11月20日主日礼拝メッセージ  「神の義の通る道」

 

嘆願の祈り

 本日みなさんと御言葉を聴いていきたいと願う聖書箇所は詩篇25:1-15です。1節には「ダビデの詩」とあります。詩篇にはダビデの詩とされているものがかなり多いですが、それが実際にダビデが詠ったものなのかどかというのは正直不明です。しかし、少なくともそれらの詩の作者はダビデが人生の中で遭遇したであろう様々な場面を想像しながら詩を詠んだということは間違い無いでしょう。

 

 聖書中に示されているダビデという個人の人生の場面場面において、彼が信仰者としていかに神と向き合っていったのか?ということをダビデの詩の作者たちは彼が詠った歌として書き残そうとしたのであろうと思います。なぜならば、ダビデが経験したであろう人生の様々な場面というものは、彼だけでなく私たちもまた経験しうるものだからです。

 

 もちろん、経験の表面的な部分はそれぞれに異なると思いますけれども、その経験から問いかけられる本質的な意味においては、現代を生きる私たちであっても共通するものが確かにあるはずです。私たちは詩篇が語りかけている本質的な問いを掬い上げながら読んでいかねばなりません。この詩がもし歴史上のダビデという人の個人的な詩以上の意味がなかったならば、私たちに何の関係もないものになってしまうでしょう。

 

 しかし、実際ダビデの詩以外にも詩篇には様々な作者の個人的な詩が多くあります。そしてそれが祈りの中で聖書の聖典として選ばれ、今の私たちに届けられているということは、たとえ詩篇の中のある詩が個人的な詩であっても、私たち人間すべてに関係する普遍的な意味を帯びているということを示しているのだと思います。私たちはそのことを弁えつつ、自分自身と重ね合わせながらこの詩を詠んでいきたいと思います。

 

 さて、先ほどダビデの詩として詠まれている詩は多くあると言いましたが、それらは当然彼の人生の中の様々な異なる場面を想像して詠まれているわけです。では今日のこの25編は彼のどのような人生の場面であったかといいますと、彼が自分の息子であるアブサロムから逃げている場面ではないかと言われています。様々なすれ違いが不信感を生み、その結果としてアブサロムは父であるダビデに反乱を起こしていまいます。そしてダビデは一時期エルサレムを追われることになってしまいました。

 

 そんな逃亡中のダビデの心情を詠ったと言われているのがこの詩篇25編なのです。ゆえにこの詩はダビデの極めて個人的な祈りの詩ということになっています。ダビデはこの時人生の中でも数えるほどの窮地の中にありました。そんな中で彼が神に向かって救いを求める祈りがこの箇所であるわけです。私たちは敵から追われるという経験はそうはないかもしれませんが、人生における窮地という意味で考えれば、私たちにもこの詩の祈りに重なる部分はあるのではないでしょうか。

 

 中でも3節の祈りが印象的です。「あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。」ここの「あなたに望みをおく」というのは言い換えれば「神に期待し続ける」ということです。ダビデの立場からすればこの祈りをした時点では状況は全く好転してはいません。相変わらず自分はエルサレムを追われたままであり、自分を殺そうとする追手がいつ襲ってきてもおかしくない状況だったでしょう。

 

 ですが、そんな窮地にあっても彼は神により頼み、そして期待し続けているのです。このことは詩篇のみならず聖書全体を貫いている私たちに求められている神との向き合い方だと思います。私たちは現状が好転したから神を信頼するのではないはずです。そうではなくて、たとえ私たちの置かれている現状が変わらなくても、あるいは悪化したとしても神に期待し続けるのです。なぜならば、私たちは神の約束にこそ信頼を置いているからです。

 

 ヘブライ人への手紙にはこうあります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」信仰とは神への信頼であり、神に期待し続けることです。私たちは聖書の様々な言葉からそんな信仰へと招かれているのです。そしてダビデはまたこうも祈っています。4節「主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。 

