11月19日主日礼拝メッセージ  「真の救いはどこから」

 

現代はインターネットが発達して非常に便利な世の中になったと思います。欲しいものがあったらスマホをちょっとタップするだけで届きますし、わからないことがあってもわざわざ図書館に行かずともPCで調べられます。行こうとしている目的地の場所がわからなくなってもGoogleマップが教えてくれます。これらがなかった時のことはもう思い出せないほど私たちはこれらのものに頼っているところがあったりするかもしれません。

 

 インターネットによって便利になった一方でインターネットがなかった頃には無かった様々な問題も出てきています。その中の一つがネットを介した過剰なまでの誹謗中傷問題だと思います。ネットがなかったころには見えなかった、もしくは見なくてもよかった情報というのが簡単に見えるようになってしまいました。特にSNSなどを使った個人への攻撃は増大の一途をたどり、自殺者が出てしまうほどの社会問題と化してしまっています。

 

 これらは必然的に名前や顔が公に知られている有名人に対してなされることが多く、対して中傷する側は名前も顔も出さずに行うため、過激化することが多いのだと思われます。このような一方的な誹謗中傷は仮にその内容が真実であったとしても控えるべきですし、中には謂れのない真実性のない非難である場合もあるわけです。むしろ、後者の場合の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。

 

 そのような謂れのない誹謗中傷を受け、かつ周りに理解者がいない時、人はどうなってしまうでしょうか。今日の聖書箇所はまさにそのような人物の叫びが歌となっている箇所になっています。1節にはダビデの歌とあります。詩篇では毎度のことになりますが、この歌が史実のダビデ本人が歌ったものかは正直なところわかりません。ですがそれはさほど重要なことでもありません。重要なのはこの歌がダビデの生涯のどのような場面を想定して作られたのかということです。

 

 この歌はダビデがサウルに謂れのない非難を受けていた時のことを想定して歌われたものであると言われています。イスラエル王国の初代の王であるサウルは、臣下であるダビデの活躍を妬み、ついには彼を殺そうとまで考え刺客を放ちます。ダビデとしては全てサウルのため、イスラエルのためを思ってしたことがかえって彼を追い詰める皮肉な結果になってしまっています。

 

 そのような状況の中で歌われたのがこの詩篇17編であるわけです。始まりはこう歌われています。「主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。」ダビデはこの状況からの救いを神に訴え出ています。

 

 彼は三度もの呼びかけをもって自らの想いが聞かれるよう神に懇願しています。訴えと叫びと祈りはいずれも神に自らの心の内を吐き出す手段です。いかなる手段を用いてでも神に耳を傾けて欲しいというダビデの必死さが伝わってくるようです。それは同時に彼の神への誠実さを表してもいます。ダビデはこの窮地からの救いを他の何よりも神に求めているのです。

 

 私たちはどうでしょうか?自らが窮地に立たされた時、救い求めるのは自分の力だったり、あるいは他の何者かだったりすることもあったりするのではないでしょうか。ですが、本当の意味での救いは神からしか来ないことを私たちは聖書から知らされています。真の正しさと公正はただ神だけが与えられるものだからです。そのことを信じているからこそダビデは次のように祈ることができました。

 

 「あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されますが/汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。」ダビデは自分の心の内を神に調べてられても構わないとまで歌っています。それもどれだけ念入りに調べられてもなお汚れた思い、言い換えれば真実と異なる嘘、を自分が語っているのではないことがわかるとまで言います。

 

 つまり、ダビデは自分の訴えが正しいものか神に吟味されても良いと言ってるわけです。ここで歌われている通り、私たちが神に何かを訴えようとする時、その訴えが本当に正しいものなのかどうかまずは自分の中で吟味する必要があるのだと思います。もちろん、真の正しさは神にしかないわけですから、私たち自身が絶対的な正しさであると判断することはできませんが、その真の正しさを持っている神に自分の心を調べられても良いと思えるほどの思いを持っているかは吟味できると思います。

 

 このことはその訴えが自分自身の独善なのかどうかを判断するためにとても大切なことなのではないでしょうか。そしてその吟味を終えた上でダビデはこう語るのです。「わたしの口は人の習いに従うことなく/あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて/あなたの道をたどり/一歩一歩、揺らぐことなく進みます。」ダビデは人の思いではなく、神の言葉に従って歩んでいくことを望んでいます。

 

 私たち人間はどこまでいっても心の脆さを克服しきれない弱さを抱えた存在です。自分自身で正しさを定めてもそれを守りきれないか、あるいは独善的な正しさに溺れてしまうような存在が人間です。ですがだからこそ人の思いではなく、神の言葉を基準として歩むことの大切さを聖書は語っています。もちろん、そうだとしても時に揺らいでしまう私たちがいますが、そんな時に私たちを引き戻してくれるのもまた神の言葉であるでしょう。

