5月22日主日礼拝メッセージ  「取り去られぬ喜び」

 

真理の霊の導き—イエスと私たちを結ぶもの—

 本日皆さんと御言葉を聴いていきたいと願う聖書箇所はヨハネによる福音書16:12-24です。先週の箇所に引き続き、今日の箇所もイエスの告別説教の一部です。告別説教はイエスが十字架に架かられる前に語られた弟子たちへの最後のメッセージです。ゆえに弟子たちの今後について語られたり、弟子たちに励ましを与えるようなメッセージが目立ちます。

 

 今日の箇所も基本的にはそのようなメッセージなのですが、しかしにも関わらず次のような言葉で始まっています。12節「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 」イエスはここまででも多くのことを弟子たちに語られてきました。しかし、それでもまだ足りないほど語られたいことがあると言われています。それだけ弟子たちのことを案じられ、多くの言葉を残したいと思われたのでしょう。

 

 しかし、一方で「今、あなたがたには理解できない。 」とも言われているのはどういうことでしょうか?確かにこれまでもイエスが弟子たちに語られた後、「弟子たちはイエスの語られたことの意味が理解できなかった」といったような記述が聖書にはたびたびあります。イエスはここでご自分が語られたことを真に理解するためには弟子たち、ひいては人間の力では不可能であることを語られています。

 

 13節「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 」イエスが語られた言葉を理解するには、真理の霊、すなわち聖霊の助けが必要不可欠であることをイエスは語られています。

 

 弟子たちがイエスの言葉を理解できないことは、誤解を恐れず喩えるならば、私たちが聖書を読んでいるとき、その聖書の箇所が何を言わんとしているのかわからない時だと言えるでしょう。私たちがそのような状態にある時、私たちはその箇所からなんとか自力で御言葉を引き出そうとしてしまっているのかも知れません。しかし、人間の力では聖書の真の意味、つまり御言葉を受け取ることはできないことをイエスはここで語られるのです。

 

 御言葉は「私たちが自力で引き出すもの」ではなく「神が語り、私たちが受け取るもの」だからです。イエスはそのことについてこう言われます「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」 私たちはイエスが語られる御言葉を聖霊の助けを受けることで、初めてその意味を知らされていくのです。

 

 しかし、そのことを聞いた弟子たちはこのように反応しています。「そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」 

 

 このときの弟子たちにはイエスの語っていることの意味がわかりませんでした。それは同時に聖書の前に立たされている私たちの姿でもあるでしょう。弟子たちにとってはこの時イエスの語られたことはとても現実味のない実感のわかないものとして受け取られたのかも知れません。私たちもまた聖書の言葉をそのようにして受け取っている時があるかもしれません。

 

 聖書の言葉を自分に向けられた言葉としてでは無く、どこか自分とは遠く関わりないものとして読んでいくならば、そのときの私たちはきっとこのときの弟子たちと同様に聖書の語る真の意味、御言葉を受け取ることはできないのでしょう。しかし、聖書の言葉は、イエスはいつも「他ならぬあなたに」「私に」語りかけておられました。それはなにより、弟子たちを、そして私たちを愛され、御言葉を通してご自分との関係を確立して欲しかったからだと思うのです。

 

 

悲嘆の先に…—取り去られぬ喜び—

 なぜなら、イエスはこれから大きな悲しみが弟子たちを襲うことを告げられているからです。その悲しみはイエスとの別れに他なりませんが、それは弟子たちにとって大きすぎる喪失体験でした。弟子たちは結局イエスの死から目を背けるように逃げ去ってしまいましたが、それは言い換えれば、弟子たちにとってイエスがどれほど大きな存在であったかを示しているとも言えるでしょう。

 

 イエスはそのことを知っておられたがゆえに弟子たちに励ましの言葉を残されています。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 

 

