6月27日主日礼拝メッセージ  「イエスに目を注いで」

 

・弱さを認めないもの、弱さを受け入れるもの(25-26)

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はマタイによる福音書11:25-30です。25節の最初に「そのとき、イエスはこう言われた。」とあります。つまり、この箇所は前の部分を受けてイエスの発言ということになります。ですから、この箇所を理解するには、この箇所の前で語られていることの内容を踏まえる必要があります。

 

今日の箇所の前の箇所である11:2-24で語られていることを簡単に要約すると、イスラエルの人々がイエスをメシア、すなわち救い主であると認めずに受け入れることをしなかったことが語られています。2-19ではバプテスマのヨハネでさえも、イエスのなさっていたことを聞いても、救い主であるという確信が持てずに自分の弟子たちをイエスの下に遣わしてわざわざ質問させるほど、当時のイスラエルの人々のメシア観が、イエスの言動とかけ離れていたことがわかります。

 

そして、20-24では、悔い改めない街々について語られています。イエスのなさった業や言葉を聞いても彼らは悔い改め、すなわち自分自身を省みることはしませんでした。そのことは言い換えれば、イエスのなされていることを理解しようとしないということでもあります。すなわち、当時のイスラエルの人々は自分たちのメシア観に囚われて、イエスがなされている働きの本質を見ていなかったということです。

 

それは、イエスが私たち人間に語られた福音の本質にかかわることでもあります。そしてイエスはその福音の本質を知ることについてこう語っています。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」イエスが語られている「これらのこと」というのが福音の本質です。そして、この箇所が前の箇所11:20-24を受けての発言であることを考えると、福音は「悔い改め」と深い関係を持っていると言うことがわかるでしょう。

 

悔い改めた先にこそ福音の本質への理解が開かれることをイエスは「知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示される」と語られます。ここで語られている幼な子とはどんな存在でしょうか?ここで語られている幼な子のイメージは、なんでも素直に聞くような子供のイメージではありません。そうではなくて、自分の弱さを知っている者、言い換えれば自分が神のことを理解できないものであることを認めた者と言えます。

 

そのことは、対比されている「知恵ある者や賢い者」というイメージとは正反対のものだと思います。自分が神のこと、イエスのことを知っていると思っているものには、開示され得ないもの、それが福音なのだと語られています。そして、そのことは、御心にかなうことであったということもイエスは語られています。つまり、神によって「自分自身を砕かれ、悔い改めたものだけが、福音を自分自身の事柄として受け止めることができると言うことなのだと思います。

 

 

・すべてを理解しているイエス(27)

 また、福音を自分自身の事柄だと受け止めていくと言うことは、同時に神を、イエスを理解していく歩みでもあります。27節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 

 

 私たちは神のなさることを完全に理解することはできませんが、しかし、全く理解することができないわけでもありません。神の本質はイエスご自身に完全に現れており、私たちは聖書を通して、イエスの語られた言葉やなされた業を示されています。私たちは聖書に示されたイエスに目を注いでいくことで、私たち自身では知ることのできない神を理解していく道へと導かれていきます。なぜなら、ただイエスだけが父なる神のことを完全に理解しているからです。

 

 

・恵みへの招き(28-30)

 しかし、当時のイスラエルの人々は、律法を実行することが、神との契約を守ることであり、ひいては神を理解していくことであると考えていました。それゆえ、当時の律法学者やファリサイ人たちは他者の肩に背負いきれないほどの重荷を背負わせていました。イエスご自身もそのことについてマタイによる福音書23:4でこのように言われています。

 

 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」 律法学者やファリサイ人の解釈によって歪んでしまった律法は、その本来の意味から遠く離れてしまっていました。律法は「こうであらねばならない」「こうしなければならない」という人を縛りつけるものとなってしまい、さらにそれを他者に強要することで、人には背負いきれない重荷となってしまっていました。

 

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

イエスはそんな重荷を負った者、疲れた者をご自分の下に招き、休息を与えると語ってくださっています。それほどまでに。当時の人々は疲れと重荷を抱えながら生きていたのだろうと思います。自分の人生の生きづらさを感じながら、なにかに縛られて生きているような感覚の中で生きていたのかもしれません。