 

 

道を示す神

 私たち人間は迷い多き存在です。そんな私たちが自分の歩むべき道、言い換えれば人生の軸を求めるのは当然のことではないでしょうか。そしてダビデはその道を神に見出しています。私たちもまた聖書からそのことを知らされているでしょう。「あなたのまことにわたしを導いてください。」という祈りは神の義を私たちに示してくださいという祈りでもあります。

 

 神が私たちに示される道は神の義が通った道です。しかし、私たちはその道を示されたとしても容易くそれを見失い、脇道へと逸れてしまう弱い存在です。だからこそ、私たちはここでダビデが祈っているように私たちが歩むべき道、神の義を求め続けていく必要があるのです。一度歩み始めて、それで終わりではないのです。私たちはその都度自分が歩んでいる道を神によって吟味されているのですから。

 

 神から道を示されたとしても、脇道へと逸れていってしまう私たち人間、それはダビデも変わりませんでした。7節の彼の祈りがそれを告白しています。「わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。」彼の言う「わたしの若いときの罪」とはおそらく自分の部下であったウリヤの妻を奪い取り、そのことを隠すために彼を激戦地へと送り戦死させたことではないかと思います。

 

 ダビデという人物は新約聖書などでは非の打ちどころのない信仰者として描かれていますが、実のところは私たちと同じくいくつもの罪を犯してしまう一人の人間だったことがわかるでしょう。ダビデが信仰者の模範のように描かれているのは彼が罪を犯さなかったからではないのです。そうではなくて、彼は自らの罪を認め、受け入れて、神に立ち返っていく人物だったからそのように語られているのでしょう。

 

 そのことを示しているような言葉が8-10節にあります。「主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。 裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。その契約と定めを守る人にとって/主の道はすべて、慈しみとまこと。」神は私たちが罪を犯し、道を踏み外して脇道に逸れていってしまったとしても、また再び正しい道を示してくださる方です。その道は神の慈しみとまことによって備えられた私たちのための道なのです。

 

 

契約の奥義

 そしてダビデは「主を畏れる」ということについても語っています。「主を畏れる」とは聖書中でよく見るフレーズだと思いますが、みなさんはどのようにこの言葉を理解されているでしょうか?この詩においてダビデがこれまで語ってきたことから考えるに、「主を畏れる」とは神としっかりと向き合うこと、言い換えれば神との親しい関係を築くことにあるのだと思います。

 

 「主を畏れつづける」ことで私たちは神から示された道を逸れることなく歩んでいくことができるはずです。ダビデはこう語ります。「わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に。」と。神は私たちが道を求めるとき、その道を備え、そしてその道から外れた時であっても私たちの足を網から引き出し、また再び神の慈しみとまことが溢れる道へと引き戻してくださいますから。

11月13日主日礼拝メッセージ  「究極の希望」

 

復活とは?

 本日みなさんと御言葉を聴いていきたいと願う聖書箇所はコリントの信徒への手紙 一15:12-28です。ここは復活ということについて語られている箇所です。この手紙の著者であるパウロはコリント教会で当時起こっていた様々な問題に対する助言や勧告をこの手紙で伝えていました。中でもこの箇所は当時コリント教会で巻き起こっていた復活に関する受け止め方についてパウロが反駁している部分で12節にはこうあります。

 

 「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 」当時コリント教会で巻き起こっていたある問題、それはある人々が「死者の復活などない」と主張していることでした。そのことで教会内は混乱し、それを重く見た教会の人々がパウロに助言を求めたのでしょう。

 

 現代の教会に生きる私たちもまた聖書から知らされている「復活」、それは私たちが受け取っている福音の根幹をなすものです。しかし、そのような重要な要素である「復活」を私たちはどれほど理解できているでしょうか?おそらくですが福音の他の要素、例えば十字架などと比べるとあまりよくわからないといった方もおられるのではないでしょうか?