 イエスはやがて訪れるであろう悲嘆を隠すことなく弟子たちに告げられています。この時の弟子たちにはなぜそうなるのか、そのことの意味もわからなかったでしょう。私たちもまた弟子たちのようにイエスの語られる言葉の真の意味は理解できませんし、また自分に起こるであろうことを事前に知ることもできません。そういう意味ではこのイエスの言葉は私たちに向けられた言葉でもあります。

 

 私たち一人ひとりの歩みの先には多くの悲しみや苦しみが確かにあります。それを否定することはできません。イエスはそのことから目を背けるのではなく、しっかりと向き合わせるためにあえてこの言葉を弟子たちに、そして私たちに残されたのだと思います。私たちの信仰は、現実から乖離したものではなく、現実を見つめつつ、その中で希望を見出させるもののはずだからです。

 

 だからこそイエスはまたこうも語られるのです。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。 …ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 」イエスは、悲しみは悲しみとして受け止めた上で、しかし、その悲しみも喜びに変わることを弟子たちへの励ましの言葉として語られています。

 

 しかし、悲しみが喜びに変わるとはどういう意味でしょうか?それはイエスがここで用いられている喩えに答えがあるような気がします。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。 

 

 イエスはこのことを出産に喩えて語られていますが、出産の苦しみと喜びは当然ながら無関係ではありませんね。母親は自分の子のために苦しみ、そして同時に自分の子のために喜ぶのだと思います。これは言い換えれば、親子の関係のために苦しみ、そしてまたその関係を得たことによって喜ぶということでしょう。

 

 だとすれば、このことはイエスと弟子たちの、私たちとの関係にも同じことが言えるのではないでしょうか?私たちはイエスとの関係において悲しみや苦しみを覚える時もあるかもしれません。弟子たちのように一時的にイエスとの関係を見失う時もあるかもしれません。ですが、それらはすべて喜びへとつながっていることをまた私たちはここで知らされています。

 

 「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」何者にも奪われない喜び…それはイエスとの関係であり、それこそが私たちにとっての救いです。そして私たちはすでにその喜びへと招かれ、そして入れられています。イエスが語られたこの言葉に信頼しつつ、今週も歩んでいきたいと願います。

5月15日主事て礼拝メッセージ  「喜びが満ち溢れるところ」

 

実を結ぶとは?—イエスの言葉のゆえに—

 本日皆さんと御言葉を聴いていきたいと願う聖書箇所はヨハネによる福音書15:1-11です。イエスが十字架に架かられる前に弟子たちに語られた告別説教とも言われる最後の説教の一部です。特にこの箇所は「葡萄の木の喩え」として有名であり、この箇所が好きだという方も多いのではないでしょうか。今日はこの箇所から皆さんと御言葉を聞いていきたいと思います。

 

 まず1節にはこうあります。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 」イエスは初めに、この喩えに登場する要素について紹介しています。それによればイエスは「まことの葡萄の木」であり、そしてその葡萄の木の栽培者、すなわち「農夫」が父なる神であるとなっています。

 

イエスは様々な喩えを用いて語られることは多くありますが、ここでは初めに喩えに登場する物や人物について事前に説明されていることから、聞き手にそれが意味する本質を考えさせるための喩えというよりかは、聞き手の身近なものに喩えることで、これからイエスが語ろうとしておられることを理解させやすくさせるという私たちも普段の会話で使うような喩えがここでは用いられています。

 

イエスが語られる喩えはその多くが難解でその本質をつかむことが難しいものがほとんどですが。ここでは珍しく話をわかりやすくするために喩えを用いられています。それはこれから語る内容が、残される弟子たちにとって最も重要なことだったからではないかと思うのです。だからこそ、弟子たちができるだけ理解しやすいように普段とは異なる喩えの用い方をされたのだと思います。

 

そのような重要な意味を持つイエスの喩えは、しかし厳しい言葉で始まることになります。2節「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 」この言葉を聴いて皆さんはどんな印象を持たれるでしょうか?特に「実を結ばない枝は取り除かれる」のくだりは、何かの成果を出さないとバッサリと切り捨てられるようなイメージで厳しい裁きのような印象を受けたりするのではないでしょうか?