 

 しかし、そのことは何も当時の人々だけではないようにも思います。現代に生きる私たちも疲れ、重荷を負いながら生きているということがあったりするのではないでしょうか。「こうであらねばならない」「こうしなければならない」という自分の中で作り上げた「律法」で自分自身を生きづらくしているということがあったりするのではないでしょうか。

 

 私たちクリスチャンは聖書の言葉を自分自身の生き方の基盤として生きています。それは当時で言えば、律法を自分自身の生き方の基盤としていたイスラエルの人々と同じだと言えます。そう考えると、私たちも聖書の言葉の解釈を歪めてそれを背負いきれない重荷として他者に背負わせてしまったり、むしろ疲れや、生きづらさをもたらすものとして聖書の言葉を受け取ってしまうこともあるということだと思います。

 

 だからこそ、イエスのこの招きは現代の私たちに語りかけられている言葉だといえます。私たち自身が神の言葉を「重荷」として受け取ってしまっている時、イエスはそんな私たちを休息へと招いてくださいます。背負いきれない重荷を背負ったままでは、私たちは前を向くことができないでしょう。それは言い換えればイエスに目を注いでいくこともできなくなるということなのだと思います。重荷を負って、疲れた私たちの目線をイエスは再びイエスご自身へと向けさせてくださいます。

 

 そのことはまた、次の言葉ともつながっていると思います。29節「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 」この言葉からイエスの休息の約束は、その人の活動そのものを完全停止させるようなものではないということがわかります。なぜなら、イエスは律法を廃止するためではなく、その真の意味を人間に伝え完成させるために来られたからです。

 

 マタイによる福音書5:21でイエスはこのように語られています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 」ここで律法の本来の意味について考えてみたいと思います。先程から申し上げている通り、律法は長い時間の中でその本来の意味が歪められ、人間を縛り付ける形式的なものになってしまっていました。しかし、律法の本質は神が私たち人間を縛るための重荷ではなくて、むしろ神が人間に「こう生きてほしい」「こうあってほしい」という「期待」であり「願い」だったと言えます。

 

 ゆえにイエスが私たちに与えられる休息というものは、律法、すなわち私たちにかけられた神の期待から外れた無秩序な生き方へ逃げ込むということではなくて、その神の期待の範囲内で私たち人間が生きることができるように助けを与えてくださることなのだろうと思うんですね。だからこそ、イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」と言われているのだと思います。

 

 軛とは2頭の動物をつないで一対にし、2頭で一つの仕事をさせるときに用いられる木でできた道具のことです。つまり、イエスが言われる「わたしの軛を負いなさい」とは、イエス自身と共に一つの仕事をなしていくことに招かれているということだと言えます。そして、「わたしに学びなさい」とは、自分の隣で働かれるイエスに目を注ぎ、自分に与えられた荷の引っ張り方を学ぶと言うことだと思います。それは、言い換えれば、神の期待や願いに応答して生きる生き方を学ぶと言うことです。

 

 そして、そこにこそ安らぎがあることをイエスはまた語っています。私たちが神との関係の中で、神の期待に応えて生きるとき、私たちはそこに真の安らぎがあることを発見するでしょう。それは私たちが神との関係の外では得られない喜びや幸せを、神との親しい関係の中にこそ見出すからであり、神が私たちをいつもその愛の関係の中に招いてくださっているという福音の本質とつながることでもあります。

 

 私たちは人生の中で確かに多くのものを背負いながら生きています。そんな中で私たちは自分の荷を自分で重くしてしまっているときがあるかもしれません。しかし、イエスはそんな疲れ、下を向いてしまっている私たちと共にその荷を背負ってくださいます。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 私たちは一人で荷を背負うことはありません。私たちの隣にはいつもイエスがいてくださるからです。私たちがそのことに気付かされていくとき、きっとそれまで感じていた重みがスッと軽く感じることでしょう。「イエスの軛は負いやすく、イエスの荷は軽いのですから。」