 

 それは「復活」というものが私たちにとって遥かに未知のものであり、想像を絶するものであるがゆえにそのように思えてしまうものなのだと思います。私たちがそのような未知のもの、想像を絶するものに出会った時、私たちはそのことを拒絶してしまうのということもまた人間の性かもしれません。コリント教会で「死者の復活はない」と主張していた人々もおそらくそのような思いだったのかもしれません。

 

 パウロはそのような復活を拒絶する人々に手紙を通して語りかけています。「復活」というものが持つ意味について、そして「復活」が私たちに何を約束しているのかについてパウロはこれから語っていくわけですが、彼はまず初めに「復活」というものの存在そのものが私たちの信仰にどれほど深く関わっているのかを語り始めます。13-14にはこうあります。

 

 「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 」なかなか強烈な言葉ですが、「復活」と「信仰」は切っても切り離せないほど分かち難く結びついているものであることをパウロは冒頭の一言目ではっきりと語っています。

 

 彼がなぜこれほど強く「復活」について語ったのかといえば、「復活」こそが私たちに示されている希望そのものだからなのだと思います。パウロはここで「死者の復活」と「キリストの復活」そして「あなたがたの信仰」ということをつなぎ合わせて語っています。それはそれらのことが互いに関連し合っているからであり、コリント教会のある人々が「復活」を否定する理由は、それらの関連を理解していなかったからだろうと思っていたのだと思います。

 

 まとめて言い直すならば、彼らはキリストの復活と自分達の運命との関わりが理解できていないから、「復活」を否定していたのだということです。パウロはそのことを語るに際し、一つ印象的な言葉を用いて語っています。20節「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」 「初穂」というのは収穫を刈り入れる時の最初のものを意味します。初穂が刈り取られた後に続いて大量の収穫があるわけです。

 

 つまりパウロが「初穂」という言葉を用いて伝えたかったことは、キリストの復活と私たちに与えられる復活は分かち難く結びついているということです。そうであるからこそ、「死者の復活」を否定することは「キリストの復活」の否定につながり、そしてそのことは私たちが示されているところの希望の否定につながることになります。ゆえにパウロ復活の否定が最終的に宣教や信仰も無駄にすることであると語ったわけです。

 

 パウロはキリストの復活が私たち人間といかに深く関わっているかをさらに語るためにアダムと私たちとの関わりについて語っています。アダムは神によって創造された最初の人であり、同時に罪を犯した最初の人でもあります。アダムの罪の本質は神と他者への不理解性でした。その性質は私たち人間全てに存在しており、そしてそのことが神との関係の断絶という「死」につながっていきました。

 

 パウロが語る「死が一人の人によって来た」というのはそのことを指しているわけです。私たち一人ひとりが持つ罪は私たちがアダムと同じ人間である以上、逃れることはできないものです。私たち人間は罪に囚われ、そのことで神との関係の断絶という「死」の定めにあったわけです。しかし、その定めをこそキリストの復活によって打ち破られていることをパウロは語るのです。

 

 パウロは「死」がアダムによって来たのと同じように、その「死」から復活させられることもキリストによって来るのであると語ります。このアダムとキリストを対比させるパウロの手法は「予型論」と呼ばれています。これはやがて来るであろうキリストはアダムにおいてその型が示されていたという解釈の手法です。パウロが「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」というのはそのような解釈が背景にあるわけです。 

 

 パウロはアダムと同じ罪を私たちが持っていることを認めるのならば、キリストの復活によって来る命も認めるべきではないか?ということを読者に語りかけています。私たちの死の定めはキリストの復活によって打ち破られ、そのことが私たちが受け取っている希望そのものだからです。それが否定されるのであれば確かにパウロの言う通り、私たちの宣教も信仰も無駄になってしまうでしょうから。

 

 パウロはこのように私たちの信仰における復活の重要性を語りつつ、しかし、私たちに与えられるであろう復活は未だ来ていないと言うことも語ります。23-24節「ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。」