 

 しかし、この「実を結ばない枝」という部分は別の訳では「実を結ぼうとしないもの」となっていたりします。「実を結ばない」と「実を結ぼうとしない」ではだいぶ受ける印象も意味も変わってくることでしょう。後者の訳を鑑みるならば、このイエスの言葉が私たちに語ろうとしていることは、私たちの働きの結果というよりも、そこに至る過程や姿勢が問題とされているのだと思います。

 

 それは言い換えれば私たちの神へと向かう心の向き、「応答」が何より求められているということなのでしょう。神はご自分の呼びかけに対して、私たち人間が自らの意志で応答することを何より喜ばれる方であり、イエスご自身も弟子たちにそのことを何度も求められてきたからです。

 

留まることは「条件」でなく、本質的には関係の「構成要素」

「応答」というのものはそこに関係概念がなければできないことです。「私」一人だけでは応答のしようがありません。自分とは異なる存在の「他者」がいて初めて「応答」することができます。そのことを語るようにイエスは4節にてこう語っておられます。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 

 

 イエスはご自分につながっているように、さらに言えばつながり続けるようにと弟子たちに語られています。「つながる」とはつまりイエスと関係を持ち続けることを意味しています。イエスの呼びかけに応答し続けることへと招いておられるのです。枝が木の幹を通して必要なものを得ていくのと同じように、私たちはイエスを通して恵みを受け取ることができます。

 

 しかし、一方でイエスは6節にてこうも語られています。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 」先程の「実を結ばない枝」のように非常に厳しい言葉が語られています。このことから、やはり「実を結ぶ」ことが取り除かれないための「条件」であったり、また「つながっていることが、投げ捨てられないための「条件」といったような、こうでなければああなるというある種の「条件」があるものとしてこの箇所を解釈してしまうかもしれません。

 

 イエスとつながり続けることは、神の愛の関係の内に入れられることでもあります。そしてそのことこそが私たちに与えられている神の「救い」でもあります。ではその救いに「条件」はあるのでしょうか?やはり「つながっていること」が救いの条件なのでしょうか?少し難しくなってきましたが、結論を言えば「救い」に条件はないのです。

 

ではどういうことなのか、先ほども言った通り、イエスとつながり続けることが私たちにとっての救いです。つまり、これらは切っても切り離せないものなのです。そうであるならば、イエスとつながり続けることは救いの「条件」ではなく、救いを「構成しているもの」ということになります。だから、イエスとつながっていなければ救われない、というのは間違いで、正確に言えばイエスとつながっていなければ「救いにならない」というのがより正しい表現なのだと思います。

 

 それはつまり、私たちは宙に浮いた得体の知れない「救い」という概念を神から受け取っているというわけではないことを意味しています。それは例えれば「救い」という名の勲章があって、それを首からかけてもらったわけではないということです。もしそうであれば、その勲章をもらった直後には喜びや感謝を感じても、次第にそれらは薄れていき、いつしか私たちはその勲章を部屋の隅に放り出してしまうことでしょう。

 

 そうではなくて、私たちの受け取った救いとは、イエスとの関係そのものなのです。それはいつしか忘れ去られてしまうような一過性のものではなくて、持続的なものであり、繰り返しそのことに感謝し、喜びをかんじるようなものなのです。

 

喜びが満ち溢れるところ—相互愛の関係—

 イエスはその関係について次のように言われています。9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」イエスと父なる神との関係の中へと入れられ、そこにとどまり続けること、そのことをイエスは最後に弟子たちに、そして私たちに伝えられました。「葡萄の木」というわかりやすい喩えを用いて語られたのは、イエスにつながり続けることが何より大切なことであり、たとえ弟子たちの前からイエスがいなくなったとしても、その関係は消え去ることはないことを伝えるためでもあったでしょう。