6月20日召天者記念礼拝メッセージ  「わたしは生きている」

 

・神への嘆き(14)

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はイザヤ書49:14-21です。この箇所は、当時厳しい状況下にあったイスラエルに神の言葉を代弁する預言者イザヤが語ったメッセージの一部です。当時のイスラエルの状況は、バビロン捕囚という出来事の只中にありました。バビロン捕囚とはイスラエル王国が大国バビロニアに敗北した後、自分たちの国から引き離されて、敵国バビロニアで囚われの民として暮らすことになった出来事です。

 

 イスラエルに民たちは、このいつ終わるともわからない屈辱的な生活の中で、隷属からの解放と故国への帰還を願いながらも、しかし現実には到底実現されない状況の中に長い年月いたことで、自分たちが信じる神を見失いかけていました。イザヤはそんなイスラエルの民の心情を代弁するかのように語り出しています。「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。」

 

 「シオン」とはイスラエルのことです。そのイスラエルが、神は自分を見捨て、忘れられたとの嘆きの言葉で始まっています。これまで常にイスラエルと共にあり、傍で導き守ってくださった神の存在が、このときのイスラエルには実感できなかったのかもしれません。戦に負け、あらゆるものが奪われたイスラエルにとって、このバビロン捕囚の期間というものは、これまでイスラエルを導いてこられた神の存在が一番遠くに感じられた期間であったことでしょう。

 

 そんな捕囚にあったイスラエルの民に神は預言者を通して解放と救いのメッセージを語りますが、彼らの心にはその言葉が実感をもって響かなかったのでしょう。それほどまでにこの捕囚の出来事はイスラエルの民にとって大きすぎる苦難であり、神の解放の約束と現実との矛盾の中で神への嘆きを叫ばずにはいられなかった出来事なのです。

 

 時に私たちもこのイスラエルの民のように神の約束と現実とのギャップの中で、神へ嘆かずにはいられないことがあるのではないでしょうか?私たちもそれぞれの人生を歩んでいる中で、自分にとってのバビロン捕囚と言えるような出来事があるのではないでしょうか?辛く、長い、いつ終わるともしれない苦難の中で、あるいは簡単には受け入れられないような出来事の中で、自分が神から忘れられているように感じることがあるかもしれません。

 

 私たちは大きすぎる苦難や厳しい現実の中で、時に自分が誰からも忘れられ、見捨てられているかのような感覚に陥ることがあったりするかもしれません。受け入れ難い出来事や、目を背けたくなるような現実を前にした時、世界が自分だけ取り残して先に進んでいくような感覚に陥ってしまうことがあったりするかもしれません。当時のイスラエルの民はまさにそのような状況だったのだろうと思います。

 

 

・神の愛の深さ(15-17)

 そんなイスラエルの民、私たちに対して神はイザヤを通して諭すように語りかけています。15節「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。」神はご自分を母親に、イスラエルを子に例えられて、その愛の確かさを語りかけておられます。

 

 たとえ母親でさえ忘れるようなことがあったとしても、一人ひとりの存在を確かに覚えておられるのだと、神はイザヤを通して語りかけられています。神は私たち一人ひとりをご自分の子として大切に思っておられ、そして私たちが誰からも忘れられていると感じている時でさえ、ただ神お一人はそんな私たちのことを確かに覚えておられるということを、真っ直ぐに私たちに語りかけてくださっています。

 

 また、神はこうも言われます。16節「見よ、わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」神は私たち一人ひとりをご自分の掌に刻みつけられほどに、私たちの存在を覚えておられ、そして確かな救いを与えられることを語られています。このことはここだけではなく、聖書全体を通して語られているメッセージだと思います。

 

 神は私たちがどんな状況にあっても、決して見捨てず、その存在を忘れられることはありません。むしろ、私たちの苦難の時にこそ、神は私たちに伴ってくださり、確かな助けを与えてくださる方です。聖書は、そのことを何度も私たちに語りかけています。それはそのことが神の愛の根底をなす私たちへの大切なメッセージだからだと思います。