 

 私たちは今もなおキリストが再び来られる時を待ち望んでいます。ゆえに私たちが生きている今は復活は希望として語られているものであるわけです。パウロはコリント教会の人々の中に「すでの自分達は霊において復活したのだ」という主張があったことを知って、このことを付け加えたのだと思われます。私たちに起こされるであろう復活はキリストにおいて既に示されているものでありつつも、一方で私たちはそれを終末の希望として抱き続けているのです。

 

 復活の希望は終末の出来事であるゆえに私たちには遠く思えてしまうかもしれません。しかし、そんな復活の希望に目を注ぎ続けるからこそ、私たちは今という時でも救いを実感しつつ生きていくことができるのではないでしょうか?私たちが罪を思い起こす時、罪による死からの「復活」もまた思い起こすことが許されているからです。

 

 私たちは死すべき定めにありながら、キリストの十字架と復活によってその死の定めは打ち破られ、新たな命へと招かれています。そのことを思い起こす時、私たちは終末の復活の喜びを先取りして味わうことができるでしょう。神はキリストの後に続くものとして私たちを導いてくださっていますから。

11月6日主日礼拝メッセージ  「まだ知らない道へと」

 

それた道に招く神

 みなさんは日常生活の中でふといつも通っている道とは違う道を通ろうと思ったことはないでしょうか?例えば学校からの帰り道や職場からの帰り道など、普段通っている道ではなく今まで一度も通ったことのない道を通って家に帰ったことはないでしょうか?きっと誰でも一度くらいはそのような経験があるかと思います。そして、そんな時こそ意外な発見をしたりするものではないでしょうか?

 

 聖書の中にもそのような普段の道から逸れた道へと向かったことで意外な発見をした人物がいます。先ほどお読みいただいた聖書の箇所では出エジプトの際のリーダー的存在であったモーセの召命の出来事が記されています。このときのモーセはファラオの手から逃れるためにミディアンという地で羊飼いとして暮らしていました。モーセの人生は生まれた時から苛烈なものでしたが、それに比べればこのミディアンでの生活は比較的穏やかなものだったと想像できます。

 

 結婚をして子供も与えられたモーセはここでの生活に満足感を得ていたかもしれません。このままここで一生暮らしていくのも悪くないと思っていたかもしれません。しかし、そんなモーセはあるとき不思議な経験をします。それはモーセが普段通っていた道からそれた先で経験した神との出会いの出来事でした。1-3にはこうあります。

 

 「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。『道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。』」 

 

 この箇所を読むとモーセ自身が燃える柴に興味を惹かれて自ら近づいていったかに思えます。しかし、この箇所を注意深く読んでいくならば、実は神がモーセをこの場所へと導いていたことが見えてくると思います。モーセはしゅうとであるエトロの羊を飼っていました。彼は羊飼いの仕事をしていたわけです。羊飼いは自分の羊を導くものですが、ここでは逆にモーセが羊の後を追ってホレブへと導かれています。

 

 モーセは自分が羊を導いていると思っていたかもしれませんが、神は羊を用いてモーセをご自分のもとへと招かれているのです。私たちの歩みも自分で自分の道を決めていると思うその裏で神が私たちの歩みを導いてくださっていることがあるのだと思います。そんな時私たちは普段の私たちの歩みとは異なる一歩へと招かれているということなのかもしれません。

 

 モーセはそんな普段の自分の歩みとは異なる一歩へと踏み出していきました。それはもちろん神が招かれたものではあるのですが、同時にモーセ自身もそんな神の招きに応答していったということもまた事実だと思います。神は私たちの行動を強制される方ではなく、ご自分の招きに対する私たちの応答をこそ喜ばれる方だからです。

 

 

見聞きする神

 そんなモーセの応答を神はご覧になっていました。4節にはこうあります。「主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。」ここでは神がモーセを招き、そしてモーセがその神の招きに応答していったことが語られています。神は私たちの応答を確かにご覧になっています。そしてご覧になるだけでなく、私たちに呼びかけられる方でもあります。

