかりやすいかと思います。「信仰」は「信頼」と言い換えることができますから「神への信頼がないゆえの疑い」ということになります。これは最初から神に向き合わず、期待せず、神の言葉や力を一切認めないような態度を指すのだと思います。

 

 つまりそこには神との関係そのものがありません。しかし、一方で「信仰ゆえの疑い」はそれとは違います。「信仰ゆえの疑い」とは神と向き合い、期待し、神の言葉を受け入れながらも、なお人間の弱さによって生じる迷いです。アブラハムは確かに時に迷い、疑ったこともあったかもしれません。しかしそれは神と真剣に向き合っているからこそ生じる疑いだと思います。

 

 こうしてこの二つの疑いをよく考えてみると全く違うものであることがわかります。「不信仰ゆえの疑い」はそこに神との関係が全くありません。ゆえにそこには神への応答も、問いもなく、人間の側から一方的に神との関係を遮断した状態とも言えると思います。対して「信仰ゆえの疑い」とは神との関係の中で生まれるあらゆる問いや恐れや迷いを隠すことなく、神の前に曝け出すことを意味しています。

 

 アブラハムは「信仰ゆえの疑い」を通ったからこそ、神の約束に信頼しつづけることができたのだと思います。パウロはこのアブラハムの生き方を振り返ることで神への信頼とはどのようなものであるのかを語っています。それを言い表すならば「私たちの只中に神が働かれる余地を認めること」なのだと思います。

 

 そしてそのことこそが神が私たちに求められている生き方であり、そのことを神は義と認めてくださっていることを聖書は語っています。最も見込みがないと私たちが思うところから、新たなことを始められる神は今も、そしてこれからも私たちの只中で働いてくださり、豊かな恵みの出来事を起こしてくださることでしょう。

 

 私たちはそのような力ある神に信頼をもって応答していきたいと思います。

10月15日主日礼拝メッセージ  「『きょうかい』の意味」

 

先日の宣教で少し触れたことですが、昨今「個人的な信仰はあるが教会には行っていない、あるいは行きたくない」という「霊的だが宗教的でない」人々である「所属なき信仰者」が増えていると言われています。つまり「信仰」と「教会生活」の分離が起こっているということです。共同体性ということを自らの信仰から完全に切り離した人々が世界的に多くなっています。

 

 このことはコロナ禍においてさらに顕著になったのではないかと思います。というのもそれまで特定の教会に通い、そこで礼拝をしていた人々がネットを通じて様々な教会の礼拝に参加できるようになったことと無関係ではないでしょう。ネット礼拝で語られる宣教を一方的に聞いて、自分一人で聖書を読んで、そして個人的に神への信仰を持っていると自認している人々がいます。

 

 彼らは教会には属することなく、自分一人の信仰で完結することを選び取った人々です。もちろん、個人的な神との出会いや関係は大切なものだと思います。それがなければ信仰はどこか他人事になるか、もしくは自分ではない他の誰かに仲介してもらうような神との直接的な信頼関係ではなくなってしまうからです。私たちの信仰は他の誰でもない、神と私との直接的なつながりの出来事だからです。

 

 ですがそのことを突き詰めていった結果、個人的な信仰さえあれば教会という共同体は必要ないのではないか、という結論に至ったのが彼ら「所属なき信仰者」なのだと思います。彼らの主張は一見筋が通っていて最もであるようにも思えます。ですが、聖書がそのような自己完結的な形を信仰と呼んでいるのかどうかには疑問が残ります。

 

 なぜなら聖書が語る信仰はいつでも共同体性の只中にあり、そこから離れたことはないからです。旧約聖書では神とイスラエルという共同体の只中に、そして新約聖書ではイエスとその弟子たち、そして初代教会という共同体の只中にその信仰の物語が語られています。それらは信仰という出来事が共同体を離れては成立し得ないことを示すものでもあるのだと思います。

 