 

 私たち人間は誰からも忘れられている、存在が認められていないと感じる時に大きな不安と恐れを感じる存在です。それは人間が本質的に他者との関係の中で生きる存在であり、その関係の中でこそ安らぎや幸せを感じることができる存在だからでしょう。だからこそ聖書は、「孤独」の中にある人々に対して、「あなたは忘れられていない、一人ではない」というメッセージを一貫して語り続けています。

 

 そして、そんなメッセージと共に、神は私たちに対する確かな助けをも備えてくださることが語られています。17節「あなたを破壊した者は速やかに来たが/あなたを建てる者は更に速やかに来る。あなたを廃虚とした者はあなたを去る。 」私たちが苦難の中で崩されて、もう立ち上がれなくなったとしても、神はそんな私たちを確かに助け起こし、また再び立ち上がらせてくださいます。

 

 私たちがどんな苦難の中にあっても、神は私たちを決して忘れることなく、そして速やかに助けてくださる方です。神との関係の中に私たちがいる限り、私たちは決して一人になることはありません。他の誰からも忘れられたとしても、私たちは孤独に取り残されることはありません。私たちが神に背き、目を逸らしても、神はそんな私たちにさえも手を差し伸べ、その愛の関係の中で生きるようにと招いてくださいます。

 

 イスラエルの民は長い捕囚生活の中で、神を忘れ、希望を見失いかけていたことでしょう。しかし、どんなにイスラエルの側から、私たちの側から神との関係から離れてしまったとしても、神はそんなイスラエルに、私たちに語りかけてくださり、豊かな励ましと確かな助けを備えてくださいます。

 

 

・目を上げて…(18-21)

 神は大きな苦難の中で希望を失い、項垂れるイスラエルの民に「目を上げなさい」と語りかけられます。神が指し示すその先に見えるのはどんな光景でしょうか?聖書はそれをこのように語っています。「彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。わたしは生きている、と主は言われる。」捕囚によって散り散りになった民たちは再び神によって集められます。それは神が確かに生きて働いておられ、私たちの引き裂かれた関係を回復させてくださるという希望の出来事です。

 

 イスラエルの民たちは長い捕囚生活の中で、神を忘れ、希望を見失い、大きな苦難の中で絶望してしまいそうなほど項垂れてしまっていました。しかし、神は、そんなイスラエルの民を決して見捨てられず、「あなたは忘れられていない、一人ではない」と語りかけられ、そして目を上げて神が指し示す確かな希望を見つめて生きるようにと語りかけてくださっています。

 

 そのことはまた、イスラエルの民だけでなく、私たちにもまた聖書を通して語りかけられている私たち一人ひとりに向けられた神からのメッセージです。私たちはそれぞれの人生の中で様々な出会いと別れを繰り返しながら生きていきます。多くの人との関係の中で私たち人間は生き、その中で多くの喜びや幸せを感じる存在です。しかし、それゆえにその関係が断ち切られたときに感じる悲しみや痛みは耐え難いものがあります。

 

 特に「死」という別れには、私たち人間にはどうあっても抗うことはできません。そんな中で残された私たちには多くの痛みや苦しみがあることでしょう。捕囚の中にあったイスラエルの民のように自分が誰からも忘れられ、見捨てられているかのような感覚に陥ることがあったりするかもしれません。受け入れ難い出来事や、目を背けたくなるような現実を前にして、世界が自分だけ取り残して先に進んでいくような感覚に陥ってしまうことがあったりするかもしれません。

 

 しかし、神はそんな私たちの傍にいつも寄り添ってくださり、慰めを励ましと、そして確かな希望を備えてくださる方です。私たちが大きな苦難や深い悲しみの中で、たとえ神に応答することができなかったとしても、神はそれでも私たちの悲しみに寄り添い、私たちの痛みを共に担い、そしてまた前に私たちが進んでいく道を共に歩んでくださいます。神は今も確かに生きておられますから。

6月13日主日礼拝メッセージ 「恵みへの応答」

 