 

 だからこそイエスはこのことを語られた理由としてこう言われたのでしょう。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 」イエスの喜びとはなんでしょうか?それは何よりご自分と父なる神との間の親しい関係にあったことでしょう。その「喜び」が私たちにも分け与えられているということをイエスはこの喩えを通して弟子たちに、そして私たちに語られているのです。

 

 イエスとの関係はどんなときも、どんな場所でも損なわれることのない私たちに与えられた救いです。イエスはいつも私たちと共におられ、喜びの満ち溢れるところへと招いてくださっていますから。

5月8日主日礼拝メッセージ  「いつか一つの群れに」

 

羊の門(7-10)

 本日皆さんと御言葉を聴いていきたいと願う聖書箇所はヨハネによる福音書10:7-18です。ここでは羊飼いと羊というモチーフでイエスが語られています。まず7節には「羊の門」とあります。「門」とは言われていますが、これは実質的に羊飼いのことを指しています。というのも、当時の羊の囲いには門番のように出入りを管理する人がいませんでした。

 

 それでは羊が勝手に門を出入りしたりして危険なのではと思うかもしれませんが、その門番の役目を羊飼いがしていました。羊飼いは羊を囲いに入れる際、門のところで自分の持っている杖を横にして低く持ちます。その下を羊がくぐって囲いの中に入ることで、羊飼いは羊の数を数えるとともに、羊が怪我などをしていないかどうかチェックしていたわけです。

 

 そして、自分の羊が無事に囲いの中に入るのを確認した後、羊飼いはその門のところで寝ていたそうです。夜中に野獣が囲いに入り、羊たちを食べてしまわないように見張りの役目も兼ねていたわけですね。そう考えると、羊飼いとはなんともハードな仕事だということがわかると思います。四六時中羊のことを考えつつ、羊のために心を砕いていたわけです。

 

 イエスは、そのような羊飼いの役目こそが、ご自分に託されている使命であることを語られているのです。イエスは盗人や強盗が、羊たちを奪いにくることを語られていますが、これは当時の律法学者やファリサイ人といった宗教的指導者に対する警告だと思われます。彼らは自分たちが独自に作った決まり事を遵守するように民衆に教えていました。

 

 彼らは自分たちの律法解釈が正しいと信じて疑っていなかったわけですが、イエスはそれらのことを痛烈に批判されていました。その批判の焦点は彼らの本質を欠いた形式主義にあったわけですが、そう考えれば、盗人や強盗とは私たちに対する警告でもあるのだと思います。私たちも自分自身のことを絶対化し、そのことを他者に押し付けていく時には、イエスの言われる盗人や強盗になってしまうということなのでしょう。

 

 私たちがそのような自己絶対化に陥らないためにはどうすればよいのでしょうか?イエスはご自分という「門」を通ることによってのみ救われる、すなわち神との正しい関係の中に入れられることを語られています。つまり、常に御言葉に聴きつつ歩んでいくことこそが、「門を通って入る」ことにつながっているということなのだと思います。羊飼いであるイエスの声に耳を傾けることで、私たちはイエスの囲いの中へと、すなわち神の国へと導かれていくということでしょう。

 

 しかし、イエスはまたこうも言われていることに少し引っ掛かりを感じないでしょうか?9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 」前半部分は先程言った通りですが、後半部分には「門を出入りして」とあります。つまり、門の中に一度入ったら終わりでは無くて、囲いから出ることもあるのだということが語られています。

 

 これは囲い中を「神の国」とすると、違和感が生じる言葉です。この部分は色々と解釈できるとは思いますが、「出入りして牧草を見つける」と言われていることから、次のように考えることができるのではないでしょうか?つまり、門を出入りするとは、私たちが神の国に属している者とされていながら、いまだこの地上での歩みをしていることを表していて、そして「牧草」とは羊に与えられた恵み、すなわち私たちがこの地上で受け取る様々な恵みのことを指しているのではないでしょうか?