 

 4節後半からはこうあります。「神は柴の間から声をかけられ、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼が、『はい』と答えると、 神が言われた。『ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。』」 神はここで2回モーセの名前を呼んでいます。聖書において名前を2回呼ぶということはその人に対する親愛の表現です。

 

 このことから神がいかにモーセを愛され、そしてモーセの応答に喜ばれているかが伝わってくる気がしないでしょうか。そんなモーセに神はここで新たな働きを託そうとされています。7節にはこうあります。「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。』」 

 

 ここでも先ほどのモーセの時と同じように神の「見る」という行為が記されています。モーセがミディアンに逃げてきた後もエジプトではイスラエルの民に対する虐げが続いていました。そんな民の苦しみを神はご覧になられていました。しかし、神はただその民の苦しみを見ているだけの方ではありません。その叫びを聞かれ、そして痛みを知ってくださる方です。

 

 私たちはここにこそ憐れみ深い神の姿を見ることでしょう。私たちに救いをもたらしてくださる神はただ私たちを遠い天から傍観しているだけの方ではないのです。そうではなくて、私たちの叫びを聞いてくださり、その痛みを知っていてくださる方、そしてどんなときであっても私たちと共にいてくださる方なのです。

 

 

ありのままの招き

 神はイスラエルの叫びを聞かれ、彼らをエジプトから導き出されることを決意されます。そしてその出エジプトのリーダーとしてモーセを召し出されました。しかし、このモーセの召命もよくよく考えれば不思議な選びだと思います。モーセが生まれた時ファラオによる男児殺害の命令がありました。周りの人々の機転によりなんとかそれからは逃れましたが、ファラオの王女に拾われ、そこで育つことになりました。

 

 そしてある時ヘブライ人である同胞を助けたことがきっかけでエジプトからミディアンに逃れることになりました。しかし、そこで出会いが与えられ結婚し子供にも恵まれますが、彼自身は自分自身を寄留者であると自覚していました。彼自身、自分自身が何者であるのか見つけられずにいたのでしょう。このモーセの歩みを振り返れば無理のないことかもしれません。

 

 自分がヘブライ人なのか、エジプト人なのか、そして自分は何をするべきなのか、未だその道を見つけられずにいたのでしょう。神の招きに彼はこう答えています。「モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』」 このモーセの言葉に彼のこれまでの想いが詰まっているのではないでしょうか?

 

 モーセにしてみれば自分の同胞だと思っていたイスラエル人を助けたことがきっかけで、今このようなところにいるわけですから、なぜ再びイスラエル人のために働かねばならないのか?というのは当然の疑問でしょう。彼はそんな正直な想いを隠すことなく神へとぶつけています。そんな彼に対して神はこう答えられています。

 

 「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。』」 神はここでモーセの疑問には直接は答えられていません。しかし、神はその代わりに彼に一つの約束を告げられています。「わたしは必ずあなたと共にいる。」

 

この言葉がモーセにまだ知らない道への一歩を踏み出していくための力と勇気を与え、これからの歩みの中でも思い起こしていく言葉となったのだと思います。モーセの疑問は残り続けたままですが、神がそれに答えられなかったのは、その答えが彼がこれから召されていくことになる働きの中で彼自身が受け取っていくものだからでしょう。

 

 モーセと同じように私たちもまた神からそれぞれの働きへと召されています。そして時には自分が想像もしないような、あるいは躊躇してしまうような招きもあるかもしれません。しかし、神がモーセに語られた約束の言葉は聖書を通して今を生きる私たちにも語りかけられている言葉です。その約束に私たちは信頼で応答していこうではありませんか。

 

 時に私たちの想像を超えた不思議な働きへと招かれる神は今も私たちと共にいてくださり、その歩みの一歩一歩に豊かな導きを与えてくださる方ですから。