 今日は神であるイエスと私たち一人ひとりという個人、そして教会という共同体との関係性を聖書から聴いていきたいと願います。今日の聖書箇所はコロサイの信徒への手紙の1:15-20です。このコロサイの信徒への手紙は宇宙論的な非常に大きなスケールで神を語るとともに、その神が私たち人間にどのように働きかけておられるかを語っています。

 

 まず15-16を見てみましょう。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」ここでは御子であるイエスと神の一体性、そしてイエスと被造物との関係が語られています。

 

 ここで語られている通り、イエスは私たち人間にとって見えない神の自己表現の究極の姿です。イエスが私たちと同じ姿をとってこの世界に来られたことは神の私たち人間に対する理解の表現であり、同時に神の愛の具現した形でもあります。そして私たち被造物はそのようなイエスによって、イエスのために造られていることを聖書は告げます。

 

 「御子のために」と訳されている部分は別の訳ですと「御子に向けて」となっています。つまり、私たちは神に求められて創造され、存在へと呼び出されたということです。このことはまた神が私たち人間との関係を何よりも求められ、また大切にしてくださっていることにつながってきます。神の創造の動機は被造物との関係を結ぶことにあったからです。

 

 つまり、神の創造とは共同体性を生み出していく業でもあったということです。17節にあるように「御子はすべてのものよりも先におられ」た何者にも依存しない独立した存在でしたが、そのままであられることを選ばれずに私たち被造物との関係を結ぶことを選び取られたのです。そのことは次の18節にもつながってきます。18節にはこうあります。「また、御子はその体である教会の頭です。」

 

 「キリストが教会の頭」という表現は聖書の中でも有名な表現ですが、これは裏を返せば被造物、ひいては私たち人間が教会の体ということです。コリントの信徒への手紙でも私たち一人ひとりが教会の体としてそれぞれの働きを担っているということが語られている通りです。神が私たち人間を求められたということは、同時に神の働きを担う体として招かれているということでもあります。

 

 つまり、頭が体を必要とするように、キリストは神の民なしには考えられないということです。ではなぜ神はそれほどまでに私たち人間を求められているのでしょうか。一つは先ほど確認した通り、神は私たち人間との関係を求められているということです。そしてその関係の中においての応答が信仰の一側面でもあります。もう一つは神はご自分の働きを私たち人間と共になされたいと願っているからだと思います。

 

 Iコリント1:21にはこうあります。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」私たち教会は神を証し、福音である救いを宣教するためにあります。しかし、その宣教という手段はパウロが語っている通り確かに愚かな手段に思えてくることもあるでしょう。

 

 なぜなら、私たち人間という不完全な存在がその手段の前提になっているからです。神は直接ではなく、私たち人間を、そして人間の共同体である教会を通してご自分の働きをなされる方なのです。だからこそ聖書が語る信仰とは常に共同体性の中に現れており、そこから離れた個人的に完結したものとしては示されていないのだと思います。

 

 現代は教会の「共同体性」ということについて、そのあり方が大きく変化しつつある時代かもしれません。特にネットの発達によって今まで対面で集まるしかなかったものがネットを介して繋がることができるようになりました。もちろん、冒頭の「所属なき信仰者」のように共同体性から離れるきっかけにもなってしまう可能性はあるものかもしれません。

 

 しかし、逆にネットがきっかけに教会という存在を知り、そして共同体に繋がるきっかけにもなり得るものだとも思いますし、現代の人々の生活スピードにおける時間の不足を助けるものでもあります。私たちは現代の教会の共同体性を今与えられているネットをはじめとした道具を賢く用いながら、新たに形作っていくことが求められていると思います。

 

 

 「神を証し、福音である救いを宣教するため」という教会の本質は受け継ぎつつ、しかしそのあり方である形式は柔軟に変化させていく道を神は示しておられるのだと思います。神はいつも私たち人間に新たな道を示し続けてくださる方ですから。祈ります。