 

 そのような意味で私たちは門を出入りしている羊と言えるのだと思います。私たちはイエスの声を聴きつつ、この地上で生きる者としてイエスという羊飼いに守られ、導かれているわけです。そしてイエスはまたこうも言われています。「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。 

 

 盗人というのは、先程の通り、当時の律法学者やファリサイ人を指している言葉ですが、そのことは転じて自己絶対化する私たちでもあります。イエスはそうした結末は良い結果にならないことを語るとともに、ご自分こそが真の命を与えられる方であることを語られています。

 

良い羊飼い(11-15)

 イエスはそのことを引き続き羊飼いのモチーフで語られますが、羊飼いと対比した存在として「羊を持たない雇い人」が登場しています。そしてその雇い人は羊のことを心にかけていない、つまり、羊飼いとはまったく真逆のものとして語られています。では、イエスが語られるような「羊を持たない雇い人」とはどのような存在なのでしょうか?

 

 「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。」とあることから、雇い人は羊に対して愛情もなければ、守り導くという羊飼いのような責任感もないことがわかります。つまり、民衆を正しい信仰へと導く存在では無く、自分たちが作り出したルールを民衆に教えていたような当時の律法学者やファリサイ人たちを指しているのでしょう。

 

 イエスは彼らのことを「羊のことを心にかけていない」と言われていることから、少なくとも彼らは民衆のことを慮っての指導のようなことはしていなかったのだと思われます。イエスは彼らを「羊を持たない雇い人」とした上で、ご自分こそが「良い羊飼いであることを語られます。その理由として決定的なのがイエスの次の言葉でしょう。

 

 14-15節「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 」イエスはご自分の羊を「知っている」ということ、そしてそれだけでは無く羊自身もイエスのことを「知っている」ということがイエスを「良い羊飼い」たらしめている1番の理由でしょう。

 

 なぜなら、この「知っている」ということが信仰において最も大切な者だからです。信仰とは神への信頼と同義ですが、そのためにはなにより私たちが神を知っていなければなりません。そして、その神を知るということはイエスによって私たちに知らされたものです。つまり、神が語り、私たちがそれを聴いて応答する、ということが信仰において最も重要なことだと言えるのです。

 

 そのことはまた父なる神とイエスとの関係と同じだとも語られています。父なる神とイエスとの間にも揺るぎない信頼関係があることと同じように、イエスは私たちにもそのような信頼関係の内に入ってくるようにと招かれています。そのことこそが、イエスの囲いの中に入るということなのだと思います。

 

 そしてその招きは全ての人類にまで及んでいることもまたイエスはここで語られています。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 

 

 私たち人間は互いに平和に生きたいと願いながらも些細なことで分裂し、憎み合い、傷つけあってしまうような弱く限界を抱えた存在です。そのたびに私たちは落胆し、失望し、やはり人類は真の意味で平和に生きることはできないことを思い知らされるような気にさせられます。

 

 誰もがどこかでそう望みながら、しかしそうできない真の平和…私たちがどこかあきらめてしまっているもの…しかし、その究極の希望は神によってここで私たちに示されています「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」私たちは神によっていつか一つの群れとされて生きる希望が与えられています。そしてそのことを可能にする力がイエスの十字架の死であったことを知らされています。

 

 私たちはこの希望に目を注ぎ続けつつ、今この時を互いに励まし合いながら生きていきたいと願います、

5月1日主日礼拝メッセージ  「神に想いをぶつけて」

 

独り残るヤコブ

本日皆さんと御言葉を聴いていきたいと願う聖書箇所は創世記3223節から32節です。ここで描かれている出来事は、ヤコブと神が格闘するという非常に劇的なもので、みなさんの中にも印象に残られている方が多くおられるのではないでしょうか?