 

 ダビデは繰り返し神に呼びかけ救いを求め続けます。特に8-9節には彼自身の願いと現在の状況においての思いが歌われています。「瞳のようにわたしを守り/あなたの翼の陰に隠してください。あなたに逆らう者がわたしを虐げ/貪欲な敵がわたしを包囲しています。」8節はモーセの言葉を引用した言葉になっています。モーセはイスラエルが荒野で旅をしていたとき、神が彼らを守られた時のことを申命記32章でこう語っています。

 

「主は荒れ野で彼を見いだし/獣のほえる不毛の地でこれを見つけ/これを囲い、いたわり/御自分のひとみのように守られた/鷲が巣を揺り動かし/雛の上を飛びかけり/羽を広げて捕らえ/翼に乗せて運ぶように」ダビデは自分の想いをイスラエルが荒野で彷徨っていた時と重ねていたのでしょう。それは長く厳しい旅路でしたが、しかしそんな中であっても神の守りが確かにあったように自分にもその守りを与えてくださるようにと願っています。

 

 そんな彼の心を荒野にしていたのは、謂れのないことで彼自身の命を狙ってくる敵でした。彼はそんな敵が自分を包囲していることを神に打ち明けています。それは表面的な意味で現実に自分に迫る敵のことをも意味しているでしょうが、それ以上にダビデにとってこの苦難によって自分と神との関係が乱されていることを訴えるものでもあるのだと思います。

 

 そしてその神との関係の回復こそが表面的な現実の敵からの救い以上に彼が切に求めていた救いなのだと思います。私たちもまた自分に苦難がまさに苦難の只中にいる時、同じような思いになることがあったりするのではないでしょうか。ですが、真に恐るべき敵は目の前の苦難ではなく、神との関係の乱れであることを聖書は語っています。

 

 

 イエスはこう言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」私たちはこれらのことを訴えと叫びと祈りを通して求め続けていきたいと思います。祈ります。

11月12日主日礼拝メッセージ  「命を支える言葉」

 

聖書には食事をするシーンというものが多く描かれています。それはもちろん人間が食事をしなければ生きられない存在であることと無関係ではないでしょう。人は日々糧を得ることでその命を明日へと繋げていきます。それは聖書の時代もそして現代に生きる私たちも変わってはいないことです。人間は本質的な部分も含めて聖書の時代から変わっていないからです。

 

 人間が根源的に必要不可欠とされるものがあることを聖書は伝えています。それは私たちが実際口にする食事ももちろんそうなのですが、それと同じくらい、いや以上に必要不可欠のものがあることを聖書はさまざまな場面で私たちに語っています。それは今日の箇所でも語られていることです。今日は私たち人間に必要不可欠であり、同時に私たちがそのためにこそ力を尽くし、求めるべきものが何であるのかを受け取っていきたいと思います。

 

 今日の聖書箇所はヨハネによる福音書6:26-35です。まず26節にはこうあります。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ』」。これはイエスがイエスを探していた弟子たちに答えられてたときの言葉ですが、いきなり意味深な返答がされています。これはどのような意味なのでしょうか。

 

 「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」というのは6章の冒頭の出来事を指しているのでしょう。そこは見ていただくとお分かりの通りイエスが多くの人々に食べ物を分け与えられたいわゆる「五千人の給食」の箇所です。ここで言われている「しるし」というのはイエスがそこにいたすべての人々が満腹になるまでパンを与えられたことを指しています。

 

 この「しるし」というのは聖書中にたびたび登場していますが、その本質は「しるし」の表面的な現象そのものではなくて、その現象が比喩的に示す意味の方にこそあります。つまり、ここでいう「五千人の給食」というしるしは「そこにいた全ての人々が食べて満腹した」という現象が重要なのではなくて、それが示そうとしている意味こそが重要であり、同時に神がそのしるしを与えられた理由だということです。

 

 そう考えるとイエスが「しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」と言われた意味がわかってくるのではないでしょうか。イエスは弟子たちがしるしの本質を理解していないと言われているわけです。ただパンを食べて満腹しただけで、それを通して示された神のメッセージをあなたたちは受け取ってはいないと示されています。

 

 ここでは弟子たちの鈍感さが浮き彫りにされているわけですが、この弟子たちの姿は決して他人事ではなく、まさに私たち自身の姿でもあるでしょう。この「しるし」と同じように神は様々な出来事を通して私たちにメッセージを送っておられますが、それらのことに私たちはどれほど気付けているのでしょうか?おそらくこの弟子たちのように何も気付けていないことがほとんどなのではないでしょうか。