・喜びから豊かさへ

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所はコリントの信徒への手紙二8:1-15です。この8章はパウロがコリント教会の信徒たちにマケドニア州の教会の様子を紹介するところから始まっています。1-4にはこうあります。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。 彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。 わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」

 

 パウロの伝道を通してマケドニア州にはテサロニケ、べレア、フィリピなど多くの教会が建てられていきました。しかし同時に、マケドニアの諸教会は厳しい迫害の中にあった教会です。そんな中で当然経済的にも苦しい状況であり、極度の貧しさの中にあったといいます。ですがパウロによれば、彼らは自分たちのそのような厳しい状況だったにもかかわらず、他者のために惜しまず施す豊かさを持っていたと言うのです。

 

 なぜ彼らは激しい試練と極度の貧しさの中にありながら、それでもなお献げていくことができたのでしょうか?パウロはそのことを「神の恵み」であると語っています。恵みというと普通は自分自身に与えられているもの、そしてそれが多いことを想像するかもしれません。しかし、ここでは全く真逆の意味で「恵み」という言葉が使われています。このことは、「恵み」というものが単に与えられることによってだけ受け取るものではなく、自らが他者に与えることによっても受け取ることができるものであることを示しているのだと思います。

 

 パウロはマケドニアの教会の人々には「満ち満ちた喜び」があったことを伝えています。つまり、マケドニアの教会の人々は、分け与えることによって得ることのできる喜びというものを実感していたのでしょう。それは、言い換えれば彼らは他者との関係の中に喜びを見出し、それを神の恵みとして受け取っていったということなのだと思います。自分たちと同じく貧しさの中にあった教会に献げることによって、その教会と、そしてそこに集う人々との関係を持つことができること彼らは知っていました。もちろん、これは献金をしなければ、関係が持てないという意味ではありませんが、他者の痛みを分かち合うことでより一層関係が深くなることはあるでしょう。

 

 このように、マケドニアの教会の人々は他者に与えることによって、他者と連帯し、その関係を深めることで喜びを実感し、それを神の恵みとして受け取っていきました。しかし、もし私たちが、自分が何かを受け取ることを第一目的として、人と関係を持とうとするならば、どうなるでしょうか?私たちは、その人から自分が期待しているものを得ることができないと、落胆し、その人を非難し、その人を憎んでしまうことさえ時にあったりするのではないでしょうか。相手を助け、建て上げるのではなく、むしろつぶしてしまうようなことをしてしまう時はないでしょうか。

 

ですが、私たちがよく使っている「交わり」という言葉には、いかに自分たちが得られることを期待していることが多いということに改めて気付かされます。教会に行くのも、得ることを期待して、祝福を受け取ることを期待して行きます。確かに教会、そして主日礼拝は神によって一人ひとりが招かれ、そして神が祝福を与えてくださる場でもあります。しかし、同時に教会は自分がただ受け取るだけの場ではないと思うんですね。

 

私たちは神に献げ、人に分け与えるために教会に来ることはあるでしょうか。実は、聖書で用いられている「交わり」というギリシヤ語「コイノニア」は、もともと分け与える、というのがその意味です。与えることによって、その与えている相手と私たちは交わることができます。ですから、与えるところに「神の恵み」があるんですね。

 

 また、マケドニヤの諸教会は、今まで自分たちが見たこともない、エルサレムにいる兄弟たちのことを思って喜んで献げています。私たちは、このような視点で教会を見ているでしょうか。私たちはつい自分の教会、自分の地域、自分の国、自分の教派、というように、自分に直接関わる人たちとの交わりだけを交わりと呼んでしまいます。しかし、聖書が語る教会、すなわちキリストの体は、世界にあるすべての地域に建てられた教会をもって成り立っています。そのことを理解していく時、私たちは自ずと世界全体に目が向き、その世界に建つ教会に、そしてそこに集う人々に目が向くことでしょう。私たちはつい、自分のこと、自分の教会のことを考えるのにいっぱいいっぱいになってしまう時がありますが、神は世界の教会の一部としてこの大村古賀島教会を建てられ、そして私たち一人ひとりをここに招かれました。そして神は、分け与えるところに交わりを起こしてくださり、その交わりの中で、私たちの心に喜びをもたらしてくれるのです。