10月8日主日礼拝メッセージ  「『変化』という愛」

 

みなさんはご自分の人生の中で「自分自身変わったな」と実感することはあるでしょうか。きっと誰しも少なからずそのような経験はあるものだと思います。それらは小さなことから大きなことまで様々だと思いますが、大きな変化になるとその変化のきっかけになったであろう出来事を覚えていたりするものではないでしょうか。そしてそのきっかけは往々にして自分にとって苦い出来事だったり、痛みを伴うことだったりするのではないでしょうか。

 

 そのような自分の心に深く働きかける出来事であるからこそ私たち人間は変わっていくことができるのではないでしょうか。その変化には私たちにそのきっかけを与え、そしてなにより私たちに先立ってご自身が変わることをも厭わない神がおられるということを思い起こさせます。よく一般的に「神」という存在は絶対不変の存在として語られることがあります。

 

 しかし、本当にそうなのでしょうか。もし私たちの信じる神がそのような「何があっても変わらない」ような存在ならば、私たちはそこに慈しみや恵みを感じるでしょうか。聖書で証され、そして私たちが信じるところの神は私たち人間との関係を何より喜ばれ、大切にしてくださる神です。そのような方だからこそ、私たちとの関係においてご自身をも変化させることを厭わない方なのです。

 

 今日の聖書箇所はそんな神の変化を隠すことなく私たちに伝えています。今日の聖書箇所はノアの方舟の物語です。神は地上に悪が増し、人が常に悪いことばかりを心に思い測っているのを見られました。神は人を創造したことを後悔し、心を痛められます。そして、地上から悪を拭い去るため、洪水によって被造物を滅ぼすことを決められます。しかし、その際ノアとその家族、そして各動物のつがいは方舟に乗せられ残されました。

 

 この神が被造物を滅ぼされるという出来事を私たちはどのように受け止めるべきでしょうか。私たちはついこう思ってしまうのではないでしょうか。「神が人を滅ぼされるなんてひどい!」だったり「神ご自身が創造された被造物を神自らが滅ぼすなんて無責任だ」と。しかし、この出来事の前提として聖書は地上に悪が満ちていたということをいくつかの箇所で語っています。

 

 6:5には「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」や11節には「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」そして12節には「神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」と、地上に悪が満ち、もはや回復不能なほどまでになってしまっていたことが伺えます。

 

 このことは同時に神と人間との関係が決定的に歪んでしまっていたことを示してもいます。そしてこの状況は人間が自らの自由な意思で選び取った状況でもあります。神は私たちを意思のない人形として創造されたのではなく、自ら考え選び取る意思を持った者として創造され、そしてその選び取りを尊重してくださる方です。だからこそこの状況の責任を神に問うことはできないでしょう。

 

 神は決して人間を憎んでいたわけではありませんでした。むしろ何より愛しておられました。しかし、その愛のゆえに神はこの状況を放っておかれることはできませんでした。神の愛とは慈しみや恵みだけを指すのではありません。裁きという厳しさを含めて神の愛なのです。このノアの方舟の物語は確かに裁きの印象を強く感じる箇所かもしれませんが、神はそれだけでなく方舟という希望の恵みをも備えてくださっていることを忘れるべきではないでしょう。

 

 神はどんな時であっても私たちに希望を残される方です。それは、神が私たち被造物、ひいては人間を決して諦めない方だからに他なりません。悪を見過ごすことができない神の思いと被造物を諦めきれない神の思いがここで葛藤しています。神の裁きは確かに厳しいものだったかもしれませんが、今日の箇所ではそんな裁きからの新たな創造という恵みの出来事が始まったことを告げています。

 

 1節にはこうあります。「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた。」神は裁きの中であってもノアたち被造物を御心に留められ続けていました。その神の思いは厳しい裁きの中にあってなお消えることなく、むしろますます大きくなっていったことでしょう。その神の思いに表すように地上から水が引いていきました。

 