 

 ですがイエスはそんな鈍感な弟子たち、私たちに言葉を尽くしてその「しるし」が示す意味を解き明かしてくださっています。27節にはこうあります。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」。

 

 「朽ちる食べ物」というのは私たちが普段から口にしている実際の食事を指しています。それは弟子たちが食べて満腹したパンのことでもあります。イエスはそれ以上に大切な私たちが求めるべき「食べ物」があること、そしてその「食べ物」こそが永遠の命につながるものであることを示されています。ここまで言われてもまだわからない弟子たちはイエスに尋ねます。

 

 「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と。それに対してイエスは答えられます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」。イエスはご自分を信じること、それこそが神の業を行うようになることであると弟子たちに言われました。イエスを信じることは同時に神の御言葉を信じることでもあります。すなわち、朽ちる食べ物以上に私たちが切に求め続けるべきものとは神の御言葉に他ならないわけです。

 

 まさに「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と書いてある通り、私たち人間に希望という光を与え、前に進ませる力を与えるもの、それこそが神の御言葉です。私たちに必要不可欠な真の糧とはイエスそのものであり、私たちに聖書を内包され、聖霊を通して今も届けられている御言葉なのです。

 

 ですがそのようなことを理解できないできない弟子たち、また聞かされてもなおそのことを忘れてしまう私たちがいます。弟子たちはイエスにこう言います。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」

 

 弟子たちは出エジプトでのマナの出来事を引き合いに出しながらイエスにしるしを求めています。ですが、それは彼らが先の五千人の給食の出来事をしるしとして受け取ることができなかったことを自ら示す言葉でもあります。先にも申し上げた通り、イエスはすでにしるしをお与えになっているのにそのことに気づくことができない弟子たちの鈍感さはまた私たち自身の姿でもあるでしょう。

 

 イエスは弟子たちに言われます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」イエスはモーセという人からのパンではなく、神がお与えになるまことのパンこそが命をもたらすものであることを示されています。

 

 弟子たちはまだ気づくことができていません。そのまことのパンが何であるかを。イエスはそんな弟子たちにさらに告げられます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」弟子たちが求めていた「しるし」は実は弟子たちにすでに与えられていました。イエス、そしてイエスの口から出る言葉一つひとつが私たちに命を与えるまことのパンです。

 

 私たちも弟子たちのようにまことのパンではなく、朽ちる食べ物で満腹してしまっている時はないでしょうか。神の言葉以外のもので満足してしまっていることはないでしょうか。ですが、それらで一時満たされたとしてもイエスが言われる通り、私たちはまたすぐ飢え、そして渇きます。飢えることなく、渇くこともないまことの命に至らせるのは神の御言葉だけであることを私たちは示されています。

 

 

 私たちに命を与え、命を支え、命に至らせる神の御言葉に信頼して日々歩んで参りましょう。神はどんなときも私たちに天からのパンを備えてくださる方ですから。祈ります。

11月5日主日礼拝メッセージ  「『余地』のない世界の上で」

 

突然ですが皆さんは何か植物を育てた経験はありますでしょうか。おそらくどなたでも一度くらい遠い記憶を遡っていけば小学生の頃だったりにあるとは思うんですね。私はそれとは別に一時期ポトスという観葉植物を育てていたことがあります。ポトスは非常に有名な植物なのでご存知の方も多いと思います。自分なりに手をかけて育てていたつもりだったんですけど、緑の葉が黄色くなってしまったりして最終的にには枯らしてしまったんですね。

 

 結果的には私の世話の仕方が悪かったと思うんですが、自分なりに手をかけて育てていたつもりだったので枯れた時はやはり悲しかったんですよね。皆さんも似たような経験をされたことはないでしょうか。自分が手をかけて育てたものであればあるほど、愛着も湧きますし、成長した時の期待も大きくなっていくものです。

 

 今日の聖書箇所ではそのような「育てるもの」と「育てられるもの」との関係になぞらえて神のイスラエルに対する想いが歌われています。今日の聖書箇所はイザヤ書5:1-10です。新共同訳では「ぶどう畑の歌」という題が入っているとおり、神をぶどう畑の主人、そしてイスラエルをぶどうに例えています。ぶどう作りは人が手を入れるところが多く、手間暇かけて育てていけば、それだけ甘く、美味しいぶどうに育つそうです。

 

 2節にはこうあります。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」神がイスラエルにどれほど深く関わられ、どれほどの手間をかけて育てられてきたのかは創世記から続くイスラエルの歩みを見ていくと否応なく伝わってくるものでしょう。