 

 

・貧しさに降るキリスト

 パウロはマケドニア教会が自分自身を献げていく姿を紹介しつつも、しかし、「だからあなたがたもそのようにしなさい」という単純な指示はしませんでした。その理由を彼は8-9でこのように語っています。「わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」

 

 パウロは「あなたがたの愛の純粋さを確かめるため」だと言っています。これはコリント教会の人々自身が他者に与える愛を確かめる、というよりも、むしろ彼らがどれほど純粋な愛を受けているのかを思い起こさせようとしてパウロは語っているのだと思うんですね。この後続く彼の言葉がそれを示しているように思います。9節「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」 

 

 パウロはここでコリント教会の人々に改めてイエスが与えてくださった愛の深さ、恵みの大きさを思い起こさせています。イエスは私たち人間のために、神としての豊かさを捨て、人間として貧しさを纏ってこの世界に来てくださいました。私たちはイエスが自らを献げた純粋な愛によって生かされています。そしてその愛の大きさは私たち自身が自らの罪の深さを顧みるときに、溢れるばかりの恵みとして私たちの内に湧き上がってくるものなのではないでしょうか。

 

 パウロがマケドニア州の教会を紹介したのは、単純に「彼らがそうしているのだから、あなたがたもそうしなさい」という命令のためではなく、コリント教会の人々一人ひとりに自分自身が神から受け取った恵みの豊かさを思い起こさせるためでした。そして、パウロが語ったマケドニア教会の人々の「満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」という言葉には、自分に与えられている恵みが自分から溢れるほど大きなものだと気づかされたときに、神は自分を用いてまた恵みの業をなされていくことに気付かされるということでもあるのだと思います。

 

 それは、私たちの献金を含む全ての奉仕というものが、私たちが神から受け取っている恵みの応答だからに他ならないからだと思います。私たちの奉仕は自分が神から計り知れない恵みを受け取っていると実感するからこそ、その応答として自発的になされていくものだと思います。パウロはそのことを深く理解していたからこそ、コリント教会の人々に命令として語らなかったのでしょう。

 

 

・進んで思った通りに…

 このようにパウロはコリント教会の人々にイエスの愛の深さ、恵みの大きさを思い起こさせることで、彼らが自発的に神の恵みに応答していくことを促していきました。「だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。 進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」

 

 パウロはさらに「進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられる」ということを彼らに語っています。おそらく、自分が献げるものに関して引け目を感じている人々に対して語られた言葉でしょう。私たちはつい自分が今持っているものを卑下して、自分が持っていないものまで無理して献げようとしてしまうことがあります。

 

 そのことは今の私たちも初代教会の人々も変わらなかったのでしょう。しかし、パウロはそんなことを気にする必要などないことを語り、何よりも「進んで行う気持ち」が大切であることを彼らに語っているんですね。このことは献金や奉仕といった私たちが神に献げていく行為は全て何より「その人自身の心の向き」が重要であることを示しているのだと思います。

 

 つまり、それは「神の招きに応答する心」が神に受け入れられるということなのだと思います。サムエル記上16:7に「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」

という御言葉がありますが、まさに神は人のうわべでなく、その心の向きを見ておられるということを聖書は語っているのでしょう。

 

 そしてパウロは最後に私たちの奉仕というものの本質について語っています。「他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」

 

 つまり、私たちの奉仕は神が私たちを用いてなされている、私たち全体を養う神の業だということなのだと思います。神は私たち一人ひとりを用いて、その人にしかできない奉仕へと招かれ、そして一人ひとりを養ってくださっています。私たちが神からの招きに応答して奉仕していく時、同時に私たちは誰かを用いられた神の業によって養われていくことでしょう。

 

6月6日主日礼拝メッセージ 「人の知恵でなく神の力で」

 