 

 ところで、みなさんはヤコブという人物についてどのような印象をお持ちでしょうか?正直あまりいい印象を持っていないという人もいるかもしれません。それは何より彼が父イサクを欺き、兄エサウの祝福を奪い取って、それを自分のものとしてしまったという出来事が少なからず影響しているかもしれません。あるいは彼の歩みのところどころで見られるずる賢いまでの計算高さや抜け目のなさが影響しているかもしれません。

 

 このようにヤコブという人は今まで自分の知恵や力に頼って様々な状況や問題を解決してきた人でした。いえ、少なくともヤコブ本人にとってはそう思っていたことでしょう。自分はこれまで自分の知恵や力を用いてここまで来たのだと。しかしそんなヤコブがことここに来て、これまでにない非常に強い恐れと不安を覚えているのです。その理由は兄エサウとの関係に関わる問題でした。

 

ヤコブはエサウから祝福を奪い取ったあと、伯父ラバンの下で長い逃亡生活を送っていました。逃亡生活の中でもラバンとの関係や妻との関係において多くの問題を抱えていました。しかし、ヤコブはそれらの問題をなんとか乗り越えてラバンの下を後にし、再び旅に出ます。しかし、ヤコブの心の中にはエサウとの問題が残り続けたままでした。旅の途中、ヤコブはエサウとの再会を予感します。ヤコブが恐れていたことがとうとう現実のものになろうとしているのです。

 

ヤコブはエサウとの問題にいつかは向き合わなくてはならないことをわかっていたのでしょう。しかしどうしても向き合うことができなくて、ここまで来てしまった。ですが今、エサウを目の前にして「向き合わなければならないという思い」と「向き合うことへの恐れ」の狭間で、ヤコブは自分ではどうすることもできない不安を感じているのです。

 

私たちはどうでしょうか?私たちもヤコブのようにどこか心にずっと抱えている問題や課題があって、そしてその問題や課題と向き合わなければならないことが自分でわかっているのに、いざその問題や課題を目の前にすると、不安や恐れが湧き上がってきてどうしても向き合うことができずに目を背けて逃げてしまう。そのようなことがあったりはしないでしょうか?

 

ヤコブはどうしようもない不安と恐れの中で、神に祈り求めます。神に助けを求めたのです。それは今までのヤコブからは考えられないような行動でした。ヤコブはもうこの問題から逃げることはできないことを感じています。そしてその問題というのは、確かにエサウとの関係に関わる問題ではありましたが、もっと本質的なことを言えば「自分自身が抱える問題に正面から素直に向き合うことができない」というヤコブの弱さだったのではないでしょうか?そしてその弱さというのは、ヤコブ自身ではどうすることもできなかったのです。このように考えると、ヤコブの恐れは、自分自身の中の弱さと向き合うことへの恐れだったのだと思います。

 

神との格闘

ヤコブはエサウとの再会を控えた夜、「弱さ」と向き合うことへの恐れを抱えながら、エサウとの再会の前に一つの出会いを経験します。それはヤコブにとって決定的な遭遇であったのと同時に、避けることのできない出会いでした。25節にはこうあります。「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。」ここで興味深いのは、ヤコブが格闘の主体ではないということです。ヤコブがある人を見つけて、格闘を仕掛けたわけではないのです。

 

「ヤコブがある人と格闘した」のではなく、「ある人がヤコブと格闘した」のです。ここに大きな違いがあるように感じられないでしょうか?私たちが自分自身の弱さと向き合おうとする時、神の方から近づいてくるのです。そして神の側から私たちに格闘を仕掛けられるのです。神は私たちを一対一の格闘の場へと招いているのです。しかもその闘いは結局一晩中続きました。ヤコブにとっては孤独な長期戦でした。神と、そして自分自身と向き合うにはそれだけ長い時間が必要だということかもしれません。そして神の私たちに対する一方的な接近がなければ、結局私たちは自分自身の弱さと向き合うことができないということではないでしょうか?