 地上から水がすっかり引いた時、神はノアに言われます。「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。 すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」神はノアとその家族、およびその他の被造物すべてを祝福されています。それはまた新たな創造をされる神の宣言でもあったでしょう。

 

 そのような神の祝福の言葉に応えたノアが初めにしたことは神を礼拝することでした。これにより崩れていた神と人との関係が回復されていきます。神と人との不和から始まったこの物語はその関係の回復を持ってその終わりへと向かいます。そしてこのことを通して神ご自身の決定的な変化が示されています。ノアたちが捧げた礼拝に応えて神は言われます。

 

 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」この物語を通して神はご自身を変化させられています。それは一度は人間の罪のゆえに被造物を滅ぼし尽くそうとされた神が、人の罪をも含めて受け入れ、共に歩むという決意の表れでもあるのだと思います。

 

 私たちが信じるところの神は今日の聖書箇所に示されているようにご自身の愛において変化させられる方です。私たちの弱さや罪を理解し、受け止め、そしてそのことに寄り添う決意をされた神は今もなおその決意に従って私たちと共にいてくださっています。そのことは私たちにイエス・キリストの降誕の出来事を思い起こさせるものでもあるでしょう。

 

 神は今もなおご自身の決意のもと私たちに愛をもって関わり続けてくださっていますから。

10月1日主日礼拝メッセージ  「賢く、そして忠実に」

 

聖書にはいくつかの、いえ実際には想像するよりもっと多いかもしれませんが、その解釈が非常に困難な箇所があります。それは多くの場合、現代日本に住む私たちの一般的な常識から考えるととても受け入れられないようなこと、例えば不公平感のあるものだったり、あるいは不道徳に思えるものだったりが原因なのだと思います。今日の聖書箇所はまさにそのような解釈が困難な箇所であり、皆さんも初めてこの箇所を読んだ時には大いに戸惑われたのではないでしょうか。

 

 新共同訳聖書には箇所ごとに見出しがついていますが、今日の箇所の見出しは「不正な管理人のたとえ」となっています。これだけ見ても不穏な感じがしてきますが、その予感の通り、この箇所は表面的に読むならば私たちに受け入れ難い印象を残すものになっているのです。なぜこのようなつまずきを齎しかねないような記事が聖書に残っているのでしょうか。

 

 それはこの記事で語られていることの真の意味がこの記事の表面的な印象の悪さを遥かに凌駕して大切なことだからではないでしょうか。今日はこの「不正な管理人のたとえ」から聞こえてくる御言葉を皆さんとご一緒に考えて行きたいと思います。たとえ話の発端はある金持ちの管理人が主人の財産を無駄遣いしていることが判明したことにあります。

 

 つまりこの管理人は話の始まりの時点で既に不正をしていたわけです。自分のものではない主人の財産を使い込んでいたわけですから。主人は管理人に告げます。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」不正が明るみに出た管理人は主人から解雇を宣告されそうな状況まで追い込まれてしまいます。

 

 窮地に立たされた管理人は必死に考えます。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」彼は新たな仕事を探すのではなく、仕事をやめさせられても自分を助けてくれるような友人を作るという逆転の発想を閃きます。

 

 ではどのように彼は友人を作ったのでしょうか。彼は本来主人の財産を管理することが仕事である管理人です。ゆえに彼は主人に借りのある人々も知っていたわけです。そこで彼は主人に借りのある者たちのその借りを減じてやるという方法によって先ほどの彼の発想を実行しようとします。つまり管理人は主人から預かっているものを用いることで、この後自分を助けてくれるであろう友人を作ったということです。

 

 この時点で私たちはこうは思わないでしょうか。「いやいや、不正に不正を重ねるのか」と。私たちこのたとえを最初に読んだ時、元々不正をした上にさらに不正をして、しかもその目的が自己保身のためであったとなれば、この管理人にはさぞ厳しい罰が待っているに違いないと思ったのではないでしょうか。ですが物語は私たちの予想を裏切って進行します。とりわけ次の一文がこのたとえを解釈困難なものにしているのだと思います。