・アテネの人々

 今日みなさんとご一緒に御言葉を受け取っていきたいと願う聖書箇所は使徒言行録17:16-34です。パウロがアテネの人々に宣教する場面です。アテネは当時のギリシャ文化の中枢の町でした。哲学が特に盛んで、人々は知的好奇心を満たして生きるのを至上の喜びにしていました。また、17:16に「この街の至る所に偶像がある」というように、アテネには多くの神々の像がありました。アテネは多くの神々を信仰する多神教の街だったわけです。

 

そして、それは言い換えればアテネの人々がそれだけ多くのことに興味を抱いていたことを意味するのでしょう。ギリシャでは「愛」や「怒り」といった感情が神とされていました。人間の感情を探究していくうちに、それらを神としていったのかもしれません。しかし、それらは還元していけば人間の感情に対する未知の事柄を「神」に置き換えただけとも言えます。

 

 そう考えると当時のアテネの人々は「自分の知らない事柄」を「神」として崇め、それらを偶像にしていったのだと思います。なぜなら、彼らにとっては「自分の知らないことを知る」ということが全てであり、求めるべき対象だったからです。偶像とはこうして自分に都合のいい神を求めていくときに造り上げられていくものなのかもしれません。

 

そして、偶像に心囚われるとき、人間の心は聖書の語る真の神からは離れてしまうのでしょう。聖書の語る「偶像」とは「人間の自分自身に対する執着」のことであり、「偶像」に囚われることは、人間を自分自身の外側へと向けさせる神から目を背けることを意味することなのだと思います。私たち人間はあらゆるものを偶像にしてしまう存在です。そして偶像は私たちの心の向きを神という私たちの外側にある存在から、自分自身という内側へと向けさせていきます。

 

 だからこそ「偶像」は、私たちの身の回りにも多くあるものだと思います。聖書中に出てくる何かの形をした像だけが「偶像」なのではありません。私たちの「執着」の対象であればなんでも「偶像」になり得ます。それは「人」かもしれないし、「物」かもしれないし、「概念」かもしれないし、「主義や主張」かもしれません、その人にとって、それが神から目を背けさせるほど執着してしまうものならば、その時それはその人にとっての「偶像」となります。

 

 当時のアテネの人々の「偶像」は「自分自身の好奇心」でした。そして新たな偶像としてパウロの語る神に興味を持ちます。19-20節「彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。『あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。 奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。』」

 

彼らはパウロの語る神にも興味を持ちましたが、それはパウロの語る神そのものに興味を持ったのではなく、「自分自身の好奇心」を満たしたいがために、単に目新しいものに興味を持っただけでした。しかし、パウロは彼らの申し出を受け入れ、語ることにします。おそらく、パウロは彼らの「ただ知らないものを知りたい」という本心は分かっていたでしょうが、それでも応じたのはパウロなりの考えがあってのことだったのだと思います。

 

 

・パウロの姿勢

 22節からはパウロの宣教が始まっていますが、その中にはアテネの人々に対するパウロの配慮が見て取れます。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。」

 

 穿った見方をすれば、この言葉は一見皮肉のようにも聞こえますが、しかし、このことはアテネという場所でパウロが語るために必要不可欠なものだったのでしょう。彼らの文化や慣習に理解を示すことで、パウロは彼らとの距離を縮め、対話の窓を開いたのでしょう。もし、彼らの文化や慣習を最初から否定してしまえば、そこで対話の窓は閉ざされていたかもしれません。

 

 そうであれば、私たちもまたこのパウロの姿勢は見習うべきところがあるのだと思います。私たち教会は福音を伝える働きを担っていますが、それは決して他者との対話を無視した押し付けのものになってはならないと思います。残念ながら教会は長い歴史の中で、そのような伝道をしてきた過去があります。しかし、それでは神と人との個人的な関係の構築、言い換えれば「救い」には繋がらないでしょう。

 

 私たち人間は神に招かれ、自らの意志でその招きに応答するときはじめて、「救い」を受け取ることができるからです。そして、その人自身が神との信頼関係の中を歩んでいくことで、その「救い」を実感しながら生きていくことができるのだと思います。神への信頼である「信仰」は、誰かに強制されるものでも、説得されるものでもないからです。