 

 この格闘の中で、ヤコブに明らかな変化がもたらされています。今までエサウとの問題から目を背け、向き合うことから逃げ続けていたヤコブ。向き合うことから逃げようとして、自分の知恵や力に頼って策を弄するヤコブ。恐れと不安に心が支配されて、その場しのぎの助けを求めるように神に祈ったヤコブ。しかし今ここにいるヤコブはそのようなこれまでのヤコブの姿とは違って見えます。神と、そして自分自身から目を背けることなく、正面から向き合っています。格闘の中で痛みを負いながらも、逃げることはしませんでした。

 

 そしてついにはある人に「もう去らせてくれ」とまで言わせるのです。ついにある人はヤコブの勝ちを認めたのです。しかしそれでもヤコブはその人を決して離しはしませんでした。ヤコブはどんな恐れの中であっても神と闘うことをやめませんでした。どんな痛みを負っても自分自身と向き合うことから逃げませんでした。ところが長い戦いの果てに痛みを負いながらも、勝利を得たヤコブはその実感を感じられずにいたのでしょうか。ヤコブはこう言うのです。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」

 

 ヤコブはなぜこれほどまでに執拗にある人からの祝福を求めるのでしょうか?  それは、ヤコブがこの格闘を通して、この人から真の祝福を受けなければ、自分はもうどうにもならないことを知らされていったからではないでしょうか?神と、そして自分自身と向き合う中で、長い時間をかけて、ヤコブは自分自身の弱さに気づかされていったのではないでしょうか?  

 

ヤコブが求めている真の祝福はエサウとの問題の解決ではないのです。そのような表面的なことを求めているわけではないのです。そうではなくて、ヤコブは自分自身の弱さに目を背けず、それを見つめるものとされるように、そしてそのことと向き合うことから逃げないものとされるように、神によってそのようなものへと変えられていくという祝福を、ヤコブは切に求めているように思うのです。

 

 

イスラエルと呼ばれる

 そんな祝福を切に求めるヤコブに、ある人は名前を尋ねています。「お前の名は何というのか?」「ヤコブ」という名前には「押しのけるもの」という意味があります。ヤコブはこれまであらゆるものを「押しのけて」生きてきました。自分自身の問題や課題や弱さと向き合うことなく、それらを「押しのけて」生きてきました。神と向き合うことなく、神を「押しのけて」生きてきました。神と、そして自分自身と向き合うことなくそれらを「押しのけて」生きてきました。

 

 しかしヤコブは、ついに「押しのける」ことができなくなりました。今までヤコブが「押しのけて」きたものは、彼の中から消えることはなく、彼の心にどんどん溜まっていったからです。ヤコブの心は今まで彼が「押しのけてきた」ものでいっぱいになって、どんどん心の中のゆとりがなくなって、とうとうもう「押しのける」ことができなくなったのです。

 

 ヤコブはある人との長い戦いの中で、今まで彼が「押しのけて」きたもの一つ一つと向き合わされていったのではないでしょうか?今まで彼の心の隅に「押しのけて」きたものと向き合うものとされていったのではないでしょうか?

 

 だからある人はヤコブにこう告げたのでしょう。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」ヤコブはもう「押しのけるもの」ではなくなりました。彼は「イスラエル」にされました。「イスラ」は闘う、そして「エル」は神です。彼は「押しのけるもの」から「神と闘う者」へと変えられました。言い換えれば、それは「神と向き合うもの」「自分自身と向き合うもの」、そして「神に問い続けるもの」にされたということではないでしょうか。

 

 私たちもまたヤコブがそうされていったように、「神に問い続けるもの」へと変えられていく場へと招かれています。そしてそれは、御言葉に問い続ける歩みでもあります。神はいつでも私たちの問いを受け止めてくださり、その果てに確かな祝福を備えてくださっていますから。