 

 8節「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」主人はこの管理人を罰するどころかなんと褒めています。私たちの一般的な常識から言えばとても考えられないことだと思います。会社でこの管理人と同じことをしたらもちろんクビでしょうから。ここで思い出したいのはこの話はあくまで喩え話であるということです。そしてもう一つこの喩えはイエスの弟子たちに語られていることが1節で語られています。

 

 つまりこの喩えは私たちの一般的な価値観で解釈するのではなくて、聖書の根底をなす大きなメッセージに照らして解釈するものだということです。これは他のイエスの喩え話にも当てはまることではありますが、解釈が困難な今日のような喩えではよりそのことを意識して読み取っていくことが大切でしょう。では聖書の根底をなすメッセージとはなんだったでしょうか。それは神は私たちを憐れみ、恵みを施してくださる方であること。そして、その恵みは本来私たちが受けるに値しないものであるということです。

 

 この聖書の根底のメッセージに照らしてこの喩えを見ていくと、イエスがこの喩えを通して弟子たちに語られようとしたことが見えてくるでしょう。まず主人と管理人とは神と私たち人間を表しています。ここまではいいでしょう。ではなぜ管理人は不正なものとして語られているのか。それは私たち人間が本来、主人の財産、言い換えれば神の恵みを受けるに値しないものであることを示しています。

 

 この「不正」と訳されている言葉は「不義」とも訳すことができる言葉です。私たち人間は元々神に対して不義あるものであることを考えれば、「不義なる管理人」としてこの喩え話の中で語られていることが納得できるのではないでしょうか。ですが、それでも主人が管理人のやり方を誉めたことには疑問が残ったままだと思います。そのことの答えを知るためには管理人が主人の財産を何の為に用いていたのかに注目する必要があります。

 

 まず、管理人の主人の財産の最初の用い方については1節にこのようにあります。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。」この管理人は当初、主人の財産を特別な目的もなくただ無駄遣いしていたわけです。そのことによって管理人は主人から「もう管理を任せておくわけにはいかない。」と咎められているわけです。

 

 対して管理人が主人に借りのある者たちの借りを減じてやった時の彼の目的は、仕事をやめさせられても大丈夫なように友人を作ることが目的だったわけです。この二つの行為は主人の財産を勝手に用いていることに関しては同じですが、その目的において明確な違いがあることは確かなことだと思います。つまり、主人がこの不義なる管理人を褒めたのは、主人の財産、言い換えれば神の恵みを用いる目的が大きく関わっていることがわかります。

 

 また「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。」とあります。この「抜け目のない」と訳されているのはギリシャ語の「フロニモース」という言葉ですが、この言葉は他に「賢い」や「思慮のある」と訳すことができ「実務的な頭の良さ」を示す言葉で特にマイナスのニュアンスを含んだ言葉ではありません。つまり、主人は管理人の狡賢さを褒めたのではなく、その未来を見据えた賢さを誉めたということでしょう。因みにイエスが語られた「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。 」という言葉の「賢く」もこの「フロニモース」が使われています。「蛇」という言葉のマイナスイメージに引き摺られてしまうかもしれませんが、「未来を見据える賢さ」は善いものとして聖書で勧められているのです。

 

 ここまで考えれば、この喩えが語ろうとしている真の意味が見えてくるのではないでしょうか。すなわち、私たちは神に対して誰しもが不義あるものであるにも関わらず恵みを与えられ、それを用いることを許されていること。そしてその恵みを先を見据えて賢く、また神の示す目的に適うように用いることへと招かれているということです。

 

 それは特別大きなことでなくてもいいのです。私たちの生活は小さなことの積み重ねでできています。私たちに任された恵みへの小さな忠実さの積み重ねを神は何より喜ばれ、さらなる大きな恵みを任せてくださるかたですから。