 

 パウロはこのような良い配慮をしながらも、しかし、続く言葉の繋がりに個人的には少し違和感を覚えます。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。 」ずいぶんと上から目線のような言葉にも聞こえます。「あなたが知らないだけで、実はあなたが信仰しているのは私たちが伝えている神なのですよ?」と言っているのですから。

 

 先程のパウロの言葉とは対照的のようにも思えます。パウロはこの言葉を皮切りにアテネの人々に時折、彼らの言葉や自然から観察できる共通の事柄を用いて、次々と神を説明していきます。しかし、聖書は「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。 」と興味を失ってしまったことを語っています。

 

 もちろん、アテネの人々が「死者の復活」という彼らからしたら、馬鹿馬鹿しいと思える話をパウロが語り始めたので興味を失ったということもあると思います。しかし、それだけではないようにも思うんですね。というのもやはり、パウロの宣教姿勢が彼らから見れば、どこか自分たちのことを否定されたように感じたのかもしれません。最近でいえばマウントを取るという感じでしょうか。

 

 話の入りは悪くなかったのに、結果的に彼らとの対話の窓は閉ざされてしまいました。もしかしたら、パウロが彼らを説得できると思ってしまっていたのかもしれません。パウロはもちろん当時のアテネの文化水準が高いことは知っていましたし、そこにいる人々が知識人であり、「自分自身の好奇心」を満たすことを生き甲斐にしていたことも知っていました。

 

 そのことでパウロはどこか気負いのようなものを感じていたのかもしれません。「自分の言葉一つで彼らが神を信じるか決まる」「失敗できない」そんな思いがパウロの中にはもしかしたらあったのかもしれません。だからこそ、パウロは彼らの文化や言葉を用いて神を語っていったのだと思います。しかし、結果的にそれは相手に寄り添っているというよりも、自分自身の言葉で説得してやろうという思いになっていってしまったのかもしれません。

 

 

・パウロの挫折と気づき

 実はこの時のパウロの心情が語られていると思われる聖書箇所が存在します。コリントの信徒への手紙 一2:1-5です。読んでみたいと思います。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」

 

 パウロはアテネを去った後、コリントに向かいますが、そこで語られた彼の言葉には「優れた言葉や知恵」はなかったとあります。つまり、アテネで語ったような説得的な宣教はしなかったことを意味しているのでしょう。さらに彼は「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安」だったと語っています。このことから、パウロはアテネでのことで大きな挫折を経験したのだろうと思います。

 

 やはり彼自身の中でそのとき変な気負いのようなものがあったのだと思われます。「自分の力しだいでその人が神を信じるかどうかが決まる」といったような思いがあったのかもしれません。そしてそんな思いはパウロのみならず多かれ少なかれ私たちの中にもあったりはしないでしょうか?誰かに福音を伝えるとき、神のことを語るとき、聖書の話をするとき、そんな思いになるときがあったりするのではないでしょうか?そしてそんな気負いが自分自身を空回りさせてしまうこともあったりするのではないでしょうか?

 

 パウロはこの挫折の経験を通して一つの気づきを得ます。彼はそのことをこう語っています。「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」パウロは、人は人の言葉によって神と出会うのではなく、神がその人に直接出会ってくださるから、人は神を信じることができるということに改めて気付かされたのだと思います。

 

 そして、今日の聖書箇所の最後の節、使徒言行録17:34にはこうあります。「しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。」パウロの宣教はパウロ自身納得いくものにはなりませんでした。しかし、そんなパウロの宣教をも用いて働かれた神の姿を、パウロの宣教をきっかけとして神を信じた人達を通して、パウロは示されたのだと思うんですね。

 

 私たち教会は、そして一人ひとりのクリスチャンは福音を語っていく働きを託されています。時に今日のパウロのように、働きに対する気負いや恐れを感じるときもあるかもしれません。しかし、神はそんな私たちを通してでも働きをなされる方です。人は「人の知恵によってではなく、神の力によって信じる」からです。私たちはその神の力に信頼し、神から託された働きに応答していきたいと願います。