 

 神は一切手を抜かれることなくご自分ができる最上のことをイスラエルにしてくださっていました。実際のぶどうであれば間違いなく甘くて美味しいぶどうに育ったことでしょう。手間暇を惜しまず、ご自分ができるあらゆることを注いでいくことは神のイスラエルに対する愛情の深さを物語っています。ですが、それほどの愛を受けてもなお育ったのは甘いぶどうではなく、酸っぱいぶどうだったのです。

 

 また3-4には次のようにあります。「さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。」神の落胆は想像に難くありません。同時に静かな怒りも伝わってくるようです。

 

 しかし、そのことは裏を返せば神がどれほどイスラエルに期待をかけ、豊かに育ってほしいと願っておられたかを示すものでもあります。この歌の歌詞からは神の怒りや落胆が非常に大きいものとして私たち聞き手に伝わってきますが、しかし、それと同時に神の想いには悲しみも確かにあったのだと思います。なぜこうなってしまったのか?どうしてそっちにいってしまったのか?と。

 

 聖書が描くイスラエルの姿はまた私たち一人ひとりの姿でもあります。神が一人ひとり手間暇をかけて丁寧に育ててくださっているのが私たち人間です。ですが私たちも神からそれほどの愛を受けておきながら、なおその愛に応答することをしない、あるいはできないのが私たちです。

 

 イザヤはこの歌の最後を次のように締めくくっています。7節「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)」。この箇所は原文のヘブライ語の発音が書かれている通り、韻が踏まれていてそれゆえに非常に印象深く響いてくる部分でしょう。

 

 その意味としては神が待ち望んでおられたこととは真逆のことが起こってしまっていることを嘆いています。「裁き」と訳されている言葉は「公正」と訳すこともでき、神の求める公正や正義でなく、実際には流血と叫喚に満ちている当時のイスラエルの様子を皮肉を込めて歌われているかのようです。しかし、このような状況というものは当時のイスラエルだけではなく、現代であっても否応なく目にする光景ではないでしょうか。

 

 今も世界では多くの争いが、そしてそのことによって多くの関係が歪められています。人は公正や正義を大義名分にして他者を糾弾し、争っている現実があります。しかし、そこで語られる「公正」や「正義」は、まさに聖書で歌われている通り「流血」と「叫喚」しか生み出していません。神がイザヤを通してイスラエルに語られた時代から、人類の本質は何も変わっていないということです。

 

 己の正義を振り翳し、公正を求めると嘯きながら合い争う人や国の姿は神が期待された甘いぶどうではなく、酸っぱいぶどうそのものでしょう。神はイザヤを通して語ります。8-9節「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占めにしている。万軍の主はわたしの耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は/必ず荒れ果てて住む者がなくなる」。

 

 家に家を、畑に畑をと際限なく求める姿は、今の土地を巡って争い合う人や国の姿と重なります。彼らもまた「余地を残さないまでに、自分のものだけにしよう」としているからです。この「余地」が残らないまで独り占めにすることについて別の聖書の箇所では次のように語っています。レビ記19:9-10にはこうあります。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」

 

 この律法では「余地」を残しておくことの大切さについて語っています。表面的な内容としては貧しいものや寄留者のための福祉的な制度に関するものになっていますが、今日のイザヤ書の箇所から解釈し直すのならば、それ以上の意味を持ってくる言葉だと思います。つまり「余地」が残らぬまでに独り占めにしようとする思いが生まれてくるのは、自分自身の心を自分だけのものにしたいという思いがあるからではないでしょうか。

 

 ゆえに「余地」を残すよう神が語られている本質的な意味というのは自分の心の中に神が働かれる「余地」を残すということなのだと思います。自分の心の「余地」を刈り尽くした人々はやがて他者の「余地」をも刈り尽くそうとしていきます。それはどんどん広がっていき、やがて大きな戦争にまで発展していってしまうのでしょう。だからこそ神は私たち一人ひとりに「余地」を残すよう語りかけられています。

 

 今の世界は残念ながら「余地」のない世界になってしまっているでしょう。他者の心から余地を奪い合うような流血と叫喚が広がる現実があるかもしれません。しかし、この「余地」のない世界の中でも神は確かにおられることを私たちは知らされています。そして神はそんな世界の中で私たち一人ひとりの余地の中に働いてくださいます。

 

 

 「自分の心を刈り尽くしてはならない、それは私の働く場である」そのような神の語りかけに応答していこうではありませんか、神に促されて私たち一人ひとりが開けた余地がやがて世界を満たすほどの大きな余地へと繋がっていくはずですから。祈ります。